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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第9章 1892(明治25)年冬至~1892(明治25)年小満
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医科分科会(3)

「何でしょうか?」

 私が姿勢を正したのに、只ならぬものを感じたのかもしれない。北里先生の顔が、少し強張った。

「北里先生は、コッホ先生の門下の、ベラーさんという方をご存じありませんか?」

「は……?」

「ドイツ医事週報の、去年の7月30日の号に、コッホ先生と、そのお弟子さんのベラーさんという人が、連名で、森先生の脚気論文の追試報告を出しています。そのベラーさんという方、北里先生はご存知ないですか?」

 すると、

「……申し訳ありませんが、存じません」

北里先生は、緊張した顔で答えた。

(知らない……?)

 私は眉をしかめた。瞬く間のうちに、頭の中で推論がつながる。

「それはおかしいです」

 私は静かに北里先生に言った。

「あの追試論文の実験が行われた時期は、去年の5月中旬から6月中旬にかけてです。その時期は、あなたはコッホ先生の下にいたはず。ベラーさんと面識はなくても、名前ぐらいは知っているでしょう」

 浴びせられた視線に気が付いて、発せられた方向を見ると、森先生がいた。怯えるような目で私を見ている。

「それに、ドイツには脚気なんて存在しません。日本特有の風土病だと、あの追試論文にも書いてありました。日本特有の風土病をコッホ先生のお弟子さんが研究するのに、コッホ先生の下にいる日本人のあなたに、全く声がかからないというのも、おかしな話です」

「あ、あの……増宮さまは、ドイツ語をお読みになるのですか?」

「前世の大学時代に、少しだけ習いました。皆には内緒にしてください。大山さんに知られると、フランス語を勉強しろと言われてしまいますから」

 森先生に、私は硬い声で言った。森先生の態度も、何かおかしい。

「それから、追試の論文には、“発表しようとしていたら、森先生の論文が先に出たから、論文の体裁を追試に変更したと書いてあったけれど……それならばなおさら、日本とドイツで、同一の手法による実験が、それぞれ独立して行われたことになります。しかも、ドイツで行われた実験は、ドイツ国内では殆ど流通していない米を、わざわざ別の国から取り寄せて行ったと思われます。……余りにも不自然です」

 言葉を切ると、室内を不気味な静けさが覆った。

「殿下……」

 沈黙を破ったのは、ベルツ先生だった。

「「ベルツ先生!」」

 北里先生と森先生が、同時に叫ぶ。

「北里君、森君……増宮殿下は、ご聡明だ。子供としてではない。大人として考えても、その聡明さは群を抜く。もはや、隠し通すことはできないだろう」

「ベルツ先生?」

 私はベルツ先生の方を向いた。「一体、どういうことですか?まさか、先生もこの件に関わっていると……?」

「はい」

 正座したままのベルツ先生は頷いた。

「脚気の栄養欠乏での発生説を補強するためには、追試が必要です。それも、脚気が起こる日本ではなく、別の国で同じ実験を行って、脚気が発生すれば、栄養欠乏での発生説がさらに補強される。そう考えて、森君と相談して、ドイツの北里君に追試実験を依頼しました」

「何ですって?!じゃあ、ベラーさんというのは……」

「申し訳ありません、私の偽名でして……」

(な、何だってー!)

 衝撃の事実を北里先生から聞かされた私は、その場に倒れそうになった。

「そ、そんな……私、私と同じような、未来の医学の知識を持つ人が、ドイツにいる可能性を疑って、ずっと心配してたのに……」

 私は力なく呟いた。「その人が、医学知識を悪用する可能性とか、日本と敵対する可能性とか、すっごい考えちゃって……」

「それは……いらぬご心痛をお掛けしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 ベルツ先生が頭を下げた。「あの論文が出て以降、詳しく問いただされれば、殿下には真実をお伝えするつもりでいたのですが……」

(そう言われてもさあ……)

 私は右手を額に当てた。ベルツ先生が花御殿に来るときは、必ず横に大山さんがいる。ベルツ先生にあの論文のことを詳しく質問したら、私がドイツ語を読んだことを、大山さんに知られてしまうことになる。“ベラー氏のことを知っているか”と、大山さんがちょっと席を外した隙にベルツ先生に訊くのが精一杯だった。

