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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第9章 1892(明治25)年冬至~1892(明治25)年小満
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医科分科会(2)

「な、何と……?!」

「そんなことが、本当に?!」

 横浜の波止場からほど近い、とある牛鍋屋の個室。

「あー……やっぱりそうなりますよね……」

 七輪の上で熱せられた鉄鍋に、菜箸で牛脂を引きながら、私はため息をついた。

「い、いや、それより殿下、御自ら牛鍋を作られるとは、その……」

 アワアワしている北里先生に、

「人払いをしていて、仲居さんが来ないんだから、私がするしかないでしょう」

私は牛脂を引く作業を止めずに答えた。着物の袖は、たすき掛けしてたくし上げている。華族女学校(がっこう)での体操の授業の時に、いつもやっているから、やり方にもすっかり慣れた。

「い、いや、そういう問題ではなく……」

 森先生は茫然としていた。そりゃあそうだ。目の前にいる9歳の娘が、24歳で死んだ前世の記憶があって、しかも、未来の医学の知識を持っていると聞かされたのだから。

「私、前世では、料理もそれなりにやっていたんですよ。さっき、仲居さんから作り方も聞いたし、材料を炒めるくらいなら何とか……それに、料理をするのは、転生してから初めての機会だから、作ってみたいなって……」

「ですから殿下、お立場を考えられては……」

 横からベルツ先生が私を止めたけれど、

「立場で言えば、私は前世で、医師免許を取って3か月で死んだんだから、卒後年数から言ったら、先生たちの遥かに後輩なんですってば!」

私はこう抗議して、たっぷり鍋にこすりつけた牛脂を、鍋肌から外した。お皿に乗った牛肉は、スライスではなくて、カレーかシチューにでも使うようなブツ切りだ。その横に、斜め切りにされた長ネギが、たっぷり乗っていた。

「確かに、私は大学を卒業して10年は経ちますが……いや、それでも、増宮さま、ご自身が内親王であらせられるということをご考慮ください。牛鍋は、私が作ります!」

「いえ、それを言うなら、私の卒業年次は、森先生の2年下ですから、私がやります、殿下!」

 森先生と北里先生が争うように申し出る。

「いや、それなれば、私が挑戦してみたいと……」

 ベルツ先生も、おずおずと手を上げる。

「ちょっと待ってください。ベルツ先生は、北里先生と森先生の先生だし、私の今生の医学の師匠でもあるんだから、ベルツ先生に牛鍋を作らせるわけにはいかないですよ!」

(それに、今日の主賓の北里先生に、牛鍋を作らせるわけにもいかないし……)

 私は鉄鍋を見下ろして、少し考えた。鉄鍋の下の七輪の中で、木炭が燃えている。それを見て、私は解決策を思い付いた。

「森先生、私が牛鍋を作るのを、手伝ってもらっていいですか?」

「は?」

「前世では、七輪じゃなくて、ガスや電気を使ったコンロで料理をしていたから、七輪の火力の調節の仕方が分からないんです。それに、身体も小さいから、お皿を持ったり、材料をかき回したりするのも大変だし……だから、火力の調節を主にお願いできないかな、と……」

 今の私の身長は、130センチほどだ。前世でこの時期、身長がどのくらいだったかを覚えていないのだけれど、華族女学校のクラスメートの中では、3,4番目ぐらいに背は高い。けれど、牛鍋の具材が入った大皿は、私一人では抱えられそうになかった。

「かしこまりました。増宮さまの仰せとあらば」

 森先生は快く頷いてくれた。

「ありがとうございます。じゃあ、具材のお皿、持ち上げてもらっていいですか?」

 私の声で、森先生が牛肉と長ネギの入ったお皿を持ち上げてくれた。そのお皿から、薄い煙の立ち始めた鉄鍋に、私は菜箸で具材を入れていった。肉に焼き色が付き、ネギに少し焦げ目ができたころを見計らって、だし汁と味噌だれを投入する。お味噌のいい香りが、鼻をくすぐった。

「手際がいいですね……」

 ベルツ先生が、私の箸捌きを見ながら呟いた。

「確かに、これは、料理の仕方を全く知らないはずの内親王殿下が、できることとは思えない……」

 北里先生も、鉄鍋に視線を落としたまま言う。「信じられないが、本当に輪廻転生が起こったとしか……」

「北里先生の認識は、少し修正してもらう方がいいかもしれません。佐々木伯爵が先日、昌子さまと房子さまには、将来料理やお裁縫を覚えてもらうって意気込んでいましたから」

