1923(大正8)年9月1日午後7時15分
1923(大正8)年9月1日土曜日午後7時15分、皇居・観瀑亭。
「……」
内大臣と内大臣秘書官に割り当てられた和室で、私と大山さん、そして内大臣秘書官の東條英機さん、松方金次郎くん、そして平塚明さんは、夕食を黙々と食べていた。梅干しと昆布の入った麦飯のおにぎりにたくわんが数切れ……昼食も同じメニューだったけれど、災害が発生したばかりの時間帯だから、こうして食事にありつけるだけありがたいと思わなければならない。
やがて、
「これから、どうなるのでしょうか……」
真っ先に夕食を食べ終わった東條さんが呟いた。
「そうですねぇ……少しずつ、日常の生活に戻すことを目標に動いていくんでしょうね」
私は東條さんに答えると、たくわんを一切れ口に放りこんだ。
「現状は、俺の若かった頃の日常と変わりませんからな」
火を灯したロウソクのそばで、大山さんがクスクスと笑った。「水道が来ないので井戸から水を汲み、電気が来ないのでロウソクを灯りにして、ガスが来ないので薪で煮炊きをする……御一新の前は、そんな生活が当たり前でございました」
「いや、確かにそうかもしれないけれど、私は文明の利器に囲まれて生活してきたの。この状態は不便に感じるのよ」
私が呆れながら我が臣下にツッコミを入れると、
「もちろん、俺も不便に感じております。俺は、大のハイカラ好きでございますから」
大山さんはなぜか澄ました顔で答える。すると、金次郎くんがプッと吹き出した。
「内府殿下と大山閣下のお話を聞いていると、何だか元気が湧いてきますね」
「ええ。お2人がいつもとお変わりないので、こちらも落ち着いていられます」
東條さんと金次郎くんは、言葉を交わすと笑顔を見せる。一方、平塚さんはおにぎりを持ったままぼんやりしていた。「平塚さん」と私が呼ぶと、
「……はい、内府殿下」
平塚さんはゆっくりこちらに顔を向ける。
「大丈夫ですか?心ここにあらずと言った風情でしたけれど」
「申し訳ございません」
平塚さんは私に謝罪すると、
「家の様子が、気になってしまって……」
と、小さな声で言った。
「平塚さんは、実家から皇居に通っているんでしたっけ?」
「はい。家は、本郷区の駒込曙町にありますが」
私の質問に答えた平塚さんはため息をつく。
「父は今朝出勤しましたから、恐らく勤務先での防災訓練の最中に地震が起こったのだと思うのです。けれど、母がどうかは分からないですし、そもそも、家が壊れずにちゃんと残っているのか……」
「大丈夫だと思いますよ、平塚さん」
不安そうな表情の平塚さんに言ったのは金次郎くんだった。「お母上も、きっと地域の防災訓練に参加なさっていたと思います。ならば、例え家が壊れても、命は助かっているはずです。家の外に出ていたのですから」
「そうですね。それに、本郷の辺りは、埋め立てて造った土地ではありませんから、家屋も壊れにくいはずです。きっとご自宅も無事ですよ」
金次郎くんと東條さんが代わる代わる慰めると、平塚さんは「そう、ですね」と頷く。まだ表情は固いけれど、何とか立ち直ったようだ。それを確かめてから、夕食を食べ終わった私は、気分転換をしようと廊下に出た。
外はすっかり暗くなっているけれど、東の方角の空だけが、夕焼けのような色をして不気味に輝いている。この皇居の東にある本所区や浅草区で発生している火事の影響だろう。風は相変わらず強く、観瀑亭の周りの木々をざわざわと揺らしていた。
(お母様と迪宮さまと母上、どうしてるんだろう……)
いまだに、日光御用邸からの連絡はこちらに入ってこない。御用邸には蓄電池で動く無線機を配備しているので、宮内省と連絡は取れるはずだ。その連絡がないということは……。
(いやいや、それはない。絶対に無い。だって、日光は関東大震災の震源から、だいぶ離れているじゃない。それに、向こうだって絶対防災訓練の最中に地震が起こったはずだから、建物が潰れて下敷きになるなんてことはあり得ないし……)
