皇太子撃退大作戦?
1923(大正8)年4月13日金曜日午後8時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「はぁ。それで、誰かに相談なさりたかった、という訳ですか」
本館1階にある応接間。私の前に座っているのは、実質的な国軍航空局長として活動している山本五十六航空少佐だ。そして、彼の親友で現在国軍省の大臣官房で勤務している堀悌吉海兵少佐、更に、山本少佐と堀さんとは国軍大学校の同期で、東宮武官を務めている山下奉文歩兵少佐もいる。この3人を私は盛岡町邸に呼び出し、昨日起こったことのあらましを話していた。
「しかし、その相談相手になぜ我々を選ばれたのでしょうか?」
山本少佐のもっともな疑問に、
「だって、伊藤さんや山縣さんたちに相談したら、絶対暴走するじゃないですか……」
私はため息をつきながら返答した。「チャーチルさんが懸念したように、エドワード皇太子に過剰な報復をしてしまいます。イギリスに宣戦布告すると言い出すかもしれません。それは七大国の一員である我が国が、絶対に取ってはいけない行動です」
「内府殿下のおっしゃる通りです」
堀さんが真面目な顔で深く頷いた。
「だから、あなたたちに相談するしかないと思ったんです。梨花会の古参の人たちと年齢が離れていて、比較的あの人たちに染まっていないあなたたちに」
「理由は分かりましたが……」
私の言葉を聞いた山下さんは、両腕を胸の前で組むと難しい表情になり、
「しかし内府殿下、今回の件、チャーチル海軍大臣の罠である可能性はないのですか?」
と、鋭い質問を飛ばしてきた。
「確かにその可能性はあります」
私はそう言ってからお茶を一口飲んだ。「そこは大山さんや、中央情報院の金子さんとも相談しました。それで、“双方見返りを求めないことにすればいいだろう”という結論が出ました」
「と言うと?」
「チャーチルさんはやっぱり手強いです。その人が相手である以上、話はどんな方向にも転がります」
首を傾げた山本少佐に私は言った。
「もちろん、今回の件で、私たちは多大な迷惑を被っています。けれど、チャーチルさんが“被害をゼロにしてやったのはイギリスの力だ”なんて居直って、こちらに用心棒代を請求してくる可能性もあります。だから、最初から、双方見返りを求めないと契約を交わしておく方がいいだろう、そういう結論になったんです」
「ううん……確かにそうですが、イギリス側から何か対価を引き出してもよかったのではないですか?」
「堀さん、私、そこまで交渉は上手くありません。……特にこの件に関しては、相手の手玉に取られる可能性が高いです。大山さんと金子さんとの話し合いの結論も、それを考慮して出されたものです」
私は堀さんの質問に答えると、
「それより、エドワード皇太子をどうやって止めるかです。お三方、何かいい知恵はないですか?」
と、私と歳の近い3人に懇願するように尋ねた。
「それを我々にお尋ねになるのですか?」
「少なくとも私よりは得意でしょう、こういうことは」
私は山下さんを泣きそうな目で見つめた。
「私、恋愛沙汰は滅茶苦茶苦手なんです……」
「は?!それはないでしょう!若宮殿下との御婚約が内定した時、“数年越しの大恋愛が実った”と国軍でも話題になっておりましたのに!」
目を丸くした堀さんに、
「いや、堀……。認識が相当誤っている」
山本少佐が左右に首を振りながら言った。「内府殿下は、本当に奥手でいらっしゃってな。御婚約の何年も前から、若宮殿下や東小松宮殿下が一心に慕っていらっしゃったのにも全く気付いていらっしゃらなかった。だから御婚約が内定した時も、若宮殿下と子を生されるはおろか、まともな会話もできずに一生を終えてしまうのではないかと心配で……」
「い、言わないでくださいよ、山本少佐……」
