男の園(1)
1922(大正7)年11月1日水曜日午前11時30分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「内府殿下……」
兄の横の椅子に座っている私に、困ったような顔をして話しかけたのは、枢密院議長の黒田さんだ。彼は先ほど兄が臨席して表御殿で開かれた枢密院会議で決議されたことについて、私に報告しに来たのだけれど……。
「そうあからさまに、お嫌そうな顔をなさらなくても……」
「だって……」
なだめる黒田さんに、私は唇を尖らせた。
「何でこの皇室令について、皇族会議を開かないといけないんですか」
「それはこの皇族就学令が、多くの皇族の方々に直接関わる皇室令だからです」
黒田さんは私に冷静に説明する。「ですから、皇族会議の開催が必要であると考えられ、その旨、枢密院会議でも了承されたのです」
「それは分かりますけれど……」
そう言った私は、黒田さんを恨めしげに見つめた。
枢密院ではここ最近、皇族の教育について定める“皇族就学令”という皇室令を審議していた。一般国民の教育については“小学校令”などの各種の学校令で、また、華族の子女の教育についても、“華族就学規則”というもので定められている。ところが、皇族については、教育について定めた規則や皇室令が存在していない。今でこそ、皇族の子女が学習院などの学校に通うのは当たり前になっているけれど、私より少し上、そして私と同じぐらいの年代の皇族……特に皇族の女子では、学校に通わず、自宅で家庭教師から必要な教育を受けるというやり方で教育を終わらせてしまう、ということはしばしばあったのだ。
そして、皇族の教育は近年多様化している。まず、私が、華族女学校を中退した後に医師開業試験に合格して医師免許を得た。更に、私の妹の多喜子さまは第一高等学校から東京帝国大学に進学し、兄の長女の希宮珠子さまも、第一高等学校に進学し、薬剤師を目指している。それを見た一部の宮家から、
――うちの娘も医者にしなければならないのだろうか。
――私の娘にはとても高等学校に行く学力はないのだが、それでも高等学校に通わせなければならないのだろうか。
……などという相談が、宮内省に寄せられるようになった。また、男女問わず、教育のあり方がきちんと定められていない実情は、国民の模範となるべき皇族としてはよろしくない、という意見が宮内省内からも出された。そこで、“皇族は満6歳より満18歳に至る12年を以て普通教育を受けるべき学齢とす”など、基本的な項目を皇族就学令で定めることになり、枢密院会議で決議されたのだけれど……。
と、
「恐れながら、梨花さまは皇族会議に出席したくないだけでございましょう?」
黒田さんの斜め後ろに控えている大山さんが、苦笑いしながら私に確認した。
「そうよ」
私は大きなため息をついて答えた。「枢密院会議には出る必要が無いのに、何で皇族会議に出ないといけないのよ。訳が分からないわ」
皇族会議は、皇族の成年男子のみを招集して行われる。それだけならもちろん、私に出席する義務はないのだけれど、皇室典範には、皇族会議には、内大臣・枢密院議長・宮内大臣・司法大臣・大審院長が参列することが定められている。つまり、私は皇族女子なのだけれど、内大臣として皇族会議に出なければならないのだ。皇族会議が開かれるのは、兄が即位してからは初めてのことだ。だからとても憂鬱で仕方がない。
「この場だから言うけど、華頂宮さまとはなるべく顔を合わせたくないの。また変な目で見られたらと思うと……今月の特別大演習でも顔を合わせなきゃいけないのも嫌なのにさぁ……」
更に私がこうぼやくと、
「安心しろ、梨花」
兄が私の手を握りながら、私の目を正面から覗き込んだ。
「博恭にはお前に一切手出しはさせない。万が一、奴が梨花に手や口を出そうものなら……」
兄はそう言いながら、虚空に向かって鋭い視線を飛ばす。少しだけ歪んだ口から殺気が漏れ出たのがはっきりと分かった。
