産業技術研究所
※読み仮名ミスを訂正しました。(2019年4月29日)
1892(明治25)年7月16日、土曜日。
私は大山さんと一緒に、芝浜崎町の“産業技術研究所”……通称、“産技研”の見学に行った。
本当は、5月には開設されていたのだけれど、なかなか見学に行く暇を作れなかった。一番暇を作りやすい土曜日の午後に、ベルツ先生だけではなく、北里先生や森先生も加わって、私の居間で話をするようになったからだ。医学のマニアックな話が飛び交う中、医師3人組から、「産技研を見学に行くから、一回講義を休みにしてほしい」とようやく了承が取れたのが、6月の末のことだった。
麹町区の旧陸軍軍医学校の跡にできた医科学研究所……通称“医科研”の方は、北里先生が毎週の会合で、実験の進捗を報告してくれるから、見学に行くのはしばらく後でいいだろう。ちなみに、大阪の高峰譲吉さんの研究室は、医科研の“大阪分室”として、同一組織に統合することにした。こちらからは、もう少しでアドレナリンが発見できそうだという連絡をもらっている。
医科研の所長は北里先生だけれど、産技研の所長は藤岡市助さんという人になった。工学博士で、東京電燈という会社の創業者の一人だ。そして、「皇族を上にいただいておけば、資金を集めやすいだろう」という考えの下、医科研と産技研の総裁には、有栖川宮威仁親王殿下が就任した。
――増宮さまが成長されたら、医科研の総裁は譲らなければなりませんね。
そう親王殿下には言われたけれど、一体いつ頃になるのか、全く見当がつかない。
ちなみに、研究所の設立基金に関しては、天皇をはじめとする各皇族方や、財界の主要な方々が出資をしてくれたそうだ。ただ、財界人に関しては、私の“史実”の知識は本当に乏しい。渋沢栄一さんと、三菱の岩崎弥之助さん、それと名古屋にゆかりのある伊藤祐昌さんは何とか分かったけれど、中上川彦次郎さん、益田孝さん、広瀬宰平さん、大倉喜八郎さん、安田善次郎さん、川崎八右衛門さん、藤田伝三郎さん、古河市兵衛さん、鴻池幸富さん、若尾逸平さん……。誰だろう、と思っていたら、
――とりあえず、経済界に、声を掛けられるだけ掛けてみました。
設立基金集めの中心になっていた井上さんに、こう笑いながら言われた。そして、
――中上川と益田は三井の中心人物ですね。広瀬は住友……。
リストの人物の説明をしてくれたのだけれど、東京を本拠にしている人のみならず、地方を活動の地盤にしている財界人まで網羅していて、私は頭がくらくらした。
(井上さんの人脈って、どんだけ幅広いのよ?!)
――あの、井上さん、無茶な取り立て……じゃない、出資の強要なんてしてないですよね?!
