向き合う
1923(大正8)年8月8日水曜日午後2時50分、神奈川県葉山村。
「ああ、あれ、秩父宮さまかぁ……。泳ぐの、本当に速いわね」
葉山村にある葉山御用邸のすぐそばには、相模湾に面した砂浜がある。そこに張られた天幕の下から、私は兄の次男・秩父宮雍仁さまが泳ぐのを眺めていた。秩父宮さまの他にも、兄の三男で17歳の英宮尚仁さま、兄の四男で11歳の倫宮興仁さま、そして私の長男で倫宮さまと同い年の謙仁と、あと数日で10歳になる次男の禎仁が海で泳いでいる。彼らの周りで泳いだり、小舟に乗ったりしているのは側仕えの職員たちだ。青空の下、夏らしい光景が広がっていた。
「だなぁ」
薄茶色の着物を着流した兄が私に相槌を打った。「勝負をした時は分からなかったが、こうして陸から見ると、雍仁の泳ぎの速さがよく分かる。流石、海兵士官学校仕込みだな」
と、
「秩父宮殿下は、海兵士官学校でも5本の指に入る水練達者と聞いております」
私の右に立つ栽仁殿下が言った。「士官学校で水泳大会がある度に、他の生徒たちと手加減なしの勝負を繰り広げているとか……」
「なるほど、俺が雍仁との勝負に負けるわけだ」
自分と同じように灰色の着物を着流している栽仁殿下の言葉に、兄は小さくため息をついて答えた。「子供の成長というものは凄まじいな。まだまだ小さいと思っていたら、あっという間に自分が追い越されてしまう」
「そう?でも、1回の勝負だけじゃ分からないわよ。兄上、もう1回秩父宮さまと、どっちが泳ぐのが速いか競争してみたら?」
私が提案してみると、
「お断りだ。負けると分かっている勝負を、どうしてまたやらなければならないのだ」
兄はムスッとしながら答え、海水で濡れた髪をかき上げた。
私と栽仁殿下と子供たちが、迪宮さまと良子さま以外の兄一家に付き従って葉山で避暑を始めてから、もうすぐ1週間になる。私の子供たちが大きくなって海で泳げるようになったので、天気がいい日は今日のように、私の家族と兄の家族で海岸に出るのが日課になった。と言っても、私は浜辺から監督しているだけだし、他の女性陣……兄の妻の節子さまと兄の長女の希宮珠子さま、そして私の長女の万智子の3人は、“日差しが強過ぎる”ということで外に出ないことも多い。……正確に言うと、希宮さまは私たちが海岸に出るたびに、いつも一緒に泳ぎたそうに私たちを見送るのだけれど、母親の節子さまに睨まれて、仕方なく御用邸の中に引っ込んでいる。
「……しかし、今日はよい天気ですね」
兄が不機嫌そうなのを見てまずいと思ったのか、栽仁殿下が慌てて兄に話しかけた。
「ああ、夏らしい日だ。子供たちの楽しそうな声も聞こえて……」
兄は栽仁殿下に穏やかな声で答えると、
「しかし、あと1か月もしないうちに、関東大震災がやってきてしまう。そう考えると、のんびりしてはいられないな……」
と暗い声で言い、目を伏せた。もちろん、私たちの周りは人払いされているけれど、誰かに兄の言葉を聞かれてはいないかと、私はキョロキョロと周りを見回した。
「……けれど、みんな、思いついたことはやってくれているじゃない」
私は人払いができていることを改めて確認してから、兄に小声で応じた。「消防設備の増強とか、当日、兵をどう配置するかとか。それから、避難場所になりそうなところの備蓄の確認も」
「ああ。蓄電池で動く無線機も、国軍はもちろんのこと、各自治体の役所にも配備したし……」
兄はこう言って青空を睨むように見やると、
「だが、何がどうなるか分からないからなぁ……」
と呟いて、大きなため息をついた。
「建物が崩れたり、火事に巻き込まれたりして、備蓄してある食料や医薬品が使えなくなる可能性はあるからねぇ。無線機だって、落ちてきた家具や何かにぶつかって壊れるかもしれないし……立てた策が上手くいくかどうかは、天に任せるしかないね」
「梨花の言う通りだ。しかし、刻々と動く事態に動じずにいられるか……俺は不安だよ」
兄はまたため息をつくと、私を寂しそうな目で見つめた。
「梨花、震災の時、動揺しそうになったら、お前に気持ちをぶつけてもいいか?外面はどっしり構えていなければならないのは百も承知しているが、ずっと取り繕っていると、自分が壊れてしまいそうだからな」
「もちろんよ」
私は兄の瞳をしっかり見つめ返した。「全力で兄上を受け止める。そのために私がいるんだもの」
すると、栽仁殿下が私の耳にすっと口を近づけ、
「じゃあ、梨花さんは僕が全力で支えるからね」
と囁く。私が思わず顔を赤くすると、
「相変わらず、栽仁と梨花は仲がいいな」
私たちの様子を見た兄がニヤリと笑った。
「ところで梨花、今度の日曜日、微行で江ノ島に行かないか?ああ、もちろん、愛しの夫君と一緒でも構わないぞ」
「……ごめん、兄上、その日は小田原に行くから、江ノ島には行けないや」
妙な言葉で微行を誘った兄に私が謝ると、
「小田原?この前の日曜日にも行っていたではないか。また何をしに行くのだ?」
