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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第74章 1923(大正8)年処暑~1923(大正8)年白露
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1923(大正8)年9月3日午後5時5分

「……!……!」

 誰かが私を、遠くから呼んでいる気がする。

(誰……?)

「……!……か!」

 暗闇をぼんやりと漂う意識が、聞き覚えのある声に揺さぶられ、次第に形を取り戻していく。

「……か!梨花!しっかりしろ!」

 聴覚が声を捉え、重かった目蓋がスッと開く。視界一杯に、兄と節子(さだこ)さまの今にも泣き出しそうな顔が映し出された。

「あ……あに゛ゔえ゛ぇ……」

 2人の顔を見た瞬間、倒れる直前に目撃した悲惨な光景を思い出し、私は顔を歪めた。

和田倉門(わだくらもん)が……和田倉門の渡櫓が傾いちゃったよぉ……。壁の漆喰も剥がれて、瓦も落ちて……ああ、江戸城の……貴重な江戸城の遺構がぁ……」

 涙が後から後から溢れて止まらない。涙声で必死に兄に訴えたけれど、兄はキョトンとしていた。

「どうしよう、きっと、他の門もやられてる……。大手門とか、桜田門とか、平河門とか……。塀や石垣や櫓も壊れてるだろうし……。ううっ、江戸城が、江戸城が……」

「はぁ……」

 泣き続ける私を見つめる兄が、大きなため息をついた。

「目覚めるなり、江戸城の遺構が壊れたことを嘆き悲しむとは、梨花らしいと言うか、何と言うか……」

「悲しむに決まってるでしょう!だって、和田倉門の渡櫓が壊れてるのを、見つけちゃったんだよ?!」

 私は鼻をすすり上げながら兄に言った。

「見間違いだと思って、そばに寄ってみたら、本当に、渡櫓が壊れてて……あれ?そう言えば、ここ、どこ?何か、寝かされてるところ、フカフカだけど……」

「皇居の医療棟の貴賓室ですわ」

 兄の隣にいる節子さまが、苦笑いしながら教えてくれた。「お姉さま、和田倉門の下で倒れてしまわれましたの。後ろからお姉さまについていらした芳麿(よしまろ)さまが人を集められて、お姉さまを医療棟にお運びしたのですわ」

(なるほどね……要するに、私、ショックで気を失ったのか……)

 ようやく状況が理解できた私の耳に、

「だから、目を閉じるようにと申し上げたのです」

という、我が臣下のため息混じりの声が届いた。

「今の江戸城の門や櫓の状況をご覧になってしまえば、梨花さまがお仕事どころではなくなってしまうのは明らかです。場合によっては、気を失ってしまわれるかもしれないと考えましたから、東小松宮(ひがしこまつのみや)妃殿下の所にいらっしゃる際、皇居から離れるまでは目は閉じておられますようにとお伝えしたのですが」

「あなた……だから、“目を閉じていろ”と言ったのね……」

 私は寝たまま大山さんを睨みつけた。「多喜子(たきこ)さまの所から戻る時、そんなことなんてすっかり忘れてたわ。だから、和田倉門の状況にビックリしちゃって気を失ったんだろうけれど」

