医科分科会(1)
※地の文を一部修正しました。(2019年2月14日)
1892(明治25)年、5月28日、土曜日、午前9時。
私は、お母様に、誕生日祝いを申し上げるために参内していた。
本当は、私の通っている華族女学校でも“地久節”……お母様の誕生日をお祝いする式典が開かれる。けれど、自分の親の誕生日を祝う式典に出席するのも恥ずかしいなあ、と思って、華族女学校に上がって以来、ずっとサボっている。“天長節”の方も、華族女学校の式典に一回だけ出席したけれど、それ以来パスさせてもらっている。ちなみに、5月の最終土曜日である今日は、本当は“防災の日”でもあるのだけれど、地久節とかぶったので、1週間早めて、先週の土曜日に防災訓練が行われていた。
「増宮さんも、お元気そうで何より」
お母様に誕生日のお祝いを言うと、お母様は微笑んだ。今日も、お母様は、女官たちを下がらせてくれていた。桃色の中礼服を着たお母様は、本当に綺麗だった。
「先日、伊藤どのに、習字のお清書を見せてもらいましたよ。筆遣いが、だいぶ上達されて……楷書は、ずいぶんと慣れたようですね」
「恐れ入ります」
思わぬお褒めの言葉に、私は頭を下げた。花御殿に引っ越して以来、習字は日課だから、少しずつ、成果が出てきたということか。
「よく書けておりましたから、ご褒美に、お清書用の紙を差し上げますね。増宮さん、こちらへ」
お母様が、脇の小机の上に置かれた、紙の束を手に取る。素直に言葉に従って、お母様の側に歩いていくと、お母様がちょっと首を傾げた。
「その着物は……」
「はい、先日、仕立てていただいたものです」
私は頷いて、うつむいた。
私の誕生日の後、10日ばかり経った頃だろうか。またお母様に呼ばれて参内した時に、この反物を見せられた。
――ああ、この柄は好きです。シンプルだし、この花……まるで、青空の下で咲いているみたいな……。
――それが、梨の花ですよ。
私はお母様を見上げた。
――これが?
――綺麗でしょう?清では、この白さを雪に例えて、“梨雪”とも言うそうです。
――雪……。
“増宮さんの心の中に、厚い氷で閉ざされているようなところが……”という、お母様の言葉が頭の中に蘇って、私の胸は少し痛んだ。
――でも、この雪は、本格的な春の訪れを告げる雪ですね。
――春を告げる、雪……?
――ええ。冬の辛い寒さに耐えていたからこそ、人々の目を楽しませることのできる、暖かくて美しい、真っ白な雪です。
私が答えられないでいると、お母様が微笑んで、こう言った。
――この反物で、増宮さんの着物を仕立ててみませんか?
――こんな綺麗な柄の反物で、着物を……?
――増宮さんにしか、着られない柄ですよ。この、梨花という柄は。
見上げると、お母様は、私を励ますように頷いた。
「あの……やっぱり、似合わないでしょうか、この柄は……」
お母様が答えないので、私は心配になって尋ねた。空色の地に、私の手のひらより少し小さい、真っ白な梨の花が、固まって5、6輪、美しく描かれていた反物。それを着物に仕立ててもらったら、右の袖と、左の襟のあたりに花が咲いた。その着物に紺色の袴を合わせて、白いリボンで髪を結んでみたけれど……。
(今日は、大事なお出かけの日だから、気合を入れて着てみたけれど、やっぱり、こんな綺麗な柄、私には……)
「よく、お似合いですよ」
お母様が微笑んだ。「増宮さんの美しさが、よく映えます」
「お母様……そんな、恥ずかしいです……」
「恥ずかしがらなくてもよいのですよ。増宮さんは、立派な淑女なのですから、もっと堂々としておいでになって」
「はい……では、そうします」
私が小さく頷くと、
「そう、それでよいのです」
お母様は、また微笑んだ。「今日は、増宮さんにとって、大事な人をお迎えに上がるのでしょう?」
「はい」
今日は、北里柴三郎先生が、ドイツから帰ってくる日だ。これから、汽車に乗って横浜まで行き、横浜港に到着する北里先生を迎える。そして、これを機に、“梨花会”の医科分科会を、正式に発足させるのだ。
「今日は、北里先生が戻ってこられる、大事な日ですから」
言ってしまってから、私は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……今日は、お母様の誕生日なのに……」
すると、お母様が声を上げて笑った。
「実はね、増宮さん……私の誕生日は、今日ではないのですよ」
「は……?」
「私の本当の誕生日は、5月9日です」
お母様の言葉に、私は目を丸くした。
「5月9日って……20日ぐらい前じゃないですか!でも、なんで……」
すると、お母様は、ニッコリ笑ってこう言った。
「天保暦ですと、私の誕生日は、4月17日です」
(天保暦って……太陰暦で、ってことかな?)
