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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第71章 1922(大正7)年小満~1922(大正7)年小雪
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合格通知

 1922(大正7)年7月27日木曜日午後0時5分、皇居・表御殿にある竹の間。

『ほう、これは……』

 本日の昼食会の主賓・駐日イギリス大使のチャールズ・ノートン・エッジカム・エリオットさんが、栽仁(たねひと)殿下の隣で自分を出迎えている私の姿を見て、軽く目を瞠った。

『内府殿下、本日は制服をお召しになっていらっしゃらないのですね』

 話しかけてきたエリオットさんに、

『ええ。ちょっと今日は事情がありまして』

私は英語で応じると、空色の通常礼装(ローブ・モンタント)のスカートをつまんで営業スマイルを向ける。この通常礼装(ローブ・モンタント)は20年ほど前、私が初めて仕立ててもらった通常礼装(ローブ・モンタント)だけれど、その頃と体形がほとんど変わっていないので数年ぶりに着てみた。

『今日、私は内大臣では無くて、栽仁殿下の妻として出席しております。ですから、今日はいつもの制服ではなくて、通常礼装(ローブ・モンタント)を着ておりまして……』

 英語で更に説明を加えると、

『なるほど。内府殿下は色々と大変なのですね』

エリオットさんは深く頷いてから軽く笑った。

 今日、エリオットさんを主賓とする昼食会が開かれるのは、通例によるものである。日本が清、そしてイギリスと同盟を結んでから、日本側は2年に一度、それぞれの国の駐日大使を招いて昼食会を開いていた。今回も駐日イギリス大使との昼食会の開催時期が近づき、日本側の招待客を決めようとした時、少々困った事態が発生した。

 昼食会には、東京にいる皇族が2人出席することになっている。その2人は、できれば夫婦であることが望ましいのだけれど、普段東京にいる皇族のほとんどが、避暑や出張で東京を離れていた。夫婦ともに東京に残っていたのは、迪宮(みちのみや)さまと良子(ながこ)女王殿下、東小松宮(ひがしこまつのみや)輝久(てるひさ)王殿下と多喜子(たきこ)さま、そして栽仁殿下と私の3組である。

 ところが、迪宮さまの奥様の良子女王殿下は体調を崩していた。輝久殿下の妻で、私の一番末の妹である多喜子さまは、現在進級に関わる学年末試験期間の真っ最中で、どうしても昼食会には出られないと宮内省に返事をした。そこで急遽、私が内大臣ではなく、栽仁殿下の妻としての立場で、栽仁殿下と一緒に昼食会に出席することになった。要人を招いての食事会では、内大臣として出席することがほとんどなので、私が王妃としての立場で出席するのはかなり珍しいことだった。

 本当は、今日は有給休暇を取って、自宅で着替えてから皇居に行きたかったのだけれど、有給が取れなかったので、今日の午前の政務が終わった後、内大臣室で急いで制服から通常礼装(ローブ・モンタント)に着替えた。この食事会が終わったら、また内大臣室で着替えて制服に戻らなければならない。仕方ないけれど、今日はなかなか慌ただしい一日になりそうだった。

『ところで、皇太子殿下の弟君は、昨日成年式でしたね』

 昼食会が中盤に差し掛かったころ、エリオットさんは栽仁殿下にこう話しかけた。

『はい、そうですね』

 話しかけられた栽仁殿下は嬉しそうに頷く。エリオットさんの言った“皇太子殿下の弟君”というのは、先月の25日に満20歳になった淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)さまのことだ。彼は“秩父宮(ちちぶのみや)”という宮号を賜って新しい宮家を創設したけれど、彼は広島県にある海兵士官学校に在学中なので、誕生日に成年式を執り行うことができなかった。そこで、士官学校が夏休みに入り、秩父宮さまが帰京した2日後の昨日、秩父宮さまの成年式が挙行されたのだった。

『昨日、成年式のお祝いを申し上げに参内しましたが、秩父宮殿下はとても立派に成長なさっていました』

 栽仁殿下は見事な英語で続けた。『秩父宮殿下は僕と同じ海兵士官を目指していらっしゃるので、よくお噂が耳に入りますが、皇族だからと言って特別扱いされることを好まず、一般の生徒たちと常に切磋琢磨なさっておられるそうです。きっと秩父宮殿下は立派な海兵士官におなりになると僕は信じています』

