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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第74章 1923(大正8)年処暑~1923(大正8)年白露
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1923(大正8)年9月2日午後6時20分

 1923(大正8)年9月2日日曜日午後6時20分、皇居・観瀑亭(かんばくてい)内にある仮御座所。

「日本橋区や京橋区にある会社は、現在は片付けに追われています」

 仮御座所の上座に並んで座った兄と節子(さだこ)さまに報告しているのは、兄の侍従の1人である甘露寺(かんろじ)さんだ。兄の学友の1人で、兄が心を許す友人でもある彼は、今日、兄の言いつけで、皇居の東にある日本橋区と京橋区の視察と慰問に行った。

「ただ、各社とも、他の都市との連絡には非常に困っているようです。電話線が切れていますし、電信も今は使えませんので、ある会社は大阪支社との連絡に、宇都宮や前橋など、電話や電信が使える都市に人を派遣し、そこから大阪と連絡を取らせようとしているとのこと」

「おい、待て、甘露寺」

 兄が眉をひそめて報告を止めた。「宇都宮や前橋は、東京からかなり離れているだろう。確か、列車も不通になっていると聞いたが?」

「ええ。日本鉄道は、日暮里と埼玉県の川口町との間で列車が不通になっています。ですから、上野まで歩いて、上野から日暮里まで列車に乗り、日暮里から川口町までは何らかの手段で移動して、川口町から宇都宮や前橋への列車に乗ることになります」

「1日がかりの連絡だな。いや、下手をすると1泊2日か。大変なことになっているな」

 甘露寺さんの答えを聞いた兄が軽くため息をつくと、

「そのうち、東京と大阪の間は、飛脚や早馬で連絡をするようになるかもしれませんな」

大山さんが真面目な顔でこんなことを言い始めた。

「あのさ、大山さん……」

 私は呆れながら大山さんにツッコミを入れた。「そんな遅いもので通信しようと思ったら、今の世の中、全くやっていけないのよ。あなたの大好きな文明の利器を使わないと、日本は“七大国”の一角どころか、列強に軽くひねり潰されるような国になってしまうわ」

 すると、

「ではその時は、内府殿下が陣頭にお立ちになり、国軍全軍を指揮なさればよろしいでしょう」

大山さんは顔色を変えずにこう言った。

「はぁ?!何考えてるの!軍医が陣頭に立つって、どんな指揮系統なのよ!」

「別によいではありませんか。少なくとも、新イスラエルのストラウス大統領と、ドイツの皇帝(カイザー)は、内府殿下の前にひざまずくのですから」

 大山さんの反論に、節子さまがクスクス笑う。兄は大きな笑い声を上げていて、今にも文机の上に突っ伏してしまいそうだ。報告していた甘露寺さんも、その報告を私と一緒に聞いていた奥侍従長も島村武官長も牧野さんも、楽しそうに笑っていた。

(全くもう……)

 澄ました顔をして正座している我が臣下を私は睨みつけた。どうも、震災が発生してから、大山さんが変な気がする。いつも全体を広く見て、急所も見逃さない大山さんが、場にそぐわないことを言うのが目立つのだ。

(……いや、まさかなぁ。大山さんに限って、それはないと思うけれど……)

 湧き出てしまった嫌な予測を、私が急いで頭から追い出した瞬間、

「ところで、人々の様子はどうですか?怪我人がたくさん出ているのではないですか?」

何とか笑いを収めた節子さまが甘露寺さんに聞いた。

「はい。片づけをしている最中に怪我をしてしまう者が増えています。しかし、診療できる医院が、地震の影響で極端に減っておりまして、赤十字社が開設した救護所や、我らが宮内省の臨時診療所、京橋区の国軍病院、本郷区の医科大学病院や芝区の慈恵医院に患者が殺到しているようです」

「そうですか……」

 甘露寺さんの答えを聞いた節子さまが物憂げな表情になった。

「甘露寺さんの言う通りで、臨時診療所には外科の患者がひっきりなしに訪れているとのことです。内府殿下の御助言を受けて侍医の先生方の勤務は交代制としておりますが、勤務時間中には休む暇が全くないということでした」

 宮内大臣の牧野さんは、甘露寺さんの報告を補強する。

「少なくとも、水道が復旧しないと、医療機関の再開は難しいかなぁ。医薬品や衛生材料の流通も、ほとんど無くなっているでしょうし……この状態はしばらく続きそうね」

 私はこう付け加えてため息をついた。怪我人の治療が落ち着く頃には、慣れない避難生活による体力の消耗と食料の供給不足による栄養状態の低下が背景となった感染症患者の増加が予想される。衛生的な水が得にくい状況でもあるので、コレラなどが流行したら大変なことになってしまうだろう。ただ、このことは以前桂さんや後藤さんにも話してあるし、この場で話すと奥侍従長や甘露寺さんが頭を抱えてしまいそうなので、私は黙っていることにした。