確か、明治の初年に、太陰暦から太陽暦に、日本の暦が変わったはずだ。
「でもね、増宮さん、私は嘉永3年の生まれということになっておりますが、本当は、嘉永2年の生まれなのですよ」
「嘉永2年生まれなのに、嘉永3年生まれ……?」
(それってつまり、年齢をサバ読んだってことじゃ……)
思ったことをそのまま口にしようとして、すんでのところで押しとどめた。
「入内の時に、お上より、3つ年上ではいけないと言われましてね。公称の生まれ年を1年、繰り下げたのですよ。そうしたら、新暦に換算し直すときに、誕生日がずれてしまいました」
いたずらっ子のように、クスクス笑うお母様に、私はあいまいに頷くことしかできなかった。
(えっと……嘉永2年って、西暦に直すと何年……)
沸き上がった疑問は、頭を横に振って消した。女性にストレートに、年齢を聞いてはいけない。
「北里先生は、医科学研究所の所長になられるのですよね。よろしくと伝えておいてください、増宮さん」
「かしこまりました、お母様」
お清書用の紙を受け取った私は、お母様に一礼した。
新橋停車場で、本日の横浜行きのメンバーと合流した。
フロックコート姿のベルツ先生と、軍服を着た森先生だ。今日は微行なので、新橋停車場までついてきてくれた侍従さんには、お母様にいただいたお清書用の紙を託して、花御殿に戻ってもらった。
「その着物の柄は……梨の花ですか?」
森先生が私に尋ねた。
「ええ、母に仕立てていただいたものです」
私は猫をかぶって森先生に返す。まあ、あと1、2時間もしたら、森先生にも私の正体を話すのだけれど。
「なるほど、清では、梨の花は美しいと尊ばれますからな。“梨花一枝、春、雨を帯ぶ”と……。流石、皇后陛下。しかも、増宮さまによく合っている」
森先生が頷いている。“長恨歌”がすぐ出てくるところは、流石鴎外先生と言ったところか。
「今日は大事な日ですから、少し、気合を入れてみました」
「確かにそうですね」
私の言葉に、ベルツ先生が微笑する。「北里君が驚く顔が楽しみです」
「まあ、私が出迎えに来るとは、思っていないでしょうね」
私も苦笑した。
実は、“梨花会”の面々も、今日の出迎えについて行きたがった。ところが、今日は“地久節”で、午前11時には、政府高官は全員、お母様に拝謁することになっている。しかも、その範囲は、国軍の大将や、各省の次官にも及んでいた。このため、“梨花会”のメンバーのほとんどが、北里先生の出迎えに行けなくなってしまったのだ。ちなみに、桂さんは名古屋だし、児玉さんと山本さんも仕事があって、私たちにはついてこない。森先生も軍医中佐としての仕事があるから、一緒に行けないのでは……と思ったのだけれど、
――高木医務局長に、ぜひ北里君の出迎えに行ってこいと言われました!
