新総裁
1923(大正8)年5月3日木曜日午前10時20分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「そう言えば梨花、新しい別当の様子はどうだ?」
午前の政務が終わった後の自由時間、袖机の近くに置いた椅子に腰かけてお茶を飲んでいた私に、兄がこんな質問をした。
「ああ、元気にやってるよ」
私は湯飲み茶碗を袖机の上に置いてから答えた。
「流石だねぇ、金子さんは。赴任してまだ3日なのに、盛岡町邸の業務は滞りなく進んでるよ。お義父さまも金子さんのことを褒めていたわ」
「ほう、義兄上が褒めたのか。なかなか手厳しい人なのに」
「孫たちには激甘だけどね。まぁ、私に対しては、お義父さまは手厳しいけれど」
「それは梨花が和歌と書道に熱心でないからだろう。梨花がちゃんと和歌を詠んで書道の稽古をすれば、義兄上も梨花に甘々になると思うが」
「兄上、実現不可能なことを言わないでよ……」
私が両肩を落とすと、兄は私を見ながらクスクスと笑った。
先月、私の弟・鞍馬宮輝仁さまの屋敷で開催された、イギリスのエドワード皇太子を主賓とする晩餐会と舞踏会は、輝仁さまの長女・詠子さまの悪戯により、滅茶苦茶になってしまった。その顛末について私は報告書を作り、兄と牧野さんに提出したのだけれど、報告書の検討で問題になったのは、当日、鞍馬宮邸で働いていた中央情報院の新入職員たちの行動だった。彼らは一連の騒動の間、出席者たちのフォローをしたり、事態の解決のために動いたり、と言った適切な行動を全く取れなかったのだ。
――これでは、宮内省の職員としても、諜報員としても失格です。彼らがこうなってしまったのは、新人教育を担当する私の責任です。私は麻布分室長から退きますので、新たな分室長の下、新人教育の立て直しをしていただきたい。
盛岡町邸の別館で中央情報院の新人教育を担当している有栖川宮家の別当・福島安正さんは、一連の騒動の直後にこう申し出た。総裁の金子さんは慰留したけれど、最近体調を崩しがちだった福島さんの辞職の決意は固かった。結果、福島さんは中央情報院の麻布分室長の職と、表の仕事である有栖川宮家別当の職を退いた。これが先月の末のことである。
福島さんに代わって、有栖川宮家別当兼中央情報院麻布分室長となったのは総裁の金子さん本人だった。彼も、院の総裁職を辞任することで、事態の悪化を招いてしまった責任を取ったのだ。ちなみに、金子さんの後を継いで中央情報院の3代目総裁となったのは、副総裁だった明石元二郎さんである。
そんなことを思い出していると、
「梨花の子供たちは、新しい別当に慣れたのか?」
兄は笑い声を収め、また私に尋ねた。
「流石にまだ慣れてはいないね。万智子も謙仁も禎仁も、金子さんにどこまで勉強を教わっていいか分からない、って言ってるわ」
長女の万智子は華族女学校高等初等科第1級……私の時代風に言うと小学6年生になり、長男の謙仁は学習院初等科の5年生、次男の禎仁は4年生になっている。3人とも、勉強で分からないところが出た時は、今までは福島さんに質問していたから、金子さんにも同じように質問していいのかと迷っているようだった。
「恐らく大丈夫だと思うがな。金子分室長は、小さい頃の輝仁に勉強を教えていたし」
「そうよね。そのあたり、まだ金子さんと話し合っていないから、きちんと確認しておくわ」
私は兄に微笑して応じると、
「ああ、でも、禎仁は金子さんに興味津々ね」
と付け加えた。
「あの子は、うちの別館のことを知っているから、“福島の爺に話していいことは、金子の爺に話していいの?”って私に聞いてきたわ。よくよく話してみたら、あの子、いつの間にか、福島さんに諜報の話を色々聞いていたみたいでね……」
「ほう、それはそれは」
兄がニヤリと笑って言った。「禎仁は将来有望だな。既に諜報に触れているとは」
「まぁ、それはそうなんだけど……母親としては、危ないことはしてほしくないんだよねぇ……」
私がため息をついたその時、
「陛下、梨花さま、よろしいですか」
御学問所の入り口の障子の向こうから、内大臣秘書官長の大山さんが声を掛けてきた。
「どうした?」
「宮内省の大臣秘書官が報告に参りましたが、入れてもよろしいでしょうか?」
兄の問いかけに、大山さんの声が返ってくる。それを聞いて、私は違和感を覚えた。普段、この御学問所には、宮内大臣の牧野さん自身が様々な事項を報告しに訪れる。今まで、その報告を秘書官にやらせたという事例は無かった。
「牧野さんが報告を秘書官にやらせるって……体調が悪いのかな?」
私が兄の顔を見て言うと、
「かもしれないな」
兄が顔を軽くしかめた。「報告が終わったら、秘書官に聞いてみよう。もし重病なら、見舞いをどうするか考えなければならない」
「そうね。とりあえず、秘書官さんに入ってもらおうか」
「ああ」
