宿願
1922(大正7)年5月10日水曜日午前11時、鹿児島県西桜島村横山。
「ここに、役場と小学校があったのか……」
呆然と呟いた兄の前には、8年前の桜島の噴火で流出した溶岩がある。黒っぽいごつごつした岩で構成された溶岩は、海にまでせり出していた。
「はい、この集落にあるものは全て、溶岩の下に埋まってしまいました」
説明役の西桜島村の村長さんが、淡々と説明する。
「そして、あちらですが」
更に彼は、海岸の方を指さした。海岸から2、300mほど奥まったところが少し小高くなっていて、頂上に赤い旗がはためいているのが見える。
「説明のために赤い旗を立てさせましたが、あそこにはかつて鳥島という小さな島がありました。薩英戦争の時には大砲が配備されたこともあります。ところがその島も、8年前の噴火の際、溶岩に飲み込まれて埋まってしまい、こうして地続きとなったのです」
「何と……」
「まぁ……」
兄と節子さまが同時に驚きの声を上げる。村長さんの話を兄のそばで聞いていた私も、思わず目を丸くしてしまった。
「自然というものは恐ろしいな。先ほど視察した東桜島村でも、大隅半島との間にあった幅300m以上もある海峡が、流れ出した溶岩で埋まってしまって、桜島と大隅半島が地続きになったと言っていたし……」
「けれど、亡くなった方や、ケガをした方がほとんどいなかったのは幸いでしたね」
言葉を交わした兄と節子さまに、
「はい。県の避難命令が出るのが遅かったら、犠牲者がたくさん出たでしょう。犠牲者が1人だけだったのは唯一の慰めですが、農地や河川の復旧はまだ途上です。村の名物の桜島大根の畑も、溶岩や降灰でかなりやられてしまいまして……」
村長さんは応えつつ説明を加える。もちろん、避難命令が出たのが早かったのは、原さんと斎藤さんが持つ“史実”の記憶を元に、梨花会の面々が早くから対策を立てていたからだ。
(だけど、これから復興のために、やるべきことはたくさんある。村長さんの言う通り……)
私が未来に思いを馳せ、目を伏せた時、
「桜島大根……そう言えば、今朝、粕漬にしたものをいただきましたね。どんな大根なのですか?」
節子さまが村長さんに質問した。
「大きなものではこのぐらいになりまして……」
村長さんは両腕を前に出し、大人を抱えるようにしてみせる。
(え?)
私が訝しく思っていると、
「大きいものでは、重さが1個30kgほどにもなりまして……」
村長さんは大まじめに答え続けている。「何?!」「本当か?!」と侍従さんたちにも動揺が広がっているのに気が付いた村長さんは、
「収穫は冬ですから実物は残っていませんが、去年収穫した桜島大根の写真がございます。こちらをどうぞ」
そう言って、写真を島村侍従武官長に渡す。写真を覗き込んだ島村さんが「ややっ」と目を見開いた。
「天皇陛下、皇后陛下、ご覧ください、この大根……」
島村さんから手渡された写真を見て、「ううむ」と兄が唸った。そのあと、付き従う者たちに写真が順番に回されていくと、写真を見た人が全員目を瞠る。待ちきれず、私が奥侍従長の横から写真を覗き込むと、写真には、蕪に似た形の人の頭よりも大きな大根を、村長さんが嬉しそうに抱えている光景が映されていた。
「ほう、これはなかなか大きい部類ですな」
私と奥侍従長の間から、大山さんが写真を覗き込む。ただ、彼は余り驚いていないように見えた。
「あ、そっか……大山さんは、この大根のことを知ってるのね」
小声で私が尋ねると、
「ええ、鹿児島の街にもよく出荷されていましたから」
大山さんも私に囁くように答えた。そして、少し寂しそうな瞳で写真を見つめた。
(大山さん、ちょっと元気が無いかも……。まぁ、無理ないか。だって午後から……)
色々と考えながら、私が我が臣下をそっと観察していると、
「うん、見事な大根だ」
兄が満足げに村長さんに言った。
