娘の進路(2)
1922(大正7)年8月28日月曜日午後6時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ほ……本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
強張った表情で玄関に現れた青年は、国軍軍医学校の学生である半井久之君だ。昨年9月に軍医学校に入学し、半年にわたる実習を終えた彼は、3日後の8月31日に軍医学校を卒業する。
「ようこそ、半井君。今日は来てくれてありがとう」
「お久しぶりね。子供たちも出席するから騒がしいかもしれないけれど、楽しんでくれると嬉しいな」
並んで出迎えた栽仁殿下と私の姿に、半井君はじっと視線を注ぎ、次の瞬間、慌てて最敬礼する。そして頭を上げると、今度は呆けたように私を見つめた。
「あの……どうしたの?」
心配になって尋ねると、半井君はさっと頬を赤らめ、「し、失礼しました」と言って深々と頭を下げる。
「その……洋装の内府殿下を拝見するのが初めてでしたので、余りのお美しさに、驚いてしまいまして……」
半井君の答えを聞いた私は「まぁ」と顔に苦笑いを浮かべた。今着ているのは、ラベンダー色の小礼装だ。自分としては、和装の時と雰囲気が大きく変わったとは思わないけれど、他人の目から見たらそうではないのかもしれない。
「軍服や宮内官の制服をお召しになっている時のお美しさも、和服をお召しになっている時のお美しさも格別ですが、やはり内府殿下は、ドレスをお召しになっている時の美しさが最も際立っていると俺は思います」
今日の食事会の出席者の1人である大山さんは、私を見つめながら頻りに頷いている。
(それは大山さんの好みの問題じゃないかしら)
私が心の中で大山さんにツッコミを入れた時、
「あなたが、半井さまですね」
大山さんの隣に立っていた万智子が前に一歩進み出た。彼女が着ているのは、私が少女時代に着ていたミントグリーンのドレスだ。私のおさがりだから嫌がるかなと思ったけれど、万智子は喜んで着てくれた。
「私は万智子と申します。半井さまは若い頃の母とご縁があったと大山の爺に聞きました。今日はそのご縁のお話や医師の業務のお話など、たくさんお伺い出来たら嬉しいです」
恐縮して一礼した半井君に、万智子は目を輝かせながら喋る。その堂々とした話し方や言葉遣いは大人顔負けだった。流石はしっかり者の長女、と褒めたいところだけれど、
(これ、明らかに、半井君の話を狙ってるわねぇ……)
娘の様子からは、その思惑が明らかに見て取れた。このままでは、晩餐会の間、半井君が万智子からずっと質問攻めにあってしまう。
すると、
「万智子、だからと言って、半井君を独り占めしてはいけないよ」
私の横から、栽仁殿下が万智子に優しく注意した。「半井君と話をしたいのは、父上も母上も大山の爺も同じなんだ」
「お父上のおっしゃる通りでございますよ、女王殿下」
大山さんも微笑しながら、栽仁殿下の援護射撃をする。「食事会では出席者の全てが満足いくように過ごすことが大切です。女王殿下がお客様を独占してしまうと、他の出席者たちが機嫌よく過ごすことができません。皆が機嫌よく過ごせるように気配りをすることも、お母上のような素敵な淑女のたしなみでございますよ」
栽仁殿下と大山さんの言葉に、万智子は素直に「かしこまりました」と答えると、
「さ、謙仁、禎仁、次はあなたたちが自己紹介しないとね」
と言いながら、弟たちを手招きする。私はほっと胸をなで下ろし、長男と次男が半井君にあいさつするのを見守った。
私の家族と大山さん、そして主賓の半井君が食堂の席につくと、早速晩餐会が始まった。半井君の緊張を解そうと、私が優しく話しかけると、大山さんと栽仁殿下が巧みに話を広げ、半井君を会話に引き込む。緊張していた半井君の顔も次第に穏やかになり、口もよく回るようになってきた。
「すると、9月からは仙台で勤務するんだね」
メインディッシュのお皿が下げられた時、栽仁殿下が半井君に尋ねると、
「その通りです。まだ内示だけで、正式な辞令はいただいていませんが」
半井君は滑らかな口調で答えた。その手には赤ワインのグラスがある。
「仙台は東京や名古屋より寒いですよ。雪も多く降るでしょう」
大山さんの穏やかな言葉に、
「はい。ですから仙台では下宿に住むことにしました。本当は母と2人で暮らそうと思っていましたが……」
半井君は少し残念そうに言う。
「それがいいかもしれないわね。軍医になって数年は転勤も多いわ。何度も引っ越しに付き合ったら、お母様が疲れちゃうかもしれないし」
私が苦笑しながら半井君に言った時、
「半井さま、よろしいでしょうか?」
半井君の斜め前の椅子に座った万智子が声を掛けた。彼女の顔には並々ならぬ決意がみなぎっている。
(!)