先週の土曜日、嬉しそうに私に報告してくれた。直属の上司公認なら、大丈夫だろう。
つまり、今日会うメンバーは医者だけ、ということになる。これなら、思いっきり、医学の話ができそうだ。……その前に、森先生と北里先生に、私の前世のことを説明しないといけないけれど。
「ところで、お昼ごはんのお店は、押さえられました?」
「ええ、増宮さま」
森先生がニッコリ笑った。「大山閣下からご教示いただいた店を、既に押さえてあります」
「!」
(ということは……)
「牛鍋のお店、見つかったんですね?!」
私はニンマリした。
北里先生が帰国するにあたって、出迎えに行くか、どこかで食事をしながら話をしたいと思っていた。食事をするなら、北里先生が食べたいメニューにするのが、おもてなしとしては定石だろう。そこで去年、ドイツにまだいた北里先生に、“日本に帰ってきたら何が食べたいか”ということを、ベルツ先生に手紙で問い合わせてもらった。
――牛鍋と言われてしまったのですが……。
困惑しながら私に報告してくれたベルツ先生に、
――それで行くしかないでしょう。
と私が頷いたのが、今年の1月末のことだ。
――牛鍋、ですか……?
側にいた大山さんも戸惑っていたけれど、
――いいじゃない、牛鍋。海外生活が長かった日本人は、和食を求めるものよ。牛鍋にご飯、いや、うどんの方がいいのかな?……とにかく、帰国する北里先生を、牛鍋でおもてなしします!
私はこう強く言って押し切った。そして、北里先生の帰国する実際の日取りや、梨花会の医科分科会を作る話し合いもする、ということも勘案し、“機密性が保たれる個室を備えた横浜の牛鍋店で、お昼ごはんを食べながら、北里先生をもてなす”ということが決まった。
――という訳で大山さん、条件に合うお店を探してもらっていいですか?
当然のように頼んでしまい、彼が「かしこまりました」とその場を去って、しばらくしてから気が付いた。
(なんで私、情報機関のトップに、飲み会のお店探しを頼むノリで、あんなことを頼んじゃったのよ……)
前世みたいに、飲食店検索サイトやアプリがある訳がない。簡単には、条件に合うお店は見つからないだろう。そんな面倒なことに、大事な国家機関を預かる人を使ってしまうなんて……。
後悔したけれど、もう後の祭りだ。“本業に差し障りがない程度に探すように”と、後で改めて伝えるくらいしか手が無かった。……まあ、こんなドタバタはあったけれど、大山さんはきちんと任務を果たしてくれたわけだ。後でお礼を言わなくては。
「ありがとうございました、森先生」
頭を下げると、
「いえいえ、私は全く苦労していませんし、大山閣下も、“前から知っている店なので、すぐ思い当たった”とおっしゃっていました」
森先生が微笑した。「ああ、それから、増宮さま。大山閣下から、伝言を預かっておりまして」
「?」
私が首を傾げると、
「“どうぞ、牛鍋を存分にご堪能ください”とのことです」
森先生はこう言った。
(ば、バレてる?!)