「河川や農地の復旧など、まだやらなければならないことはたくさんあるだろうが、これからも身体に気を付けながら復興に励んでほしい。この村も将来はきっと、写真で見せてくれたような豊かな作物が収穫できる土地に戻るのだろうから」
兄の言葉に、村長さんは「は、はーっ」と感極まったように返答し、深く頭を下げた。
1922(大正7)年5月10日水曜日、午後2時。
桜島から鹿児島港沖に停泊中の“榛名”に立ち寄って昼食をとった兄一行は、今度は鹿児島港に上陸して、鹿児島市の中心街の背後にある城山に登っている。城山の標高は100m余り、麓からは登山道が整備されているけれど、やはり所々急な坂もある。節子さまの手を取って歩く兄は、時々節子さまの方を振り返り、
「大丈夫か?疲れてはいないか?」
と節子さまを気遣う。
「平気ですよ、お上」
足を休みなく動かしながら、節子さまは兄に微笑を向ける。「この道はとてもよく整備されていますから、歩きやすいです。それに、このくらいのこと、昔やったお転婆に比べれば、なんてことはありません」
「確かにな」
兄が小さく笑う。「章子もそうだが、お前も小さい頃はお転婆だった。章子と一緒に木登りをして……戦ごっこはしていたか?」
「鬼ごっこは致しましたけれど、戦ごっこはしておりませんわ」
「なるほど、そこは珠子には負けるという訳か」
「ええ……そう言えば珠子は、ちゃんと勉強をしているのかしら。来月には一高の入試ですけれど……」
兄と節子さまが和やかに話しながら歩いている後ろで、私は大山さんに手を取られて歩いていた。兄たちのように、大山さんと会話ができたら……とも思う。それに、この城山の麓にかつて存在した鹿児島城は、この城山と少なからず関係があったから、周囲を観察して、防御施設などの遺構があるか確認したいという気持ちもある。
けれど、この城山は、西南戦争最後の戦いが行われた地だ。この城山に立てこもった西郷隆盛さんを筆頭とする薩軍は、1877(明治10)年9月24日、官軍の攻撃により全滅し、西郷隆盛さんは死んだ。大山さんもそのことを意識しているのか、城山を登り始めてからずっと無言だ。私は何も言わず、大山さんの隣を歩いた。
城山の頂上からは、鹿児島の市街が見える。鹿児島湾には私たちが乗ってきた“榛名”と“金剛”が停泊していて、その向こうには、午前中に視察した桜島が間近に眺められた。
「これは絶景だな」
山頂の休憩所に入った兄は、窓から見える風景に声を上げる。程なくして、兄と節子さまの前にある机に、地元の歩兵連隊の連隊長が地図を広げた。この地で繰り広げられた西南戦争最後の戦い……城山の戦いの経過を兄と節子さまに説明するのだ。
「宮崎県の可愛岳の包囲を8月18日未明に突破した薩軍は、潜行の末9月1日に鹿児島に着き、この城山の麓にありました私学校や県庁を急襲して占領しました。官軍の増援が鹿児島に続々と到着しますと、薩軍はこの城山に立てこもりました」
地図の上には兵棋……地図上で戦闘・戦略の訓練を行う際に使う駒が置かれている。城山とその周辺にある薩軍を表す兵棋は、官軍の兵棋に取り囲まれていた。
「官軍は薩軍が囲みを破って逃亡せぬよう、念入りに城山を包囲し、設置した砲台から盛んに砲弾を撃ち込みました。そして9月24日、各旅団から選抜された部隊は夜陰に紛れて薩軍の陣地に近づき、午前4時、官軍の砲台からの3発の号砲を合図に薩軍に総攻撃を仕掛けました。その際、ここにいらっしゃる大山大将の指揮する官軍の砲台は、城山の北東部に突出した薩軍の防塁に猛射を加え、薩軍掃討に大いに役立ったとか」
「……」
「1時間余りで戦闘は終わり、首謀者の西郷隆盛以下、薩軍の主だった者は死亡しました」
私は隣に控えている大山さんの顔を盗み見た。大山さんは両目を瞑り、直立不動の姿勢をとっている。大山さんが放った号砲で城山の戦いが始まり、そして西郷隆盛さんは亡くなった。大山さんの胸中には、今、どのような思いが去来しているのだろうか。私は大山さんの左手をそっと握った。
