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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第73章 1923(大正8)年穀雨~1923(大正8)年処暑
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所在(1)

 1923(大正8)年5月12日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。

「それでは、今月の梨花会を始めます」

 いつものように始まった月1回の定例の梨花会だけれど、司会役を務める内閣総理大臣の桂さんの顔は少し強張っていた。列席している梨花会の面々の表情もどことなく硬い。無理もない。なぜなら、今日の梨花会で最初に取り上げる議題は……。

「まず、本日は、来たる関東大震災の発生時、天皇陛下と皇太子殿下にどこにいていただくかについて協議致します」

 桂さんはこう言うと、兄に、続いて迪宮(みちのみや)さまに向かって最敬礼した。関東大震災が発生する9月1日、兄と迪宮さまがどこにいるのかについては、警備上の観点からも、そして、発災直後の行政をどう進めるかという観点からも、絶対に決めておかなければならないことだ。

「桂総理、わたしについては議論の余地は無い」

 すると、桂さんが一同に発言を求めるよりも早く、兄が口を開いた。

「わたしは東京に残る。これは動かせないだろう」

(いや、確かにそうかもしれないけどさ……)

 私が心の中で、兄に文句を言おうとしたその時、

「お待ちください!」

野党・立憲自由党の総裁である原さんが、噛みつくように声を上げた。

「斎藤さんから聞きましたが、“史実”の関東大震災は10万人以上が亡くなる大災害、火事による被害も多かったと聞きました。もちろん、そのような惨事を防ぐため、東京市内各所、我が党が与党であっても、立憲改進党が与党であっても、整備を進めてまいりました。しかし、東京は家屋の密集地帯、宮城(きゅうじょう)に火の手がかかるような万が一の事態が起こらないとも限りません!」

 ここまで一気に述べた原さんは、次の瞬間、滑り落ちるようにして床に這いつくばり、兄に向かって土下座した。

「陛下のお身体に万が一のことがあれば、この国の歩みは止まってしまいます!ですから陛下、どうか、どうか、震災の当日は東京ではなく、京都、いや、せめて日光の御用邸においでいただきますよう、伏してお願い奉ります!」

「原さん……」

 必死の叫びに、私は胸が熱くなるのを覚えた。原さんは、兄のことを本当に慕ってくれている。だからこそ、兄には安全な場所にいて欲しいのだろう。その気持ちは私も同じだ。

「確かに、その通りです」

「玉体のご安全は、第一に考えなければなりませんからね」

 原さんの言葉を聞いた大蔵大臣の高橋さんや、外務次官の幣原さんが頷き合っている。

「陛下が東京にいらっしゃらない方が、東京の警備計画は立てやすくはなります」

 国軍大臣の山本さんが両腕を胸の前で組んだ時、

「原総裁、椅子に戻ってくれ」

兄が原さんに穏やかな微笑を向けた。

「原総裁の気持ちはありがたいが、俺は東京に残る」

「陛下、それは……!」

「大震災が起これば、国民を救護するための部署を直ちに立ち上げなければならない。そのための勅令には、俺が名を書かねばな」

 血相を変えた原さんに、兄は言い聞かせるように説明する。

「俺が東京にいる方が、政府は国民を助けるためにより力を発揮できる。それに、多くの国民が筆舌に尽くしがたい苦難に遭うという時に、俺だけ安全な場所でのうのうと過ごしているのは性に合わない。だから俺は東京に残る。東京に残って国民と苦楽を共にし、傷ついた国民を励ましたい」

