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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第74章 1923(大正8)年処暑~1923(大正8)年白露
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1923(大正8)年9月1日午後4時40分

 1923(大正8)年9月1日土曜日午後4時40分、宮内省本庁舎前。

 本庁舎前の広場には、事務に使うため、天幕(テント)がいくつも設置されている。その広場に、黒塗りの自動車が3台滑り込み、一番大きな天幕の前で停止した。

範子(のりこ)さま!」

 真ん中の車から降りてきた山階宮(やましなのみや)菊麿(きくまろ)王殿下の妃・範子妃殿下の姿を見つけて声を掛けると、こちらを振り向いた彼女は両目を丸くした。

「まぁ、内府さま!」

「ご無事で!」

「内府さまも!」

 私は範子さまに駆け寄ると、彼女の両手を取った。20年以上前、範子さまの分娩と、それに続く子宮全摘の手術に立ち会わせてもらってから、彼女とは親しくしている。範子さまの目には、うっすら涙が浮かんでいた。

「天皇陛下と、さだ……皇后陛下は?」

 自分の実の妹である節子(さだこ)さまを心配する範子さまに、

「安心してください。兄上も、節子さまも無事です」

私はしっかりと無事を伝えた。

「ああ、よかった……」

「それより範子さま、佐紀子(さきこ)さまと和彦(かずひこ)さまは?!」

 大きな安堵の吐息を漏らした範子さまに、私は慌てて尋ねる。“特に、佐紀子と和彦の様子はきちんと確かめろ”……兄にそう命じられてここにやってきたのだ。命令はきちんと遂行しなければならない。

「こちらに。……佐紀子さん、降りられますか?」

 範子さまが自動車の中に声を掛けると、薄い桃色の和服を着た女性が赤ちゃんを抱えて降りてくる。山階宮武彦(たけひこ)王殿下の妃・佐紀子女王殿下と長男の和彦王殿下だ。佐紀子さまの顔は真っ青になっていた。

「佐紀子さま、具合が悪いのですか?!……このまま、車を医療棟に回して、先生方に診察をしてもらって……」

 範子さまたちをここまで送り届けた宮内省の職員さんたちに私が命じようとした時、

「いいえ、内府殿下!体調は、大丈夫、です……」

佐紀子さまがか細い声で私に答えた。

「ただ、怖くて……大きな地震が、何度も起こって、怖くて……」

 佐紀子さまは殆ど泣き出しそうになっている。無理もない。彼女は京都で生まれ育ち、武彦王殿下との結婚を機に、2年前に東京にやって来た。夫婦仲は良いと聞いているけれど、まだ慣れない東京という土地で、しかも夫がそばにいない時に大災害に見舞われてしまい、不安でたまらないのだろう。

「ですが義姉上(あねうえ)、診察は受ける方がよろしいのではないでしょうか」

 身体を震えさせている佐紀子さまの後ろから声を掛けた青年がいる。武彦王殿下の弟・山階(やましな)芳麿(よしまろ)伯爵だ。彼は3年前に臣籍降下した後に国軍を退役し、現在は東京帝国大学理科大学に通っている。

「芳麿さまの言う通りです」

 私は佐紀子さまに向かって力強く頷いてみせた。「こういう大災害の時には、知らず知らずのうちに心身に負担が掛かります。それに、佐紀子さまは和彦さまを産んだばかりですから、他の人よりも余計に体調を崩しやすいのです。だから、和彦さまともども、医師の診察を受けてください」

「佐紀子さん、内府さまのおっしゃる通りよ。診察を受けてくださいな」

 私の横から、姑である範子さまも心配そうに言う。

「……かしこまりました。では、診察を受けて参ります」

 佐紀子さまが頭を下げたのを見ると、私は再び宮内省の職員さんたちに、佐紀子さまと和彦さまを車に乗せて医療棟に向かうように命じた。医療棟では、兄と節子さまの侍医さんたちが、ケガ人の診療にあたっている。佐紀子さまが彼らの診察を受ける可能性は先ほど伝えておいたから、佐紀子さまは医療棟に着いたらすぐに診察を受けられるだろう。