「薩軍首脳部が最後にいたのは、この城山の頂上から少し下った岩崎谷という所でございます。これから、そちらにご案内いたします」
「分かった。よろしく頼む」
机上の地図と兵棋が片付けられると、兄と節子さまは椅子から立ち上がる。私たちは連隊長さんの案内で、城山の山頂から数百m離れたところにある岩崎谷に向かった。
「……こちらでございます」
10分ほど山を下っただろうか。連隊長さんは崖に開いた洞窟の前で立ち止まった。
「この洞窟に、西郷隆盛は最後の戦いの時までいたそうです」
連隊長さんはそう言って洞窟を指し示す。洞窟の入り口の高さは、人が屈まずに入れるかどうかだろうか。入り口の形が妙に整っているから、ひょっとしたら、ここに本営を置くと決まってから薩軍が掘ったのかもしれない。
「そうか……入っても構わないか?」
兄の問いに、付き従っていた県知事さんが、「はいっ!」と大きな声で返答する。兄は少し身体を屈めながら洞窟に入るとすぐに出てきて、洞窟に向かって頭を垂れる。もちろん節子さまも、他の随員たちも兄に倣った。
更に歩くと、左手に石段が見える。何段か上がったところは広場になっており、“南洲翁終焉之地”と刻まれた大きな石碑があった。
「ここで、大西郷は亡くなったのですか……」
暗い声で尋ねた節子さまに、
「本当は、数m位置がずれているのですが……このあたりで銃弾が当たり、別府晋介に介錯されました」
と連隊長さんは答える。私たちは石段を上がると整列し、石碑に向かって一斉に最敬礼した。
「……」
西郷隆盛さんの冥福を祈り終えた私は、隣にいる大山さんの方を振り向いた。私をはじめ、他の人たちは頭を上げているのに、大山さんは頭を下げ続けている。私は大山さんをそっと見守ることしかできなかった。
「では、次の場所に行こうか」
兄はそう言うと、踵を返して石段を下っていく。私も大山さんの左手を握ると、兄に従って石段を下りた。
1922(大正7)年5月10日水曜日午後3時30分、鹿児島市清水町。
“南洲翁終焉之地”の石碑の前から自動車に乗った私たちは、鹿児島駅から500mほど離れたところにある官軍墓地にやってきた。この官軍墓地には、合計で1270人が葬られている。設けられた白木の祭壇の向こうに、石の墓標が林立しているのが見えた。
兄が玉串を捧げて礼拝する。続いて節子さまが同じようにして祈りを捧げる。今日、鹿児島県内の各地にある官軍墓地、そして薩軍墓地に勅使として派遣された侍従さんや侍従武官さんたち、そして鹿児島県庁の職員さんたちも、兄と同じように、死者たちの冥福を祈っているのだろう。もちろん私も、彼らの霊に心の中でお礼を言い、冥福を祈った。
再び自動車に乗り、向かったのは1kmほど西にある浄光明寺だ。この寺の境内に、西郷隆盛さん以下、約2000名の薩軍戦没者の墓地がある。
鉄道の線路を越えてから、道の両側に並ぶ人たちの数が急に多くなった。広い道の両側に、小学校の生徒や在郷軍人はもちろん、一般市民たちが数えきれないほど集まって、車列を見送っている。警官さんたちが、人の勢いに押されまいと必死に群衆整理にあたっている。即位礼の時の行幸啓でも、行列通過の半日前から場所取りの客が出るほどの大騒ぎだったけれど、この出迎えの混雑ぶりはその時に匹敵すると思われた。
浄光明寺の門前は、人で埋め尽くされていた。兄と節子さまが車から降りると、全員が最敬礼する。
「お待ち申し上げておりました」
軍服姿の初老の男性が、兄に深く頭を下げた。西郷隆盛さんの嫡子の、西郷寅太郎侯爵だ。“史実”ではスペインかぜに起因する肺炎で亡くなったそうだけれど、この時の流れでは健在だった。他にも、庶長子の菊次郎さん、弟で梨花会の一員でもある従道さんもいる。
(あれ?)