『そうですか。それは本当に頼もしいことです。秩父宮殿下もですが、若宮殿下も、一般の生徒に混じって国軍大学校で日々ご研鑽を積んでいらっしゃるとか……』

『過分なお褒めに預かり恐縮です。僕はまだ修業中の身です。今後も自らの研鑽に励み、日本一の海兵大将になれるよう努めます』

 栽仁殿下がエリオットさんに軽く頭を下げると、

『ああ、若宮殿下は本当に素晴らしい。こんな方が内府殿下の御夫君とは、うらやましい限りです』

エリオットさんはそう言って、今度は笑顔を私に向ける。

『私の夫は、私が持っていないたくさんの長所を持っているのです』

 私も営業スマイルを作り、エリオットさんに英語で答える。『本当にかけがえのない夫です。彼と結婚できたことは、私の人生における幸せなことの1つですわ』

『……とおっしゃいますが、内府殿下も長所をたくさんお持ちでしょう。政治的なセンスと美貌とを併せ持った女性というものは、世界中を探してもなかなか見つかりません』

「そうだよ、章子さん。もっと自信を持っていいんだ。章子さんには、章子さんしか持っていないいいところがたくさんあるんだから」

 エリオットさんは英語で、そして夫は日本語で、私のことを褒めそやす。「混乱するから、褒めるのは後にして」と夫にお願いすると、

『制服姿も美しくていらっしゃいますが、このようなドレス姿も素晴らしい。今日はご勤務の方は?』

エリオットさんが私に尋ねた。

『ええ、午前中も勤務でしたよ。午後も、この昼食会が終わったら勤務です。だから午前の勤務が終わった後に着替えさせてもらいました』

『なるほど。官僚から王妃への早替わり……歌舞伎役者のようですな』

 私の答えに、エリオットさんはこんな言葉で返した。彼は日本の文化に造詣が深いのだ。

『お詳しいですね。私は歌舞伎には詳しくなくて……お恥ずかしい限りです』

『内府殿下の御身分では、歌舞伎を見に行くのはなかなか難しいでしょう。万が一観客に正体が知れたら、歌舞伎どころではなくなってしまうでしょうし』

 苦笑いした私に、エリオットさんは慰めるように言うと、

『しかし、日本文化は、歌舞伎に限らず、本当に奥深い。京都や奈良にある仏像を見て回れば、それだけで一生を過ごせそうな気分になります。ヨーロッパ諸国では、日本の文化が曲解されて伝えられてしまっていますが、やはり、本場で触れる日本文化が一番です』

と続けた。

『おっしゃる通りですわ。特に忍者なんて、ヨーロッパで曲解されて伝えられていますし……』

 エリオットさんに私はしみじみと返答した。かつて訪日した際に私にいきなり抱きついたイタリア王族・トリノ伯が書いた、侍がセクハラ野郎を目指すというとんでもない内容の小説は、ヨーロッパで売れに売れ、今では“侍は刀を振ると炎を発することができる”などという、日本文化に関する数々の誤解をヨーロッパ中に広めてしまっている。だから、エリオットさんのように、正しく日本文化を理解しようとしてくれる欧米人は、私たちにとって本当にありがたい存在なのだ。

『この夏もまた、京都と奈良で仏像を見て回ろうと思います』

 そう言って微笑したエリオットさんに、

『京都も奈良も暑いですから、どうぞお体には気を付けてくださいね』

私は飛び切りの笑顔で応じた。


 1922(大正7)年7月27日木曜日午後1時15分、皇居・表御座所。

(うわー、今日は蒸すなぁ……)

 通常礼装(ローブ・モンタント)の裾を引きずりながら、私は1人で表御座所に戻ってきた。天気予報によると、今日は日本海を台風が通過するらしい。その影響か、雨は降っていないけれど、空は朝からずっと曇っている。廊下の開いた窓から流れ込む風は湿り気を帯びていた。