「あの、ちなみに、タカハシさんって人はどなたなの?それも、架空の存在ですか?」

「いえ、実在する人物です。以前、特許局長をされていた方で、今は欧州の金融や経済を研究するために留学されています。先ほどおっしゃっていた血圧計や滅菌手袋、アセトアミノフェンやアセチルサリチル酸などの、欧州での特許管理の事務もされていますが……その方の伝手で、米を日本から届けてもらったのですよ。いや、貴重な実験用ですから、炊いて食べるわけにもいかず、本当に苦しい思いをしました。ようやく今、白い飯にありつけたわけですが」

「はあ……ということは、そのタカハシさんも、医学とは無関係なんですね?」

「その通りです、増宮殿下」

 北里先生の答えに、私は胸を撫で下ろした。私の心配は、完全に杞憂に終わったようだ。

「でも、なんで偽名なんて使ったんですか?世界の北里なんだから、別にそんな偽名を使わなくても……」

 私が尋ねると、

「世界の北里、ですか……。殿下に、そう言っていただけるのはありがたいですが、中には、この名前を嫌う者もおります」

北里先生は、苦笑しながら答えた。

「北里先生を嫌う人?」

「帝大の緒方先生です」

「緒方先生が?」

 マラリア原虫発見の論文を、ドイツ医事週報で発表した彼は、また滋賀県に行っている。マラリア患者の血を吸ったハマダラカを、捕まえに行ったのだ。その蚊が別の健常人の血を吸うと、その健常人にマラリアが発生するのか……。それを、マラリアの非流行地である仙台で、志願した助手さんと自分自身に試して、実証するのだそうだ。

――体を張るのはいいけど、罹った後に、万全の態勢で治療できるように準備を整えてくださいね。

 とは、ベルツ先生に頼んでおいたのだけれど……。

「緒方先生はかつて、脚気は細菌で発生すると唱えていました。私は3年前に、“中外医事新報”で、その説は違う、と批判したことがあります。しかも、留学前に、私は細菌学の初歩を、緒方先生から学んでおります。それゆえ、“師匠を批判した恩知らず”と、帝大の者からは批判されていると、ドイツで三浦君から聞きました。私の名前で脚気の論文を出せば、緒方先生がいらぬ怒りを抱いてしまうでしょう。ですから、コッホ先生とも相談して、偽名を使うことにしたのです」

「そういう事情でしたか……」

 北里先生の説明を聞いた私は、ため息をついた。

「学問上の対立が、全てに波及することは、本当に愚かなことだけれど、未来でもよくある話でした。逆に、個人間の感情的な対立が、正しい道理を捻じ曲げてしまうこともよくある話だった。そういう悪習は、この時代で終わりにしたいけれど……」

 私はこう言って、「ただ、青山と石黒は別よ!公衆の面前で、ベルツ先生を侮辱したんですから!」と付け加えた。

「ええ、あの二人は別です。恐れ多くも、“女に医学ができるわけがない”と増宮さまを侮辱したのですから」

 森先生が、顔をしかめながら頷いた。

「ベルツ先生、今の医学界では、脚気は栄養不足で発生するという学説で、ほぼ統一されたと思うけれど、緒方先生は今どう考えているのか、わかりますか?」

 私がベルツ先生に尋ねると、

「今は、緒方先生も、脚気菌の存在は間違いであると考えているようです。“北里君を誌上で責めたが、今となっては自分の不明を恥じるばかりだ”と、先日、私に言いました」

ベルツ先生は微笑しながら答えた。

「そっか……なら、大丈夫ですよ、北里先生」

 私は北里先生の方を振り向いた。

「もし心配なら、北里先生の研究テーマと、緒方先生の研究テーマを被らないようにしたらいいと思います。北里先生は細菌を主にやってもらって、緒方先生はマラリアのことをやってもらったから、寄生虫を主にやってもらったらいいんじゃないですか?クリプトスポリジウムや、トキソプラズマや、トリコモナスやアニサキスは、未来の日本でも起こっているし、回虫症やフィラリアは、まだまだ現役でしょう?それから、日本住血吸虫もあるし……あ、リケッチアやクラミジアやスピロヘータや真菌は、どうしたらいいかなあ……」

 すると、

「クリプト……スポリジウム?」

「トキソプラズマとは?」

「住血吸虫とは、一体?」

ベルツ先生と森先生と北里先生が、同時に私に尋ねた。

(あ……)