兄が首を縦に振ったのを確かめると、私は障子の向こうの大山さんに、「入ってもらって」と言った。すぐに障子が静かに開き、黒いフロックコートを着た男性が御学問所に入ってきた。鼻の下に薄く髭を生やしていること以外には、容貌にさしたる特徴はない。ただ、宮内省にこんな人がいたかどうか、私にはどうしても思い出せなかった。
(最近宮内省に配置換えになった?でも、宮内省の秘書官の人事なんて、この数か月変わってない……)
不思議に思ったその時、兄が音を立てて椅子から立ち上がり、
「何者だ?」
秘書官さんに訝しげな視線を突き刺す。兄の声には明らかな敵意が宿っていた。
「兄上、逃げて!」
私は椅子から飛び上がるようにして立ち上がると、勢いのまま、入ってきた男に飛び蹴りを放った。しかし男は素早く1歩後退して、私の蹴りをかわす。続けて正拳突きを繰り出そうとした私の左手首を、
「そこまでです、梨花さま」
横から我が臣下がガシッと掴んだ。
「放して、大山さん!曲者に味方する気?!」
「そうだ。大山大将、返答次第では、大将も撃たねばならん」
大山さんの手を振りほどこうとする私の後ろから、兄が鋭い口調で言う。兄の右手には、いつもフロックコートの内ポケットに隠し持っている拳銃があった。
「陛下も梨花さまも落ち着いてください」
ところが、大山さんは全く動じず、私と兄に穏やかな口調で呼びかけた。
「この秘書官に見覚えはございませんか?」
「無いからこうして警戒しているのだ」
「そうよ。大山さんはどうしてこの曲者を捕まえようとしないの?!」
兄と私が戦闘態勢のまま大山さんに言葉をぶつけると、
「大山閣下、このあたりでよろしいのではないでしょうか」
秘書官を装って御学問所に侵入した男が言った。彼の声を聞き、私は「あっ」と声を上げた。
「貴様……まさか、明石総裁か?」
目を瞠った兄に、
「さようでございます。お騒がせして申し訳ございませんでした」
素早く変装を解いた中央情報院の新総裁・明石元二郎さんは最敬礼した。
「ああ……本当にびっくりした」
明石さんと大山さんが使う椅子を御学問所に運び入れると、私は大きなため息をついてから大山さんを睨みつけた。
「兄上の前に変装した明石さんを出すって……一体どういうことよ」
「非常時の訓練でございますよ」
気色ばむ私に、大山さんは落ち着いて答えた。「明石君が陛下に着任の挨拶をしたいと申し出てきましたので、ちょうどよい機会だと考えて実行させていただいたのです。陛下も梨花さまも、明石君のことにすぐにお気づきになってしまったので、少々つまらなかったですが」
「内府殿下の蹴りをまともに食らわずに済んでよかったです」
宮内大臣の秘書官に化けていた明石さんが神妙な顔つきで言った。「しかし内府殿下、格闘もよろしいのですが、先ほどのような場合には、まず陛下の前に盾代わりとなって立ちはだかるのが鉄則ではないでしょうか。それから、今回の相手は私1人でしたからよかったものの、複数人が相手ですと、格闘では相手を制圧するのは難しくなります。ですから、何か武器をお持ちになる方がよろしいかと」
「持たなきゃいけませんか?私、武器は余り持ちたくなくて……」
私が軽く顔をしかめると、
「おいおい、お前は軍医だろう」
兄が苦笑いを顔に浮かべた。「軍医でも、儀式に参列する時は、軍刀を持たなければならないではないか。それを考えれば、お前が武器を持つのは自然なことだと思うが」
「むー……」
唇を尖らせると、「梨花さま」と大山さんが私を呼ぶ。
「何も、身を守るために武器をお持ちいただきたいということではございません。陛下をお守りするために武器を持っていただきたいのです。今後、関東大震災などもございます。侍従や侍従武官たちが被災地の視察に出ている間、陛下のおそばについているのが梨花さまだけ、という場面もあるかもしれません。その際には絶対に武器が必要になります。是非、このことをよくお考えいただきますように」
「……わかったよ」
大山さんの瞳からの圧に負けた私は、再び唇を尖らせた。「もちろん、兄上を守るためなら、武器は持つわよ」
「では、小さめの拳銃を手配させていただきましょうか」
「そうですね。一応、軍用拳銃は持っていますけれど、それとは別にしておきたいので」
明石さんの提案に私は一礼した。大山さんの言うことはもっともなのだ。しかも、兄は微行で街に出る。もちろん、その時には院も警戒してくれるけれど、万が一の事態は発生しうるのだ。
「ところで……」
兄が一同に話しかけたので、喋っていた私たちは背筋を伸ばして兄に一礼する。「そんなに固くならなくてもいいのだが」と困惑したように呟いてから、
「明石総裁、今後の院のこと、よろしく頼むぞ」
兄は明石さんに力強く言った。
「はっ」
「来年早々から、軍縮会議の予備交渉が始まる。各国の動向にはこれまで以上に注意を払う必要があるし……」
言葉を続けようとした兄は、いったん口を閉じると、
「大山大将、明石総裁は“史実”のことを知っているのか?」
と大山さんに確認した。