「つまり……梨花は、和田倉門が壊れているのを見て、心に強い衝撃を受けたために気を失った……ということなのか?」

「そういうこと。身体はどこも悪くないわ」

 顔をしかめた兄が確かめるように尋ねたのに応じると、

「まぁ……身体がどこも悪くないなら、よいのだが……」

兄は大きなため息をついた。

「じゃあ、俺と節子は先に観瀑亭(かんばくてい)に戻る。侍医の許可が出たら、お前も戻ってこい」

 兄は少し呆れたように私に命じると、節子さまを促して貴賓室を出て行った。

「あーあ、しくじっちゃったわね……」

 非常に寝心地の良い寝台に横たわったまま私がぼやくと、

「ええ。(おい)の言いつけを守ってくだされば、このようなことにはなりませんでした」

大山さんは真面目な顔で私に言った。

「まぁ、それは、……大災害に遭遇した後の異様な心理状態による不可抗力で発生した、って感じね」

 私は難しい言葉を使って誤魔化してから、

「それにしても、江戸城の遺構の修復に、どのくらいの時間が掛かるかしら?」

と大山さんに尋ねた。

「さぁ、それは分かりかねますが……」

「そうよね。被害状況を細部まで確認するにも時間が掛かるわ。それに、国民の衣食住の保証やインフラの復旧が最優先だもんね。それが落ち着いてから取り掛かるとして、修復方法はちゃんと研究しないといけないわ。後世に江戸城の姿が伝わるような修理の仕方をしないと、未来の城郭研究家に迷惑が掛かるからなぁ……。だけど、災害にもある程度強い構造になるように修理しないと、大地震がまた来たら壊れちゃうし……うーん、悩ましいわねぇ……」

 大山さんの言葉も聞かず、壊れた江戸城の遺構の修理方法を必死に考えていると、

「ひえっ?!」

ドアの向こうから男性の叫び声が聞こえ、私は思わず身体を固くした。恐る恐るドアの方を振り向くと、「て、手前は、日本橋区の(とおり)1丁目にあります商家の者でして……!」という焦った声も聞こえてくる。

「……もしかして、兄上と節子さま、臨時診療所にいる患者さんをお見舞いしているのかしら?」

 15秒ほど考えてから私が大山さんに尋ねると、

「恐らく、そうでしょうなぁ」

大山さんは微笑を含んだ声で答えた。「声を掛けられた者は、先ほどの梨花さまと同じくらい驚いていることでしょう」

「だねぇ」

 大山さんに相槌を打ちながら、兄らしい行動だなと私は感じた。私を医療棟に見舞った帰りに、臨時救護所で治療を受けている患者さんたちを見つけて、居ても立っても居られなくなったのだろう。

(兄上……自分だって、辛いのに……)

 昨日、御苑で嘆き悲しんでいた兄の姿を思い出して、胸が締め付けられた時、

「さ、梨花さま、少しお休みなさいませ」

大山さんが私の身体に掛かった毛布を、肩のあたりまで引き上げた。

「……そう言えば、今、何時?」

「午後5時10分でございますよ」

 大山さんは私に答えると、

「この3日間、様々なことがございましたから、お疲れになっておられるでしょう。侍医の先生方がよい、とおっしゃるまでは、ここで身体を休めてください」

そう言って、私の頭を優しく撫でた。

「分かった。……そうさせてもらうけれど、あなたも少しでも身体を休めてね」

 臣下の忠告にありがたく従わせてもらうことにはしたけれど、私は彼に注意することも忘れなかった。


 1923(大正8)年9月3日月曜日午後5時40分、皇居・医療棟内にある貴賓室。

 意外にも早く仕事への復帰許可が侍医さんから得られたので、私が身支度を整えていると、貴賓室のドアがノックされた。「どうぞ」と大山さんが返事をすると、思いがけない人物が室内に足を踏み入れた。

(たね)さん!」

 私の声に、栽仁(たねひと)殿下は黙って微笑みを向けた。海兵大尉の夏用の白い軍装に身を包んだ夫は、少しくたびれているように見える。顎と鼻の下には、うっすらとヒゲが伸びていた。

(たね)さん、大丈夫?ちゃんと、食事は取れてる?」

 思わず詰め寄った私に「大丈夫だよ」と応じると、

「梨花さん、僕の心配をしている場合じゃないよ。梨花さんの体調はどうなの?僕、梨花さんが倒れたって聞いたから、お見舞いに来たんだけど」

栽仁殿下は少し目を怒らせながら私に尋ねた。

「先ほど、侍医の先生に、業務に復帰して構わないという許可をいただいたところでございますよ」

 私のベッドサイドに付き添っていた大山さんが、私より先に栽仁殿下に答えた。「地震で傾いた和田倉門の渡櫓をうっかりご覧になってしまい、驚いて気を失われただけでございますから」