 私はいったん菜箸を置いた。佐々木高行(たかゆき)伯爵は、私の異母妹の常宮昌子内親王殿下と、周宮房子内親王殿下の輔導主任だ。

――増宮殿下、学問や剣道もよろしゅうございますが、女子としてお生まれになられた以上は、一通り家政のことはご存知あってしかるべきです。伊藤議長に進言しておかなければ。

 先日会った時に、こんなことを言っていたけれど……。

「ところで、増宮さまは、前世ではなぜ、医者になろうと考えられたのですか?」

 森先生が、私に問いかけた。

「ああ……実家が、医院を経営していて、祖父も父も、二人の兄も医者だから、深く考えずに、自然と医者を目指してしまいました。あまり褒められた理由ではありません。死ぬ直前、医者として働くべきか、相当迷いました」

 すると、

「なるほど、半井(なからい)家の方であれば、女子でありながら医者を目指すのも当然のことですな」

森先生は頷いた。

「へ?」

「半井家と言えば、和気(わけ)氏から分かれ、その血筋の者の中には、宮廷医官を務めたり、大名家の典医を務めたりした者もいたと聞きます。そのご子孫ではないのですか?」

「森先生、そんな話は全然聞いたことがないです」

 私は首を傾げながら、焦げ付かないように、鉄鍋の中身を菜箸で大きくかき混ぜた。

「私の前世の曽祖父が亡くなったのが1994年で、その時94歳だったから……1900年生まれということになりますよね。その曽祖父からが医者なので、多分その半井家とは無関係だと思います」

 天皇(ちち)お母様(おたたさま)や爺に聞いたら、宮廷に仕える医者だった半井家のことを知っているのだろうか。そういえば、その三人もそうだけれど、“梨花会”の面々には、前世の苗字のことを伝えていないような気がする。お母様(おたたさま)に先日、前世の嫌な記憶を話した時にも、確か話さなかった。

「しかし、殿下に牛鍋を作っていただくとは……恐縮です」

 北里先生がすまなそうに頭を下げる。

「気にしないで下さい。私がやりたくてやっているだけですから。それに、ここからは、森先生に頼る部分が大きいです。……森先生、火力の調整、よろしくお願いします。確か森先生、生ものがダメって言ってたから、よく火を通すように、ね」

「覚えていただいていたとは……かしこまりました、増宮さま」

 森先生は、七輪に少し近づいた。

「ところで、森先生、生ものがダメなのは、コレラ菌やチフス菌が怖いってことですか?」

「それもありますが……ドイツで細菌学を学んで以来、どうしても怖くなりまして」

「ですよね。私も怖くて。未来の日本では、コレラも腸チフスも、国内の発生が稀だし」

「な、なんですと……」

 北里先生が目を丸くした。「それはまた、何故……」

「食事中だから、詳細は避けるけれど……コレラは、菌に汚染された水や食べ物が主な感染源になるし、チフスも、菌に汚染された水や食べ物が感染源になるから……」

 もっと言えば、患者の吐瀉物や排泄物が、水や食べ物を汚染して発生してしまうのだけれど、流石に今は言わないことにした。

「多分、未来の日本で発生がまれになったのは、浄水場や下水処理場がきちんと整備されて、衛生状況がよくなったからかな。それもいずれ整備しないといけないけれど……」

 そのあたりは、内務省に勤めているウィリアム・バルトンという人に、計画をお願いしている。

 ただ、問題は、再来年の6月に、東京で地震が起こることだ。煙突があちこちで壊れ、学習院の校舎も、この地震で壊れたと原さんが言っていた。

 そして、バルトンさんも忙しい。全国の主要都市の上水や下水の計画を立てているので、東京の計画が立つのにも時間がかかるだろう。だから、東京に浄水場や下水処理場を整備するとしたら、再来年の地震の復興工事の一貫としてだろうか……原さんと大山さんには、そんな話をしたことがある。

(でもそれだけじゃない……関東大震災もあるから、東京の街もなるべく地震に強くなるように、耐震工事を施したり、避難場所や火除け地になる緑地も整備しないといけないし、……だから区画整理をして、名古屋の若宮大通みたいな、緑地帯と防火帯を兼ねた、だだっ広い道路を何本か作って、それから……)