「もちろんです。梨花さまのことも」
大山さんの答えを聞くと、兄は軽く頷き、
「9月には、関東大震災もある。国民が突然の災害に恐れ戸惑うのは必定……流言蜚語も発生するだろうし、この機に乗じて我が国を混乱させようとする輩も現れるかもしれない。我が国と国民を守るために、院にはたくさん働いてもらわなければならない。着任早々の大仕事となるが、しっかり励んでくれ」
と、明石さんに厳かに言った。
「かしこまりました。民心の安定と国家の防衛に精一杯努めます」
明石さんは兄に最敬礼すると、
「ところで、早速ではございますが、海外の情勢につきまして報告させていただいてもよろしいでしょうか」
と言上した。「もちろんだ」と兄が答えると、
「先ほど出た、軍縮についての話ですが……清が陸軍兵力の削減を渋るかもしれません」
明石さんは容易ならぬ情報を私たちに伝えた。
「ふむ……もしかして、朝鮮のことかな?」
「仰せの通りです」
兄の言葉に明石さんは一礼する。「清による朝鮮統治は苛烈となってきております。それに対し、朝鮮人たちは毎年のように反乱を起こしていますが、最近では朝鮮にやって来た一般の清人たちを朝鮮人が襲撃し、金品を奪う事件が多発しています。そのため清軍は朝鮮各地で警備に追われ、現在、朝鮮には約25万人の清軍が駐留しています」
「25万人って……昔より滅茶苦茶増えてませんか?」
確か、清が朝鮮を併合する直前、朝鮮に駐留していた清軍の数が12万人だった気がする。その時の2倍以上の兵が朝鮮にいることになるけれど……と、私が考えを巡らせようとした瞬間、
「清の陸軍常備兵力は、来年までに54万4500人にしなければならないのであったな」
兄が首を傾げながら言った。「つまり、今、その4割以上の兵が朝鮮にいるのか。その状況ならば、陸軍兵力の削減を渋るのも分かるが……」
「“削減したくない”という要望が、そのまま通る訳がないよ」
私は顔をしかめた。「今や“七大国”の一員に数えられる清が陸軍兵力の削減を拒めば、軍縮会議の枠組みが崩れるわ。それに、この出来事をきっかけに、列強の目が朝鮮にまた向けられてしまうかもしれない。それはなるべく避けないと」
「俺が清の為政者なら、朝鮮に住もうとする清人に、自警団でも組織させて、朝鮮に駐屯する正規軍の数を増やさずに武力を上げるような手段を取らせるが……まぁ、そのくらいのことは清でも誰かが考え付くだろう。それに期待するしかないな」
私の言葉を受けてこう言った兄は、
「国内に残る問題、というつながりで思い出したが、イギリスのアイルランド独立運動はどうなっているのか分かるか?」
と明石さんに尋ねた。
「アイルランドは昨年、自治領とはなりましたが、一部の民族主義者たちはあくまでイギリスからの独立を目指しています」
突然の質問に、明石さんは淀みなく答えた。「黒鷲機関は民族主義者たちを支援しているようですが、その規模は小さいもので、資金や兵器の供与など、本格的な支援ではありません。もし黒鷲機関がアイルランドの民族主義者たちを本格的に支援すれば、MI6はブルガリアへの介入を強めるでしょう。イギリスの影響下にあるブルガリアの野党に政権を取らせ、ブルガリア国内を通るオスマン帝国からドイツへの石油輸出経路を遮断する……それが見えていますから、黒鷲機関も思い切ったアイルランドへの介入ができないわけです」
「なるほど、そうやって均衡が保たれているのですね」
明石さんの話を聞いた私はため息をついた。「イギリスとドイツの代理戦争の舞台になっているブルガリアが気の毒ですね。先代の時代にもらったドイツからの軍事資金を返還しないといけないから、ドイツの言うことを聞くしかないんだろうけれど……ボリス3世がかわいそう」
先代のブルガリア公・フェルディナントが無血クーデターにより亡命した後、ブルガリア公となったのがフェルディナントの長男・ボリス3世だ。彼は最悪の状態のブルガリアを統治することになった。先代のブルガリア公が、自分の欲望のためにドイツ皇族を暗殺しようとした件が明るみに出て、ブルガリアはいまだに世界中から非難されている。ドイツからは、先代の時代に供与していた資金を返すように迫られ、国内はドイツとイギリスの争いに巻き込まれている。この先、ブルガリアは国として生き残れるのだろうか。
「確かにな」
兄は私に微笑を向けた。「しかし、他国に同情する暇があるなら、我が国のことを考えろ。幸いにして、我が国の舵取りは上手くいっているが、1歩間違えれば苦境に陥るだろう。それに、これから関東大震災がある。我が国への損害を可能な限り減らすために、やれることはやらなければな」
「分かってるわよ、兄上」
(だけど、ねぇ……)
関東大震災の発生まで、あと4か月もない。これから、色々準備は進めないといけないけれど、基本的なことですら、全てが決まっている訳ではない。これからの仕事、そしてそれに伴う困難とを思い、私はまたため息をついてしまった。




