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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第72章 1923(大正8)年小寒~1923(大正8)年穀雨
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鞍馬宮邸の怪人(2)

(え?)

 明るく華やかだった大広間が、突然闇の中に飲み込まれ、私は反射的に足を止めた。次の瞬間、左の甲に痛みが走る。止まらなかった輝仁さまが私の足を踏んだのだ。

「ちょっ……(ふみ)姉上、ちゃんと動いてくれよ」

「無理よ、こんな状況じゃ」

 私が弟に小声で言い返すと、

「キャーーーーッ!」

誰かの悲鳴が大広間に響いた。楽団が奏でていた音楽も止まり、悲鳴にまた別の悲鳴が重なる。真っ暗になった大広間は混乱に陥りつつあった。

「輝仁さま、蝶子ちゃんのそばについていてあげて」

 暗闇の中、私はそう言いながら輝仁さまの手を離した。

「……って、(ふみ)姉上は?!」

「電灯のスイッチを見てくるわ。落ちているかもしれないから」

 ここは、昔私が暮らしていた屋敷だ。電灯のスイッチがどこにあるかは大体把握している。この大広間の電灯のスイッチは、大広間を出て、廊下を左に進んだところにある。出口がどこにあるかは暗くてよく分からないけれど、そのうち目が暗闇に慣れて分かるだろうと思いながら2、3歩進むと、誰かにぶつかった。「ごめんあそばせ」と短く謝って再び歩き出そうとすると、

「梨花さん」

私がぶつかった人が声を上げた。私をこう呼ぶ人は、世界で1人しかいない。

「大丈夫?」

 そう尋ねた栽仁殿下に、

「うん。廊下にある電灯のスイッチを見てくるわ」

と答えると、突然、右腕を彼に掴まれてしまった。

「僕も行くよ」

「いいよ、(たね)さんは。私が1人で行ってくるから」

 私が夫の腕を振りほどこうとすると、

「何を言っているんだい。梨花さんを守るのは僕の役目だよ」

栽仁殿下が小さく、けれど力強い声で言った。

「……分かったわ」

 諦めた私は腕を振るのをやめ、暗闇の中で目を凝らした。目が暗闇にまだ慣れず、出口がどこにあるかは分からない。大広間には女性たちの悲鳴と男性たちの怒鳴り声が響き続けている。

(確か、今日、ここの職員は偽装のために新人ばかりにしたと聞いたけれど……)

 鞍馬宮邸の職員の殆どは、ここの別館に本部がある日本の諜報機関・中央情報院の職員だ。しかし今日は、イギリスを欺くため、そのほぼ全てが我が盛岡町邸で働く中央情報院の新人職員と入れ替えられていた。だけど、新人職員たちも、宮家の職員として、そして諜報員として、それなりの訓練は受けているはずだ。それなのに、この変事に誰も事態を解決しようとしないのはどういうことだろう。私が顔をしかめた時、

「梨花さん、出口はあっちだ」

栽仁殿下が鋭く囁いた。

「あっちで、ドアみたいなものが動いたのが見えた。まだ目が暗いのに慣れきっていないから、確かではないけれど」

「分かった、連れて行って」

 私は夫の腕に縋りついた。

 相変わらず、大広間には女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が満ちている。しかも、人がてんでんばらばらに動き回って収拾がつかない。時折、「幽霊?」「Phantom(ファントム)!」と怯えたように叫ぶ男女の声も響いて、もう滅茶苦茶だ。

(幽霊?亡霊?それとも怪人?……んなもん、ここに住んでいた時に見たこと無いわよ!勝手に怖がってくれちゃって!)