「……流石に危害を加えたらダメでしょ。いや、私も一発ぶん殴りたいけどさ」
私が大きく両肩を落とすと、
「ご安心を。皇族会議の時に、華頂宮殿下が内府殿下に何か妙なことをなされば、俺は弥助どんに代わって内府殿下を全力でお守り致します」
黒田さんが私に向かって最敬礼して言った。いくら内大臣の最側近であっても、皇族会議で内大臣秘書官長が内大臣に付き添うことは許されていないのだ。
「もちろん、特別大演習では、俺が梨花さまをお守り致します。華頂宮殿下には、一指たりとも触れさせはしません」
「頼むから、大事にはしないでね。万が一、有栖川宮と華頂宮で争っていると思われて、対立を煽ろうとする連中が現れたら、日本の損失になるんだから」
獰猛さを感じさせる笑みを見せる大山さんに私が頼むと、
「……まぁ、皇族会議には、義兄上も栽仁も出席するのだ。博恭も、梨花に手を出せば、俺とその2人が黙っていないのは分かっているだろう。だから、大船に乗ったつもりでいろ」
兄はそう言って私の頭を撫でる。
「はぁ……」
兄に頷いてはみたけれど、私の胸の不安は、容易に消えてはくれなかった。
1922(大正7)年12月1日金曜日午前10時5分、皇居・表御殿。
(あーあ、皇族会議なんて出たくないなぁ……)
兄の政務の手伝いを終えた私は、重い足取りで表御殿の廊下を歩いていた。今日の皇族会議については、今朝、夫の栽仁殿下にも、そして先ほど、兄にも、“何かあったら自分が守るから心配するな”と言われた。でもやっぱり、不安なものは不安だ。
(まぁ、特別大演習でも妙なことは無かったから、華頂宮さまとは今回は何も無いって信じるしかないかな……)
歩きながらため息をついたその時、
「ああ、章姉上じゃないか」
声を掛けられ、私は後ろを振り向いた。5mほど離れたところに、私の異母弟・鞍馬宮輝仁さまがいる。空色の軍服を着た彼は、右手を軽く挙げると私に近づいてきて、
「どうしたんだよ。顔色が良くないじゃないか」
と、私に心配そうに尋ねた。
「ちょっと緊張してね」
気安く話せる弟なので、私は素直に心境を吐露した。「皇族会議に出るのは初めてだからね」
「そうだよな。俺はお父様が生きていた頃、皇室典範の改正絡みで、1回だけ皇族会議に出たな」
そう言いながら、輝仁さまは会場の東溜の間に向かって歩き始めた。
「会議の後、奥御殿に兄上と一緒に呼ばれて、お父様が兄上に譲位するつもりだ、って聞いてびっくりした。もちろん、賛成したけどさ。……今思えば、あの時、お父様、体調が良くないって自覚してたのかな……」
「今となっては分からないわね」
しんみりしてしまった弟に、私は優しく応じると、
「輝仁さま、過去を振り返るのもいいけど、未来のことも考えないと。とりあえず今日は、皇族会議の先輩として私によろしくご教授ください」
頭を弟に向かって仰々しく下げた。
「あは……大げさだなぁ、章姉上」
「だって、これから、男しかいない所に乗り込んでいくのよ。男の園、って言ったらいいのかしら」
「そんなこと言って、男しかいない所には、今まで数えきれないくらい立ち入って来ただろ?」
「そうだけどさ。やっぱり緊張するのよ、今日ばかりは」
私がこう言って肩を落とすと、
「……ま、いいや。じゃ、俺についてきてくれよ、章姉上」
弟は元気よく、私の前に立って歩き始めた。
会場の東溜の間には、兄と迪宮さま以外の出席者たちがほとんど顔を揃えていた。部屋の奥に設えられた玉座を挟むようにして長机が2列に並べられ、その前に男性皇族たちが向かい合って座っている。その中には夫の栽仁殿下の姿もあり、私と目を合わせると返事をするように微笑した。
「内府殿下、緊張なさっておいでですね」
男子皇族たちの席の下座、玉座と向かい合うように置かれた長机は、皇族会議に参列する臣下たちの席だ。私がそこの椅子に座ると、隣に座っている黒田さんが小さな声で話しかけてきた。