「あのー、もしかして、まだ発見されてないのも、混じっているの……かしら?」

 私が恐る恐る聞くと、3人とも、眼を輝かせながら激しく頷いた。私から全ての話を聞き出そうという意気込みが、嫌というほど感じられる。これは、逃げられそうにない。

「あー、じゃあ、しょうがない。私の知る限りの感染症の話をしましょうか。でもその前に、牛鍋の中身、全部食べ切ってしまいましょう。煮詰まりすぎると大変ですよ」

「もちろんです。殿下御自ら作られたこの牛鍋を、まず堪能してからですね。いやはや、ドイツでも素晴らしい毎日を過ごしておりましたが、殿下のおかげで、日本でも素晴らしい日々を送れそうです」

 北里先生は満足そうに頷いて、牛肉を口に頬張った。


「だから、その洪水熱というのが、ツツガムシ病と言って、リケッチアで発生する病気なんですってば!」

 牛鍋の中身を4人で空にしてから、2時間余り。

 ベルツ先生たちとの医学談義はヒートアップして、尽きることを知らなかった。

「な、何ですと……」

「そう、しかも、ベルツ先生が言った、その“つつがの虫”……多分、それがアカツツガムシっていうダニだと思うけれど、その幼虫が人を刺して、その時にリケッチアという病原体が人体に入り込んで発生するんです。その洪水熱の患者さん、刺し口がありませんでしたか、ベルツ先生?周りは赤くて、真ん中は黒っぽいかさぶたなんですけれど……」

「た、確かに、洪水熱の患者の大半には、殿下がおっしゃったような皮膚病変がありました……」

 ベルツ先生が呆然としながら呟いた。「何ということだ。流行地で診療に当たっていながら、そのアカツツガムシを見つけられなかったとは……かくなる上は、もう一度秋田に乗り込んで……」

「ベルツ先生、落ち着いてください」

 右手で握りこぶしを作ったベルツ先生を、私は慌てて止めた。

「ベルツ先生が秋田に行っちゃったら、毎週土曜日の授業はどうするんですか?それに、米ぬかから、ビタミンB1の抽出だってしないといけないのに……」

「そうです。……ベルツ先生、秋田には、田中敬助(けいすけ)君がいるではありませんか。ほら、三浦君の1学年下で、横手で病院長になっている……。確か彼も、洪水熱……ツツガムシ病の研究をしていたはずです」

 森先生も、興奮しているベルツ先生を止めにかかった。

「むむ……では、彼に、洪水熱のことは託しますか」

「ええ、分担できることは、分担する方がよろしいでしょう、ベルツ先生」

 北里先生も、両腕を組んで言った。

「そうよ。それに、日本住血吸虫も研究しないと。さっさと感染機序を論文にして、予防策を講じたいけれど……」

「お気持ちは重々承知しています、殿下」

 北里先生がため息をついた。「しかし、殿下のおっしゃったことをすべてやろうとすれば、研究者が何人も必要です。それから、衛生行政に関して、誰を充てればよいか。特に、日本住血吸虫やマラリアやフィラリアは、水路のコンクリート化のみならず、大規模な耕地改良や区画整理もする必要があるでしょう。もちろん、蚊やミヤイリガイを駆除する薬品等も、開発しなければいけません。さすがに私も、そこまでは知識が……」

「となると……」

(やっぱりここは、行政がらみだし、ドイツに留学中の後藤新平さんを使うところなのかな?)