 心の中で悪態をついていると、

「梨花さん、ここだよ」

栽仁殿下が小さな声で言った。私の目もようやく暗闇に慣れたようで、栽仁殿下がドアノブに手を掛けたのがはっきりわかった。カチャリと音がして開いたドアの向こうにも、意外なことに、暗闇が続いていた。廊下の電灯も消えているようだ。

「梨花さん、スイッチはどこ?」

「左に行って。廊下の曲がり角の所にあるはずよ」

 小さく頷いた栽仁殿下は、私の手を握り直すと、暗い廊下を進んでいく。廊下に誰もいないことを訝しく思いながら歩いていた私の足が何かにぶつかり、私はつんのめりそうになった。

「梨花さん!」

 栽仁殿下が素早く動いて、私の身体を抱き締める。夫の腕の中で体勢を立て直した私の目に、床に置かれた木箱が映った。高さは20cmぐらいだろうか。

「これ、何?」

 私が首を傾げると、

「箱か……踏み台、かな?」

栽仁殿下は答え、

「それより梨花さん、ここ、曲がり角じゃない?」

と私に注意する。左の壁を探ると、大広間の電灯のスイッチがすぐ見つかった。スイッチを上げて後ろを振り返ると、私たちが開けたドアから光が漏れる。それと同時に、

『痛いっ!』

英語の鋭い叫び声が聞こえた。私と栽仁殿下は頷き合うと、大広間に向かって走った。

『な……何をひゅる!止めなしゃい!』

 明るさが取り戻された大広間は、いまだに混乱の中にある。その大広間の中心に、チャーチルさんが仰向けに倒れている。彼の身体の上に乗った幼女に、両方の頬を引っ張られながら。

「な、何で?」

 私は目を見開いた。「何で、詠子(うたこ)さまがいるの?」

 チャーチルさんの胸の上に乗っかって、彼のほっぺたを引っ張っているのは、輝仁さまの長女の詠子さまだ。幼い頃の私と同じ、眉のすぐ上で切りそろえた前髪、胸のあたりまで伸びた後ろ髪、そして紅い着物……間違いなく、もうすぐ4歳になる詠子さまなのだけれど、なぜ彼女がこの大広間にいるのか、全く理解ができない。とにかく、詠子さまに声を掛けようとした瞬間、

「むう、こやつではない」

チャーチルさんの顔を覗き込んでいた詠子さまが、彼の頬からパッと手を離して床に立った。そして、彼女は左右を見回すと、

「いた!」

1人で立っていたエドワード皇太子に視線を合わせる。詠子さまに気が付いたのか、エドワード皇太子の身体が一瞬震えた。そんな彼めがけて、

「母上から離れろ!」

詠子さまは鉄砲玉のように走り出す。

「あ、ちょっ、詠子さま!」

 呼んでみたけれど、詠子さまが足を止める気配は全くない。詠子さまに突進されているエドワード皇太子も、余りのことに度肝を抜かれたのか、動く気配が全くない。私が周囲の人々に、詠子さまを止めて、と命じようとしたその時、

「あらあら」

鈴を転がすような美しい声が響いた。私は声のした方を振り向いた。淡い青色のデイドレスをまとったお母様(おたたさま)が、大広間の入り口に立って優雅に微笑んでいる。なぜ、大宮御所にいるはずのお母様(おたたさま)が、輝仁さまの家にいるのだろうか。私が必死に答えを見つけ出そうとした刹那、

「詠子さん」

お母様(おたたさま)は輝仁さまの娘の名を呼んだ。

 すると、詠子さまの足がピタリと止まった。こちらに身体を向けた彼女に、

「おばば様が輝正(てるまさ)さんを寝かしつけるのにかかりきりになってしまったから、皆さまに遊んでもらおうと思ったのかしら?」

お母様(おたたさま)はそう言いながら近づいていく。詠子さまはお母様(おたたさま)を見つめたまま、全く動かなかった。

「でも、今は詠子さんのお父上もお母上も、お客様をもてなすので忙しいのです。だから、おばば様と一緒にいましょうね」

 詠子さまのそばまでやって来たお母様(おたたさま)は、詠子さまの頭を優しく撫でる。詠子さまはお母様(おたたさま)に甘えるように抱きついた。

『これは皇太后陛下』

 床に仰向けになっていたチャーチル海軍大臣が立ち上がり、お母様(おたたさま)に一礼する。お母様(おたたさま)は英語が分からないので、私は青の中礼服(ローブ・デコルテ)の裾を引きずりながらお母様(おたたさま)のそばに駆け寄り、チャーチルさんの言葉を翻訳した。