私は顔をサッと伏せた。「今は、ちゃんと話はできますし……」
「ほう、これは……」
山下さんが驚いたように呟いた瞬間、応接間のドアがノックされる。「どうぞ」と私が答えると、
「梨花さん、戻ったよ」
ドアを開けて入ってきたのは、今まさに噂になっていた栽仁殿下だった。
「た……栽仁殿下、お帰りなさい。参謀旅行の準備は終わったの?」
「うん、とりあえず切り上げてきたけど……どうしたの?梨花さん、顔が赤いよ?」
慌てて顔を上げた私に、栽仁殿下はツカツカと近寄ると、後ろから私の顔を覗き込む。
「ちょ……か、顔が近いよ……。山本少佐たちだっているのに……」
思わぬ展開に戸惑う私に、
「僕の愛する梨花さんに、どうして顔を近づけたらいけないの?」
栽仁殿下は真顔で質問する。
「~~~っ!」
一体どうすればいいのか、完全に分からなくなった時、
「これです」
山本少佐が手を打った。
「へあっ?」
間抜けな声を出した私ではなく、山本少佐は栽仁殿下に身体を向けると、
「恐れながら若宮殿下、イギリスにいらっしゃった時、このように人前で内府殿下に愛を示されたことがございましたか?」
という、とんでもない質問をした。
「?!」
「残念ながら、そんな余裕は無かったですね」
目を極限まで見開いてしまった私の隣で、栽仁殿下は山本少佐に真面目に答える。「MI6の本拠地にいるという思いが先に立って、どうすれば梨花さんと僕たちの安全が守れるかと考えてばかりいましたから」
「やはりそうでしたか。他の国での滞在中は、若宮殿下がしっかりと内府殿下に愛情を注いでいらっしゃるのが分かりましたから……」
2、3度首を縦に振った山本少佐は、
「ですから、若宮殿下が内府殿下に愛情を注いでいらっしゃるところを、エドワード皇太子にしっかり見せつけてやればよいのです」
……私にとって信じがたい提案をした。
「内府殿下は若宮殿下のかけがえのない妻である。2人の間に付け入る隙など全くない。それをエドワード皇太子にしっかりと示せば、エドワード皇太子が内府殿下に抱いている想いも消えるのではないかと……」
「ちょ……ちょっとぉ!」
私は椅子から立ち上がった。「わ、私に何をさせようって言うのよ!人前で……人前で、そんな、恥ずかしいこと……」
「別にいいじゃないか」
顔を真っ赤にした私の肩に、栽仁殿下が後ろから触れた。
「心配しなくても、破廉恥なことはしないよ。梨花さんへの愛を示す方法はいくらでもあるから」
「た、栽さんっ、今、私にくっつかなくてもいいでしょ!私、このままじゃ……」
「明日参内して、具体的にどうすればいいか、陛下と策を立てます」
うつむいてしまった私には答えず、栽仁殿下は山本少佐たちに告げた。「個人的には、来週月曜日にある観桜会が一番よいのではないかと思いますが、陛下に何かお考えもあるかもしれないので……」
(やめてぇ!)
私は心の中で叫んだ。余りにも内容が信じがたいし、兄が知ったら絶対に私をおちょくるだろうと思ったので、大山さんと栽仁殿下と金子さんには、兄を含め、今回の件を他人には漏らさないようにと頼んだのだ。けれど、これで全てが水の泡だ。
「それがよろしいのではないかと考えます」
山本少佐と一緒に、堀さんと山下さんも頭を下げる。必死に反論を試みようとする私の目を、栽仁殿下は正面から覗き込み、
「いい?梨花さん、観桜会では、心から愛を囁くからね」
と真面目な調子で告げる。彼の気迫に押されて、私は首を縦に振るしかなかった。
1923(大正8)年4月16日月曜日午後3時、東京市四谷区内藤町にある新宿御苑。
(あーあ……)
ここ数年の観桜会は、浜離宮ではなく新宿御苑で開催されている。60万㎡はあろうかという広大な敷地には、ランなどを育てている温室の他、日本庭園や広大な芝生もある。その敷地の至る所に、様々な種類の桜が咲き、青空の下、それぞれの美を競っていた。
