娘の進路(1)
1922(大正7)年7月28日金曜日午後9時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸の居間。
「父上、母上、お話があります」
いつものように、子供たちが揃って私と栽仁殿下に就寝のあいさつをしに居間にやって来た時、長女の万智子がこんなことを言い始めた。1911(明治44)年1月に生まれた万智子は満11歳となり、この9月からは華族女学校高等初等科第1級……私の時代風に言うと小学6年生になる。朝は我が家で働く料理人さんたちと一緒に朝食やお昼のお弁当を作り、学校から戻れば、自分の勉強の他にも家族の縫い物や家の掃除をする彼女は、この家での家事を私よりも多くこなしていた。
「何かな、万智子」
目を通していた戦術書のページをめくる手を止め、栽仁殿下が優しく尋ねると、
「私、将来は医者になろうと思います」
……万智子は信じられない言葉を口にした。
「そうか」
栽仁殿下は微笑して頷き、
「母上は、驚いているみたいだね」
と言って、私に穏やかな瞳を向ける。
「だ、だって……」
私は頭を左右に軽く振ると、
「万智子が、私と同じように医師免許を取ろうと思うなんて、今まで思ってもみなかったから……」
と正直な思いを口にして、じっと万智子を見つめた。
「母上、そんなに見つめられると恥ずかしいです」
照れ笑いをする11歳の長女は、親の贔屓目もあるかもしれないけれどとてもかわいい。華族女学校での成績も良い。そのまま成長して、どこかの華族の家に嫁入りして、幸せな家庭を築くのではないかと思っていた長女が、まさか私と同じ医師になりたいと言い出すとは……。私は深い感慨に浸っていた。
「万智子、どうして医者になろうと思ったのかな?」
私の隣に座っている栽仁殿下は、長女に優しい声で質問した。
すると、
「だって、医者のお仕事をなさっている母上がすごく凛々しいから」
万智子は目を輝かせて夫に答えた。
(え?)
「爺たちにインフルエンザの予防接種をなさっていた時の母上、すごく凛々しかったです。それに、父上の命を手術で救ったのでしょう?私、そんな凛々しくて仕事のできる女性になりたいです。だから医者になろうと思いました」
戸惑う私の前で、万智子は医者を志望した動機を自分の父親に述べる。彼女の顔は心なしか上気しているようにも見え、私の動揺は更に激しくなった。
「分かった。じゃあ、これからは頑張るんだよ」
栽仁殿下の返答に「かしこまりました」と一礼すると、
「では父上、母上、おやすみなさいませ」
万智子は深々と、再び私と栽仁殿下に向かって頭を下げる。長男の謙仁と次男の禎仁が自分に続いて「おやすみなさいませ」とあいさつしたのを確認すると、
「さ、お部屋に戻りましょ」
しっかり者の長女は弟たちを促し、居間から立ち去った。
(ええええええーーーーーっ?!)
私は目を見開いたまま、全く動けなくなってしまった。
「……それで、私たちに個人的な相談とは、何でしょうか、内府殿下?」
1922(大正7)年7月31日月曜日午後2時、東京市麹町区富士見町にある医科学研究所の所長室。
私の前には、この医科学研究所の所長・志賀潔先生が座っている。彼の両隣には、医科学研究所に所属する研究者の1人であるエリーゼ・シュナイダーことヴェーラ・フィグネルと、ヴェーラの下僕……ではなかった、共同研究者の野口英世さんがいる。本当は野口さんではなく、秦佐八郎先生にいて欲しかったのだけれど、夏休み中なので東京にいないということで、仕方なく野口さんにも話を聞いてもらうことにしたのだ。
「わざわざ平日の午後に有給休暇を使ってここに来なきゃいけない程度の重大なことなんでしょうね?」
軽く私を睨みつけたヴェーラを、「あの……流石にその言葉遣いは……」と志賀先生が注意する。それを無視して、
「当たり前でしょ。私の娘のことなんだから」
私はヴェーラに言い返した。
「内府殿下のお嬢様……と言いますと、万智子女王殿下のことですか。失礼ですが、今年でおいくつになりましたか?」
「満で11歳になりました。9月からは高等初等科……初等教育の最終学年ですね」
