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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第70章 1921(大正6)年立冬~1922(大正7)年小満
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田原坂

 1922(大正7)年5月16日火曜日午前7時、熊本市内にある熊本城跡。

「うーん、やっぱり、宇土(うと)櫓はいいわねぇ……」

 朝早く目が覚めた私は、兄夫妻やその側近たちの宿舎になっている第6軍管区司令部の建物を抜け出し、熊本城跡を1人で散歩していた。この時の流れでは、熊本城跡は第6軍管区が管理している。司令部は熊本城の本丸跡に建っているから、司令部に泊まっている今は、熊本城の遺構を好きなだけ見ることができるのだ。

「さて、この後はどこに行こうかしら。また本丸東側の櫓を見て回ってもいいし、足を延ばして監物(けんもつ)櫓の方に行っても……」

 私がうっとりと宇土櫓を見上げ、心躍らせながら計画を練っていると、

「梨花さま」

鋭い殺気とともに、後ろから声が掛けられた。私を“梨花さま”と呼ぶのは、この世でただ1人しかいない。内大臣秘書官長を務める、非常に有能で経験豊富な我が臣下だ。私は恐る恐る後ろを振り返った。

「もうすぐご朝食の時間です。司令部にお戻りにならなければ」

 私を殺気で従わせた大山さんの顔には、苦笑いが浮かんでいる。今は身体から殺気は消えているけれど、またいつ強烈な殺気を突きつけられるか分からない。……しかし、熊本城の遺構を楽しめるせっかくの機会を逃したくはない。

「大山さん、もうちょっとだけ、ここにいていいかな?昨日も、第一高等女学校の生徒たちの剣道の相手をさせられたから、体力が回復してなくて……」

 私はおねだりをするように大山さんを見つめながら粘ってみた。すると、大山さんは私の右手を握り、

「恐れながら梨花さま、城郭の見学をなさるより、ご朝食を召し上がる方が、体力回復の助けになると存じます。ご朝食を抜いてしまってもよろしいのですか?」

と、穏やかに私を諭す。顔には微笑が湛えられていたけれど、その眼は全く笑っていない。これ以上反抗したら、私は彼の怒りと殺気で、たちまち屈服させられるだろう。

「……仕方ないわ、司令部に戻る」

 大きなため息をついた私の右手を、大山さんは更に強く握る。大山さんから逃げられなくなった私は、彼にエスコートされるまま、司令部へと歩いた。

「しかし、熊本城の縄張りは本当によく考えられているわねぇ。東側は川が流れているから、それが天然の堀になる。西側は東側に比べて攻撃されやすいから、二の丸、三の丸を作って、防御設備を整えることでカバーする……本当、熊本城は美しいだけじゃないわ……」

 昨日の夕方、第6軍管区の司令官さんから受けた熊本城の遺構についての説明を脳内で反芻しながら呟く私に、「ですな」と大山さんは相槌を打つと、

「だからこそ、西南の役で、この熊本城に籠った官軍も耐え抜くことができたのでしょう」

と穏やかな声で言った。

 1877(明治10)年2月15日、薩軍の本体は鹿児島を出発し、2月22日にこの熊本城への攻撃を開始した。熊本城を攻める薩軍は約1万4000人、対する官軍は約4000人の兵力だったけれど、熊本城に立て籠もった官軍は2か月弱にわたる戦いに耐え、ついに友軍到着まで熊本城を守り切ったのだ。

「その時の官軍の中に、児玉さんと奥閣下がいたのよね。……前世でも、ここが西南戦争の激戦地の1つだったとは知っていたけれど、こうやって転生して話を聞いたら、より実感が湧いたわ」

 私は歩きながら言うと、

「何とか、西南戦争を起こさずに済む方法は無かったのかなぁ……いや、そんなことを言っても仕方がないのはわかっているけれど」

そう付け加えてまたため息をついた。

「恐れながら梨花さま、今のお言葉、(おい)には、戦争を起こしたくない、というより、熊本城を可能な限り保全したい、というように聞こえてしまうのですが……」

「失礼ね。ちゃんと、戦争は起こしたくないと思っているわよ。……まぁ、1割ぐらい、熊本城への私情はあるけれど」

 熊本城は薩軍が攻撃する数日前に、火災により、大天守や小天守、本丸御殿などを失っている。薩軍が官軍に打撃を与えるために放火したのか、薩軍の砲の格好の目標になってしまう天守などを事前に破壊しようとして官軍が火を放ったのか……原因は分からないけれど、もし、西南戦争が起こっていなかったら、熊本城の貴重な建造物は、今よりも多く残っていたのだろう。そしてもちろん、数多の将兵の命も。

「正直で、大変よろしゅうございます」

 少し渋い表情で私にツッコミを入れた大山さんは、私の答えを聞くと少しだけ顔をほころばせて言った。「(おい)たちに最初に“授業”をなさった時、梨花さまはおっしゃっておられました。“人が死ぬのは嫌だ。でも、城郭が無くなるのも、それと同じくらいに嫌”と」