「そりゃそうですよ」
私が小さく頷くと、
「今までは、あの方も妙な言動はなさっておられませんね」
参列者の1人である宮内大臣の牧野さんが、私に囁くように言った。“あの方”というのは、博恭王殿下のことだろう。
「まぁ、妙なことをなさったら、いくら殿下といえども、ただでは済ませんぞ」
黒田さんが薄く笑うと、牧野さんも黙って首を縦に振る。どうやらこの2人、博恭王殿下が何か私に手や口を出したら、咎める気満々のようだ。彼がやられ過ぎないことを私はこっそり祈った。
と、
「おや、今日は大山殿が出席するはずではなかったのか……?」
皇族男子の席の方から、はっきりとした声が聞こえた。久邇宮家の御当主の邦彦王殿下が、こちらを見て眉をひそめている。彼は、私のことが苦手な皇族の1人だ。私がここに来た時にはいなかったから、今会場に到着したばかりだろう。
「ま、ご覧の通り、御病気という訳でもなさそうですし……」
邦彦王殿下の隣に座った梨本宮守正王殿下が、邦彦王殿下に応じると、私を困ったように見つめている。
「確かに……先月の特別大演習後の地方行幸の際にも、岡山の女学校で剣道の指南をしたらしいし……」
邦彦王殿下がそう言って身体を一瞬震えさせると、
「恐ろしい……女子が剣を振るうなど、世も末でございますな」
守正王殿下が顔をしかめて同意している。
「……黒田さん、あの2人、一発殴っていいですか」
私が拳を固めると、
「内府殿下、お気持ちは分かりますが、皇族会議の開始直前にそれは……」
黒田さんが私を押しとどめる。
「でも黒田さん、これ、私を馬鹿にした発言と捉えないとおかしいですよ」
邦彦王殿下は私を見て、“大山殿が出席するはずではないのか”と言った。確かに、ご神事が絡む行事には、私は内大臣の代理者として、大山さんに内大臣の席に座ってもらい、私自身は皇族として行動している。しかし、皇族会議はもちろんご神事ではないから、代理を立てる必要はないはずだ。大山さんが私の代わりに出席しているのではないか、という発言は、すなわち、私は出席していない方が良かった、という意味にも受け取れるのだ。
「それは間違いございませんが……!」
私の目を真正面から受け止めると、黒田さんは首を横に振る。
「黒田閣下、私が注意しますよ、宮内大臣として」
硬い表情をした牧野さんが、横から力強く申し出る。そして彼が椅子から立ち上がろうとした瞬間、
「「聞き捨てなりません」」
皇族の席で、紺色の軍服を着た男性と、カーキ色の軍服に山吹色の腕章を付けた男性が立ち上がり、邦彦王殿下を睨みつけた。紺色の軍服の方は栽仁殿下、そしてカーキ色の軍服の方は、栽仁殿下の親友でもある北白川宮成久王殿下だ。
「僕の妻を“恐ろしい”とおっしゃるとは……恐れながら、妻は、教育勅語にある“社会と世界に通用する女子”を目指して、日々精進を重ねております。それを“恐ろしい”とおっしゃられてしまえば、天皇陛下のお役に立とうと頑張っている妻以外の女子たちはどうすればよいのでしょうか」
栽仁殿下が冷静な口調で邦彦王殿下に問いかけると、
「栽仁の言う通りです。国のために、陛下のために頑張っていらっしゃる姉宮さまを恐ろしいとおっしゃるとは、久邇宮さまも梨本宮さまも心得違いをなさっておいでです!」
成久殿下は憤慨した様子で、大声で抗議する。
「成久……貴様、年上に対する礼を知らないのか?」
すると、邦彦王殿下が成久殿下を睨みつけながらうなるように言った。
「相手が年上でも、間違いがあれば年下が正さねばならないでしょう」
成久殿下が堂々と言い返すと、「そうだ!」と叫びながら東久邇宮稔彦王殿下が立ち上がる。朝香宮鳩彦王殿下と東小松宮輝久王殿下も椅子から立ち、邦彦王殿下と守正王殿下をじっと睨む。
(つ、つか、これ、どうしたらいいの?)
思わぬ展開と、東溜の間に渦巻く怒気に、私は次に取るべき行動を完全に見失っていた。