「半井さまはなぜ軍医に……いえ、医者になろうと考えたのですか?」
「はぁ、と言いますと……?」
要領を得ない、という風に半井君が応じると、
「私、将来は母と同じように医者になろうと思っているのです」
と万智子は言った。「だからお聞きしてみたかったのです。半井さまがなぜ医者になろうと考えて、どうやって医者になったのか」
すると、半井君は背筋を正して万智子に向き直った。
「僕の家は、僕の曽祖父の代まで医者を生業としていました。ですから僕も幼い頃は、曽祖父と同じように医者になるのだと思い定めていました」
「まぁ、それは素敵ですね」
万智子がうっとりとした口調で応じる。「そのまま医者になったのですね!」
「いいえ、そうではありません」
万智子の言葉に、半井君は首を左右に振った。「え……」と軽く顔をしかめた万智子に、
「そう思っていた8歳の時、僕はたまたま内府殿下とお会いする機会を得ました。“なぜ医者になりたいのか”と内府殿下に問われた僕は、先ほどと同じ理由を内府殿下にお答え申し上げました。すると内府殿下は、“それだけではダメだ”とおっしゃいました。“医者になるのは大変だし、なってからも大変だ。先祖と同じになりたいという理由だけで医者になったら、君は不幸になる”と」
「……」
私は栽仁殿下と婚約する直前、名古屋で半井君に出会った時のことを思い出した。偽名を名乗っていた私の正体が、私を探しに来た桂さんのせいでバレてしまい、震えながら平伏している半井君に、私は確かにそんなことを言った。
「“だから、医者になりたい理由が他に見つかったら、心から人を助けたいと思えるようになったら、自分の所に来なさい。そうしたら、医者になる方法を一緒に考えよう”……内府殿下はそう仰せになりました。……それから3年ほど経ち、ある事件が起きました。僕と母が大家に家賃を払いに行った時、大家の奥様が突然倒れたのです。すぐに皆で病院に運びましたが、病院に着いた時には事切れていました。病院の医師には、“もっと早く手当てができていれば、命を助けられたかもしれない”と告げられました。その大家の奥様に、僕は小さい頃からたくさん可愛がってもらいました。しかし、その恩を返す前に、彼女は亡くなってしまいました。……僕は悔しかった。彼女を助けられなかったからです。もし僕が医者だったら、彼女を救えたかもしれない……」
そこで言葉を切った半井君は、数瞬、顔を下に向けた。もしかしたら、当時のことをまざまざと思い出したのかもしれない。
「その時、医者になって人の命を救えるようになりたい、自分のような思いをする人を1人でも少なくしたいと強く思いました。それを内府殿下に申し上げたら、僕が医者になるための勉強ができるようにしてくださいました。それで僕は医師免許を取り、軍医になることができたのです」
半井君の話に万智子は圧倒されてしまったようで、口を半開きにして黙っていた。私も自分の経験を堂々と語る半井君の態度に目を瞠った。即位礼で京都に向かう途中に名古屋で会った時や、昨年この盛岡町邸にあいさつに来た時には、半井君はガチガチに緊張していたのに、今の彼からは緊張が欠片も感じられない。もしかしたら、半井君だけにはワインを出していたので、アルコールの作用なのかもしれないけれど……。
「恐れながら女王殿下、女王殿下は内府殿下と同じになろうとお思いになっておられますか?」
そして半井君は万智子に鋭い口調で問う。万智子の身体が、一瞬ぴくっと震えた。
「半井君」
半井君を止めようとした栽仁殿下を、私は手で制した。
「もし女王殿下が、内府殿下と同じになりたいという以外の理由で医者になりたいのだとしたら、そのまま医者を目指されてもよいのかもしれません。しかし、もし内府殿下と同じになりたいとだけお思いになっていらっしゃるのだとしたら、医者におなり遊ばすのは、内府殿下の教えを受けた者としてはお勧めいたしません。でしゅ……ですきゃ、ら……」
「あの、半井君?」
どことなく、半井君の様子がおかしい。私が半井君を呼ぶと、彼は「はっ」と、やや大げさに私に最敬礼をする。よく見ると、彼の目はとろんとしていた。
「君、今日はワインを何杯飲んだ?」
私の質問に、
「はぁ、ほんの10杯ほどです。まだまだ飲めましゅ……飲めますが……」