「殿下?増宮殿下?」

 ベルツ先生が、私の着物の左袖を、そっと引っ張った。

「そろそろ、牛鍋ができたようですよ」

 ふと我に返ると、目の前の鉄鍋の中では、ぶつ切りの牛肉とネギが、ぐつぐつと煮えていた。森先生が、上手く火加減を調整してくれたようだ。

「おいしそう……」

 牛鍋は、前世(へいせい)のすき焼きの前身みたいなものなのだろうか?ただ、味噌味だったのは初耳だし、牛肉をこんな風に、ぶつ切りにしていたことも知らなかった。

「ほほう、これは昔ながらの牛鍋ですね」

 北里先生が言う。

「そうですね。今では、しょうゆや砂糖で味付けをするのが主流ですし、肉も薄く切っていることが多いですからね。調理法も様々ですが……」

 森先生も相槌を打った。

「なるほどね……」

(醤油や砂糖で味付けして、肉もスライスしているなら……前世(へいせい)のすき焼きに近いかな?)

 そちらも食べてみたかったけれど、この明治時代に転生した身なれば、まずはこの味噌味の、元祖牛鍋を味わうのが筋だろう。

「いっただきまーす!」

 私は両手を合わせてから、箸で牛肉をつまんだ。牛肉のうまみが、お味噌の風味と一緒に、絶妙なハーモニーを口の中で奏でる。

「やだ、これ、おいしい……」

 前世(へいせい)の食レポのような、おいしさを表す言葉が出てこないのが悔しい。

(ああ、これでお味噌が八丁味噌だったら、最高に幸せだったのに……)

 ご飯を口にして、さらに、よく火の通ったネギに箸を伸ばす。微かな甘みのあるネギに、牛肉と味噌の風味がしっかりしみ込んで、ご飯がとても進む味だ。

「いやあ、牛鍋に、この米の飯!日本に帰ってきた、という感じです!」

 北里先生が、嬉しそうに箸を使っている。

「喜んでいただけて良かったです、北里先生」

 私は笑顔になった。やはり、おもてなしというものは、もてなす相手が喜んでなんぼである。

「まあ、脚気が米ぬかに含まれる物質の欠乏で起きる、ということを証明した我々にとっては、白米の飯は、あまり勧められはしないのですが……」

 森先生が苦笑する。「そういえば、この物質も、未来では証明されているのですか?」

「証明されていますよ、森先生。だから、私はこの実験を始めたんです」

 私は牛肉に箸を伸ばしながら言った。

「な……!」

 森先生が目を丸くした。

「それならば、初めから言ってくださればよろしかったものを!未来の医学の知識では、こうなっているのだと!」

「言ったところで、あの時のあなたが信じました?」

 私は牛肉を、口の中に放り込んだ。やはり、この味噌仕立ての牛肉は、とてもおいしい。十分に堪能して飲み込んでから、黙り込んだ森先生に向かって、私は更に言った。

「それに、仮にあなたが信じても、他の人が信じないでしょう?私に未来の医学の知識があるとは。だから、他の人でもちゃんと理解できるような形で、世に出すしかないんです。論文を出す、という形で」

「確かに、それは筋が通っている……」

 北里先生が腕組みする。

「森君の言うことはもっともだよ。私も、初めて殿下にお会いした時に、いとも簡単に指頭血採血をなさったり、顕微鏡を僅か7歳で使いこなされたりしたのを見て、殿下が常識では説明できぬ方だと初めて分かったが……それが無ければ、殿下の意識だけが未来からタイムスリップしたことなど、信じなかっただろう」

 ベルツ先生が頷く。

「もっとも、今は、殿下の未来の知識から出たことが、いくつか形になっているから、もう疑いの余地もなくなっているのだがね」

「増宮さまの知識……?例えば、それはどのような?」

「えーと、まず滅菌手袋かな?」

 森さんの質問に、私はいったん箸をおいて、指を折り始めた。

「な……!あれは、帝大の外科の、佐藤教授が考案したものでは無かったのですか?!」

「ええ、森先生。爺の家にいたころに、外科の医学書を読んで、使われていないことを知ったから、井上さんに頼んで試作してもらったんです。あとは、マラリア原虫のことでしょ、血圧計もだし、酸素吸入と、アセトアミノフェンとアセチルサリチル酸と……アルテミシニンは、抽出はできたけど、まだ医薬品にはできてないのよね……」