「ありがとうございました、内府さま」

 佐紀子さまと和彦さまを乗せた車を見送ると、範子さまが私に一礼した。

「佐紀子さん、地震が起こってから、母乳の出が悪くなってしまったようで……和彦さんがずっとぐずっていたんです。乳母は乳が出たので、乳母の乳を吸ったら落ち着きましたけれど」

「そうですか……」

 もしかしたら、地震によるストレスで、母乳の出が悪くなったのかもしれない。最近は乳児用の粉ミルクも市販されるようになり、皇居の備蓄食品の中にもストックがある。それを早速使ってもらうことになりそうだ。

(粉ミルク、私の時代ほどの品質は無いけれど、それでもある方が絶対いいわよね。……あ、そうだ、粉ミルクを溶くのにお湯が必要だけれど、水道、今どうなっているのかしら?)

 粉ミルクのことを考えた私は、水道の状況が気になった。皇居に関しては、敷地内に貯水池があるし、更に震災対策として、江戸時代に掘られた井戸を全て復旧して使えるようにしてあるから、すぐに水に困ることはない。しかし、他の場所はどうなのだろうか。

(こればっかりは、政府からの報告を待つしかないわね。変に問い合わせて、事務を混乱させるわけにはいかないもの)

 私は北の方角、神田区方面の空を睨みつけてから、範子さまと芳麿さまにあいさつして、観瀑亭(かんばくてい)へ戻っていった。


 1923(大正8)年9月1日土曜日午後5時30分、皇居・観瀑亭の仮御座所。

「神田区の三崎町(みさきちょう)方面の火災は、何とか食い止めつつあります」

 兄の前に正座しているのは、第1軍管区の司令官・山階宮菊麿(きくまろ)王殿下だ。彼のそばには私の他に、奥侍従長、島村侍従武官長、そして牧野さんがいて、兄と菊麿王殿下の間に広げられた東京市の地図を覗き込んでいた。

「また、そちらから麹町区の飯田町(いいだまち)方面に延焼した火災も鎮圧しつつあります。麹町区では水道が何とか生きておりますので」

「麹町区では何とか生きている?」

 菊麿王殿下の説明に引っ掛かったのだろう。兄が僅かに顔をしかめると、

「はい、残念ながら、火災が発生している神田区・浅草区・本所区・深川区では水道が使えなくなっています。ですから、河川や池などの自然水利を使って放水を行っています。しかし、本所区と浅草区は、他の区と比較すると、消防に使える自然水利が少ない地区です。従って、水道が使えないと分かってからは破壊消火を主に行っています」

 破壊消火というのは、火災現場の周辺にある建物を取り払って燃えるものを無くして防火帯を作ることで延焼を防ぐ方法だ。江戸の火消しが使ったことで有名である。ただ、維新以降、大量に放水できるポンプが日本に入ってきたことで、破壊消火が行われる事例は減っていた。

(だけど、そうか……水道が使えない区があるって……)

 一昨年の地震の後、玉川上水から淀橋浄水場に水を引き込む新水路の補強工事をしてもらったり、万が一の際、玉川上水の旧水路から淀橋浄水場に水を汲み上げられるようにポンプを常設してもらったり、ポンプ用の自家発電機を設置してもらったりしたけれど、それが意味をなさなかったのだろうか。

 すると、

「水道も、淀橋浄水場までは水が来ているのですが、淀橋浄水場から下流の水道管が破損してしまっているようです。せめて水道がもう少し脆弱でなかったら……という思いもありますが、今無いものを追い求めても仕方ないので、やれる消火法を行ってまいります」

私の考えを見透かしたかのように菊麿王殿下は言い、兄に向かって頭を下げた。

(そうか、水道管か……)