志賀先生の質問に、私はヴェーラにも分かりやすくなるように答えた。
すると、
「11歳ですかぁ……」
志賀先生の隣に座っている野口さんが、両眼を不気味に輝かせながらにたりと笑った。
「お写真を拝見したことはないけど、きっと宮さまに似て、可愛くて美人なんだろうなぁ。宮さま、ここで話に出てきたことですから、この機会に女王殿下にも是非医科研においでいただいて、僕と一緒にお話を……」
「ふざけるな、このロリコン!」
私は立ち上がり、娘を狙う変態に向かって右手を振り上げた。ところが、私の手が変態野郎の頬を捉える寸前、
「ふぼぁ!」
変態野郎は汚らしい叫びを上げて床に倒れ込んだ。私より一瞬早く立ったヴェーラが、野口さんの腹に渾身のパンチを叩き込んだのだ。
「まったく、下僕の分際で章子のお嬢さんに会おうだなんて、100万年早いのよ。ごめんなさい、章子。こいつは後でたっぷり折檻しておくから、今日の所は許してちょうだい」
「うん、いいけど……これ、生きてる?」
床に倒れ込んだまま殆ど動かない野口さんを私が指さして尋ねると、
「平気よ。どんなに蹴っても殴っても、10分したら起き上がって来るから、この下僕。頭も身体の頑丈さも一流なのに、品性だけは五流なのよね」
ヴェーラは平然とこう言ってのけた。
「それより章子、お嬢さんに関する相談って、いったい何なの?」
更に彼女は私に話をするよう促したので、私は床に転がっている野口さんのことは無視して、さっさと用件に入ることにした。
「実はうちの娘が、医者になりたいと言い始めたんです」
「ほう、それはそれは」
「いいじゃない。そのまま、医者になる勉強をさせれば?」
私の言葉に軽く返した志賀先生とヴェーラに、
「でも、なんか違うんですよ!」
私は頭を振りながら反論した。「“どうして医者になろうと思ったのか”と栽仁殿下が聞いたら、うちの娘、“医者の仕事をしている母上がすごく凛々しいから”って答えて……!」
「別に構わないんじゃない?章子は人気が滅茶苦茶あるから、子供が憧れるのも当然じゃない」
「そうかもしれませんけど……」
冷静な口調のヴェーラに、私は顔をしかめて返す。
「私は7歳の時、兄が病気で苦しんでいるのに、侍医が“臣下が皇族に傷をつけてはいけない”というしきたりを恐れて、診断に必要な処置ができないでいるのを見て、皇族の私ならそのしきたりを無視して、兄と父に侵襲的な処置ができるはずだから、自分が医者になって兄と父を助けようと決心しました。もちろん、私が医者を目指した動機は特殊ですけれど、でも娘からは、そういう気迫と言うか、覚悟と言うか……それが感じられないんです。だから、娘が医者を目指すのが、何だか危なっかしく感じられて……。でも、それを夫と大山さんに言っても、2人とも“別にいいんじゃないか”って言うんですよ!私、どうしたらいいかよく分からなくなって……」
「しかし、医者を目指すのは、最初は女王殿下のような可愛らしい動機から、という者も多いと思いますよ。私などは家が医家でしたから、否応なしに医学の道に進んだわけですが」
心配する私に、志賀先生はなだめるようにこんなことを言う。
「そうよ。医者をやる覚悟なんて、勉強していればそのうちついてくるものよ」
ヴェーラはこう言うと、呆れたように私を見つめた。
「確かに、私の母方の叔父も、生活のために医者になったけれど……」
ヴェーラに返答しながらも、
(でもなぁ……)
と私は思ってしまう。それは、私の前世での経験があるからだ。
前世の私は、医者になることを目指していたけれど、それは祖父も父も医者で、2人いた兄も医者を目指していたという家庭環境に大きく影響されたからだ。だから、前世で死ぬ前、自分が医者になっていいのかと悩み、虚ろな気持ちを抱えて日々の勉強や業務をこなすことになった。そんなむなしい経験を、万智子にはしてほしくない。
「しばらく、様子を見てはいかがでしょうか」
考え込んだ私に、志賀先生は穏やかに提案した。「他の職業のことを詳しく知ったら、また考えが変わるかもしれません」
「まぁ、そうなんですけどねぇ……」
