1923(大正8)年9月3日午前8時50分
1923(大正8)年9月3日月曜日、午前8時50分。
(んー……)
側車付き自動二輪の側車の座席に座り、診察カバンを抱えた私は、ずっと目をつぶっていた。
側車が何回か、道を曲がったのは分かった。段差を乗り越えてから、速度が上がった感じがしたから、坂下門をくぐって宮城前広場に入ったか、市電の線路を越えて、お堀に沿った道路に出たか、どちらかだと思うけれど……。
「芳麿さま!」
私は隣で自動二輪にまたがっている山階芳麿伯爵を、目を閉じたまま大きな声で呼んだ。
「何でしょう?!」
私に応じる芳麿さまの声も大きい。大きな声を出さないと、エンジンの音にかき消されてしまうのだ。
「まだ、目を開けたらダメなの?!」
「まだです!」
私の質問に、芳麿さまは大声で答えた。「……まだ、危険です!しっかり目を閉じていてください!」
芳麿さまにそう言われてしまったら仕方がない。私はおとなしく、目を閉じたまま座席に座っていた。
「……内府殿下、もう目をお開けになっても大丈夫です!」
芳麿さまからようやく許可が出たのは、やり取りしてから2、3分経った頃だろうか。恐る恐る目を開くと、右手に日比谷公園が見えた。左前方にある洋館は華族会館だ。どうやら私たちは、皇居のすぐ東を走る市電通りを南下しているらしい。
(日比谷公園、人がたくさんいる……)
私は側車から、周囲の様子を観察した。左側の官庁や銀行などが密集しているエリアでは、建物が倒壊したり破損したりしている様子は見られない。右側の日比谷公園には、たくさんの人がいるのが遠目でも分かる。東京市が行っているらしい炊き出しに、多くの人が並んでいた。
「内府殿下、どうなさいましたか?」
麹町区から芝区に入る頃、芳麿さまが私に話しかけてきた。
「ああ、増上寺が見えないかな、と思って」
私は答えながら、ヘルメットで重くなった首を一生懸命伸ばし、右前方に視線を走らせる。この辺りは神社仏閣が集まっていて、避難民を収容できる広い境内を持つ寺院がいくつかある。そこの様子が見えないかと思って頑張っているのだ。
すると、
「増上寺はもう少し先です。慈恵医院の南ですから」
芳麿さまが教えてくれる。間もなく、市電通り沿いに大行列が見えてくる。その行列の先は慈恵医院の門の中に入っていた。
(これ、全員、診察待ちの人だよね……。これじゃ、多喜子さまの所に医者を派遣するのは無理だわ……)
長い長い行列を後ろにしながらこんな感想を抱いた時、
「内府殿下、もうすぐ増上寺ですよ!」
芳麿さまが私に叫ぶ。その言葉通り、右前方には、増上寺の大きな三門が迫っていた。
「芳麿さまは、この辺の地理に詳しいのね」
避難者で混雑している増上寺の境内を見ながら芳麿さまに話しかけると、
「僕、自動二輪で東京を走り回っているので!」
と彼は言う。それなら、東京の地理に詳しいのも納得だけれど……。
(それ、噂になってないかな?“山階伯爵がバイクで走り回っている”とか……)
自動二輪は、この東京でもまだ珍しい。芳麿さまに関する妙な噂が立っていないことを祈りながら周囲を観察していると、自動二輪は橋を渡った先で右折し、済生会病院の敷地に突き当たって左折する。済生会病院の前にも、慈恵医院に負けないくらい長い行列ができていた。
一度右に曲がってしばらく走ると、華頂宮邸の前に差し掛かる。そこを通り過ぎ、高輪西台町にある東小松宮邸に側車付き自動二輪が到着したのは、午前9時22分のことだった。
「多喜子さま!」
本邸の隣に設けられた分娩所のドアを開けると、ベッドに横たわっていた多喜子さまが顔を私に向けた。汗ばんだ額に、前髪が幾筋か貼り付いている。
「章子、お姉さま……?お見舞いに……?」
陣痛に耐えながら尋ねた末の妹に、
「違うわ、あなたの出産を手伝いに来たの、医者として」
私は診察カバンを前に突き出しながら告げた。