「そうか。そんな状況で奮闘してくれている医療機関には、何らかの形で報いたいな。……他に気づいたことはあるか、甘露寺?」

 兄が甘露寺さんに再び尋ねると、

「はい、東京市内では、様々な噂が流れているようです」

甘露寺さんは渋い顔をして答えた。「例えば、今回の震災の火事は、旦那に捨てられた芸妓が自棄になって放火して発生したものだ、とか、囚人が脱獄して家屋を手当たり次第に襲い、金品を強奪している、とか……」

「やはり、か」

 兄は甘露寺さんの言葉に顔をしかめた。「無論、こういう流言は取り締まっているのだろうな?」

「はい、それはもちろんですが、それから……これは申し上げてよいのでしょうか?」

「何だ、俺が地震で死んだという噂でも流れているのか?」

 兄が不機嫌そうに聞くと、甘露寺さんは「いや、そうではなく……」と言いながら、チラッと私の方を見た。

「ええと……まさか、私が地震で死んだという噂が流れているのですか?」

 恐る恐る私が聞くと、

「はい、その通りです……」

甘露寺さんはとても言いにくそうに答える。すると、兄がすっくと立ち上がった。

「甘露寺、その噂を流した奴をここに連れてこい。1発殴ってやる」

 そう言いながら拳を固めた兄を、

「やめてください、陛下。大騒動になりますから」

甘露寺さんは即座に制止した。

「そうよ。妙な噂は消さないといけないけれど、兄上が噂を流した奴を1発殴るのまではやり過ぎだわ。そいつを兄上のところに連れてくるのに必要な人手は、被害者救済のための人手から回さないといけないのよ」

 私も甘露寺さんに味方して、兄を必死に止めにかかる。

「それなら仕方ない、諦めるが……」

 不満そうにしながら兄が再び正座したのを見ると、

「だから言いたくなかったんですよ……」

甘露寺さんは盛大にため息をついた。

「陛下は昔から、内府殿下を悪く言う奴がいれば、見境なく怒り出して……。内府殿下もこうおっしゃっているんですから、少しは落ち着いてください」

「俺はな、俺の愛しい妹を傷つける奴は絶対に許せないのだ、甘露寺」

 昔馴染みの友人の諫言に、兄はムスッとして言い返す。「それはお前だって、よく分かっているだろう」

「はいはい、2人ともそこまでね」

 私は呆れながら甘露寺さんと兄を止めた。「こういう噂を止めるためにどうすればいいかを考えましょ。その方が建設的だから」

「内府殿下のおっしゃる通りですね」

 牧野さんが苦笑しながら言った。「幸い、赤倉の久邇宮(くにのみや)殿下のご一家と、翁島(おきなじま)有栖川宮(ありすがわのみや)殿下のご一家もご無事と分かりましたから、宮内省から、天皇皇后両陛下をはじめ、皇族の皆様はご無事であると発表いたしましょう」

「それはいいと思いますけれど……新聞は発行できる状態なんですかね?」

 私が首を傾げると、

「新聞各紙は停電で印刷機が動かせないので、ガリ版や手刷りの印刷機で号外を発行しているようですよ」

と甘露寺さんが教えてくれる。

「それに、ラジオは生きております。愛宕山の放送所には発電機が備え付けてありますから、今も放送を続けているはずです」

 牧野さんもこう言った。被災地でラジオが聞ける人はほとんどいないだろうけれど、他の地域の動揺を鎮めるには有効な手段だろう。

「では、牧野大臣の言う通り、皇族の安否に関する発表を……」

 そこまで言った兄が僅かに顔をしかめ、

「甘露寺、障子を開けろ」

と命じる。甘露寺さんがすぐさま兄の命に従い、廊下に面した障子を開けた瞬間、やや強い揺れが仮御座所を襲う。私はとっさに両腕で頭を抱えた。

「……油断なりませんな、余震というものは」

 いつの間にか私を抱きかかえていた大山さんが呟くように言った時には、揺れは収まっていた。

「ああ、いつまで続くことやら。昔から勘が鋭いせいか、地震が来る寸前に、揺れが来る、と何となく分かるが、こうも続くと疲れるな」

 兄は軽くため息をついてから大山さんに応じ、

「とにかく、牧野大臣の策を進めることにしよう。けしからん噂については、……あとで菊麿(きくまろ)()()相談だな」

と、中央情報院にも対応を命じることを匂わせる発言をした。


 1923(大正8)年9月3日月曜日午前8時、皇居・表御殿。

「今日も僕たちの様子を見に来てくださって、本当にありがとうございます」

 表宮殿の廊下を東車寄に向かって歩きながら、私にお礼を言ったのは、山階宮(やましなのみや)菊麿王殿下の次男、山階(やましな)芳麿(よしまろ)伯爵である。麹町区にある自宅は延焼を免れたけれど、安全確認がまだ済んでいないので、彼と彼の母の範子(のりこ)さま、義理の姉の佐紀子(さきこ)さま、そして甥の和彦(かずひこ)さまは、引き続き化粧の間に滞在している。私は彼らを昨日のように見舞った帰りだった。

