発災
1923(大正8)年9月1日土曜日午前6時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「梨花さん……梨花さん」
いつものように夫に揺り起こされて目を覚ました私は、自分の身体が夫の身体と殆ど密着していることに驚いてしまった。慌てて身体を離そうとすると、背中に回された夫の腕で、自分の身体を逆に夫の身体に押し付けられてしまう。
「た……栽さん……朝から、やめてよ……」
顔を真っ赤にしながらもなんとか抗議の声を上げた私に、「ごめんね」と栽仁殿下は謝罪をすると、
「どうしても、我慢できなかった。今日がその日だと思うと……」
彼は私を抱き締めたまま、真剣な瞳で私を見つめた。
「そうね……」
私は目を伏せた。そうだ。今日がその日なのだ。関東大震災。この東京をはじめとする、南関東一帯が、未曽有の災害に見舞われる……。その緊張から、昨夜はなかなか眠れず、このベッドで栽仁殿下に抱き締めてもらいながら不安を吐き出して、ようやく眠りにつくことができた。
「万智子たちは翁島にいるから安心だけど、この家はどうなるかしらね……」
私が栽仁殿下に抱かれたまま呟くと、
「多分大丈夫じゃないかな。この家、頑丈に作ってあるし」
彼はそう言って、私を安心させるかのように微笑む。
「そうなんだけど……」
私が栽仁殿下と結婚した時に建てられたこの盛岡町邸は、本館も別館も鉄筋コンクリート造りだ。ただ、私は、前世で見た阪神・淡路大震災や東日本大震災の映像を通じて、鉄筋コンクリートが地震に対して無敵という訳ではないことを知っている。もちろん、この家は脆弱な設計にはしていないつもりだけど、一抹の不安が残ることは事実だ。
「……でも、そうね。木造よりマシなことは事実ね。もし、この家が滅茶苦茶に壊れたら、学者さんたちに何がまずかったのかを研究してもらって、また新しい家を建てようか」
思い直して、私が栽仁殿下にこう返すと、
「うん、そのくらいに思っておく方がいいよ」
彼は再び私に微笑を向けた。
「……栽さんは、今日は国軍省に出勤だっけ?」
「そうだね。その時は国軍省で迎えると思う。でも、午後からは、状況によっては伝令役で東京中を走り回ることになるだろうから、どこにいるかは分からないけれど」
「そっか……。私は兄上にくっついているから、皇居にいるはずだけど……しばらく、栽さんとは会えないね。きっと、2人とも忙しいだろうから」
その時が来たら、やることが一気に降って湧くだろう。状況によっては、戒厳令を出さなければならないし、そうでなくても、宮内省の建物の保全、宮内省で働く人の食料や寝床の確保、避難民の保護……発災後に課されるであろうタスクを挙げていくとキリがない。
と、
「あれ、梨花さん、夕べは結婚指輪を掛けたまま寝ちゃった?」
私の首元を見た栽仁殿下が声を上げた。
「あ……」
急いで首に手をやると、指が銀のチェーンに触れる。引っ張り出すと、チェーンの先にある結婚指輪が、寝間着の襟から飛び出した。
「やだ……いつも外して寝るのに、忘れちゃってた……」
結婚指輪を指でつまんで顔をしかめた私に、
「まぁ、仕方ないよ。僕も、外すのを忘れてた。やっぱり、こんな時だから、2人ともうっかりしちゃったんだろうね」
栽仁殿下はこう応じると、私の背中から右腕を外し、私と同じようにして自分の首元を探り、チェーンの先にある結婚指輪を取り出した。
「はぁ……しっかりしなきゃ、私。こういう時こそ、平常心が大切なのに」
私がため息をつくと、
「梨花さん」
栽仁殿下が真剣な顔つきになり、私がつまんでいた結婚指輪を、自分のものと一緒に右手の上に乗せた。
「離れていても、僕の心は、この指輪と一緒に、ずっと梨花さんのそばにあるからね。もし、辛くなったり、心が弱くなったりした時には、それを思い出して」
「うん……」
私は栽仁殿下の澄んだ美しい瞳を見つめ返すと、彼の右手の上に私の左手を乗せた。
「私の心も、この指輪と一緒に、栽さんのそばにいるよ。離れていても、ずっと一緒に……」
あと5分ほどで身支度を始めないと、2人とも遅刻してしまう。そのギリギリの時刻まで、私と栽仁殿下は、ベッドの中で見つめ合っていた。
1923(大正8)年9月1日土曜日午前11時57分、皇居・表宮殿の御車寄前。
「……」
毎年恒例となった“防災の日”の防災訓練は、午前11時30分から予定通り始まっていた。“宮殿で火災が発生した”という想定で行われる訓練は、まず全員が宮殿の外に脱出し、点呼の後、ポンプを使った放水訓練を行う……という順番で進んで行く。昨年までなら、ポンプを操作する時に、仲のいい者にふざけて水を掛けようとするお茶目な女官さんが何人かいたのだけれど、今年は節子さまがものすごい顔で一同を睨みつけているからか、ふざける人は誰もいなかった。節子さまの隣に立つ兄の表情も、何となく強張っている。無理もない。関東大震災が発生するまで、あと3分を切っているのだ。
(どこかで歴史が変わって、地震が起こらずに済んでくれればいいのに……)
診察カバンを持った私は兄の近くに立ち、祈るように空を見つめていた。この後の地震が起こりさえしなければ、みんな、辛い思いをせずに済むのだ。もちろん、色々と準備したことは無駄になるし、“予言”を外した私も、菊麿王殿下に嘘つき呼ばわりされてしまうけれど、多くの人が理不尽な理由で死ぬよりははるかにマシだ。私は空を見上げながら、“予言”が外れることを必死に祈った。
