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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第72章 1923(大正8)年小寒~1923(大正8)年穀雨
622/799

鞍馬宮邸の怪人(1)

 1923(大正8)年4月17日火曜日午後7時30分、赤坂御用地内にある鞍馬宮(くらまのみや)邸。

 私の弟・鞍馬宮輝仁(てるひと)さまの屋敷の食堂では、来日中のエドワード皇太子をもてなす晩餐会が開かれている。広い食堂で、エドワード皇太子の随員たち、そして私と栽仁(たねひと)殿下を筆頭とした招待客や各省から選抜された接待役たちなど大勢の人に囲まれたエドワード皇太子は、なんとなく元気が無いように見えた。

「久しぶりにここで食事をした感想はどう?」

 メインディッシュが出る前、隣に座っている栽仁殿下が私に尋ねた。私は独身だった頃、“青山御殿”と呼ばれていたこのお屋敷に住んでいたから、栽仁殿下はこういう質問をしたのだろう。

「正直、よく分からないわ」

 私は左右を見回しながら答えた。「普段の食事の時には、こんなに大きなテーブルは使っていなかったからね。だから、“久しぶり”じゃなくて、初めての場所で食事をしている気がするのよ」

「そうなんだ」

「おまけに、今日みたいに中礼服(ローブ・デコルテ)を着てここで食事したことなんて無かったんじゃないかしら。それで余計に、“初めての場所だ”と思ってしまうわ」

「ああ……僕が海兵士官学校に進学する直前に、お祝いの会を開いてくれた時、章子さんが着ていたのは小礼服ローブ・ミー・デコルテだったね」

「よく覚えているわね……」

「僕の愛する人のことだから当然だよ」

 栽仁殿下の答えに激しく動揺した私は、彼から目を逸らした。すると、エドワード皇太子の接待役に任命されている米内(よない)光政(みつまさ)海兵少佐と、ウィンストン・チャーチル海軍大臣と目が合ってしまった。2人とも、相当飲んでいるようだ。私がとっさに営業スマイルを作って一礼すると、チャーチル海軍大臣は身を乗り出し、

『若宮殿下、内府殿下、よろしいですか』

と声を掛けてきた。嫌な予感がするけれど、栽仁殿下も米内さんもいる。何かあってもその2人が助けてくれるだろうと考え直した私は、『何でしょうか』とチャーチル海軍大臣に英語で応じた。

『皇太子殿下を止めていただき、誠にありがとうございました』

 チャーチルさんは椅子に座り直すと、私と栽仁殿下に向かって頭を下げた。

『昨日、皇太子殿下は、観桜会から戻られると、“私は憧れを具現化してはならないのだ。あの方は、愛する夫を持つ身なのだ……”とおっしゃいました。そして、内府殿下への想いを断ち切ると宣言されました』

 しみじみと言ったチャーチルさんに、

(じゃなきゃ困るよ……)

私は心の中で万感の思いを込めて言い返した。栽仁殿下と抱き合っているところだけではなく、キスしているところまで見られてしまったのだ。それでも私への想いを断ち切ってくれないと言うのなら、私は一体どうすればいいのだろう。