(こんなことさえ無ければ、のんきに桜が楽しめるのに……)
桜の木の間を縫うように走る遊歩道を、兄と節子さま、そして迪宮さまとエドワード皇太子を先頭として、皇族たちや宮内省の職員が歩いている。その列の中に私はいた。隣にはもちろん栽仁殿下がいて、私の右手を優しく取っていた。
「どうしたの?」
ため息をつく私に、夫が心配そうに尋ねた。彼が着ているのは海兵大尉の紺色の通常礼装だ。
「これからやらないといけないことを考えるとね……」
私は顔をしかめて小声で答えた。ちなみに、今日の観桜会には、栽仁殿下の妃として出席しているので、私が今着ているのは薄い桃色の通常礼装だ。
「何でこんな時に、あんなことをやらないといけないのよ……」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけどさぁ……」
私は再びため息をついた。「誰にも見られていないのなら、いいわよ。でも、誰かに見られる前提でやるのは、あの……私としては、その……」
これ以上は、とても口にすることができない。なんだか、顔も火照っている気がする。うつむいてしまった私に、夫はクスリと笑いかけると、
「ふふ……いつ見ても可愛いな、梨花さんは」
私の耳元でそっと囁く。私はうっかり転びそうになった。
やがて、前方に、大勢の紳士淑女の姿が見えてきた。観桜会に招待された大臣や国会議員、官僚や華族たち、その奥様たちが、兄に拝謁しようと待ち構えているのだ。私たちの先頭を歩く兄と節子さま、そして迪宮さまとエドワード皇太子が、2群に分かれて整列した招待客の間を会釈しながら通り抜ける。私も栽仁殿下と一緒に、両側に並ぶ人々に会釈をしながら歩いた。
忙しない時間が終わると、兄をはじめとする皇族たちは、御苑内に設けられた御殿で休憩することになっている。その御殿に入ろうとした時、
「ちょっといいですか」
夫が御殿の入り口で待機している宮内省の職員さんに話しかけた。「何でございましょう」と一礼した職員さんに、
「妻が気分を悪くしたようで、僕たちはお茶をいただかずに外で休んでいたいのですが……」
と栽仁殿下は言う。
「内府殿下が?!」
パッと駆け寄った職員さんに、
「あ、ああ……いつもの、です。ご婦人方のお化粧の匂いにやられてしまって……」
私は用意していた台詞をぶつける。もちろん、具合が悪そうに、普段より声を小さくして、だ。
「人の来ないところで休んでいれば、すぐに治りますから、席を外させてください。……陛下にお願いしていただけますか?」
――いいか、梨花が化粧の匂いを苦手としているのは、御殿に入らない絶好の口実になる。もちろん俺は“外で休んでいていい”と許可を出すから、そうしたら栽仁と2人で逢瀬を楽しんで来い。
おとといの土曜日、私と、参内した栽仁殿下の前で、兄はニヤニヤ笑いながらこう言った。だから間違いなく、御殿に入らなくていい、という許可は出るはずだけど……。
私の言葉を聞いた職員さんは、「確認して参ります」と言って御殿の中に消える。数分してから戻ってきた彼は、
「“構わない”ということです」
と私たちに告げる。頭を下げた私の手を、すかさず栽仁殿下が取った。
「確か、温室の方に行け、というご指示だったね。そこに八重桜があるから、と……」
栽仁殿下は私と手をつなぎ、御苑の奥へと歩いていく。御殿の周りには宮内省の職員たちがいたけれど、一歩御苑の奥に入ると、招待客はおろか、職員たちの姿も無くなった。2、3分歩くと、ランを育てている温室の前に出た。分かれ道の角に、八重桜が見事な花を咲かせている。
「この木、かしら……」
――それで、2人で花見をしていろ。その姿を、御殿から抜け出した裕仁とエドワード皇太子が見る、と。こんな筋書きでどうだろう。そうだな、お前たちが抱き合っているのでも見れば、エドワード皇太子も梨花を諦めるのではないか?