慌てて井上さんに尋ねたら、
――いえいえそんな!むしろ、中上川と益田には、政府が取り立てられていますよ。……増宮さまが曲がったことがお嫌いなのは存じておりますし、大山さんにもこっぴどく懲らしめられますから、天地神明と増宮さまに誓って、出資の強要など致しておりません。ご安心を。
と言われたから、大丈夫だと思うけれど……。
ちなみに、医科研の設立基金の出資者も、似たようなメンバーだ。そちらにはなぜか、一万円札……じゃない、福澤諭吉さんの名前が入っていた。
「恐れながら殿下には、未来の世を見ておいでだとか……是非、未来の技術発展について、お話をお聞かせいただきたく!」
挨拶もそこそこに、藤岡さんに連れていかれた会議室には、十何人かの男性が待ち受けていた。
大山さんの義兄で、帝国大学理科大学の物理学教授をしている山川健次郎さん。酸素の件ではお世話になった。ちなみに、大山さんの義兄なのだけれど、大山さんより何歳か年下らしい。どんだけ年の差のある夫婦なんだ、大山さんと捨松さんって……。
帝大理科大学のもう一人の物理学教授、田中館愛橘さん。今は物理学助教授の長岡半太郎さんと一緒に、濃尾地震での地磁気の変動の研究をしている。しかし、“史実”では飛行機の研究者としても有名だったらしい。近々、彼は国軍と共同で、飛行機の研究を始めてくれるそうだ。ちなみに、長岡さんもこの場に来てくれている。長岡さんの名前は“土星型原子モデルの提唱者”として、前世の教科書にも載っているから、私も知っていた。
帝大理科大学化学教授の櫻井錠二さん。“史実”では、理化学研究所の立ち上げなど、学術振興活動にも積極的だったと原さんに聞いた。どうやら、山川教授と共同で、酸素の新しい生産方法の研究に着手しているらしい。
同じく帝大理科大学数学教授の菊池大麓さん。“史実”では、日本の西洋式数学の基礎を築いた人らしい。しかも、“教育行政の分野でも、なかなかの手腕を発揮していた”とは原さんの言葉で、“史実”では文部次官や文部大臣を務めたこともあったそうだ。
帝大工科大学の造家学教授の辰野金吾さんもいた。「造家学」という言葉が耳慣れなくて、大山さんに尋ねたら、「建物を設計するための学問です」と答えられた。
(要するに……私の時代でいう、建築学のことかな?)
「地震に耐えうる建物の研究をしたい」と言っていたし、おそらく推測は間違っていないだろう。
更には、大阪電燈の技師長の岩垂邦彦さん、東京音楽学校校長で理学博士の村岡範為馳さん、そして、島津源蔵さんと梅次郎さん親子、“史実”で乾電池を開発する屋井先蔵さん、そして、これは私でも名前を知っている、御木本幸吉さんに豊田佐吉さんなどなど、私と原さんの“史実”の記憶にある、これから日本の産業、技術をリードしていくであろう人々が、私を待ち受けていた。
(うわー……これ、どうしよう……)
キラキラした瞳で、一斉に私を見つめる皆さんに、“私に前世があることは秘密にして、今日話したことは、ここにいるメンバー以外には漏らさない”と確約させた上で、求められるまま、前世の技術の話をした。とはいえ、私は前世で単なる研修医だったので、技術を一から開発したという経験はない。だから、主には“未来の技術の産物を使った話”になったけれど、それでも彼らには十分過ぎたらしい。
「発電機の周波数は統一せねば、将来支障が出る……富士川と糸魚川を境に、周波数が変わるなど、電気機器を作るときに面倒なことになる!」
「ああ、それに、ここまで電力が発展するのであれば、将来的には直流ではなく交流での送電方式に統一しなければならん」
「発電機の周波数だけではない。度量衡も国際基準のメートル法に、せめて政府関係機関の中だけでも統一しなければ、国際研究に後れを取ってしまうぞ」
博士組は熱い議論を戦わせていた。
「大山さん、送電の電圧の話とか、直流交流の利点の話とか、分かる?」
難解な専門用語や理論が飛び交い出した博士さんたちの議論を横目で見ながら、私は隣にいる大山さんにそっと尋ねた。
「細かい数式までは、正しいかどうかをとっさに計算は出来ませんが……まあ、大筋は」
「はあ……」