「今、ここに来てくれる産科の先生を探しているわ。だけど、ここに来るまでに時間が掛かってしまうから、産科の先生が来るまでのつなぎとして私が来たの。……さ、多喜子さま、今から診察するわよ」
「章子お姉さま……」
私の言葉を聞いた多喜子さまは、安堵したように微笑んだ。
多喜子さまが寝ている隣の部屋には、清潔な手袋はもちろんのこと、滅菌ガウン、酸素ボンベ、酸素吸入用のマスク、そして、万が一緊急手術になった時に備えて、全身麻酔に使う吸入器や手術道具一式が揃っていた。抗生物質や、点滴を作るのに必要な材料や道具も準備されている。多喜子さまのそばに1人だけついていた助産師さんに尋ねたところ、本来多喜子さまのお産を担当するはずだった医師が、あらかじめ準備をしていたということだった。私はそれらを使わせてもらうことにした。
清潔なゴム手袋を付けて多喜子さまの診察をすると、子宮口は5cmまで開いていた。多喜子さまによると、今日の午前2時ごろに陣痛が始まったらしい。分娩の進みが遅い気もするけれど、多喜子さまは初めての出産だし、分娩の進み方は個人差も大きいから、様子を見ていいだろう。
それより、早く点滴を始めるべきだ。多喜子さまは私の質問に、昨日の夕食以降は何も食べていないと答えた。ベッドサイドには水が入ったガラスの瓶とコップが置かれているけれど、水が飲まれた形跡はほとんどない。脱水を防ぐためにも、点滴はしなければならない。
「多喜子さま、今から点滴の準備をするわ。作るのに時間がかかるから、まず経口補水液を作って、それを飲んでもらうね」
私は妹にこう言うと、カバンから経口補水液の薬包を取り出す。1包を500mlの水に溶かせば経口補水液と同じ組成の液体になるように調整された粉末が、この時の流れでは販売されている。あとは、水の量などを測ってくれる助手がいればいいのだけれど、あいにくと、適当な人が見当たらない。自転車でこちらに向かっている平塚さんが到着していれば、彼女を助手にするのだけれど、彼女の姿はまだなかった。
(んー、誰か、点滴を作るのを手伝ってくれそうな人……)
適当に宮邸の職員を捕まえようと思って廊下に出ると、職員さんたちと一緒に分娩所の様子を恐る恐る窺っている山階芳麿伯爵と目が合った。……ちょうどいい。理科大学の学生だし、少しは戦力になるだろう。
「芳麿さま、ちょっと手伝ってもらえる?」
私は芳麿さまに声を掛けると、相手の反応もろくに確かめずに、多喜子さまが寝ている隣の部屋に引きずり込んだ。
「あ、あの、内府殿下、手伝うのはいいのですが、一体何を?」
「ええとね、蒸留水500mlに、この薬包を溶かして欲しいの」
戸惑う芳麿さまに、私はなるべく優しい声を作って説明した。「ほら、その机の上に、蒸留水の入った大きな瓶とビーカーがあるでしょ。その瓶から、500mlの蒸留水を清潔操作で取って」
「せいけつ……そうさ?」
「あー、流石に理科大学じゃやらないか。でも、化学実験はやったことはあるでしょ?それができれば平気平気。それを不潔にしないようにやればいいだけだから。じゃ、この清潔な手袋のはめ方を教えるから、一緒にやってちょうだい」
芳麿さまを強引に助手にして経口補水液を作ると、やっと到着した平塚さんに頼んで多喜子さまの枕元に運んでもらう。それから、輸液用のガラス瓶の中に清潔な輸液を作り、再び多喜子さまの所に戻った時には、午前10時を過ぎていた。
「多喜子さま、点滴をするわよ。針が入るから少し痛いけど、我慢してね」
私はこう声を掛けると、今まさに陣痛に襲われている妹の腕に素早く駆血用のゴム管を巻く。8年ぶりに触った翼状針だったけれど、扱いに戸惑うこともなく、針は無事に多喜子さまの左腕の血管に入った。
(ひとまずこれで、当座はしのげるかな)