 そう思った瞬間、「失礼いたします」と、入り口の襖の外から仲居さんの声がした。

「迎えの方がお見えですが、いかがいたしましょうか?」

「迎えの方……?」

 仲居さんの声に、私は首を傾げた。「北里先生、どなたかとお約束してました?」

「いえ、私は、他には誰とも……」

「じゃあ、ベルツ先生?森先生?私も特に、迎えに来てほしい、なんて花御殿には伝えていないし……」

「私も特には……」

「私もです」

 ベルツ先生も森先生も、首を横に振る。

「とにかく、見て参りましょうか」

 森先生が立ち上がって、入り口の襖の側に座ると、襖を少し開ける。と思ったら、急に立ち上がって、廊下に向かって敬礼した。

「森先生、どうしたの?」

 廊下をのぞき込むと、そこには、いるはずのない人物がいた。

「大山さん……?」

 私は立ち上がって、フロックコート姿の大山さんを見た。ベルツ先生も北里先生も、思わぬ人物の登場に、目を丸くしている。

「どうして?今日は、お母様(おたたさま)の誕生日だから、参内したんじゃ?」

 しかも、拝謁の後で、お母様(おたたさま)が、参内した“梨花会”の面々と、内々で昼食会を開くと聞いていたのだけれど……。

「昼食会を中座して、お迎えに参りました」

 大山さんが一礼した。軍服ではないということは、皇居を出た後に着替えて、そのままここに来たということか。

「そんな、迎えに来なくても……横浜から汽車に乗って、新橋駅からベルツ先生と一緒に人力車を拾って帰るって、そう打ち合わせていたじゃないですか」

「それは承知しております。しかし、皇后陛下からご命令を受けましたゆえ……」

「え……お母様(おたたさま)からのご命令って……」

「“淑女(レディ)を迎えにお行きなさい”、そう皇后陛下には命じられました」

 大山さんは背筋を伸ばしてこう言った。「“放っておくと、医学の話に夢中になって、帰ってこないのではないか”……そう仰せられたゆえ、お迎えに参上した次第です」

(あー……図星だ……)

 私は、大きなため息をついた。確かに、さっきまでの勢いだと、このまま夜を徹して四人で語り合いかねなかった。

「そうね……じゃあ、仕方ない。帰りますか。あ、でも、ちょっと待って」

 私は手提げ袋の中から手鏡を取ると、広縁に出た。壁の陰になるような位置に陣取って、たすきを外すと、手鏡を確認しながら、着物の乱れを修正して、また部屋の中に戻る。

「お待たせ、大山さん。じゃあ、帰りましょうか……あ、お勘定を済ませないと」

 大山さんを案内してきた仲居さんは、完全に顔が強張ってしまっていた。おそらく、目の前の人物が、軍医の森先生から敬礼されたことで、偉い人間だと察してしまったのだろう。仲居さんに、できる限り優しい声で飲食代の合計を尋ね、私はお金を支払った。財布の中のお金で、十分に足りる額だ。

「大山さんは、私がお金を使うことを止めないのね」

 廊下に出ると、私は大山さんに話しかけた。あとの医師三人組は、荷物をまとめているのか、私たちについて来ていない。

「梨花さまのご気性ならば、止めても無駄だろうと思いまして。それに、梨花さまの世と、今の貨幣価値の差を知っていただくのも、視野を広げるきっかけになりましょう」

(確かにね……)

 “銭”の単位のお金なんて、前世(へいせい)では株価や為替レートぐらいでしかお目にかからない。今日実際にお金を使ってみて、やっと“銭”が現役なのだと理解できた。しかも“(りん)”なんて単位のお金、前世(へいせい)には絶対無かったし……。

「モノの値段を前世と比較するのが、だいぶ難しいけどね……」

 私はため息をついた。「大体、お蕎麦一杯の相場が1銭とか2銭なのに、なんで新橋から横浜までの汽車賃は、下等車で20銭もするのかしら。前世(へいせい)の東京から横浜までの電車賃って、お蕎麦10杯分以上もかからなかったわよ」

「それは、徐々に覚えていただかなくてはいけませんね」

 大山さんが微笑した。「ドイツ語と一緒ですよ、梨花さま」

「……なんでそこで、ドイツ語が出てくるのかな?」

 嫌な予感がする。だけど、それは表情に出さないように頑張りながら、私は大山さんに返した。

「いえ、脚気討論会以来、梨花さまがドイツ語の論文をお読みになっているようでしたので。大方、脚気実験の追試論文でしょうが……」

(バレてる?!)

 大山さんの答えに、私は目を見開いた。

「どうしてわかったの?大山さんには、内緒にしておこうと思っていたのに……」

 だからこそ、北里先生とコッホ先生の論文は、花御殿ではなくて、華族女学校の図書室で読んでいたのだけれど……。

 すると、「何、簡単なことですよ」と大山さんはニヤリとした。

「節子さまから、梨花さまが華族女学校の図書室で、外国語の文献を読んでおられるとうかがいました。華族女学校の職員にも確認しましたら、梨花さまが独和辞典をめくりながら、何かを読んでいらっしゃるとのことでしたので、あの追試の論文を読んでいらっしゃるのだろうとは、察しをつけておりました」

(あう……)

 私は頭を抱えた。

 そうだった。この恐ろしく有能な臣下は、中央情報院の総裁なのだ。その気になれば、私の華族女学校(がっこう)での様子など、簡単に把握できるだろう。そして、彼はその気になったという訳だ。

「まあ、北里先生やベルツ先生からも、事情をお聞きになったことですし、梨花さまのご懸念も、これで消え去りましたでしょう。原は例外として、そう何人も、梨花さまのような方がこの世におられては、堪ったものではありません」