私は2、3度頭を横に振ると、不吉な考えを心の中から追い出し、大山さんたちがいる部屋に戻った。
1923(大正8)年9月1日土曜日午後9時45分、皇居・観瀑亭に設けられた仮御座所。
枢密院議長の黒田さんが自ら持参した緊急勅令の文章に、兄は丁寧に目を通している。兄が使う文机の上には、石油ランプが置いてあり、暗い室内を照らしていた。もちろん電灯よりは暗いけれど、ロウソクの灯りよりは頼もしい。
やがて、筆を執った兄は、冊子の1ページ目に署名をする。今回黒田さんが持ってきた緊急勅令は、東京府と神奈川県に戒厳令の必要な規定を適用することに関するものだ。1882(明治15)年に定められた戒厳令は、“史実”では1905(明治37)年に発生した日比谷焼き討ち事件の処理のために適用されたけれど、この時の流れでは、関東大震災の対応のために初めて適用されることになった。
「……確かに受け取りました」
黒田さんと一緒に仮御座所に入った内閣総理大臣の桂さんが、私が御璽を押した冊子を受け取ると私に軽く頭を下げ、次いで兄に向かって最敬礼した。
「桂総理、戒厳司令官は誰にするつもりだ?」
「予定通り、山階宮殿下にお願いしようかと」
兄の問いに、桂さんは恭しく答える。もし、戒厳令の規定を適用させなければならない場合は、戒厳司令官は、第1軍管区司令官の山階宮菊麿王殿下にする……これは事前に梨花会で決められていて、菊麿王殿下にも了承を得ていた。
「分かった。もし、戒厳司令部の人事の書類ができたら、深夜になっても構わないからここに持ってきてくれ。直ちに裁可する」
兄は桂さんの答えを聞くとこう言った。
「へ、陛下、それはお身体に障ります。書類は明朝、必ずこちらに持参致しますので……」
桂さんは兄を押しとどめようとしたのだけれど、
「いや、この人事だけは急いで裁可しなければならない。少しでも早く戒厳司令部に業務を始めさせなければ、国民が苦しむ時間が長くなってしまう。だから書類ができたら、すぐにここに持ってきてくれ」
兄は強く主張して、桂さんの意見を容れない。
「陛下、お言葉はごもっともでございますが、今回の震災の対応は、長い戦と同じようなもの。休める時にはきちんと休んでおかれませんと、後の方になってご体調を崩されてしまい、最後まで戦い抜くことができなくなってしまいます」
黒田さんも桂さんの横から助言するけれど、
「しかし、ここだけは、迅速に対応しなければならないだろう。だから、人事の書類を裁可するまでは起きている」
兄はこう言って頑張り、首を縦に振ろうとしない。
「兄上」
「ん?」
こちらに視線を投げた兄に、
「今すぐ寝て」
業を煮やした私は言った。
「はぁ?!何を言っている!まだ10時にもなっていないぞ!俺はいつも、日付が変わる頃までは起きていて……」
「深夜に呼び出される時に備えて、まだ寝るのに早い時間帯でも布団にもぐって、寝られる時に寝ておく。これが、私が現役時代にやっていた当直のやり方よ」
目を剥いた兄を私は睨み返した。
「今回だって当直と同じようなものよ。深夜に起こされるのが確定してるんだから、それまでは身体を休めないと、明日働けないわよ。……ほら、さっさと立った立った。早く寝室に行って寝てちょうだい」
私は立ち上がって兄のそばまで行くと、兄の右手を上に強く引っ張った。
「な、何をする、梨花!俺は書類が来るまでここで……」
「ダーメ。それは主治医として許可しません。さっさと就寝することを命じます」
抵抗する兄にこう言うと、
「……ああ、分かった、分かった!寝ればいいのだろう、寝れば!」
兄は自棄になったように叫んで立ち上がった。
「分かってくれたのね、兄上。それじゃこのまま、寝室までご案内するわ。書類が来たら、ちゃんと起こしてあげるから」
私は兄を引きずるようにして寝室に連れて行き、兄を寝室に入れると襖を閉める。「いい?絶対寝なきゃダメよ」と襖の外から兄に念押しして仮御座所に戻ると、
「誠にありがとうございました」
