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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第71章 1922(大正7)年小満~1922(大正7)年小雪
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冥土の土産

 1922(大正7)年5月30日火曜日午後2時30分、皇居・表御座所にある内大臣室。

「なるほど……」

 内大臣室の中央にある応接セット。その椅子の1つに腰を下ろして紅茶を飲む老紳士は、枢密顧問官の1人である伊藤さんだ。今日は、毎週火曜日の恒例行事になってしまった机上演習を担当した。そして、表御殿での小規模な昼食会の後でこの内大臣室にやって来て、私の話を根掘り葉掘り聞いている。

「本当に良い、慰霊の旅であったのですな」

 そして伊藤さんは、先日の南九州3県への行幸啓のことを私から一通り聞き出すと、深い感慨を伴った声でこう言った。

「宮崎県では、墓地や慰霊碑に直接ご参拝なさることはなかったものの、熊本県では田原坂(たばるざか)の激戦地の周辺にある官軍墓地と薩軍墓地を、そして鹿児島でも官軍墓地と薩軍墓地をご参拝された……。陛下も長年の御宿願を果たされて、御安堵なさったことでしょう」

「……まぁ、多少は胸のつかえが取れたとは思いますけれど、これで終わりではないと兄上は考えています」

 やや熱っぽく語る伊藤さんに、私は穏やかに言った。

「鹿児島で官軍を憎む感情はまだまだ強いです。鹿児島の街を微行(おしのび)で歩いた時にそう感じました。私たちは戊辰以来の戦いで亡くなった方たちのご冥福を敵味方の区別なく祈り、心身に傷を負った人々が癒されるようにと動いていますけれど、当事者たちには“所詮は綺麗事だ”と否定的に捉えられるかもしれません。けれど、彼らの怒りや悲しみが、私たちの行動でいつか癒され昇華され、この国に暮らす人々の心が(いつ)になる日が来ると信じている……兄上はそう言っていました」

「さようでございましたか。やはり陛下は、ご仁慈に富まれておいでになる」

 伊藤さんは深く頷くと、

「実は、狂介と黒田さんと児玉は、天皇陛下と皇后陛下が西南の役の戦没者の墓地をご参拝なさっている時刻に合わせ、戦没者の墓地に向かって自宅から遥拝していたのです」

と私に教えた。

「!」

「彼らもかつて、西南の役で戦わなければなりませんでした。今回の行幸啓に随行は仰せつけられませんでしたが、“天皇皇后両陛下と気持ちを同じくして、大西郷をはじめ、西南の役で戦死した者たちの冥福を祈りたい”……狂介はわしにこう言いました。黒田さんと児玉の思いも同じでありましょう」

「そうだったんですね……」

 私は胸が熱くなるのを感じた。今回の行幸啓の前、山縣さんは兄に、“どうして自分が宮内大臣だった時に、南九州3県への行幸を仰せ出されなかったのか、心待ちにしていたのに”と叫んだ。行幸に供奉して、鹿児島で自分に恨みを持つ者に殺されても構わない、とまで彼は言い切ったのだ。

「狂介は、“史実”と考え方が変わったように思います。これも、この時の流れ故、なのでしょうが……」

 伊藤さんは微笑すると、

「ところで内府殿下、お楽しみの方はいかがでしたか。ああ、もちろん、城郭以外で、ですが」

その微笑を崩さぬまま、私に少し変わった質問をした。

「なんでお城のことを、真っ先に封じますかねぇ……」

 私は軽く顔をしかめたけれど、

「さっきも少し話しましたけれど、鹿児島では微行(おしのび)に出ました。と言っても、大山さんのお墓参りに付き合った後、お土産を買った程度で、お芝居や活動写真を見物した訳ではないですけれど」

と伊藤さんに話した。

「ほう、大山さんの墓参りにお付き合いなさった、と……」

 伊藤さんは頷くと、

「斎藤君の話では、“史実”の大山さんは、西南の役の後、2度と鹿児島に戻らなかったとか……。“史実”ではしたくてもできなかった墓参りに行くことができ、しかもそれに内府殿下が付き添われるとは……実にうらやましい話です」