「それでは陛下、ご講評を……」
防災訓練が一通り終わり、宮内大臣の牧野さんが兄に声を掛ける。腕時計の盤面を見ると、分針は58分を指し、秒針は30秒を少し回っていた。
「うん……」
牧野さんに頷いた兄が、次の瞬間、顔をしかめる。どうしたのだろう、と思ったその時、
「建物から離れろ!」
兄がものすごい声で叫んだ。
「来るぞ……地震だ!」
兄の声が夏の大気に溶けて消えた瞬間、足元から突き上げるような揺れを感じた。1秒、2秒……腕時計の盤面を睨みつけているうちに、揺れは次第に大きくなる。12秒まで数えたところで、今までと比べ物にはならないくらい大きな揺れが私たちを襲った。
「きゃあああああっ!」
女官さんの誰かが上げた悲鳴が響く。頑丈に建てられているはずの宮殿の窓や障子が、ミシミシと軋んでいる。他の所はどんな様子だろう、と視線を泳がせた時、節子さまが顔を真っ青にして立ち尽くしているのがみえた。私は節子さまのそばに駆け寄り、彼女の身体をしっかり抱き締めた。
「……収まりましたかな」
大山さんの声が私の耳に入ったのは、ちょうど正午になった時だ。周りにいる侍従さんや侍従武官さんたち、女官さんや宮内省の職員たちの顔は、状況を飲み込めずに呆然としているか、地震の恐怖で引きつっているかのどちらかだ。けれど、怪我をした人はいないようだ。
「……だといいけれど」
私は大きなため息をついてから大山さんに応じた。「大きな地震の時は、地震が続けて起こるものよ。私の時代の熊本地震だってそうだし、東日本大震災の時も……」
すると、
「来るぞ、その地震が」
兄が鋭い声で言った。「とにかく、物が落ちてこないところにいろ。これはまた、大きなやつだ!」
兄が言い終わらないうちに、再び大地が揺れ始める。揺れに気づいた節子さまが「お姉さま!」と怯えた声で叫んで私にしがみつく。私は覆いかぶさるように彼女を抱き締めた。
揺れはますます激しくなり、踏ん張って立っていても、身体が崩れそうになる。宮殿の窓や障子が軋む不快な音が、再び辺りに響く。……もしかしたら、先ほどの地震ではなく、今の地震が本震なのだろうか。関東大震災の発生時刻は、1923年9月1日の午前11時58分だったはずだけれど……。それより、国軍省にいるはずの栽仁殿下は無事なのだろうか。向こうも防災訓練中のはずだから、建物の下敷きになることはないと思うけれど……。
(栽さん……栽さん……!)
一際大きい揺れで体のバランスが崩され、地面に倒れそうになったところを、後ろから誰かに支えられた。一体誰が助けてくれたのかと確かめようとした瞬間、
「梨花さま」
耳元で大山さんの声がした。
「俺がおります。僭越ながらこの俺が、若宮殿下に成り代わり、梨花さまの御身をお守り申し上げます」
「大山さん……」
後ろから押し付けられた大山さんの身体を背中に感じ、少しほっとした私に、
「俺もいるぞ。節子を守る方が優先だがな」
兄がニヤリと笑いかける。いつの間にか、兄は節子さまを後ろから抱き締めて支えていた。
「それにしても、本当にお前は栽仁と仲がいいな。まさかここで夫君の名を呼ぶとは」
「はい、嘉仁さま」
後ろから兄に話しかけられた節子さまがそう言って頷く。心の中でだけのつもりだったのに、どうやら私は声に出して夫を呼んでいたらしい。揺れは何とか収まっていて、顔を真っ赤にした私は節子さまから離れた。
「賢所は無事か?!誰か調べてこい!」
節子さまを後ろから抱き締めたまま、兄が御車寄前の一同に向かって叫ぶ。侍従さんの1人が賢所に向かって走り出した時、地面が再び揺れ始めた。今度の揺れも大きいけれど、一番最初とその次の地震ほどの揺れではない。それに、大山さんが私を守ってくれている。私は落ち着いてその場に立っていられた。
「大きな地震が続いています。宮殿と宮内省の被害状況が把握できないので、事務は防災訓練用に張った天幕で行うこととします。宮殿と宮内省の破損個所の調査をお願いします」
牧野さんが職員に大きな声で呼びかけたのは、午後0時5分のことだ。また地面が揺れたような気がしたけれど、大きな地震に立て続けに襲われた直後だからよく分からない。ただ、宮中三殿に兄が走らせた侍従さんが戻る直前、午後0時7分には、地面は再び揺れた。
「申し上げます!」
全速力で戻った侍従さんは、息を切らしながら兄に最敬礼した。
「賢所は、瓦が一部落下しておりますが、建物にその他の異常は認めません!皇霊殿・神殿も同様です。神鏡は、無事でございます!」
「そうか、ありがとう」
兄は報告した侍従さんに向かって頷くと、
「皆、いいか」
と言いながら一同を見渡す。頭を下げた侍従さんや職員さんたちに、
「これほどの大地震なら、この東京でも多くの建物が壊れ、多くの人々が苦しんでいるに違いない。わたしたちは自分の身を守りながら、政府と協力して、苦しむ国民を助けなければならない。この災害、皆で心を一にして乗り越えていくぞ!」
「「「「「はっ!」」」」」
兄の鼓舞するような言葉に、御車寄前の一同が一斉に最敬礼する。
私の腕時計の針は、午後0時9分を指していた。