桂さん、そして黒田さんが私に向かって頭を下げた。
「あのまま陛下が夜通し起きておられたら、お身体がもたなくなってしまいますから……」
神妙な顔つきで私に言う黒田さんに、
「いえいえ、これは主治医としての責務ですから」
と私は応じ、
「ところで黒田さん、桂さん。日光のことについて、何か情報は入ってきましたか?」
と2人に尋ねた。
「いいえ……」
黒田さんが短く答えると、
「そう、そのことでございますよ、内府殿下」
桂さんはそう言って、少し身体を私に近づけた。
「政府にも、全く情報が入ってきていないのです。栃木県庁に問い合わせをしようかとも考えたのですが、栃木県庁には無線機を配備していなかったのです。ですから、電話が切断されている今、連絡の取りようがなく……」
「そうですか……。じゃあ、今夜はその知らせが入るまで、私、徹夜ですね。どうせ、人事の書類が来たら兄上を起こさないといけないし……」
私がため息をついて顔をしかめると、
「「内府殿下」」
桂さんと黒田さんが私をギロリと睨んだ。
「な、何ですか」
「それはまさに、医者の不養生というものではございませんか。なりませんぞ。内府殿下は天皇陛下を常時輔弼する大事なお役目を担っているのです。そのお身体は特に労わらなければなりません。万が一内府殿下が倒れられましたら、天皇陛下も皇后陛下も、そしてもちろん有栖川の若宮殿下も、深く悲しまれますぞ」
2人の迫力に思わず身体を引いた私に、桂さんは容赦なくお説教を浴びせる。
「桂の言う通りです。先ほども陛下に申し上げましたが、この震災への対応は、長い戦のようなもの。休める時には休んでおかれませんと、最後まで戦うことはできません。内府殿下、そのことをどうかお忘れなきように」
黒田さんも重々しい声で私に忠告をするので、私は「はい……」と返事してうな垂れた。
「さぁ、部屋に戻ってお休みください、内府殿下。弥助どんにも今のこと、伝えておきますからな」
黒田さんのダメ押しのような言葉に、私は完全に逃げ場を失ったことを悟った。
1923(大正8)年9月2日日曜日午前2時55分、皇居・観瀑亭にある仮御座所。
「では、日光の様子を教えてくれ」
仮御座所の上座に座った兄が、下座で正座している東宮侍従さんに命じる。眠っているところを起こされたので、兄は寝間着の上に黒っぽい羽織という、通常他人と面会する時には絶対にしない服装だ。それでもしっかり威厳が感じられるのは、流石兄と言ったところだろう。
一方、兄のそばに座る私は、宮内官の制服は着ているものの、眠気で真面目な態度はすっかり消え去ってしまっていた。日付が変わる頃に1回、人事の書類の裁可で起こされ、更に1、2度余震で目が覚めてしまったので、睡眠はあまり取れていない。うっかりすると、座ったまま居眠りしてしまいそうになる。しかし、この報告は絶対に聞かなければならない。お母様と迪宮さまたちに関する重大な報告であることは間違いないのだから。
「まず、お母様と裕仁は無事か?」
「はっ、皇太后陛下も、皇太子殿下も、ご無事でございます」
兄の問いに、東宮侍従さんは答えて一礼する。
「確か今日……いや、もう昨日になっているか。お母様が裕仁と一緒に園遊会を開くことになっていただろう。それに参加する予定だった皇族たちはどうだ?」
「はい、皆さまご無事です。最初の地震が起こった正午ごろには、ご出席予定の皇族方は皆さま御用邸に参集され、防災訓練のため庭園に出ておられました。そのおかげもあり、どなたさまもケガもなさらず、ご無事でいらっしゃいます」
「陸奥顧問官と西園寺侯爵もいただろう。その2人はどうだ?」
「はい、お2人ともご無事でいらっしゃいます」
「御用邸の職員はどうだ?」
「そちらも、全員無事でございます」
東宮侍従さんは、兄の問いに淀みなく回答する。東宮侍従さんの声がやや上ずっているのは、兄の前で緊張しているのと、関東大震災という緊急事態に動揺しているのとが関係しているのだろう。