私は顔を真っ赤にした。
「ほう、殿下、牛鍋を召し上がったことがなかったのですか?」
ベルツ先生が私に尋ねる。
「無いに決まってるじゃないですか!」
私は叫んだ。「いつも、通学中に牛鍋の店の前を通り過ぎては、“いつか食べてみたい”と夢見ていたんですよ!」
花御殿から華族女学校への通学路には、何軒か牛鍋屋がある。もちろん、小学生で、しかも内親王である私が、学校帰りに牛鍋屋にふらっと立ち寄る訳にもいかない。だから、北里先生が“牛鍋を食べたい”と言ってくれたのは、渡りに船だったのだけれど……。
(はあ、やっぱり、大山さんには敵わない)
経験豊富で有能で、外国語にも堪能で、天皇にも“わが師に等しい”と思われ、おまけに、情報機関のトップ……。
(本当に、なんであんなすごい人が、私の臣下になっちゃったんだろう……)
盛大にため息をつきたい。でも、ため息をついて、何が変わるという訳でもない。
「まあ、とりあえず、お言葉に甘えて、北里先生をもてなしつつ、牛鍋を楽しませていただきますか。じゃあ、切符を買ってきますね。ええと、横浜まで、大人二人と子供一人……」
私がそう言って、財布の入った手提げ袋を持ち直すと、
「!」
ベルツ先生が目を見開いた。森先生は、私を見つめたまま、全く反応をしていない。
「え?何?どうしたんですか?」
二人に尋ねると、ベルツ先生が慌てたように私の側に寄って、急に私を抱っこした。
「ちょっと、ベルツ先生、私、もう9歳なのに、こんな……」
小声で抗議すると、
「いや、殿下のご身分で、自ら切符を買い求めるとは……」
ベルツ先生が、怯えたように囁いた。
「前世じゃ、自分でモノを買うなんて、当たり前だったけれど……。それに、今日は微行ですし、こういうことぐらいは自分でやらないと……」
私もベルツ先生に囁き返した。
実は、私が自分の財布を持って出かけるというのは、転生してから、今日が初めてなのだ。登下校中に駄菓子屋さんに寄るなんてできないし、学校以外で出かけるにしても、財布を持って出かけることはしない。けれど、今日の北里先生の歓迎会は、私が言い出したことだから、私がお金を出すと主張して、現金をがま口の長財布に入れて用意してもらったのだ。
(12、3円入ってる……って花松さんに言われたけれど、4人分の汽車賃と飲食代、これで足りるのかなあ?)
まあ、あのデキる花松さんがやってくれたことだから、おそらく足りるのだろう。街で見かける牛鍋屋さんの看板にも、牛鍋1人前が1円以上する、と書いてあるものは無かったはずだ。
「わかりました、ベルツ先生。では、森先生とベルツ先生と、三人で切符を買いに行きましょう。それならいいでしょう?」
私が微笑すると、ベルツ先生は、ちょっと考え込んだ後、
「そうですね、そうしましょう」
微笑して頷いてくれた。
汽車に乗って横浜停車場に着くと、波止場まで歩く。今は、大型船から波止場の岸壁まで、艀で人や物を往復させているけれど、大型船が直接横付けできるように、新しい桟橋を作っているところだそうだ。2年後ぐらいには、完成するらしい。
(でも、将来、物流が活発になったら、きっとこれだけじゃ足りなくなっちゃうよね……)
横浜だけではない。我が前世の故郷・名古屋もそうだし、東京、大阪、神戸……。前世には、今の横浜より大きな港湾施設のある港が、いくつかあったはずだ。
(どういう風に、この日本が発展していくか分からないし、“史実”と同じ場所に大きな港を築く方がいいのか、という問題も出てくるかもしれないけれど……)
「あの船に、北里君が乗っているのかね?」
「そのはずです。もう、艀も何艘か、出ているようですが……」
ベルツ先生が、双眼鏡を覗く森先生に話しかけている。艀はひっきりなしに、船と波止場の間を往復していた。
と、一隻の艀から波止場に降りた、眼鏡をかけた男性の姿に、私はくぎ付けになった。髪を真ん中で分け、鼻の下に八の字にひげを生やしている彼の顔は、前世の歴史の資料集で見た覚えがある。
「いた!」
「え?」
双眼鏡から目を離して、森先生が首を傾げる。
「あの人よね!」