私はため息をついた。前世の学生時代に、物理は勉強したから、私も彼らの話していることは、ある程度は分かるけれど……。
「あの……大山さんって、軍人ですよね?物理なんていつ勉強したの?あのマニアな話の大筋が分かるって、相当なものよ?」
私の質問に、
「いえ、梨花さまがベルツ先生たちとされているお話よりは、“まにあ”ではありませんよ」
大山さんは微笑した。
「毎度毎度、オタ話に付き合わせてしまってごめんなさい……」
私は軽く頭を下げた。トラコーマや梅毒やハンセン氏病や結核の話なら、この時代の一般人にもまだ馴染みはあるだろう。けれど、もちろんそれだけではなくて、ベルツ先生たちには、まだ発見されていない、エイズやエボラ出血熱やクロイツフェルトヤコブ病の話もしているし、免役学の話も、私の知る限り話している。もちろん、感染症以外の、他の病気の話もたくさんしている。以前、私たちの話をこっそり聞いていた児玉さんと山本さんは、その場から逃げ出したらしいけれど、大山さんは毎週毎週、根気よく私たちの話を聞いてくれていた。
「それに、砲弾の軌道計算や兵器の設計などでも、物理学は使います。電気関係となると、流石に俺も少し弱いですが」
大山さんの穏やかな言葉に、
――ありうるか、“知恵者の弥助”なら。
私は原さんが大山さんを評した言葉を思い出した。
「あ、あの、まさかとは思うけれど、大山さん、兵器の設計をしたことが……?」
「森先生よりも若いころの話ですよ」
私の質問に、大山さんはにっこり笑ってこう答えた。
「大変失礼いたしました……」
私は大山さんに向き直って、深々と頭を下げた。
(森先生より若いころって……)
確か、森先生は、今年の2月で満30歳になったはずだ。すると、大山さんは20代の頃に、兵器設計をしたということになる。
(もうだめだ、前から分かってはいたけれど、大山さんには絶対に勝てない……)
私が頭を抱えている一方で、
「面白そうな技術が、山のようにできるのだな……」
「ああ、どんどん実現させたいな!」
技術者組は心躍らせ、将来の技術発展の展望について熱く語り合っていた。
(大丈夫かな、これ……)
会議室に渦巻く熱気に少し心配になったけれど、みんなのモチベーションが向上したならばよいだろう、と思うことにした。
「また是非お話を!」
という皆さんの声に送られ、藤岡さんと豊田さんの案内で、産技研の各研究室の見学に回った。会議室でかなり時間を取られてしまったので、急ぎながら見ていく。産技研では、合成ゴムやプラスチック、無線など、まだこの世界にはない技術の開発とともに、今は外国から輸入するしかない製品の製造に必要な技術を、日本でも扱えるようにして、外国製品に負けない国産品を作るための研究もすることになっている。
「いずれは化学薬品やプラスチックはもちろん、今は欧米から輸入しているような、製造に高度な技術を必要とする機械も、我が国から輸出できるようにしたいですね」
市岡さんはそう言って胸を張った。
少し困ったのは、長谷部仲彦先生の研究室に立ち寄った時だ。私の“史実”の記憶にはない人だけれど、原さんによると、“史実”の大正時代ではとても有名だった人らしい。
「主に今は、白色塗料の研究をしています」
そう彼に言われて、試作品の塗料を「塗ってみますか?」と示されたのだけれど、塗るのに適当な紙が置かれている訳でもなく、どこに試し塗りしたらいいのか、困ってしまった。まさか研究室の備品とか、服に塗り付けるわけにもいかないし……。戸惑っていたら、後ろにいた大山さんが、
「恐れながら……手はいかがでしょうか?」
と提案してくれた。確かに、前世で働いていた時には、とっさの場合、手の甲にボールペンで文字を書くのはよくやっていた。どうやら大山さんは、私が昔したその話を覚えていたらしい。
「これ、塗料だから、水で洗ったぐらいでは落ちませんよね?」
「大丈夫です。試作品ですから、そこまでの付着力はありません。石鹸でよく洗えば落ちます」
長谷部先生も頷くので、
「それなら……」
と、私は、塗料を筆に含ませて、左手の甲に一筋、線を引いてみた。白い線が、甲に浮かび上がる。
「はあ、なるほど……これ、材料は何ですか?」
「酸化亜鉛です。他にも多少混ぜ物はしてありますが、人体には問題ないものです」