「今は人が死ぬ方が断然嫌よ」

 私は即座に答えると、後ろを振り返った。宇土櫓の姿は、もう遠くなってしまっている。この櫓は私の時代まで残っていた遺構だけれど、2016年の熊本地震で被害を受けたのだ。

「西南戦争のことを語り継いで教訓にするためにも、熊本城はちゃんと残さないとね。それこそ、私の生きていた時代を超えて……」

 私は宇土櫓の姿を網膜に焼き付けると、「さっさと戻ろうか」と我が臣下を促して、歩く速度を上げた。


 1922(大正7)年5月16日火曜日午前9時55分、熊本県田原(たばる)村。

「おかしいなぁ……」

 兄と節子さまに馬車で付き従っている私は、窓からの風景を見て首を傾げた。

 熊本を列車で発った兄一行は、熊本から15kmほど北にある木葉(このは)駅まで列車で移動し、馬車に乗り換えた。目的地は田原坂(たばるざか)……西南戦争の序盤、官軍と薩軍が死闘を繰り広げた場所である。そして先ほど、馬車は丘陵に付けられた坂道を上り始めた。ということは、今通っている場所が田原坂だと思うのだけれど……。

「どうなさいましたか?」

 隣の席に座った大山さんが、私の呟きを拾う。その彼に、

「いや、どこからどこまでが田原坂なんだろう、と思ってね」

と、私は左右を見回しながら言った。「田原坂って、100mぐらいの長さでしょ?だから、馬車ならすぐに通り過ぎると思うのだけれど、馬車がずっと坂道を上がり続けているから、どこが田原坂だかよく分からなくて……」

 すると、

「恐れながら、田原坂の長さは1km以上ございます」

大山さんは私に苦笑いを向けた。「今で恐らく、3分の2ほどは過ぎたと思いますが」

「そんな!」

 私は窓の外に広がる風景をもう一度確かめた。切通しの道なので、左右には崖が迫っている。崖の上に生い茂った草木が影を作り、道は日中だというのに薄暗い。

「坂を上り始めてから、ずっとこんな切通しの道だったけれど、これがまだ続くの?!」

 崖の上の茂みは、兵が潜んで道を通る人を狙撃するのにうってつけだ。しかも、道は所々でカーブしているから、先が見え辛くなっている。

(これ……ここで防衛戦をやったら、防衛側が圧倒的に有利じゃない……)

 私が結論にたどり着いてゾッとした時、

「内府殿下がお考えになった通り、この田原坂の地形は、防衛する側にとって非常に有利です」

我が臣下はこう言った。

「しかも、西南の役当時はもちろん鉄道がありませんでしたから、博多から大砲を()いて熊本に行くためには、この田原坂を通るしかなかったのです。ですから、官軍はここで大苦戦を強いられました」

「そうだったのね……」

「熊本城を改修したのは加藤清正公ですが、熊本を守るためにこの田原坂を作ったのも加藤清正公と言われています。……官軍も薩軍も、加藤清正公という偉大な先人が遺したものに翻弄されていたわけですな」

 大山さんは寂しげに微笑すると、「もう少しで、坂の頂上に着きますよ」と私に告げた。

 坂を上りきったところで馬車は停止する。大山さんにエスコートされて馬車から降りると、前方に大きな石碑が見えた。

「ああ、あれかしら。お義父(とう)さまがおっしゃっていた石碑は……」

「はい、参りましょう」

 再び差し伸べられた手を取り、私は大山さんと一緒に石碑の方へ向かう。前を行く馬車に乗っていた兄と節子(さだこ)さまの姿も、既に石碑の前にあった。

「こちらは、西南戦争から3年後に、有栖川宮(ありすがわのみや)の先代・熾仁(たるひと)親王が篆額(てんがく)をお書きになった崇烈碑(すうれつひ)でございます」

 第6軍管区の司令官さんが、先に着いた兄と節子さまに説明している。熾仁親王は私の義理の祖母・菫子(ただこ)妃殿下の夫である。彼は西南戦争の時、鹿児島県逆徒征討総督……要するに、総司令官に任命された。だから、この石碑の題字も書いたのだろう。

「そうか。……字がとても美しい。篆額も、本文も」

 碑文に目を通しながら言った兄は、傍らに立つ節子さまを見て、

「“田原坂ほどの激しい戦いは無かった”、か……。死者4000人余りとも書いてあるし……」

「はい、誠に大変な戦いであったと推察されます」

 司令官さんは兄に答えて言った。「3月4日からこの田原坂を攻めていた諸隊は、4月15日に熊本に到着しますが、それまでに歩兵が消費した小銃弾の消費量は1日平均約32万2000発でした。それほどの弾を消費しなければ、この堅固な田原坂を落とせなかったのです」

「その上、相手は斬り込みも仕掛けてきましてなぁ」

 司令官さんに続いて、大山さんがのんびりと言ったので、一斉に視線が彼に集まった。私も目を軽く瞠った。

「官軍の一般兵は平民が多かったですから、刀での斬り込みに弱かったのです。それでこちらも、警察から刀の扱いに長けた者を選抜して、抜刀隊を組織しました。警察官は士族が多かったですから」