多喜子さまの血管へと、点滴が規則正しく落ちていくのを見て、私はほっと息をついた。平塚さんも到着したし、助産師さんもいるし、この状態でも多喜子さまの分娩には対応できる。
けれど、それは、分娩が正常に進んだ場合の話だ。万が一、多喜子さまに、帝王切開やその他の緊急手術が必要になった場合、私がそれを適切に判断することができるのか、そして、手術を無事にやり遂げられるのか……自信が無い。それに、手術をするのなら、もう1人医者がいる方が絶対にいい。
(とにかく今は、多喜子さまの状態を適切に把握すること以外に、できることがないわね……)
私がそう思った時、
「失礼致します」
ドアをノックする音とともに、我が臣下の声がした。「入ってちょうだい」と私が答えると、ドアが静かに開く。ドアの向こうには、大山さんと、そして、思いがけない人の姿があった。
「弥生先生?!」
私は目を丸くして叫んだ。「どうしてこちらにいらっしゃったのですか?!女医学校は大丈夫なのですか?!」
「大丈夫ですよ」
昔と同じように、紫の着物に黒の女袴を付けた弥生先生は、そう言って笑った。
「で、ですけれど、病院の方に、患者が殺到しているんじゃ……」
「内府殿下」
弥生先生が私を呼んだ。その厳しい声に、私は文字通り背筋が伸びた。
「内府殿下のお召しなら、私は万事を放りだしてでも応じなければならないのです。女医学校を立ち上げた時に真っ先に駆け付けてくださって、生徒たちの中で最初に医術開業試験に合格なさった内府殿下のお召しなら」
「弥生先生……」
「私が数時間いなくても、学校の方はどうとでもなります。さぁ、私たちは東小松宮妃殿下のお産を無事に終わらせましょう」
そう言って私に笑顔を向けた恩師に、
「ありがとうございます!」
私は万感の思いを込めて最敬礼した。
弥生先生が多喜子さまの診察をした午前10時40分、多喜子さまの子宮口は6cmまで開いていた。
「順調な経過だと思いますよ。この調子だと、お昼過ぎに子宮口が全開大してもおかしくないです」
多喜子さまの診察を終えた弥生先生はそう言って頷いた。
「点滴を内府殿下に入れていただいて助かりました。もう少し後でしたら、大騒ぎの中で点滴を作らないといけなかったでしょうから」
弥生先生の言葉に私は胸をなで下ろした。点滴は私の判断で入れたけれど、やはり、お産に関して経験豊富な弥生先生にこう言ってもらえると安心する。私は引き続き、多喜子さまの様子を見守りながら、点滴の状況に気を配った。
その後も多喜子さまの分娩は順調に進み、午後1時に子宮口が全開大した。赤ちゃんの頭も下降して、無事に元気な産声が上がったのは午後1時52分のことである。2800gの元気な男の子だった。後産も何の問題もなく終わり、午後3時前には、赤ちゃんは多喜子さまのそばに寝かせられた。
「かわいい……目元が、輝久さまに似てる……」
横で寝ている赤ちゃんの頭を、多喜子さまがそっと撫でる。赤ちゃんを見つめる多喜子さまの笑みからは、慈愛があふれていた。
「そうだね。早く、輝久殿下に会わせてあげたいね」
輝久殿下は、国軍省で仕事をしているはずだ。私の言葉に、多喜子さまは大きく頷くと、
「章子お姉さま、ありがとうございました」
と私にお礼を言った。
「私じゃなくて、弥生先生にお礼を言わなきゃダメよ」
私は妹に優しく注意する。「今だから言うけれど、正直、私だけじゃ多喜子さまのお産を上手く手伝えなかったわ。弥生先生が来てくれたから、あなたのお産が無事に終わったのよ」
すると、
「内府殿下がいらっしゃったからこその安心感、というものはありますよ」
弥生先生が私たちに言った。
「通常のお産でも、産婦は親しい家族の存在に勇気づけられるものです。まして、大地震で東京中が滅茶苦茶になっている中でのお産ですからね。内府殿下のお力は大きいと思いますよ」
弥生先生の言葉に、私は黙って頭を垂れた。