「それこそ、なんで大山さんが知っているのかな……?」

「正月に、生物兵器や化学兵器の話をされたとき、何やら考え込んでおいででしたし……、それに先ほど、梨花さまがそう言われていたと、児玉さんと山本さんから聞きました」

「え゛」

 口から、変な声が出た。「ちょっと待って、あの二人は仕事だから、私にはついて来ないって……」

「仕事の内容が、“梨花さまに陰ながら付き添う”ということだっただけです」大山さんが微笑する。「途中で、医学の“まにあ”な話になったので、隣の部屋から逃げだしてきたと言っておりましたが」

 大山さんの答えに、私はうなだれた。どうやら、私たち四人の話は、児玉さんと山本さんに筒抜けだったらしい。

(お釈迦様の掌から飛び出せない、孫悟空みたいだなあ……ていうか、それ、一歩間違えればストーカー……)

 浮かんだセリフは、頭を軽く振って、慌てて消した。何の因果か、今生では内親王になってしまったこの身、何かあれば確かに一大事ではある。

「梨花さま」

 大山さんが私を呼んだ。「梨花さまのとっさの機転や思い付きは、一つの武器だと、以前申し上げました」

「確かに、そう言ってくれたことがあったわね」

 原さんと、初めて花御殿で会った時だったと思う。自分の中では、あの時の原さんとの対決は大敗北だったと思っていたので、大山さんのその言葉に、とても戸惑ったことを覚えている。

「しかし、その武器を、ずっと内に秘めておられますと、どうも梨花さまの場合、考えがあらぬ方向に向かってしまい、ついには梨花さまご自身を傷つける刃になってしまう……そのように見受けられます」

(それは……否定できないなあ……)

 私は苦笑した。転生してから、自分一人で思い悩んで、結局損をするようなことが多い気がする。

(もしかして……前世のあの失恋も……前世で誰かに話せていたら、少し違ったのかなあ?)

 胸の奥の傷が疼いた瞬間、「梨花さま」と、大山さんがまた私を呼んだ。

「何か思い悩むことがございましたら、この大山に話してください。何があっても悪いようには致さないと、お誓い申し上げます。(おい)は、梨花さまの臣下でありますゆえ」

「ありがとう、大山さん。気持ちはとても嬉しいけれど……」

 私は少し首を傾げながら、にこりと笑ってみた。「恋の話も、あなたに言わないといけない?」

 すると、大山さんが目を丸くした。

「な……、り、梨花さまが恋ですと……?!お待ちください、相手はどなたですか?!邦芳王殿下ですか、それとも恒久王殿下ですか?!し、しかしそんなことがあっては……」

 なぜか激しく動揺している大山さんに、「冗談よ」と私は言って、クスリと笑った。

「あの二人は、私にビビっている限り、恋愛対象になりえない。そうね、そういう話は、あなたじゃなくて、節子さまか花松さんか、お母様(おたたさま)に話すことにする」

「そうしてください……」

 大山さんが大きなため息をついた。「全く……臣下をからかうものではございませんぞ、梨花さま。罰として、(おい)がエスコート致します」

(それって、罰になりうるのかな?)

 抗議する間もなく、私の右手は大山さんに握られていた。

「よくお似合いですね、そのお召し物は。梨花さまの愛らしさと美しさが引き立ちます」

「そう……褒めてくれてありがとう」

 私は微笑すると、少しうつむいた。お母様(おたたさま)には“堂々としていなさい”と言われたけれど、やっぱりちょっと恥ずかしい。

「ふふ……この世で最も医学の知識をお持ちである方とはいえ、淑女(レディ)としては、まだまだ修行の余地が大あり、ですね」

 頭の上で、大山さんが微笑した気配がした。

※クリプトスポリジウムの発見は1907年、トキソプラズマの発見は1908年、日本住血吸虫の発見は1904年、リケッチアの発見は1909年です。クラミジアもまだ発見されてないはずですが、ちょっとややこしい話になるので割愛します。

※田中敬助さんは、史実でもこの年の11月の東京医学会雑誌に、「日本洪水熱」……今でいうツツガムシ病の論文を発表しています。明治23年の時点で、自宅にツツガムシ病の研究所を建てているので、このような設定にしました。

※さて、話だけ出た人の現在所在地が、一部違っていますが……これについてもいつかは触れないといけません。

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[一言] ついに宮入貝絶滅か! 梅毒(スピロヘータ)への抗生物質投入か?! …それ以外知らないのは医学に疎い一般人故。
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