私は森先生の返答を聞かず、岸壁に降り立った北里柴三郎先生の所に向かって駆けた。
「北里先生!」
波止場の人混みをかき分けながら、大きな声で叫ぶ。
「北里先生!」
3メートルぐらいまで近づいた時、北里先生が私に気づいてくれた。何か、不思議そうな顔をしているけれど……。構わず私は、北里先生の側に駆け寄った。
「北里柴三郎先生でいらっしゃいますよね?!お待ち……お待ち申し上げておりました!」
私は北里先生に、深々と最敬礼した。
ついに会えた。破傷風の血清療法を発見した、明治時代の日本を代表する医学者に……。
(サインがほしい……いや、この時代だと揮毫だっけ……)
「いかにもそうだが……」
そう答える北里先生の表情から、疑問符は消えていない。
「お嬢ちゃんは、一体誰だね?」
あ。
(そう言えば……)
前世の歴史の資料集で、彼の写真を見たけれど……私は彼に、実際に会ったことはないのだ。
「も、申し遅れました。私、章子と申します」
私はもう一度、北里先生に頭を下げた。
「ふみこ……はて……名字は何と言うのかな、お嬢ちゃん?」
「えーと、名字は無いんですよね」
「は?」
「あ、“増宮”とも呼ばれています」
私がそう言った瞬間、北里先生の顔が一気に青ざめた。
「た……大変失礼を致しました、殿下!」
私に頭を深々と下げた北里先生の手から、鞄が転げ落ちる。
「ちょっと、北里先生、カバン……」
私が慌てて鞄を拾い上げようとすると、北里先生は「い、いや殿下、そこまでは!」と叫んで、鞄を奪うように拾い上げた。
「殿下」
後ろで私を呼ぶ声がして振り返ると、私たちのそばまでやってきたベルツ先生が苦笑していた。森先生も後ろに控えている。
「殿下が、いきなりそのように挨拶なさったら、北里君も驚くに決まっておりましょう」
「で、でも、やっと北里先生に会えたから、私、嬉しくて……」
「そこまでおっしゃっていただけるとは、大変ありがたいことです。ドイツの西園寺公使からも、殿下のお言葉があって、私の留学の再延長が認められたと伺いまして……書籍や実験器具の費用も賄っていただいて、本当にありがとうございました」
私に向かって最敬礼する北里先生に、
「そ、そこまでかしこまらなくても……」
両手を振りながら私は声を掛けた。
「いいえ、殿下の御恩を忘れず、この北里、医学の道に励ませていただく所存です」
(あっちゃあ……)
私は内心、頭を抱えたかった。
(正体が研修医って知ったら、北里先生、びっくりするよなあ……)
「ベルツ先生……」
困った私は、ベルツ先生のそばまで寄って、背伸びした。
「牛鍋屋さんに行きましょう。早いところ、私のことを話さないと、私、北里先生に申し訳なくて……」
身をかがめたベルツ先生の耳元で囁くと、
「なるほど、“腹が減っては戦はできぬ”とも言いますしね。では、移動して、これからのことを相談することにしましょうか」
ベルツ先生がニッコリ笑って頷いた。
「はい!」
私も笑顔で、ベルツ先生に返事をした。
さあ、待ちに待った、北里先生帰朝記念の牛鍋パーティーだ!
※皇后陛下のお誕生日……当時の官報とウィキペディアで、グレゴリオ暦に直した後の誕生日が違うのです。嘉永2年の4月17日生まれだと、換算して5月9日生まれ。嘉永3年の4月17日生まれだと、換算して5月28日生まれ。嘉永3年が公称の生まれ年ですので、明治時代の地久節は5月28日になっていたようです。ああややこしい。
※がま口というもの、どうやら明治初年には日本に入ってきたようです。石井研堂「明治事物起原」には、明治7年6月の書物に出てきた旨が書かれています。という訳で、持たせてみました。
ちなみに、この時点での、新橋ー横浜間の汽車賃は、片道(下等)で大人20銭のはず。牛鍋1人前は、服部誠一「東京新繁昌記」初編に「焼鍋価5銭」と書いてあるので、すごく高級なお店かつ大量に飲み食いしない限り、この金額で足りるはず……多分……。よい資料が探せなくて申し訳ないです。
※横浜の大桟橋の前身、鉄桟橋ができるのは1894(明治27)年。という訳で、作中の時点では、大型船は直接桟橋に横付けできないはずなので、艀での往復にしました。