「確かに、私の時代では、塗料に含まれるホルムアルデヒドで、体調を崩す人もいましたからね。安全な塗料を作るのは、とてもいいことだと思います」
「ありがとうございます」
長谷部先生は微笑すると、私に一礼した。
産技研の見学を終えると、もう夕方になっていた。
「こちらを、献上いたします。試作品ですが、お気に召せば是非、使っていただきたいと」
帰り際、豊田さんが私に差し出したのは、黒いゴム紐だった。
「ゴムを芯にして、周りに糸を、機械で巻き上げました。井上閣下からご要望が特にありましたので、最優先で機械を作りました」
と彼が言うそれは、適当な長さに切って輪にすれば、前世のヘアゴムに当たるものとして、十分に使えそうだ。
「豊田さん、あなたに会えただけでも嬉しいのに……私の“輪っかになったヘアゴムが欲しい”という言葉のせいで、本当に申し訳ありませんでした」
私は深々とお辞儀をした。前世の我が故郷が誇る発明家に、私はゴム紐を開発させてしまった。ここは“史実”通りに、自動織機の開発に力を注いでほしいところなのに……。
「“輪っかになったヘアゴム”というものは、一体……?」
私の言葉に首を傾げる豊田さんに、私は、前世で一般的に売られていた、リング状のヘアゴムの説明をした。
「なるほど、それはこのゴム紐を裁断して、端のゴム同士を熱でくっつければできます。あとはつなぎ目を、強力な糊で接着すれば……」
「と、豊田さん、私のために、そこまでしてもらうのは申し訳ないです!」
両手を振って必死に豊田さんを止めようとしたけれど、
「しかし、未来では、先ほどおっしゃった形のものが、売られているのでしょう?」
豊田さんはニッコリ笑ってこう言った。
私は黙って頷くしかなかった。
「じゃあ作りましょう。任せといてください」
豊田さんが右手で胸を叩く。
「あの、豊田さん……ヘアゴムもいいのだけれど、自動織機の方も頑張ってください。新しい自動織機で反物が織れたら、私、それで着物を仕立てて着ます。どんな地味な柄でも、無地でも着ます」
「!」
私の言葉に、豊田さんは目を丸くすると、最敬礼した。
「これはありがたい。やはり我々にとっては、開発した技術を人に使っていただくのが、一番嬉しいことです」
藤岡さんもニコニコしながら頷いた。
「そうですか。私でよければ、“産技研”で開発した技術の産物を、実際の生活に使えるかどうか試してみますよ。世の中に出すにも、実用に耐えうるかどうかの試験が必要でしょうから」
「重ね重ねありがたきお言葉……恐縮でございます」
「医科研の方とも連携して、研究が進んでいくことを期待しますね」
(そして、医療技術も発展させて……皇太子殿下を守らないと)
黒いゴム紐を手にした私は、決意を新たにした。
※名前だけですが、この時代にメジャーと思われる財界人さんを、一挙出演させてみました。伊藤祐昌さんは出すか迷ったのですが、梨花さんが名古屋出身なので一応。鴻池幸富さんは、既に家督を譲っているのですが、出させてもらいました。甲州財閥からは、雨宮敬次郎さんや初代根津嘉一郎さんも、とも思いましたが、若尾さんがまだご存命でしたので。
※そして技術者も、この時点である程度の地位にいらっしゃる方は、拾えるだけ拾ってみました。(抜けはあるかもしれませんが……)藤岡さんを総裁にしたのは、適当です。他に人材がいるかもしれません。村岡さんは島津さんと一緒に国産レントゲンの開発をしていますので、医科研とどちらに所属させるかを迷いましたが、島津さん親子は産技研側だろうなあ、と思ったので、こちらに引っ張りました。大森房吉さんは、敢えて出演させていません。え、長谷部さんですか?
※あと、この時代、帝国大学は学部制ではなく、文科大学・法科大学・理科大学・工科大学・農科大学の分科大学制をとっていました。今まで省略していましたが、今回は書かないと若干ややこしいので書きました。物理の教授は理科大学にも工科大学にもいますんでね……。
※そして、「豊田さんならやってくれるだろう」と思って、ゴム紐を開発させてしまいました。実際にどのくらいで開発がされたのかは、調べる手が追い付きませんでした。申し訳ありません。