『それは良かったです』

 チャーチルさんに答えたのは、私ではなく栽仁殿下だった。

 すると、

『ところで、後学のために聞いておきたいのですが、一体どのようにして皇太子殿下を諦めさせたのですかな?』

チャーチルさんがこんなことを聞いてきた。私はうっかりむせこんでしまった。

『愛は永遠のものであるということをお教えしたまでですよ』

 一方、栽仁殿下はチャーチルさんの質問に澄ました顔で答えた。何か話すべきなのか、それとも黙っているべきなのか、判断に迷っていると、

『ははぁ、そういうことでしたか』

チャーチル海軍大臣がニヤリと笑った。

『お2人のことですから、絵になったことでしょう。昨日の新宿御苑の桜は美しかった』

『ええ、とても美しかったです』

 栽仁殿下は落ち着き払ってチャーチルさんに言った。『しかし、僕の妻も、それに負けないくらい……いや、それ以上に美しかったです』

『日本人で、妻への愛を熱烈に語る方は珍しいですな。失礼ですが、イタリアでお育ちになったのかと思ってしまいました』

『日本人の中で目立っているのは承知しておりますよ』

 皮肉が込められていそうなチャーチルさんの感想に、栽仁殿下は堂々たる態度で応じた。『けれど、愛する妻には、僕の愛を可能な限り示したくなってしまうのです。僕の生まれ持った性分なのでしょう』

(だ、誰か、この話題を止めて……)

 流暢な英語で話す夫のそばで、私は必死に耐えていた。身体から今にも火が出てしまいそうな恥ずかしさが、私に襲い掛かっている。誰か夫とチャーチルさんを止めてくれる人はいないだろうかと考えながら視線をさ迷わせていると、米内さんと目が合った。

(お、お願い、米内さん、助けて!)

 米内さんに必死に目で訴えてみたけれど、米内さんは私を微笑みながら見つめるのみだ。そして、ワイングラスに手を伸ばし、中身を一瞬で空にすると、

「君、赤をもう一杯くれるかな」

そばにいた給仕に声を掛けた。夫とチャーチルさんを止める気は全く無いらしい。私は晩餐会が終わるまで、夫の私に対する惚気を聞かされることになった。

 晩餐会が終わると、続いて舞踏会となる。食堂の隣にある大広間には、宮内省から派遣された楽隊が待機していた。最初の曲で、エドワード皇太子は輝仁さまの妻・蝶子(ちょうこ)ちゃんと一緒に踊る。

「大丈夫かな、蝶子は」

 私とペアになって最初の曲を踊る輝仁さまが、音楽が始まる前、小声で私に尋ねた。

「平気じゃない?どうやらエドワード皇太子のお目当て、私だったみたいだし」

 私がため息をつきながら答えると、

「ああ、そんな気がしてたけど……大変だな、(ふみ)姉上も」

弟は眉を軽くひそめた。

「本当に迷惑だわ。私には栽仁殿下がいるのに」

 私がこう答えると、

「前にも言ったけどさ。……(ふみ)姉上って、本当に栽仁兄さまに惚れっぱなしだよな」

輝仁さまは呆れたように私に言う。思わず弟を叩こうとすると、

「やめろよ、(ふみ)姉上。ほら、曲が始まるぜ」

彼は私に冷静に指摘した。私は渋々、弟に手を取られながら、ワルツのステップを踏んだ。

 輝仁さまは結婚する前、私の義父の有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王殿下の家で舞踏のレッスンを受けていたことがある。もちろん私も結婚前、そして結婚してからも、義父の家で舞踏のレッスンを受けていた。けれど、私も弟も、舞踏が久しぶりだったので、初めは息が合わず、お互いの足を何度も踏みそうになった。

 曲が中盤に差し掛かると、やっと調子が出てきて、周りを見る余裕ができた。大広間では私たちの他に、蝶子ちゃんとエドワード皇太子など、数組の男女が踊っている。栽仁殿下はイギリス大使館の参事官の奥様と、チャーチルさんはイギリス大使館付きの陸軍中佐の奥様とダンスを楽しんでいた。特に、蝶子ちゃんとエドワード皇太子の舞踏は息が合っていて、周りにいる観客たちの視線を集めている。シャンデリアが煌めく下で踊る蝶子ちゃんとエドワード皇太子の優雅な姿は、1枚の美しい絵を見ているようだった。

(うん、エドワード皇太子は妙な素振りは見せていないわね。これなら、蝶子ちゃんも大丈夫かな)

 私がそう思った瞬間、突然、大広間全体が真っ暗になった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] さすがチャーチル。英国流のウィットが強烈。
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