多喜子さまと赤ちゃんに異常が無いことが確認された午後4時ごろ、弥生先生は女医学校の自動車に乗って東小松宮邸を出た。「帰りは馬じゃなくてよかったわ」と弥生先生が笑ったので、どういうことか尋ねると、
「ここに来るときは、馬で来たのですよ。車の準備ができてから参りましょうかと大山閣下に申し上げたのですけれど、閣下が“とにかくお早く”とおっしゃるものですから、大山閣下と馬に2人乗りして、カバンは後から届けてもらうことにしたの。何十年かぶりに馬に乗ったので焦りました」
弥生先生はこう答えて、また大きな声で笑う。大山さんに事実かどうか確かめようにも、彼は多喜子さまの出産が無事に終わったことを兄に報告するために、一足先に皇居に戻っている。弥生先生を連れてきてくれた大山さんに、私は心の中で深く感謝した。
弥生先生を見送ると、私も側車付き自動二輪の側車に乗り込んだ。運転をするのは、もちろん、山階芳麿伯爵だ。
「悪いわね。行きも帰りも送ってもらった上に、色々手伝ってもらって」
皇居に向かって走る側車から、芳麿さまにお礼を言うと、
「とんでもありません。お役に立ててよかったです」
彼は運転しながら私に軽く頭を下げ、
「あの、内府殿下、今、宮内省で自動車の運転手は足りているでしょうか?」
と私に尋ねた。
「……車庫の扉が直って、自動車が全部使えるようになったら、多分足りなくなると思うわ」
私は宮内省の状況を思い出しながら答えた。
「宮内省の職員さんで自動車の運転免許を持っている人は少ないの。でも、これから自動車を使わないとできないことがたくさん出てくるわ。食料や水の配給の手伝いをしたり、色々なところの様子を見に行ったり……」
「では、宮内省の自動車の運転、お手伝いさせてください。僕、自動車の運転免許も持っているので」
「……あの、大学は大丈夫なの?5日から新学期が始まるでしょう?」
明るい声で申し出た芳麿さまに、私は一番の懸念をぶつけた。
「大学は、始業が10月1日になるそうです」
芳麿さまはしっかりした口調で答えた。「ですから、9月いっぱいはお手伝いできます。内府殿下、どうかお口添えをいただけませんか?」
「……分かった。牧野さんに話してみるわ」
私が芳麿さまに向かって頷いた時には、側車付き自動二輪は日比谷公園の前まで戻って来ていた。
自動二輪は日比谷濠に沿って、市電通りを北上する。通りの右側は、帝国劇場や警視庁など、東京市内でも重要な建物が集まっている有楽町だ。その北にある、まだ空き地の多い永楽町1丁目を通り過ぎると、左側に憲兵司令部が見えてきて……。
「ちょっ……!芳麿さま!車、止めて!」
私が叫んだのは、自動二輪が堀に掛けられた和田倉橋の前を通り過ぎようとした時である。「え、どうしたんですか?」とのんびり問い返す芳麿さまに、「とにかく止めて!お願い!」と強い口調で言って自動二輪を止めてもらうと、私は側車から降りて、和田倉橋に向かって走る。……そんな、馬鹿な。だけど、私の目の錯覚でなければ、和田倉橋の向こうにある和田倉門は……。
「ああ……!」
和田倉橋を渡り切り、和田倉門の真下に来ると、被害の状況がはっきりと分かった。和田倉門の渡櫓が、15度ほど斜めに傾いているのだ。壁の漆喰も所々剥がれ落ち、瓦も一部がずり落ちている。それが関東大震災による被害だというのは一目瞭然だった。
「そんな……和田倉門が……貴重な江戸城の遺構が……」
……そう言えば、和田倉門は、私の時代には残っていなかったのだ。けれど、この時代に転生したと分かった時にはちゃんと現存していたから、“史実”では、太平洋戦争の終戦間際に東京を幾度となく襲った空襲のせいで燃えて無くなってしまったのだろうと思い込んでいた。それがまさか、関東大震災でこんなみじめな姿になってしまうなんて……。
顔を上げると、傾いてしまった渡櫓の姿が、嫌と言うほど視界に入る。
激しい悲しみに襲われた私は、意識を手放した。