「何と……三浦君の血圧計もですか?!あれは、ドイツで大評判になっているのですよ?!血液乱流の“三浦音”の発見もさることながら……」

 北里先生も青ざめた。

「アセトアミノフェンと、アセチルサリチル酸も、長井先生の仕事だと思っていたのだが……それに、マラリア原虫も……確か、2月発行のドイツ医事週報に、緒方先生の論文が掲載されていたが……」

 頭を抱える森先生に、

「ま、とりあえず、手っ取り早くできるところから始めました」

私は微笑して言った。

「本当は、たくさんやりたいことがあるんです。細菌や結核菌を殺す薬は、たくさん開発したい。もちろん、病原体だってたくさん見つけたい。血液型の研究だってしたい。レントゲンだって開発したい。心電図計という、心臓の働きを類推できる機械だって作りたい。高い血圧や喫煙が悪影響だという、未来では当たり前の知識を、いろんな研究で実証していかないといけない。それに、破傷風とかインフルエンザとか麻疹とか風疹とかのワクチンも作りたいし、種痘だってどんどんやって天然痘を撲滅したいし、公害病の発生だって予防したいし、衛生政策や医療政策も考えないといけないし、病気が徐々に制圧できた時に起こる人口分布の変動や、食料問題にも対応しないといけないし……」

「殿下、落ち着いてください」

「増宮さま、少しお待ちを……」

「増宮殿下、お気持ちは分かりますが……」

 ベルツ先生、森先生、北里先生が、一斉に私のセリフを止めた。

「ああ、ごめんなさい。私、つい夢中になってしまって……」

「殿下、とりあえず、ネギか牛肉を召し上がって下さい」

 ベルツ先生の言葉に従って、私は鍋の中のネギを箸でつまんで口に入れた。仄かな甘味と、牛肉と味噌の旨味が口の中に広がる。

「はあ、美味しい……この味、幸せになる……」

 白いご飯に、自然に手が伸びる。脚気実験に関わってから、花御殿では玄米混じりのご飯を食べるようにしているから、白米だけのご飯は久し振りだ。

「落ち着きましたか、殿下?」

「はい、落ち着きました」

 ベルツ先生の言葉に私は頷いて、ため息をついた。「そうね、一つ一つ、過程を経ないといけない、って、ベルツ先生にも言われていたのに。人間が同時にやれることにも限界があるって……でも、それなら、志を同じくする人を集めて、みんなで多くのことをすればいい。そうすれば、医療だって発展させられて……」

(皇太子殿下を助けることができる……)

 “史実”で、原因不明の病気に罹った皇太子殿下。その病気から、皇太子殿下を、何としてでも守りたい。

「なるほど、それゆえ、私と森先生に、ご自身の秘密を打ち明けられたのですね」

 北里先生が頷いた。

「ええ、医学を前世の私が死んだ時点まで、一刻も早く発展させるには、人手が必要です。そして研究のための資金も。だからあなたを、新しくできる、国立医科学研究所の所長にして欲しい、と、山縣さんと黒田さんに頼みました。コッホ先生の下で大きな業績を挙げたあなたなら、資格は十分だと思いましたから……」

 ふと、私は、あることに思い当たった。

(コッホ先生のお弟子さん……)

 森先生の脚気論文の追試報告を出した、コッホ先生のお弟子さんのベラーさん。つい最近まで、コッホ先生の下にいた北里先生なら、何か知っているのではないだろうか。

「あ、あの、北里先生、聞きたいことがあります」

 私は姿勢を正して、北里先生に向き直った。

※牛鍋のレシピ……「明治洋食事始め とんかつの誕生」を読みながら、色々迷ったのですが、結局こんな形になりました。明治初年、牛鍋が現れ始めたころは味噌味で、おそらくこの明治25年の時点では、砂糖と醤油、肉も薄切りが主流になっているのだと思います。まあ、全部のお店が同じやり方ではなかったでしょうし、ご勘弁を。明治初年の詳細なレシピが発掘できれば、修正するかもしれません。


※多分まだ、ガスコンロはメジャーじゃないはず。火事で新築された大隈邸にガスコンロが付いたという記述は「食道楽」で見かけた記憶がありますが……。この辺も作中、どうなりますかねえ。

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