と言う。「はぁ」とぼんやりした返事を私はしたけれど、

「可能であれば、わしも内府殿下に、故郷を案内したいものですが……」

それを聞いていたのかいないのか、伊藤さんはぶつぶつと実現不可能な希望を呟いている。兄のそばを離れられない私は、伊藤さんの故郷である山口県に行くことはできない。とりあえず、伊藤さんの呟きを無視することに決めた時、

「ほほう……難しいことを言っておる、と考えておいでですな。しかし、わしにも策はありますぞ」

伊藤さんは不穏な言葉を口にした。

「内府殿下はそのご職務上、陛下のおそばを離れることができません。ならば、陛下に山口県に行幸いただければ、内府殿下も山口県を訪れることができるのです」

「あの、伊藤さん、それは……」

 現時点で、兄が山口に行く理由はない。だから、伊藤さんの策は成就しないと答えようとすると、

「何、簡単なことです。山口県かその近くの県で、特別大演習が開催されればよいのです。そうすれば、大演習の期間中かそのご帰途で、陛下が山口県をご訪問なさいます。ですから、山口の県知事に働きかけて、特別大演習の演習地に立候補させて……」

伊藤さんは聞き捨てならないことを言い始める。

「伊藤さん、それ、犯罪を引き起こす可能性がありますからやめてください」

 私は伊藤さんを睨んだ。「特別大演習が行われる県には、見学者が多く訪れますから、その県の宿泊業や飲食業に多大な利益をもたらします。過去、それを狙って、特別大演習の誘致をしようとした県がいくつかありましたけれど、全て不正なお金が絡んでいたので、院によって潰されています。伊藤さんがもし、山口県知事に大演習の開催を誘致させようとするなら、山口県知事が不正なお金に手を染めるという罪を犯してしまう可能性もありますけれど……」

「失礼いたしました」

 伊藤さんは慌てて深く頭を下げた。「今のは冗談でございます。天地神明に誓いまして、大演習の誘致などは致しません。どうか、ご安心くださいますように」

「なら、いいですけれど」

 私はお茶を一口すすった。「まったく……特別大演習の実施地域の住民は大変なんですよ。田畑は兵士に踏み荒らされるし、宿営地に指定される可能性がある家は、兵士を泊められるように改装しないといけないし……。一部の業種は潤うかもしれませんけれど、他の人たちが被る迷惑をよく考えてください」

 伊藤さんが再び頭を下げた時、外から内大臣室のドアがノックされた。大山さんだろうか、とも思ったけれど、大山さんは今、兄の政務を手伝っている。では誰だろう、と考えた瞬間、

「内府殿下、よろしいですかのう」

ドアの外からのんびりした声が聞こえた。これは枢密顧問官で、淳宮(あつのみや)さまたちの輔導主任を務める西郷従道(じゅうどう)さんのものだ。「どうぞ、入ってください」と声を掛けると、黒いフロックコートを着た西郷さんが内大臣室に入ってきた。

「申し訳ない、伊藤さん。今日は伊藤さんが内府殿下のおそばに侍る日と分かってはいたのですが、至急、内府殿下にご相談申し上げたいことができまして……」

「何、構わんよ。西郷さんが相談したいとなれば、よっぽどのことじゃろう」

 恐縮する様子の西郷さんに、伊藤さんはにこやかに言う。私が伊藤さんの隣の椅子を西郷さんに勧めると、「では失礼して」と言いながら西郷さんは腰を下ろした。

「それで、私に至急に相談したいことって何ですか?」

「実は、義理の姉が先ほど亡くなりまして」

 私の質問に、西郷さんはこう答えた。


 西郷さんには2人の兄がいた。これは先日、鹿児島からの帰りの船の中で、大山さんに聞いて知ったことだ。

 上の兄は、言わずと知れた西郷隆盛さんである。隆盛さんの奥様の糸子(いとこ)さんはご存命で、先日の兄夫妻の薩軍墓地参拝の際にも姿を見せていた。ただ、体調を崩していると事前に聞いたし、墓地参拝の時に姿を見た時も、本調子ではないように思えた。