半井君は臆することなく答える。私は頭を抱えそうになった。
「あのね、流石にそれは多過ぎるわ。私みたいに禁酒をしろとは言わないけれど、酒量は減らすべきよ」
「え?しかし、実習先の師団では、このぐらい飲まないと馬鹿にされてしまうと言われたのですが」
「半井君にそう教えた人を私は馬鹿にするわ」
半井君の答えに私は即座に言い返した。「アルコールが体質的にダメな人もいるのよ。そんな人にお酒を飲ませたら、急性アルコール中毒で死ぬわ。それに、アルコールが大丈夫な人だって、そんな量を飲んだら命を落とす可能性もある」
「はい……」
「今日は大目に見るけれど、くれぐれも、お酒の飲み過ぎには注意してちょうだいね」
私が念を押すと、半井君は「以後気を付けます」と言って頭を深く下げる。そして万智子は真剣な表情で何かを考えていた。
1922(大正7)年8月28日月曜日午後10時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸の居間。
「はぁ、今日は疲れたわ……」
子供たちが就寝のあいさつをしてそれぞれの部屋に引き上げると、長椅子に座った私は大きく伸びをした。もちろん今は、小礼服ではなくて和服に着替えている。
「そうだね」
隣に腰かけている栽仁殿下が私の頭を撫でた。「まさか半井君が、酔うとあんなに喋るようになるとは思わなかったけれど」
「アルコールで緊張が解れたのだと思うけれど……でも、万智子にああ言ってもらえてよかったかな。本当は、私が言うべきことだったのかもしれないけれど」
私がそう言って苦笑すると、
「そう言えばさ、梨花さん。前から聞こうと思って聞けなかったけれど」
栽仁殿下が真正面から私の瞳を覗き込んだ。
「万智子が医者になりたいという件に関して、梨花さん、万智子と関わらないようにしているけれど、それはどうしてなの?」
「……どう接していいか、よく分からないのよ」
核心をつく夫の質問に、私はこう答えるしかなかった。
「私、家事はほとんどしていないし、家では結構だらしないと思うの。それなのに万智子は、私みたいに凛々しくて仕事のできる女性になりたいから医者になる、なんて言い出した。しかもそれは、今生での私のように強い覚悟を伴ったものじゃなくて、単なる憧れからの発言だったから……よく分からなくなってしまった。私は母親として、医者の先輩として、どう万智子に接するべきか……」
私はここまで言うとため息をつき、
「転生しなかったら、こんなことを考えることもなかったんだろうけどなぁ……仕方ないけど」
と付け加えた。
「確かにね」
栽仁殿下はクスっと笑った。「今や梨花さんは、陛下が心から信任なさっている立派な内大臣だ。国民からの人気もすごいし、憧れる女性も多いだろう」
「そうなんだよねぇ……」
私が顔をしかめると、
「だから、万智子もその流れに巻き込まれたかもしれないね。それに、もしかしたら、学校の友達や先生からの、“母親と同じ道に進むべき”という期待もあったのかもしれない。僕も学校での万智子の様子は詳しく聞いていないから、推測なんだけれどね」
栽仁殿下は私にこんなことを言う。
「私、万智子が私と同じ道を進むべきとは全然思ってないよ。万智子が冷静に考えて決めた進路なら、私はそれがどんな道でも応援するつもり」
私はそう言って大きなため息をついた。
すると、
「じゃあ、それを万智子に言おうよ」
栽仁殿下は微笑した。「それを伝えるのはとても大事なことだよ。母親としても、医者の先輩としても」
「そうなの?」
「そうだよ」
首を傾げた私の右手を、夫はそっと握った。
「明日の朝食の後にでも、早速万智子に言おう。梨花さん、明日はいつもより早く出勤しないといけない、ということはないよね?」
「うん、大丈夫だけど……栽さん、そんなに急ぐ?」
「もちろん。だって、僕らの大事な娘のことだし……」
問うた私に、栽仁殿下は悪戯っぽい笑みを見せながら私に身体を近づけ、
「梨花さんが思いをこじらせないようにしないといけないしね」
と、囁くように言った。
「……それは間違いないわね」
私が両肩を落とすと、
「明日の朝、僕も付き合うからさ、万智子に梨花さんの思いを伝えよう」
栽仁殿下は包み込むような優しい口調で提案する。私は黙って頷いて、夫に微笑を返してみせた。