「……!」

 原さんが再び頭を下げる。彼の両目には涙が光っていた。

「心配するな、原総裁。梨花会の皆が俺を鍛えてくれているのだ。変事にうろたえて、皆の足手まといになるような真似はしないつもりだよ」

 静かに原さんに語り掛けた兄に、

「ご覚悟、しかと承りました。陛下のことはこの桂、身命を賭してお守り申し上げます」

桂さんが立ち上がり、深く頭を下げた。

「わたしを守ってくれるのはありがたいが、国と国民も守ってくれなくては困るぞ、桂総理」

 兄は桂さんにこう応じると、迪宮さまに目を向けて、

「……という訳だから、裕仁(ひろひと)、お前は震災の当日は日光にいろ」

と優しい声で命じた。

 すると、

「嫌です。僕も東京に残ります」

迪宮さまは兄にこう返答した。

「裕仁、それはならん!」

「駄目よ、迪宮さま!」

 私と兄は同時に迪宮さまに叫んだ。

「裕仁、お前は自分が皇太子であるということを分かっているのか?!万が一、俺が今回の震災で命を落とせば、お前が天皇にならなければならないのだぞ!」

 兄は迪宮さまを睨みつけた。

「裕仁が死んでしまったら、俺はどうすればいいのだ!今まで、この国を少しでもいい状態にしてお前に引き継がせたいと思ってやってきたのに!」

「迪宮さま、あなたはこの国の未来を背負わなければならないの」

 私も椅子から立ち上がり、可愛い甥っ子をじっと見つめた。「あなたが死ねば、この国の未来が終わってしまうのよ。それに、あなたを辛い目に遭わせたくはないわ」

「内府殿下のおっしゃる通りです。陛下が東京にいらっしゃるということであれば、せめて皇太子殿下だけでも日光に避難をなさって、皇統の存続を図っていただきたく存じます」

 いつの間にか椅子に座り直していた原さんが力強い声を上げると、

「俺もそう思います。皇太子殿下には安全な場所にいていただきたいです」

末席の方から山本五十六航空少佐が続いて言った。「その通りだな」と堀さんも頷く。幣原さんや東宮武官の山下さん、大蔵次官の浜口さん、渋沢さんなども賛成のようだ。

「皇太子殿下は東京を離れ、陛下に万が一のことがあった場合に備える。堅実な策ですね。……さて、皇太子殿下、いかがなさいますか?」

 歌うような口調で尋ねた陸奥さんに、

「東京に残ります」

迪宮さまは即座に断言した。

「確かに、お父様(おもうさま)がおっしゃることはもっともです。ですが、僕も、国民が苦難に見舞われようとする時に自分だけ安閑としているのは嫌です。困難に敢えて臨もうとするお父様(おもうさま)を少しでも助け、その経験を将来の糧にしたい……そう考えています」

「……」

 兄は怖い顔をして迪宮さまを睨みつけた。しかし、兄の瞳の中に、様々な感情が揺れ動いているのは明らかだった。そんな兄の視線を、迪宮さまは真剣な表情で受け止め続けている。にらみ合いが永遠に続くかと思われたその時、

「……仕方ないな」

兄が視線を迪宮さまから外し、渋い表情で言った。

「この様子では、裕仁はどう説得しても東京を動かないだろう。……だが、震災下の東京は、普段とは全く違う。戦争のただ中にいるような状況だろう。もし考え直して、やはり東京にいたくないということであれば、遠慮なく言え。俺としては、裕仁が安全な場所にいてくれる方が安心できるのだからな」

「陛下、ここは皇太子殿下のお心がけを嘉すべきでしょう」

 語気を強める兄に、大山さんが苦笑しながら進言した。

「それに、この1年以上、(おい)たちは陛下と梨花さまだけではなく、皇太子殿下も国家非常事態に関する机上演習で鍛えて参りました。少なくとも、修羅場で適切な行動が全く取れないということはないでしょう。それに、敢えて苦難に臨ませることも、若者を成長させるには大事なことでございます」

 大山さんの言葉に、黒田さんと西郷さんが深く頷いている。梨花会の中でも、特にスパルタ教育に熱心な人たちである。

「そこまで大山大将が言うなら許すが……」

 ため息をついた兄は、「相変わらず、卿らは容赦ないな」と苦笑した。

「本当、そうよね。この人たち、生徒を平気で断崖絶壁から突き落とすんだから」

 同じように両肩を落とした私に、

「ところで、梨花は震災の当日はどうする?」

と兄は尋ねた。

「東京にいるしかないでしょ」

 私がすぐに答えると、

「い、いや、それはいけません!」

「何卒思いとどまられますよう!」

内務大臣の後藤さん、そして原さんが椅子から飛び上がるように立ち上がった。

「世界に影響力のある内府殿下の御身に万が一のことがあれば、全世界が混乱のるつぼとなります!」

「後藤さんの言う通りです!インフルエンザに罹られた時のことを思い出してください!内府殿下に万が一のことがあれば、あの時以上の混乱が発生します!その混乱を、震災直後の我々が捌ききれるとお思いですか?!」