「ああ、気にしないでいいですよ」

 私は芳麿さまに笑顔を向けた。今日は平塚さんではなく、大山さんが私に付き従っている。

「範子さまたちの様子を見に行け、というのは、陛下のご命令です。それに、私も範子さまたちのことは心配なのです。特に、佐紀子さまと和彦さまのことは」

「はっ……」

「本当に大変だと思います。和彦さまが生まれて10日も経っていないところで、こんな大災害に巻き込まれるなんて……。もし、私が子供を産んだ直後にこんな大災害に見舞われていたら、私は子供を育てることができなかっただろうと思います。だから、佐紀子さまと和彦さまのことは本当に心配になりますし、何とかして助けたいと思うのです」

「ありがとうございます。義姉(あね)と和彦のことをお気遣いいただいて……」

 芳麿さまは私に頭を下げる。このままこの話題を続けてしまうと、ずっと芳麿さまに頭を下げられてしまう気がしたので、

「……お兄さま、ご無事でよかったですね」

私は少し話題を変えることにした。

「はい、所沢で元気に過ごしているようで……昨夜の宮内省の発表を聞いて、安心しました」

 芳麿さまは安堵の色を顔に浮かべた。「昨日、それを聞いてから、義姉(あね)も落ち着いたように思います。もちろん、母もですが」

「あとは、お父さまとお兄さまと、早く会えるといいわね」

「はい。ですが、内府殿下が父の様子をお聞かせくださいましたので安堵しました。父が戒厳司令官として、そして兄が航空中尉として、しっかり務めを果たしてくれることを僕は祈るのみです」

 私の言葉に、芳麿さまはハキハキとした口調で答える。

(いい子だなぁ……うちの子たちも、芳麿さまみたいに成長してくれるといいけれど)

 そんなことを考えていると、いつの間にか私たちは南溜の間の前に着いていた。この南溜の間には、宮内省の一部の部署が移転している。

「ありがとう、芳麿さま、お見送りはここまででいいわ」

 私が微笑んで芳麿さまに告げた瞬間、

「まずいじゃないか!」

南溜の間から、男性の大きな叫び声が聞こえた。何かあったのだろうか。私は大山さんと顔を見合わせると、開け放たれた南溜の間の扉の近くに動き、中の様子をそっと覗いた。

「すると、医者が1人もいないということなのか?!」

「そういうことになります」

 南溜の間には事務机と椅子が並べられ、20数名の宮内省職員がいる。その中の数名が部屋の真ん中に集まり、青ざめた表情で何かを話し合っていた。

「産婆……じゃない、助産師も、看護師もいないのか?!」

「いえ、助産師は1人いるようです。しかし、もう1人立ち合うはずの助産師と、看護師に連絡がつかないとのことで……」

(何だろう?)

 私が南溜の間に一歩足を踏み入れようとした瞬間、

「内府殿下、(おい)が参ります」

大山さんが小さな声で私を止めた。

「いや、私が行く方がいいわ。単語からして、医療関係の話かもしれないし」

 私が小声で言い返すと、大山さんは「仕方ありませんな」と苦笑する。それを肯定のサインと受け取って、私は南溜の間に入った。

「他の医者はどうなのだ?!」

「大きな病院にもいくつか問い合わせたのですが、動ける医者がいないと言われまして……」

「とは言え、侍医の先生方も、臨時診療所の業務で手一杯だ。それをご差遣という訳には……」

 相変わらず職員たちは大きな声で話し合いを続けている。「ううむ」と唸って両腕を組んだ課長さんに、

「あの、どうしました?」

と近くまで寄って声を掛けると、

「うわぁぁぁ、な、内府殿下?!」

課長さんは私から飛びのくように離れ、私に向かって最敬礼をする。話し合いに参加していた他の職員たちも同様だ。

「ごめんなさいね。ここを通りかかったら、話の内容が少し聞こえてしまって……何があったのですか?」

 課長さんに営業スマイルで尋ねると、

「はっ……東小松宮(ひがしこまつのみや)妃殿下が、本日の未明に産気づかれました!」

彼は驚くべきことを私に報告した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 「甘露寺、その噂を流した奴をここに連れてこい。1発殴ってやる」 シスコン陛下此処に極まれり<`ヘ´> まあ陛下を抑えても、大山さんはじめ梨花会の面々にタコ殴りされるでし…
[一言] あっ、内府殿下に医師として働くフラグが立っちゃいましたね。 確か、皇居内に検査室が作ってあったから、そこを内府殿下が使って東小松宮妃殿下の出産をすればいいのでは?
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