立憲自由党関東党大会
1922(大正7)年3月11日土曜日午後3時30分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「内府殿下、お待ちを!」
梨花会が終わるやいなや、兄と一緒に表御座所に戻ろうとした私を呼び止めた人がいた。野党・立憲自由党の総裁、前内務大臣の原敬さんである。ここにとどまって原さんの話を聞くべきか、それとも兄に従ってこのまま表御座所に戻るべきか、とっさに判断できなくなった私に、
「俺は大山大将と一緒に先に戻るから、原総裁の話を聞いてやれ、梨花」
兄が妙に優しい口調で言う。
(……もしかして、兄上、そのへんに隠れて、私と原さんとの話を盗み聞きする気かしら)
表情を見て、兄が何を考えているか察してしまったけれど、口に出して確認したら、間違いなく兄に怒られる。私は立ち去る兄に黙って一礼すると、原さんの方に身体を向け、
「どのようなご用件でしょうか?」
と事務的に原さんに尋ねた。
「はい。来週の土曜日に、芝公園にある党本部で我が党の関東党大会がございますが、内府殿下にはお成りいただけますでしょうか?」
丁重に私に話しかける原さんの顔は明らかに緊張している。兄が物陰にいて、自分の話を聞いているかもしれない……原さんもそれを分かっているのだろうか。
「はい、大丈夫ですよ」
私は営業スマイルとともに原さんに答えた。「今日で、東京府の緊急事態宣言が解除されましたからね」
年明けに急増したインフルエンザの患者数は、1月末から順調に減少し、今月に入ると緊急事態宣言の発出基準を下回った。死亡率も流行が始まった当初は0.5%ほどだったけれど、最終的には通常のインフルエンザと同じ0.4%に低下した。これならば、適切な感染対策とワクチン接種がなされれば、次の流行期からは緊急事態宣言を出すような強力な抑制策は必要ないのではないか……そんなことをぼんやり考えていると、
「ああ!ありがとうございます、内府殿下!」
原さんが吠えるようにお礼を言った。
「ついに……ついに、わたしの演説を内府殿下にお聞きいただける!内府殿下が立憲改進党の関東党大会にお成りになりましたから、我が党の党大会にもお成りいただけると期待していたところ、緊急事態宣言で大規模な集会が禁じられ、やきもきしているうちに、枢密顧問官の方々との机上演習が始まり……。演習の後、枢密顧問官の方々が内府殿下と2人きりで懇談していると聞き、どんなにうらやましかったことか!」
「は、はぁ……」
私の前に立つ原さんは、右の拳を握りしめ、本当に悔しそうに私に語り掛ける。いつも私と2人きりでいる時には尊大な態度なのに、それを欠片も見せない今の原さんに、私は激しく戸惑っていた。
「それは僕もですよ、原さん」
熱弁する原さんの横から、立憲自由党の前総裁である西園寺さんがひょいと顔を出した。
「枢密顧問官の方々がまことにうらやましい。僕も机上演習の話を聞いて、講師役に立候補しようとしたら、伊藤閣下に“現役の国会議員は不可”と言われてしまいました。あの時ほど、侯爵家の当主の座が恨めしく思えたことはありません。さっさと隠居して、侯爵など放りだしてしまいたいと思ったほどです。そうすれば、貴族院議員も辞められますから……」
「前代未聞の理由で隠居するのはやめてください……」
私は西園寺さんに何とかツッコミを入れた。「まったく……西園寺さんには、立憲自由党の貴族院議員たちを取りまとめるという大事な役目があるのですよ。隠居なんて許されません」
「それはその通りなのですが、しかし内府殿下、そのような強硬手段を取ってしまおうと考えるほどに、我々は嫉妬の余り追い詰められてしまっているのです」
私の言葉を素早く捉え、原さんは私に反論する。「ですから今回の党大会、是非ともお成りください!」
少し離れたところからは、陸奥さんがニヤニヤしながら私と原さんを観察している。更に遠くからは、渋沢さんや斎藤さん、高橋さんなどが、私を気の毒そうに見つめている。