 内心舌打ちした私をよそに、

「なお、火災発生地からの避難民は、東京帝国大学や上野公園、宮城前広場、日比谷公園、靖国神社などに逃れております。徒歩で日暮里より北に逃れた者も多数いると思われます」

菊麿王殿下は淡々と報告を続ける。

「うん……皇居の敷地に避難民を収容する必要はあるか?」

「今のところ、その必要はないかと」

 兄の質問に、菊麿王殿下は一礼して答えた。「しかし、三崎町方面の火災が、風向きの変化により南下するようなことがあれば、避難民を宮城に入れていただいたり、宮城の敷地を安全な方角に通り抜けさせたり……そのようなご許可が必要かと存じます」

「山階宮殿下、ご安心ください」

 横から牧野さんが言った。「その旨、天皇陛下からは既にお許しをいただきました。必要があれば、いつでも対応できます」

「それはありがたい」

 菊麿王殿下は牧野さんに、次いで兄に向かって最敬礼した。

「侍医の方々による臨時診療所の開設だけではなく、避難民のことまでお考えいただき……感謝の念に堪えません」

「当たり前のことをしているだけだ」

 兄は表情を変えずに言った。「国民の苦しみを少しでも取り除くために、わたしもできることをしている。菊麿、お前も大変だろうが、国民のために頼むぞ」

 兄の言葉に、菊麿王殿下は再び深く頭を下げる。

「では、失礼致します」

「ああ、待て、菊麿」

 下がろうとした菊麿王殿下を兄は呼び止めた。再びかしこまった菊麿王殿下に、

「範子たちはここに避難させた。だから安心しろ」

兄は穏やかな声で告げた。

「!……ありがたき幸せ!」

 菊麿王殿下は畳に額をこすり付けるように頭を下げる。顔がこちらから見えなくなる直前、菊麿王殿下の目に光るものがあったように私には見えた。

「……いやあ、実に鮮やかですな」

 菊麿王殿下が仮御座所から退出すると、島村侍従武官長が明るい声で言った。

「水道が使えないと見るや、すぐさま消火法を破壊消火にお切り替えになるとは……流石は山階宮殿下でございます」

「その通りですが、島村どの」

 奥侍従長が軽く顔をしかめた。「水道が止まっている地域があるのは由々しき事態です。避難民たちにどうやって水を供給するか、考えなければならないでしょう」

「宮内省の持っている給水車が何とか活用できないか、東京市とも検討してみましょう。そう言えば、枢密院で緊急勅令の審議はいつ始まるのでしょうか……」

「それより、日光の皇太子殿下と皇太后陛下の御様子が、全く知れないことが気がかりです。牧野閣下、何かご存知ですか?」

「いいえ、島村閣下。こちらにもまだ情報が無いのです。無線機がありますから、こちらと連絡はいくらでも取れるはずなのですが……」

 年長者3人が雑談を始める中、私は兄の方をそっと見た。正座して両腕を組んだ兄の額には、深い皺が何本も刻まれていた。ところが、私に見られているのに気が付くと、

「ん?章子、どうした?」

兄は素早く、しかめていた顔を元に戻し、穏やかな微笑で私に聞いた。

「……兄上が、辛いんじゃないかと思って」

 普段、奥侍従長や島村侍従武官長がいるところでは、兄のことを“陛下”と呼ぶのだけれど、今は2人とも話に夢中だ。私は小さな声で兄に言った。

「兄上、本当に辛くなったら言ってよ。私は全力で兄上を受け止めるから」

 私の言葉に、兄は少し寂しそうに微笑みながら、「ありがとう」と応じた。

※前回書き忘れましたが、山階宮邸が延焼の危機に陥った火災は、実際には富士見町六丁目から出火したものと思われますが、状況を改変しています。ご了承ください。

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[一言] 関東大震災最大の惨劇の地、元陸軍被服厰跡地。 内府殿下、ちゃんと対策たててますよね? 浅草にあった遊廓の女性達も避難訓練に参加してますよね?
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