不思議に思ったのは、寅太郎さんの隣に、西郷隆盛さんの妻・糸子さんの姿があったことだ。彼女には、20年以上前、上野公園で西郷隆盛さんの銅像の除幕式があった時に兄と一緒に会ったけれど、従道さんからは、体調を崩していると聞いていた。体調が回復したのか、それとも無理をしてここにやって来たのか……と考えていると、後ろで唾をごくりと飲む音が聞こえた。振り返ると、車から降りた大山さんが、強張った顔である一点を凝視している。視線の先にあるのは糸子さんの姿だ。糸子さんが目を向けた刹那、大山さんはガバっと頭を下げた。
(そうか……)
大山さんは西南戦争で従兄の西郷隆盛さんを失った。糸子さんも、夫を失うことになった。そして西郷隆盛さんが亡くなった戦いの火蓋を切ったのは、大山さんが放った号砲である。大山さんは自分の従兄を討ったのと同時に、糸子さんの夫を討ったのだ。
「……大山さん、行こう。まず、故人の霊にご挨拶しないと」
私は頭を下げたまま動かない大山さんの左手を取り、兄と節子さまの後を追った。
寅太郎さんの先導で、兄と節子さまが石段を上がる。石段の両脇にも、そして、石段の上にも、墓石がずらりと並んでいる。石段の上、真正面に、西郷隆盛さんの墓石があった。
兄と節子さまは石段を上がりきると、まず正面に向かって最敬礼し、その後右に、更に左に向かって深く頭を下げる。付き従う私たちも兄に倣って3方向に頭を深く下げ、薩軍の戦没者たちの冥福を祈る。どこからか、すすり泣きが聞こえた。
礼拝を終えて石段を下ると、兄は自動車ではなく、集まった西郷隆盛さんの遺族に向かって歩いていく。予定にはない行動だけれど、この後は宿舎になっている島津忠承公爵の別邸に戻るだけだ。私は素直に兄に従った。
「糸子どの」
兄は西郷隆盛さんの妻・糸子さんに呼び掛けた。まさか兄に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。目を丸くして、すぐに頭を下げた糸子さんに、
「来てくれたのか。……体調を崩していると西郷顧問官に聞いたが、大事ないのか?」
兄は優しい声で尋ねる。
「は、はい……。主人の墓に、両陛下がお参りしてくださると聞きまして、息子に連れてきてもらいました」
答える糸子さんの声は、以前聞いた時より細いように感じられる。やはり、本調子ではないのだろう。
「まさか……まさか、両陛下が主人の墓にいらしてくださるとは……」
ほとんど泣き出しそうになっている糸子さんに、
「以前、あなたに言ったことがあるが……」
兄はそう言って微笑んだ。
「戊辰の役以来、この国で流された血は、皆、意見の相違はあれど、お父様を……天皇を大切に思ってくれていた者たちのものだ。だからわたしは、戊辰以来の犠牲者の冥福を、かつての敵味方、かつての官軍賊軍の区別なく祈ろうと思っている。そう思っているから、官軍の墓地にも、ここにも来た。宿願の1つを果たすことができて、本当によかった」
兄の言葉を聞いた糸子さんは、「ああ……」と声を漏らすと涙を流し始めた。
「本日は、このように亡父の墓にお越しいただき、何とお礼を申し上げてよいものやら分かりません。泉下の亡父も、感泣いたしておると存じます」
母親の身体を支えながらお礼の言葉を述べる寅太郎さんに、「うん」と兄は頷くと、
「母親をよく労わってやれよ。……糸子どの、よく養生しておくれ」
寅太郎さんに、ついで糸子さんに声を掛ける。「どうかお身体を大切に」と節子さまが糸子さんに話しかけた後、私も糸子さんに近づいて、
「糸子さま、どうぞお大事になさってください」
と言って頭を下げた。
「内府殿下……」
涙をいっぱい溜めた目で私を見上げた糸子さんは、
「弥助さんのことを、よろしくお願いいたします」
と、しっかりした声で言った。
「……承りました」
私が糸子さんの両手を握ってしっかり請け負うと、斜め後ろにいた大山さんが、深く頭を下げた。