「そうだったのね。……だけど、大山さん、田原坂の戦いのことに妙に詳しいわね」

 まさか……と言いかけた私の口を、

「お察しの通り……(おい)もこの田原坂におりましたから」

その言葉で大山さんは封じた。彼の顔には、寂しげな微笑が浮かんでいた。

「3月4日から戦いが始まって、官軍が田原坂を占領したのが3月20日か。それまで攻撃を重ねても落ちなかった田原坂が、20日の攻撃で陥落したのはなぜなのだ?」

 兄が軍管区の司令官さんに質問すると、

「その日は豪雨でありまして、薩軍は官軍が攻めてくることはあるまいと考え、見張りをおろそかにしたようです。そのため、夜明け前に闇に紛れて近づいた官軍からの急襲に十分に対応ができず、田原坂から敗走したのです」

司令官さんは兄にスラスラと答えた。よく見ると、彼の顔は強張っている。大山さんは田原坂の戦いに参加しているし、兄に付き従う奥侍従長は、熊本城の籠城に加わっている。実際に西南戦争を戦った大将たちの前で話すのだ。緊張しない方がおかしい。

 すると、

「ちょうど、(おい)たちが攻撃したところの相手が、この戦場に到着したばかりの隊だった、というのも、こちらの勝利の要因だったように思います」

その大山さんが、司令官さんの説明に補足を加える。司令官さんの背筋がピンと伸びた。

「つまり、(おい)たちが勝てたのは、偶然によい機会が得られたからです。それを得られなければ、この田原坂を抜くことはできなかったでしょう。逆に、相手がよい機会を得たならば、(おい)たちは負けていたでしょう」

 大山さんの言葉に、私は頭を垂れた。兄も節子さまも、神妙な顔つきで大山さんの言葉を聞いていた。私たちは崇烈碑に祈りを捧げた後、この近くにある七本(ななもと)柿木(かきのき)台場の薩軍墓地と七本官軍墓地で拝礼した。それから再び馬車に乗って田原坂を下ると、高月・宇蘇浦(うそうら)の官軍墓地で祈りを捧げ、この地で命を落とした人々の冥福を、敵味方の区別なく祈った。

 木葉駅に戻って、御召列車に乗り込んだのは11時30分ごろのことだ。ここから水前寺(すいぜんじ)駅に向かい、この熊本をかつて治めていた大名・細川家が築いた水前寺成趣園(じょうしゅえん)を見学する。

「実は、(おい)は、この田原坂で死にかけたことがありまして」

 大山さんがそんなことを言い出したのは、列車が動き出してすぐのことだった。

「は?!」

 大山さんの左の席に座った私は目を剥いた。今まで、そんな話を一度も聞いたことがなかったからだ。驚く私に、

「あの戦では、方々を馬で駆けて軍を指揮していたのですが、道の脇にあった小笹の藪から、敵兵2人が大太刀を振りかざして現れて、無言で(おい)に斬りかかってきたのです」

大山さんは淡々とした口調で話す。

「そんな……絶体絶命のピンチじゃない!まさか、それで大怪我したとか……?!」

 顔を引きつらせた私に、「いいえ」と左右に首を振ってみせると、

(おい)に付いてきていた騎兵が、すかさずその2人を槍で突き殺しました。ですから(おい)はケガ1つしませんでしたよ」

大山さんは優しく言った。

「そ、そうならそうと、早く言ってよ……!」

 私は思わず、大山さんの左腕にしがみついた。

「おや、どうなさったのですか」

 不思議そうに尋ねる我が臣下に、

「あなたが……大山さんが生きていてくれて、本当に良かったと思ったのよ」

と私は答えた。

「もし、あなたが田原坂で命を落としていたら、私はあなたと会えなかった。あなたと出会えて、あなたが私を育ててくれたから、私の人生は変わったの。だから、あなたが、こうして生きていることが、すごく、尊いと、思えて……」

 いつの間にか目から涙が溢れて、言葉が途切れ途切れになってしまう。とうとう泣き出してしまった私に、

「はい……(おい)も、生きて、梨花さまに出会えて、本当に良かったです」

大山さんは暖かくて優しい笑顔とともに言った。

「……しかし梨花さま、涙はお拭きになりませんと。また女王殿下によしよし、と頭を撫でられてしまいますよ」

「し、仕方ないでしょ。勝手に涙が出てくるんだから……。それに、なんで万智子(まちこ)の話が出てくるのよ……」

「何、東京に戻りましたら、お母上がお泣きになったと女王殿下に報告いたしますから。それが爺やの務めでございます」

「そ、その理屈、流石に無茶苦茶じゃないかしら?」

 ハンカチーフで涙を拭いながら私が指摘すると、大山さんはふふっ、と悪戯っぽく笑う。私は久しぶりに、大山さんの明るい笑い声を聞いた気がした。

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[一言] 熊本城焼失。 事前に数寄屋丸櫓等の破却が行われ、天守などを焼いた火災も市街に延焼し焦土となったあたりから、薩軍を撤退させるための計画的行動だったのではとも考えられています。 日本初の西洋式…
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