『本日はどうしてこちらに?』

満宮(みつのみや)さんと蝶子さんがエドワード皇太子殿下を接待している間、満宮さんの子供たちの面倒を見る人がいなくなってしまうでしょう。ですから、私がこちらに参ったのです」

『すると、おそばにいる小さなお嬢さんは……』

「満宮さんの娘の詠子さんですよ。もうすぐ4歳になりますの」

 私を通訳として、チャーチルさんとお母様(おたたさま)の間に言葉が交わされる。通訳をしているうちに、私はお母様(おたたさま)がなぜここにいるのかをようやく思い出した。

 と、チャーチル海軍大臣が大きなため息をついた。

『危なかった、内親王殿下でございましたか。そうとは知らず、私の頬を引っ張った不届き者として折檻するところでした』

 チャーチルさんの言葉を私から聞くと、

「詠子さん、それは本当のことですか?」

お母様(おたたさま)は自分に抱きつく詠子さまに優しく尋ねる。こくり、と詠子さまが頷くと、

「では、謝らないといけませんね。人様に迷惑をかけたのですから」

お母様(おたたさま)は身を屈め、詠子さまと目線の高さを合わせて言った。

「はい」

 詠子さまは素直に返事をすると、チャーチル海軍大臣の方を向き、

「ごめんなさい」

と謝って頭を下げた。

『……子供のやったことですから、致し方ありませんな』

 詠子さまのシンプルな謝罪の言葉を私から聞いたチャーチル海軍大臣が、渋い顔をして答えた時、

『誠に申し訳ございませんが、チャーチル閣下……』

このお屋敷の別当である金子堅太郎さんがススっと近づいて言った。

『今確認したところ、電気の配線に不具合が見つかりました。こんな状況では、とても皇太子殿下をもてなすことができません。大変申し訳ありませんが、今日の会はこれでお開きということにさせていただいてもよろしいでしょうか』

 金子さんは中央情報院の総裁である。しかし、表の顔である別当の仕事もしっかりこなすベテラン職員だ。そんな彼の丁重な説明を聞くと、チャーチル海軍大臣も黙って首を縦に振った。

『それでは内府殿下、またお会いしましょう。今度は3日後の観艦式ですかな』

 チャーチルさんのあいさつに、私は『そうですね』とだけ返した。様々なことが一気に起こったので、一刻も早く、落ち着ける場所で状況を整理したかった。

 チャーチルさんがイギリス側の随員に命じると、その命令がさざ波のように伝わって、招待客たちが帰り支度を始める。もちろん日本側の招待客にも事情が伝えられ、彼らも帰る用意をし出した。

 そして、エドワード皇太子を含め、イギリス側の招待客は大広間を後にする。去り際、危難を逃れたエドワード皇太子の視線が、お母様(おたたさま)と詠子さまに注がれていたのが少し気になった。


 1923(大正8)年4月17日火曜日午後10時、赤坂御用地内にある鞍馬宮邸。

「詠子さま」

 邸内にある客殿。今日はお母様(おたたさま)が使っている居間で、私は悪戯をした姪っ子と向かい合っていた。

「本当に、間違いないのね?」

 私が前に正座している詠子さまに確認すると、

増宮(ますのみや)さん、お顔が怖いですよ」

上座に座ったお母様(おたたさま)が私をたしなめた。

「そうだよ、(ふみ)姉上、もうちょっと、こう……力を抜いてさ」

 詠子さまのそばに座る輝仁さまの言葉に、隣にいる蝶子ちゃんが黙って頷き、

「おちついて、章子さん」

私の横に座る栽仁殿下も、私の両肩を後ろから抱いた。

「詠子さまは、まだ3歳なんだよ」

「それは分かってるんだけど……分かってるんだけど……」

 私は栽仁殿下に言い返すとうつむいた。

「お……お母様(おたたさま)が輝正さまを寝かしつけている間にこの客殿から抜け出して、廊下と大広間の電灯のスイッチを消して、おまけに、真っ暗になった大広間に入り込んで、チャーチルさんのほっぺたを引っ張るって……1歩どころか、1mmでも対応を間違えたら外交問題になるわよ、これ。ああ、兄上はもちろんだけど、桂さんと内田さんと、それから牧野さんと幣原さんにも報告しなきゃ……」