兄は訝しげに私に尋ねる。
「決まってるじゃない。小田原城を見に行くのよ」
私が即答すると、
「はぁ?!また小田原城に行くのか?!そんなに何度も行ってどうするのだ!」
兄が呆れたような表情で叫んだ。
「もうすぐ壊れるかもしれない城郭を、どうして見に行ったらいけないのよ!」
私は兄を睨みつけた。後北条氏の本拠が置かれた城として名高い小田原城の城址は、この時の流れでは宮内省から小田原町に譲渡され、公園として整備されている。かつて威容を誇った城郭も、明治初年にあらかた取り壊されてしまい、現在残っている建造物は二の丸の平櫓、あとは石垣と堀だけだ。そして、“史実”では、関東大震災で二の丸の平櫓が倒壊し、石垣も壊れてしまうのだ。
「独身だった頃、小田原町に資金援助して、城址の耐震工事をしてもらったけれど、二の丸平櫓とその周りの石垣の工事しかできなかったのよ。それを伊藤さんに愚痴ったら、“史実”では小田原城址に御用邸がありました、って伊藤さんが言ったの。だから、宮内省に小田原城址を御用邸用地として買い上げてもらって、宮内省のお金で小田原城の残りの耐震工事をしてもらおうと考えていたら、お父様に止められちゃったのよ。“一度小田原町に下賜した土地を買い戻すなどまかりならん!”って……もう悔しくて悔しくて……。だから、今のうちに、小田原城址を記憶と写真にしっかり残さないといけないの。それなのに……どうして兄上はそれを分かってくれないの?!」
私が兄に向かって熱弁を振るうと、栽仁殿下がぷっと吹き出した。兄はと言えば、お腹を抱えて大笑いしている。
「もう!私、本気なんだからね!ちゃんと記録を残しておいて、小田原町が石垣の復元工事をする時に参考にできるようにしておくの!そうすれば、小田原城址が未来に残ることに、少しは貢献できるから!」
「分かった、分かった……しかし、相変わらずだな、梨花は。それがいいのだが」
私の魂の叫びに、兄が何とか笑いを堪えながら応じると、
「ええ、これでこそ、僕の妻だと思います。まぁ僕も、次の日曜日も小田原城に行くと昨日梨花さんに聞いた時は、少し驚いてしまったのですが」
栽仁殿下がこんなことを言う。そして、
「それにしても、関東大震災まで、あと1か月もないのですか……」
栽仁殿下は海で泳ぐ子供たちに目をやりながら呟いた。
「……ねぇ梨花さん、この葉山でも、やっぱり地形が変わるのかな?前、大地震が起こると、震源に近い土地では隆起や沈降が起こるって梨花さんに聞いたけれど」
「多分ね」
私は栽仁殿下に答えた。「状況が落ち着いたら、また大森先生たちに……」
ここまで言った私は口を閉じた。できないのだ。大震災の後、葉山をはじめとする相模湾沿岸の測量をする頃には、恐らく、大森先生はもう……。
「どうした、梨花?」
目を伏せた私に、兄が優しく問いかけた。
「……思い出しちゃったの。大森先生のこと」
私はうつむいたまま、暗い声で答えた。
後藤さんの忠告を受けて、東京帝国大学医科大学付属病院を受診した大森房吉先生は、診察と検査の結果、脳腫瘍と診断された。腫瘍は現在の手術の技術では摘出できない位置にあることが分かったので、完全に治す方法は無い。それでも大森先生は地震の観測に情熱を燃やし、今は東京で体調を整えながら観測に従事していた。
「本当は、大森先生には安全なところで療養してもらいたかったんだけど、大森先生に断られたの。“いくら体調が悪くても、東京から離れてしまえば、私は関東大震災から逃げることになります。それは地震学者として恥ずかしいことです。だから私は身体が続く限り、この東京で地震と向き合います。その気持ちは令旨や勅語をいただこうが変わりありません”、って言い切られちゃった。それが、ここで避暑を始める直前のことだったけれど」
「……それは相当な覚悟だな」
兄がポツリと言った。
「でも、大森先生に言い返せなかったわ。“ギリギリまで地震の観測をしたい”っていう大森先生の気持ち、分かるような気がしてね。ベルツ先生が亡くなった時のことを思い出したわ」
胸部に大動脈瘤という自分の命を奪い去る爆弾があると知ったベルツ先生は、最期の瞬間まで医師として働くことを望み、自分の家族と、自分の病気を診断した吉岡弥生先生を説得して大動脈瘤の存在を周囲から隠し、その望み通りの亡くなり方をした。そのことを知っているから、可能な限り自分の仕事を全うしたいと望む大森先生を、私は止めることができなかった。
「俺たちも、関東大震災と向き合わなければならないな。1人でも多くの国民の命を救うために……」
兄が見つめる海面には、先ほどと変わらず、私と兄の子供たちの姿が見える。彼らに、そして、日光にいる迪宮さまに、この日本という国を、少しでも良い状態で残さなければならない。そのためにも、私は兄と一緒に関東大震災と向き合わなければならないのだ。波音の合間から響く歓声を聞きながら、私はその思いを新たにしていた。