「大山さん、それは内緒にしておいて欲しかったなぁ……」

 私が口を尖らせると、大山さんはクスっと笑う。そして、

「さて、(おい)は外に出ておりますから、お2人でどうぞごゆっくりお過ごしください」

と澄ました顔で言い残すと、貴賓室の外に出て行った。

「……なるほど、そういうことだったんだ。梨花さんらしいなぁ」

 ゆったりと微笑んだ栽仁殿下に、

(たね)さん、体調はどうなの?余り休息が取れていないように見えるのだけれど」

私はもう一度問い直した。

「休憩が取れていないのは事実だね」

 栽仁殿下は私に答えた。

「やらないといけないことが多いんだ。各地の国軍の駐屯地の被害状況の把握、各地への援助物資の輸送手配、避難民の輸送の手配……それから、戒厳司令部とのやり取りもしないといけない。無線は使えるから助かっているけれど、複雑な図や表は無線ではやり取りできないからね。今日も、戒厳司令部のある青山南町(あおやまみなみちょう)と国軍省の間を、何度も自転車や馬で往復したよ」

「それは大変ね……」

 私は夫に同情しながら首を縦に振った。

「でも、僕はまだいい方かな。大宮や習志野、横浜や横須賀に行かされることもあるからね。輝久(てるひさ)は今朝早くに、自転車と列車で宇都宮に行くように命令されたからね。まだ戻ってきてないと思うよ」

「ああ、そうなんだ……。じゃあ、輝久殿下は、多喜子さまのお産が済んだこと、知らないのかな?」

 私は軽く確認したつもりだったのだけれど、栽仁殿下は目を丸くして、

「え?!そうなの?!」

と、飛びつくように私に聞いた。

「あ、うん、そうよ。午前2時ごろに産気づいて、赤ちゃんが生まれたのが午後1時52分だったかな。元気な男の子だったわ。泣き声も大きくてね……」

 夫の様子に驚きながらも、私が多喜子さまと赤ちゃんの様子を伝えると、

「え?“泣き声も大きかった”って……梨花さん、まさか、輝久の家に行ったの?」

彼は首を傾げて私に問う。やや混乱しているのが彼の表情から読み取れた。

「ええとね、私、多喜子さまのお産を手伝ったの」

 栽仁殿下に、伝えたいことがちゃんと伝わるだろうか。不安に苛まれながらも、私は説明を始めた。

「今朝、8時ぐらいに、東小松宮家から、多喜子さまが産気づいたって連絡が宮内省に入ったの。しかも、頼んでいた医者や看護師と連絡がつかなくて困っている、って……。東小松宮家から、医者を派遣できないかっていくつかの大きな病院に打診したけれど、どの病院も患者が殺到していて、医者を派遣できなかったの。侍医の先生方も、臨時診療所の業務で手一杯だったから、私が医者として多喜子さまの所に行ったのよ」

「何だって……?そんなことがあったのか……」

 栽仁殿下は呆気に取られたような顔をしている。けれど、私の説明は、何とか理解してくれたようだ。

「大山さんが女医学校に急行して、弥生先生を多喜子さまの所に連れてきてくれたから、最終的には、私と弥生先生と平塚さん、それと助産師さんで多喜子さまのお産を手伝ったの。多喜子さまの所から戻る途中で、和田倉門の渡櫓が傾いているのを見つけて気絶しちゃったってわけよ」