 しかも、詠子さまは、自分の身長では電灯のスイッチに手が届かないので、職員さんたちが使うエリアに入り込み、そこにあった木箱を持ち出して、その木箱を踏み台代わりにしてスイッチを切ったのだ。一連の行動の間、大人に見つかって咎められなかったのが不思議だけれど……。私が両腕で頭を抱えると、

「イギリス側の反応を見るに、最終的には、今回のことは水に流すということなると思いますよ」

一番下座に正座していた金子さんが、私に穏やかな口調で言う。そして、

「しかし、なぜ詠子内親王殿下は、今日に限って悪戯をなさったのでしょう?」

と金子さんは言葉を続けて、詠子さまの方を向いた。

「どういうことですか?」

「今まで内親王殿下は、お客様がいらっしゃる時に悪戯をなさることは無かったのです」

 栽仁殿下の問いに、金子さんは冷静に答えた。「お父上とお母上が、共にお客様の接待をなさっておられる時、内親王殿下は今までは、悪戯をせず乳母と一緒におとなしくご両親を待っておられたのです。ですから今回、なぜ内親王殿下が悪戯をなさったのかと、私は不思議に思っておりまして……」

 すると、

「……母上が襲われるって聞いたの」

輝仁さまのそばに座らされている詠子さまが言った。

「は?」

 私だけではない。お母様(おたたさま)や輝仁さまなど、客殿の居間にいる全ての人の視線が集中する中、詠子さまは物怖じする様子も見せず、

「この間、章子……伯母さまがいらした時に、父上が言っていたの。母上が、今度来るエドワードという人に襲われるかもしれないって」

と、私たちに答えた。

「だから、その人を、うんと懲らしめようと思ったの。それで、おばば様の目が離れた隙に、ここから抜け出して……」

(な、なんだってー?!)

 私は両腕で頭を抱えたまま、今度は天を仰いだ。……確かに、私が輝仁さまにエドワード皇太子の接待役になるよう依頼しにこの家にやってきた時、私と輝仁さまの話を詠子さまが立ち聞きしていた。その話を覚えていた詠子さまは、今日、母親を守ろうと行動に出てしまったのだ。

「あ、あのね、詠子さま。エドワード皇太子が狙っていたのは私だったの。だけど、それも上手いこと撃退したから……」

 激しく動揺しながらも私が姪っ子に言うと、

「え?!どうやったの?!」

詠子さまは途端に目をキラキラさせ、私に尋ねた。

「……詠子さまが大人になったら教えてあげるわ」

 何とかこう答えると、

「はぁ、今夜は徹夜だわ。とりあえず、これから宮中に電話して、報告書を作らなきゃ。しかし、どう書いたもんかなぁ……」

降って湧いてしまった仕事に、私は再びため息をついた。

「余り無理はなさらないでね、増宮さん」

「はい、報告書を仕上げたら、明日の仕事は休むように調整します」

 お母様(おたたさま)の言葉に私が一礼すると、

「それから、詠子さん」

そのお母様(おたたさま)は、今度は元気ないたずらっ子に微笑を向けた。

「お母上を守りたいという心掛けはとても立派です。けれど、詠子さんは今回、チャーチルどのに迷惑をかけてしまいましたね。詠子さんが誰かを守ろうと思うなら、まず、どなたかに相談することです。お父上やお母上でもいいですし、おばば様でもいいでしょう。自分が動いていいのかどうか、周りの方に相談して、よく確かめるのですよ」

「分かりました。誰かに相談すればいいのですね」

 詠子さまには少し難しい話かもしれないと思ったけれど、彼女は元気よく答えた。これで多少、彼女の悪戯が減ればいいけれど。

「……さて、輝仁さま、電話を借りるよ」

 私は立ち上がると、宮中に電話を入れるため、居間を出て廊下をゆっくり歩き始めた。

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