 そして、西郷さんの下の兄は吉次郎(きちじろう)さんと言い、戊辰戦争で亡くなっている。彼の奥さんも既に亡くなっているから、西郷さんが“義理の姉が亡くなった”と言うならば、それは糸子さんのことになる。

「西郷さん……鹿児島でお会いした時、糸子さん、無理なさっていたんでしょうか?」

 まず“お悔やみ申し上げます”と言ってから、私は西郷さんに尋ねた。

「はい。今年に入ってから、だいぶ身体が弱ってしまったのです。食事を受け付けない日も多かったのですが、天皇皇后両陛下が浄光明寺(じょうこうみょうじ)の薩軍墓地にご参拝なさると聞いてから、“その場に何としてでも立ち合う”と言い張って、食事を必死にとるようになりました。それで何とか東京から鹿児島に行き、ご参拝に立ち会うことはできたのですが、東京に戻ってから、気力が尽きたようでして、そのまま……」

 西郷さんは私に答えると、

義姉(ねえ)さんは、言葉にできないくらい辛い思いをしてきました。けれど、最後に、天皇皇后両陛下が、夫の墓参りをなさるという、この上ない栄誉に浴することができました。それだけでも良かったと思っております」

涙声でこう続けた。

「そうですね……」

 私が頷くと、

「糸子どのによい冥土の土産ができたのは間違いないが……西郷さん、内府殿下にご相談申し上げたいことというのは、一体何かね?」

伊藤さんが冷静に西郷さんに質問する。「そうでした」と言って服の袖口で涙を拭った西郷さんは、

「実は、弥助どんが義姉(ねえ)さんの葬儀に出てくれるか……それを心配しておりまして」

そう答えるとうつむいてしまった。

「それは……」

 私の脳裏に、先日の薩軍墓地での光景がちらつく。私たちが薩軍墓地に到着した時、待ち受ける人々の中に糸子さんの姿を見つけた大山さんは、顔を強張らせ、糸子さんに深々と頭を下げた。

「大山さんは、従兄の西郷隆盛さんを討つことになったけれど、それは、糸子さんの夫を討つことにもなったのよね……」

 私が低い声で指摘すると、

「もし、大山さんがその負い目を抱えたままならば、大山さんは糸子どのの葬儀に出ないかもしれませんな……」

伊藤さんが顔をしかめ、両腕を胸の前で組んだ。

 すると、

「それは困ります」

西郷さんが頭を左右に振った。「いろいろあったのは確かじゃが、もはや、寅太郎どんは、弥助どんに恨みは持っておらん。西南の役が終わってから、弥助どんは、寅太郎どんや義姉(ねえ)さんのところに来たことは一度も無かった。寅太郎どんと義姉(ねえ)さんが、東京に住むようになってからもじゃ。しかし、義姉(ねえ)さんのことは、従兄の嫁として、きちんと弔って欲しいのじゃ」