「裕仁についている職員と、お母様に仕えている者たちは無事か?それから、花松どのは?」
「はい、皆、無事でございます。お気遣いいただき、誠にありがとうございます」
(よかった……)
東宮侍従さんの答えを聞いた私は、安堵の吐息を漏らした。みんな無事だ。お母様も迪宮さまも母も、お母様の策で日光に集めた皇族たちも、全員無事だ。菊麿王殿下の一家はこの皇居に避難しているけれど全員無事だし、東小松宮輝久王殿下と多喜子さまも無事だ。赤倉の久邇宮家と、翁島にいる義父たちに関する連絡はまだないけれど、日光より更に震源から遠い土地だから恐らく大丈夫だろう。
(これで、皇族が関東大震災で死ぬ事態は避けられたのね……)
私がしみじみと安堵感に浸っていると、
「御用邸は壊れなかったか?」
兄が更に東宮侍従さんに尋ねた。
「石垣の一部が破損したのと、無線機が故障してしまったこと以外は問題ありませんでした」
「何、無線機が壊れた?」
「はい。たまたま振動で、上にあった大きな花瓶が落下してぶつかってしまいまして……」
兄が僅かに顔をしかめたのに気が付いたのだろう。東宮侍従さんは慌てて頭を下げた。
「電話も不通となりまして、どうやって日光の無事を東京に伝えようかと困っておりましたら、栃木県が自動車を手配してくれました。それを使ってこちらに参上したのでございます」
「そうか……。それは大変だったろう。日光からここまで、どのくらい時間が掛かった?」
「日光を出ましたのが18時ごろでしたので、9時間弱でしょうか……。東京に近づくにつれ、道路や橋の損壊が見受けられるようになり、無事に東京にたどり着けるか不安でしたが……」
そこまで言った東宮侍従さんは、突然、深く一礼して、
「大変失礼いたしました。陸奥閣下から、天皇陛下と内府殿下に宛てた書状を預かっております。どうぞ、ご一読ください」
と言って、傍らにある文箱を前に動かす。当直侍従さんは廊下に待機させているので、私が東宮侍従さんから文箱を受け取り、兄の前に文箱を置いた。
「東京に戻る東宮侍従の方に、この書状を託します」
陸奥さんは巻紙に筆で、しかも古風な候文で手紙を書いている。だから実際に書かれているのはもっと難解な文章なのだけれど、とりあえず、最初の文を私の時代風に直すとこのようになる。
「こちらは皇太后陛下と皇太子殿下をはじめ、皆無事ですのでご安心あれ。そちらは今大変なのでしょうから、僕も普段の意地悪はやめて、ただただ天皇皇后両陛下と内府殿下の御無事をお祈り申し上げております」
「……陸奥顧問官がこんな殊勝なことを書いていると、かえって不気味だな」
「そうね。陸奥さん、東京に戻ったら、きっと私たちを散々にやりこめるわ」
肩を寄せ合って陸奥さんの書状を覗き込む兄と私は、小声で言い合うと、再び書状に目を落とした。
「さて、東宮侍従の方がこのお手紙をお2人の元に届けるのは恐らく夜中でしょうから、1つご忠告申し上げます」
やはり、次の文には少し不穏な文言が含まれている。そら来た、と思った私は唇を引き結んで衝撃に備えた。
「それは、この手紙をお読みになったら、今夜はさっさと寝てしまうことです。お2人ともお仕事に対しては真面目ですから、更なる変事に御自らが当たろうとなさり、3日も4日も一睡もせずに過ごされてしまうやもしれません。休息もせずに極限状態まで追い込まれた頭というものは、とかく判断を誤りがちです。お2人がそのような愚を犯すことは万に一つもないとは思いますが、念のため申し上げておきます」
「「……」」
私と兄は顔を見合わせた。陸奥さんの文章は、私たちの状態を、余りにも正確に言い当てていた。
「恐ろしいわね、陸奥さんは……」
私がこう言って両肩を落とすと、
「ああ、ここまで正確に、俺たちの状態を言い当てるとはな……」
兄も苦虫を噛みつぶしたような表情で言った。
「……今日はもう、朝まで寝るか?」
「そうね、余震で起こされない限りは」
兄と私は同時にため息をつくと、東宮侍従さんにお礼を言い、各々のねぐらに引き上げたのだった。