それで娘の考えが変わらなかったら、私は母親として、先輩の医者として、どうすればいいのだろうか。明確な答えを得られないまま時は過ぎてしまい、私はため息をつきながら医科研を辞した。
1922(大正7)年8月13日日曜日午後2時30分、神奈川県葉山村にある有栖川宮家葉山別邸。
「どうしたの?葉山に来るなんて」
葉山別邸の応接間には、私の他に、夫の栽仁殿下と内大臣秘書官長の大山さんがいる。兄の葉山御用邸での避暑に付き従って葉山の別邸に滞在している私たち夫婦を、東京での事務を担当している大山さんが訪ねてきたのだ。
「仕事の上で大きな問題はないのですが、梨花さまのお顔を拝見したくなりまして、相談のついでに参上したのですよ」
大山さんは私の出した麦湯を一口飲むとこう言って微笑んだ。
「相談、ですか?」
首を傾げた栽仁殿下に、
「去年、若宮殿下にもお会いいただいた、軍医学生の半井君のことでございますよ」
と大山さんは告げる。「実習中の師団から、俺の所に手紙が届きました。今月の末には、卒業式のために一度東京に戻るそうでして」
「じゃあ、9月からは、いよいよ軍医少尉になるのね」
私は大山さんに笑みを向けた。「後輩の軍医学校卒業祝いとして、栽仁殿下さえよければ、盛岡町の家で半井君を招待して食事会をやりたいな」
「もちろん賛成だよ。じゃあ、僕たちの都合と、半井君の都合を合わせないとね」
夫の言葉に「そうね」と相槌を打った時、応接間の入り口から「失礼致します」という万智子の声がした。
「お茶菓子をお持ちしました」
涼やかな水色の和服を着た万智子は、お盆に載せた羊羹の小皿を手際よく、礼儀作法にのっとって机の上に置いていく。
「万智子、お茶菓子を持ってきてくれたのか」
栽仁殿下が優しく確認すると、
「はい、大山の爺がいらっしゃると聞いたので、千夏さんに頼んで運ぶのを代わってもらいました」
長女はよく通る声で答えた。
「お久しぶりでございます、女王殿下。しばらく拝見しない間にお母上に似て、一段とお美しくなられましたな」
「ありがとう、大山の爺。最近ちっとも来てくださらないから、母上に盛岡町に来るよう命じていただこうと思っていたの」
11歳の長女は大山さんに少し嬉しそうな口調でこう応じる。
「女王殿下の素直なご性格は、お父上に似ておいでですな」
目を細めて万智子を見つめる大山さんは微笑して言った。
「ねぇ、大山の爺。今日はどんな御用でこちらにいらしたの?」
羊羹の小皿を机の上に全て置いた万智子は大山さんに尋ねる。流石にこれは出しゃばり過ぎだろうと思い、娘を止めようとした時、
「ええ、お母上とご縁のあるお医者さまが、もうすぐ軍医学校を卒業しますので、そのお祝いの食事会を盛岡町で開きましょうという話をしておりました」
大山さんは万智子にこう答えた。
「あ、ちょっ、大山さん、そこまでは言わないで……」
注意した私に「なぜでございますか?」と大山さんが問い返すと、
「父上、母上、私、その食事会に出席したいです。それで、その方から、医者に関するお話を聞きたいです」
万智子はハッキリとこう言った。
「万智子?!」
目を丸くした私の横で、
「いいじゃないか」
栽仁殿下は微笑んで頷いた。
「栽さん?!」
思わず2人だけの時の呼び方を使ってしまった私に、
「章子さんの気持ちは分かるけど、まず医者がどういうものか少しでも知る方が、万智子のためになると思うよ」
と栽仁殿下は優しく諭す。
「女王殿下、お母上からは医者の話をお聞きにならないのですか?」
「聞こうとしたけれど、“私は医療現場から何年も離れてしまったから、うまく話ができない”と断られてしまったの。だから、今度盛岡町にいらっしゃる方に医者の話を聞こうと思って」
大山さんの質問に万智子は明るい声で答える。私は両腕で頭を抱えたいのを必死に我慢した。
「ただ、万智子だけが食事会に出るのは不公平だから、謙仁と禎仁にも出てもらわないとね。……章子さん、それでいいかな?」
そう問うた栽仁殿下の横で、万智子が期待に満ちた目で、じっと私を見つめている。夫の提案に“No”と答える選択肢は私には残されていなかった。こうして半井君の軍医学校卒業を祝う食事会は、当初想定していたより大きな規模で開かれることになった。