 昼食会があったので、今日の午後の政務の開始時刻は、いつもより1時間遅れの午後2時からとなった。それまでに、いつもの制服に着替えないと……とぼんやり考えていると、

「叔母さまー!」

遠くから、女性の可愛らしい声が聞こえた。この表御座所に、私と平塚さん以外の女性が立ち入ることはめったに無い。不審に思って足を止めた時、

「梨花叔母さまー!」

先ほどよりもはっきりと、可愛らしい声が聞こえた。私はのんびり歩くのを止め、声のする方へ急いで足を動かした。

「あ、梨花叔母さま!」

 内大臣室の前を通り過ぎ、奥御殿へと続く廊下に足を踏み入れると、廊下に立っていた少女が私の姿を見てパッと顔を輝かせる。彼女は兄夫妻の長女、希宮(まれのみや)珠子(たまこ)さまだ。この4月に満18歳になった彼女は、今月の末に華族女学校高等中等科を卒業する。

「わぁ、すごく素敵な通常礼装(ローブ・モンタント)!梨花叔母さまが通常礼装(ローブ・モンタント)をお召しになっているの、わたし、初めて見たわ!」

「私は章子だよ、希宮さま」

 やや興奮している可愛らしい姪っ子に訂正を入れてから、

「私を探していたみたいだけれど、一体どうしたの?あ、乃木閣下とのケンカを仲裁して欲しいのだったら、お断りするわよ」

と私が尋ねると、

「ひどいわ、叔母さま。そんなんじゃないのに」

希宮さまは少し口を尖らせる。

「ごめんなさい、希宮さま」

 姪っ子に謝ってから、「それで、一体どうしたの?」と再び質問すると、

「あのね、叔母さま。わたし、一高の二部に合格したの!たった今、合格通知が届いたわ!」

希宮さまはとても嬉しそうに私に教えてくれた。

「!」

 一高、すなわち第一高等学校の二部は、薬剤師になることを目指している希宮さまの志望校だ。一高の二部にある薬学科に入れば、卒業と同時に薬剤師免許がもらえる。希宮さまはそれを目標にして、受験勉強に励んでいたのだ。

「やったじゃない!おめでとう、希宮さま!あなたのお父様(おもうさま)お母様(おたたさま)には伝えたの?」

「もちろんよ!合格通知を受け取った時に、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)が表御殿から戻っていらしたから、真っ先に伝えたわ!そうしたらお父様(おもうさま)が、今叔母さまの所に行けば、通常礼装(ローブ・モンタント)をお召しになっている叔母さまが見られるって教えてくださったから、走ってここまで来たの!」

 私の問いに、希宮さまは元気よく答える。宮殿の中は、余程のことが無い限りは走らないものなのだけれど……希宮さまがお転婆なのは相変わらずのようだ。

「ああ、楽しみだわ、叔母さま!薬剤師になるための本格的な勉強が、やっと始められるんですもの!9月になって一高に入ったら、今まで以上にたくさん勉強して……」

「あー、待って、希宮さま。ちょっと気になったのだけれど……」

 希望に燃える姪っ子に私は声を掛けた。

「もしかして、あなたのお父様(おもうさま)お母様(おたたさま)の次に私に伝えてくれたのかしら?それは嬉しいけれど、他の人には伝えなくていいの?お兄様たちとか、乃木閣下とか」

 私が指摘すると、希宮さまは「あ!」と声を上げ、右手で自分の口を塞いだ。

「いけない!乃木や兄上たちに伝えないと!ごめんなさい、叔母さま、わたし、奥に戻ります!」

 希宮さまは私にくるりと背中を向け、奥御殿へと走り出す。と思ったら、数m走ったところで彼女は立ち止まり、再び私の方を向いた。

「叔母さま!」

「な、何?!」

 一体どうしたのだろうか、と身構えた私に、

「わたし、頑張ります!薬剤師を目指して頑張ります!」

姪っ子は強く決意を表明する。そして、今度こそ奥御殿へと駆け去って行った。

「はぁ……」

 飛鳥のように走っていく希宮さまの後姿をぼんやり見ながら、私は大きく息を吐いた。彼女が生まれてから今までのことが、脳裏に思い起こされる。“史実”では存在しなかった兄夫妻の娘として生を()け、やんちゃな子供時代を送り、“自分の手で人を助けるような仕事がしたい”と言って薬剤師を目指すことを決めた少女と過ごした思い出が。その間には、かつての私と同じように、死を選ぼうとしていた大切な人を自分の臣下にするという事件もあった。

「希宮さまの入学祝い、何にするか考えないとねぇ……」

 だけどそれは、いつもの制服に着替えてからだ。私は再び通常礼装(ローブ・モンタント)のスカートの裾を引きずりながら、内大臣室へと戻って行った。

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