「と言われても……」

 口々に言う後藤さんと原さんに、私は困惑しながら応じた。「地震が起こるのは避難訓練中だから、危ないことはないと思います。それに、私は内大臣ですから、兄上に付き従ってないといけないですし……」

「別に、常に付き従っていないといけないという訳ではないだろう」

 兄が苛立ったように私に言った。「内大臣になってから今までも、俺のそばにいない時もあったではないか。俺としては、お前には9月1日、関東を離れたところにいて欲しいのだ。その方が安心して事に当たれる」

「お断りよ」

 私ははねつけるように答えた。

「冗談じゃないわ、この緊急時に、兄上と離れて過ごすなんて。兄上が無事かどうか、ずっと心配しなきゃいけないじゃない。それにね、私は兄上の主治医なの。主治医が患者と長時間離れて過ごすなんてありえないわ」

「梨花!」

「主治医としての権限を行使して、震災当日は東京に残らせてもらうわよ」

 怖い顔をした兄を、私は負けじと睨み返した。

「その……主治医としての権限というのは、何なのだ……」

 兄は私から目を逸らすと、大きなため息をつく。「……医学のことを出されると、俺はお前に反論できないのだ。仕方ない。東京にいてもいいが、絶対に無茶はしないようにしろ」

「ありがと、兄上。迷惑にならないようにしているからね」

 私が微笑んで返事をすると、

「では、梨花さまの御身は、(おい)がしっかりとお守り致します」

大山さんが私に向かって頭を下げた。「関東から離れた場所にいていただきたいという点については、(おい)も陛下と同意見なのですが、梨花さまは強情ですからな」

「頼んだぞ、大山さん」

 伊藤さんが大山さんに真剣な眼差しを向けた。「陛下と皇太子殿下もそうじゃが、万が一、内府殿下の御身に何かがあれば、大変なことになってしまう。まぁ、大山さんがついているなら大丈夫じゃと思うが」

「伊藤さん、安心してください。震災が起こる時は、ちゃんと安全な場所にいます」

 私が伊藤さんにしっかり請け負うと、

「これで、天皇陛下、皇太子殿下、そして内府殿下の9月1日のご所在については決定ということでよろしいですかな」

桂さんがこう問いかける。一同が首を縦に振ったのを見て、

「ということは、次は当日、僕らがどうするかという話し合いですな」

前内閣総理大臣の西園寺さんが顎を撫でながら言った。

「しかし、それは簡単には決まらないでしょう」

 山縣さんが冷静に指摘する。「皇后陛下や皇太后陛下……他の皇族方がどこにいらっしゃるかによって、わしらの配置は決めなければならないでしょう」

「その通りです」

 宮内大臣の牧野さんが頷いた。「これほどの大災害となりますと、皇后陛下や皇太后陛下のおそばには、重臣の方々がついておられるべきかと存じます。もちろん、我々宮内省でも、皇族方のご守護や東京への連絡は行いますが、いくら訓練しているとは言え、大災害に恐れ戸惑う者も多いでしょう。人心の動揺を少なくするために、皆様方のお力を是非お借りしたいと考えています」

「ということは、節子(さだこ)さまとお母様(おたたさま)が、9月1日にどこにいるかということを相談しないといけないけれど……」

 私はそう言うと、兄の方を向き、

「兄上、節子さまには関東大震災のことは話してあるの?」

と聞いた。

「いいや」

 兄は答えると顔をしかめた。「梨花に未来の時代を生きたという前世があることは、結婚した時に話したが、“史実”で何が起こるかについては話していないのだ」

「……ならば、皇后陛下に伝えなければなりませんな、震災のことを」

 伊藤さんの言葉に、兄は「うん」と頷く。兄の眉間に刻まれた皺が深くなった。

「早い方がいいだろうが、ここに節子を呼び出すわけにはいかないな。場所は変えよう。……梨花、その時、俺のそばにいてくれるか?」

「もちろん」

 私は首を縦に振った。

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