「は、はぁ……こんなふうに話がつながるのか……。ちょっと信じられないけれど……」

 栽仁殿下は呆気に取られたような表情のまま感想を言うと、

「で、でも、梨花さんだからあり得る話かな、うん……」

そう付け加えて深く頷き、笑顔を見せた。

「……私、褒められてる?けなされてる?」

「もちろん褒めているよ。僕の奥さんは、唯一無二の存在なんだってことを再認識したんだ」

 怪訝な顔をした私に栽仁殿下は答えると、

「ありがとう、多喜子さまのお産を手伝ってくれて。輝久の友人の1人としてお礼を言うよ」

私に向かって深く頭を下げた。

「あ……うん、まぁ……どういたしまして……」

 多喜子さまのお産を手伝ったのは事実だから、お礼は受け取るしかないのだけれど、何だか少し照れくさい。私が少しうろたえながら夫に応じると、

「そうだ、梨花さん、仕事の方はどう?忙しいんじゃない?」

彼は私に心配そうに尋ねた。

「……1日の夜から2日の明け方までが大変だったかな。深夜に裁可や報告があったし、眠ろうにも、余震のせいで余り眠れなかったからね」

 私は栽仁殿下に答えると目を伏せた。

「でも、兄上はもっと辛いと思う。私は、“史実”より死者が少なくて済みそうだし、火事も思っていたより広がらなかったから、ちょっとホッとしているところもあるんだけれど、兄上はそうじゃないみたいで……」

――悔しいっ!

 兄の心からの叫び声が脳裏に蘇る。兄の心の痛みがまた伝わってきて、胸が苦しくなった。

「……私が、圧死者の数は“史実”よりは確実に減ってる、と兄上に言ったら、“大部分の者は、そんなことは知らない。彼らにとっては、この状態が未曽有の大災害なのだ”、って叱られた。……兄上の言う通りなんだよね」

 そこで止めよう、と思ったのだけれど、

「兄上、気持ちを隠して、普段通りに振舞っているけれど、とても辛そうで……」

気が付くと、私の口から言葉がポロっと零れ落ちた。

「それなのに、倒れた私をお見舞いに来てくれて、その帰りに、臨時診療所で治療を受けていた患者さんたちをお見舞いして、励ましていて……。偉そうに、兄上の全てを受け止めるって大見得を切ったけれど、それがちゃんとできているかどうか、分からないや……」

 栽仁殿下に会えて、ホッとしたからなのだろうか。心の中に潜んでいた不安が、口から零れて止まらない。ふと、これを止めるにはどうしたらいいのだろう、と思った時、夫が私の身体をふわりと包み込んだ。

「大丈夫、きっとできているよ」

 栽仁殿下は私の耳元で囁くように言った。「自分を支えてくれる人がそこにいると認識するだけでも、人は強くなれるものさ。今の僕のようにね。だから、大丈夫だよ」

「そうね……」

 心の中の不安が消えていくのを感じながら私は頷いた。

「……やっぱり、不思議ね」

「何が?」

(たね)さんと一緒にいると、心が前を向けるの」

 栽仁殿下の腕の中で、私は彼の目を見て言った。「ありがとう、いつも私を助けてくれて」

 頭を軽く下げた時、いつもと違う感覚が頬を撫でた。チクチクするような、くすぐったいような……。

(たね)さん、ヒゲ……」

 私が指摘すると、「ああ、これか」と呟いて、夫は顎に触る。

「ヒゲを剃る暇がなくてね。……いっそ、このまま伸ばして、父上みたいにヒゲを蓄えようかとも思うんだけど、どうだろう?」

「私、あんまり好きじゃないわ」

 私は反射的に答えた。「早く剃って。その方が私は好き」

「……分かったよ」

 栽仁殿下は私の頭を撫でると、

「そろそろ、国軍省に戻らなきゃ。梨花さん、お互い、頑張ろうね」

私の目を真正面から見つめて言った。

「うん、頑張ろう。……お見舞いに来てくれて、ありがとう」

 関東大震災から3日目、行政も国軍も、そして何より国民も、まだ混乱の中にある。そんな中で夫に会えたことが、私には何よりもありがたかった。

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