兄はおととい、私と栽仁殿下にこう言った。2人だけしかいないところならともかく、人に見られること前提で栽仁殿下と抱き合うなんて、頭がどうにかなってしまいそうだ。兄の言葉を思い出して、急に恥ずかしくなってしまった時、
「これは綺麗な桜だね」
八重桜を見つめながら言った栽仁殿下が、私と目を合わせる。途端に、脈が速くなったのが分かった。
「こうしていると、結婚式の直前に、2人で梨の花を見に行ったのを思い出すね」
私の状況を分かっているのかいないのか、栽仁殿下は私に話しかけると微笑んだ。
「そうね。……ちょうど、今の時期だったよね」
私は栽仁殿下に答えると、
「あれから13年か……長いような、短いような、よく分からないわね」
と続けた。
「うん。僕たち、色々なことを経験したね。子供も3人授かったし、洋行もしたし」
「私は内大臣になって、栽さんは国軍大学校に入って……結婚する前には、そんなの、考えたことも無かったのにね」
いつの間にか、私と栽仁殿下の距離は縮まり、頭を少し動かせばぶつかってしまいそうな位置に、栽仁殿下の左肩がある。私は吸い寄せられるように、夫の左肩に頭を預けた。
「だけど、梨花さんは変わらないね」
私の頭に右手を乗せると、栽仁殿下はこう言った。
「顔も身体も、結婚した時からほとんど変わらなくて、ずっと美しいままだ。それで、可愛くて……ああ、本当に、梨花さんが愛しくてたまらない……」
「た、栽さん……」
夫の情熱的な言葉で、痺れるような熱が身体中に巡る。すっかりのぼせてしまった私は、周りを気にする余裕を完全に無くしてしまっていた。
「う、嬉しいけど、恥ずかしいよ……。だって、私、もう40歳なんだよ?子供も3人産んだのに、美しい、って……」
「美しいと思うから、美しいと言っているんだ」
私の言葉に、栽仁殿下が反論する。その途端、再び熱が身体を駆け巡り、私は夫に言い返す気力を失った。
「もちろん、この年月の間に、梨花さんの立場は変わった。けれど、梨花さんが、僕がこの世で唯一愛を捧げる、美しくて可愛い妻であることは変わりないんだ」
「栽さん、そんな、私……」
すっかり舞い上がってしまった私の身体を、栽仁殿下が両腕で抱き締める。そして、
「梨花さん、目を開けていて」
と囁いた。こくり、と頷いて顔を上げると、栽仁殿下は自分の唇で私の口元を覆う。彼の柔らかい唇を、私は一生懸命受け止めた。
唇を栽仁殿下から離すと、私は再び彼にもたれかかった。外で口付けを交わしたのは、本当に久しぶりだ。そのせいか、胸の鼓動が収まらない。顔が熱くなっているのも分かる。落ち着くには、しばらく時間がかかりそうだ。
「栽さん……少し、このままでいさせて……」
夫の方に顔を押し付けたままお願いすると、
「いいよ。目的も達成されたみたいだしね」
彼の口からはこんな言葉がこぼれた。
「目的……?」
「やだなぁ、忘れちゃったの?」
首を傾げた私に、悪戯っぽく笑いかけた夫は、
「エドワード皇太子に梨花さんへの想いを断ち切らせるために、僕が梨花さんに愛を注いでいるところをエドワード皇太子に見せつける算段になっていたじゃない」
と言い、「だから、ほら……後ろを見てご覧」と私に囁く。恐る恐る振り向くと、15mほど離れたところに、2人の男性が立っているのが見えた。背の高い方がエドワード皇太子、そして低い方が迪宮さまだ。エドワード皇太子は、明らかに落ち込んでいるように見えた。
「ふふ、成功したみたいだね」
栽仁殿下が少し得意げに言った。「僕たちが抱き合ったところから、お2人でこちらをご覧になっていたもの」
「え……?ってことは、キ……キスしたところも、見られてた、ってこと?」
「もちろん」
「~~~っ!」
夫のとんでもない答えを聞いた私は、顔を真っ赤にして、栽仁殿下の両肩を拳で叩いた。
「痛っ……梨花さん、やめてよ」
「だって、だってぇ!」
私は夫を叩き続けた。「だ、抱き合ってるところを見られるのは、仕方ないと思ってたよ!だけど、まさか、キスしてるところも見られるなんて!わ、私、どうしたら……」
「分かったから落ち着いて」
すると、栽仁殿下が私の背中に回した腕を動かし、私の両手首をつかむ。気持ちのやり場がなくなった私が口を尖らせると、
「落ち着かないと、皇太子殿下に笑われてしまうよ」
夫は鋭い指摘をする。渋々両腕から力を抜いた時、
『本当に仲睦まじいことです。殿下も叔母さまに憧れるのは、ほどほどになさる方がよろしいでしょう』
という、迪宮さまのフランス語が聞こえた。ハッとして振り返ると、笑顔の迪宮さまと目が合ってしまう。私は完全に動けなくなってしまった。