 西郷さんの言葉からは、のんびりした調子が消えていた。

「だから、内府殿下のお力をお借りしたい。ご主君の言葉であれば、弥助どんも従うじゃろう、そう思って……」

「……何だかんだ言って、私の命令に従ってくれないこともありますけれど」

 私は軽くため息をついてから、

「とにかく、話さないと始まらないから、大山さんに言いに行きます。そろそろ、午後の政務も終わりますし」

と言って内大臣室を出た。ついてきた西郷さんと伊藤さんには、廊下の角のところで待っているようにお願いして、兄の執務室である御学問所の中に声を掛ける。

「どうした、梨花。伊藤顧問官から逃げてきたのか?」

 執務机の前にある椅子に座った兄が、悪戯っぽく微笑みながら言う。

「逃げるのなら、付き合ってやるぞ。ちょうど政務も終わったところだしな」

「あー、ごめん、兄上。そうじゃなくて、大山さんに用があるの」

 その私の言葉に反応した大山さんが、

(おい)に用事……でございますか?」

書類を整理する手を止めて私の方を向いた。その彼の目を見つめながら、

「ついさっき、西郷さんが知らせてくれたんだけど……糸子さんが亡くなった」

と私は告げた。

「?!」

「そうか……やはり先日会った時は、相当無理をしていたか……」

 目を見開いた大山さんの横で、兄がうつむいて呟く。その兄の様子は敢えて無視して、

「だから、今日はもう上がっていいわ。西郷さんと一緒に、糸子さんのお悔やみに行きなさい。もし葬儀のお手伝いをしないといけないなら、有給を使ってもいいわよ」

と私は大山さんに命じる。

 すると、

「恐れながら、梨花さま」

大山さんが低い声で言った。

「糸子どんは、(おい)の従兄の妻でございます。血はつながっておりませんから、今から業務を投げ出して悔やみを申し上げに行くほどでは……」

「でも、その従兄には、すごくお世話になったんでしょ?」

 私は大山さんの方に向かって一歩身体を近づけた。「だったら、その奥さんのお悔やみはするべきよ」

「確かにその通りですが……」

 大山さんは力無く首を横に振る。「(おい)には、糸子どんを弔う資格はありませぬ」

「何言ってるのよ。あるに決まってるでしょう」

 私は大山さんを睨みつけた。

「私はね、糸子さんにあなたのことを頼まれたの。大山さんを憎んでいる人が、この私に、あなたをよろしく、なんて言うはずがないわ」

「……」

「あなたはもう許されているよ、大山さん。だから、ちゃんと糸子さんとお別れしてきなさい。ここまで言っても気が引けるって言うなら、この場で令旨を出すわよ」

「……いえ、それには及びません」

 大山さんは私に深く頭を下げた。

「では梨花さま、本日はこれで退勤させていただきます」

「うん、そうしてちょうだい」

 私は頷くと、「そこに西郷さんがいるから、一緒に行くといいわ」と付け加えた。大山さんは無言で一礼すると、書類を袖机に置き、

「それでは、これで失礼させていただきます」

と兄に最敬礼して、御学問所を退出した。

「まったく、頑固だなぁ……」

 閉じられた入り口の障子を見て私がため息をつくと、

「ああ。俺と大山大将が説得してお母様(おたたさま)の所に行かせる時の梨花のようだった」

兄がそう言ってクスっと笑った。

「笑い事じゃないのよ、兄上。糸子さんのお悔やみに大山さんが行ってくれるか、本当に不安だったんだから」

「それはすまなかったな」

 兄が私に頭を下げた瞬間、「陛下、内府殿下、入りますぞ」と言いながら、伊藤さんが御学問所に入ってきた。

「ああ、伊藤さん。放っておいてごめんなさい。大山さんと西郷さんは?」

「今、連れ立って表御座所を出て行きました。これから、糸子どのの弔問に行くのでしょう」

 私の問いかけに、伊藤さんは微笑んで答えた。

「よかった……」

 私がほっと胸を撫でおろすと、

「しかし、大山さんも西郷さんも変わりましたな」

と伊藤さんは言う。

「以前は、西南の役に少しでも関わる話は、あの2人の間で出ることはありませんでした。わしらもその話題を意図的に避けていたのです。ところが今、わしと別れると、あの2人は、大西郷と糸子どのの話を始めました。“今回の行幸啓で、糸子どのも大西郷によい冥土の土産ができたのではないだろうか”、と……」

「それは……」

 気持ちを上手く言葉にできないでいると、

「俺たちが西南戦争の戦没者の冥福を現地で祈ったことで、あの2人の中で、ある程度気持ちの区切りがついたのかな」

兄が穏やかな声で言った。「だとすれば、よかった。……しかし、この国の人々の心は、戊辰以来の戦で、まだ離れ離れになっている。これからも、俺たちは戦で傷ついた人々の心と身体を癒し続けなければな」

 伊藤さんが兄に向かって最敬礼する。私も「そうだね……」と言いながら頷いた。

「兄上、私も勤務が終わったら、糸子さんのお悔やみを言いに行くね。私の臣下がお世話になった人の奥さんだから」

 私が兄にこう言うと、

「そうしてくれ」

兄は私の目をしっかり見つめながら首を縦に振った。

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