「なぁ、山本……内府殿下はいつもあのような目に遭っておられるのか?」
「何とか助けられないか?あんなに引きつった顔をなさって……」
堀悌吉海兵少佐と山下奉文歩兵少佐が、山本五十六航空少佐に聞いているけれど、
「駄目だ……渋沢閣下と斎藤閣下が手出しできないんだぞ……」
山本少佐は察してくれ、と言いたげに、哀願するように友人たちに言う。ただ、私に声が聞こえているということは、他の梨花会の面々にも会話が聞かれているということだから……後であの3人は、“制裁”という名の難問を吹っ掛けられてしまうのだろう。
「とにかく」
原さんの大声が、周囲を観察していた私を今話すべき問題に引き戻した。
「来週の党大会、我々は内府殿下のお成りをお待ち申し上げております。立憲自由党の総力をもって歓迎いたしますので、よろしくお願い申し上げます」
「あの、待ってください、原さん」
最敬礼する原さんに向かって、私は両方の手のひらを突き出した。
「私は微行で党大会に参加します。だから、派手な歓迎はしないでください」
「その辺りはもちろん心得ております。では内府殿下、来週の土曜日、お待ち申し上げております」
私を見つめる原さんの表情は真剣そのものだった。それが芝居なのか本気なのか分からないまま、私は首を縦に振るしかなかった。
1922(大正7)年3月18日土曜日午後3時20分、東京市芝区芝公園五号地にある立憲自由党本部。
「ふふふ……あはははは……!」
本部2階にある総裁室。応接用の椅子に身体をうずめて大笑いしているのは陸奥さんだ。笑い悶えている陸奥さんの前にある長椅子に、紺色の和服を着た私は、今回も護衛役として付き添ってくれている大山さんと並んで座っている。
「先生、いい加減にしていただけませんか……」
仕事用の机の後ろにある椅子に掛けている原さんが、笑い転げている陸奥さんに渋い顔を向けた。
「だって、原君があまりにも面白いから」
陸奥さんはこみ上げる笑い声を必死に抑えながら言った。
「まぁ、仕方ないか。大山殿と陛下の策略に見事にはめられて、2度と内府殿下に乱暴な口をきくなと、陛下と内府殿下に誓わされたのだからね。……けれど、これでようやく、先週の梨花会の直後のように、原君も素直な思いを口にできるようになったんだ。それはとてもいいことだと僕は思うけれどね」
「素直な思いなど……何をおっしゃっておられるのですか、先生。わたしはただ、こむ……ではない、内府殿下を……その、教育をする過程で、つい、言葉が過激になってしまっただけで……」
「だったら、そっぽを向いてないで、こっちを真っ直ぐ見たらどうだい?頬が赤くなっているのが、隠せていないのだけどねぇ。……ねぇ、大山殿?」
「ええ。……純ですなぁ」
陸奥さんに微笑を含んで応じた大山さんに、
「な……大山閣下も何をおっしゃるのですか!わたしが内府殿下に、何か特異な感情を抱いているとでもおっしゃるのですか?!」
原さんは目を剥いて食って掛かる。
「別に特異な感情じゃないさ。この美しくご聡明で、時に僕たちの想像を超えた反応をお示しになる内府殿下を、恐れ多きことながら、実の娘のようにかわいがりたいという気持ちはね。だからこそ僕たちは、内府殿下に、できうる限りの最高の教育をしてきた訳で……」
(そのせいで、小さい頃から散々な目に遭ってきたような気がするけれど……)
私が顔に出さないように注意しながら、心の中で陸奥さんにツッコミを入れた時、総裁室のドアが廊下から叩かれた。
「総裁、そろそろお時間です」
ドアから姿を現したのは、立憲自由党の幹事長の横田千之助さんだ。長年党務を預かっていた星亨さんが3年前に亡くなった後、幹事長に就任した。
「ああ、じゃあ行こうか」
横田さんの姿を見た途端、原さんの表情が緩む。椅子から勢いよく立ち上がった原さんに、
「また陸奥閣下と論戦なさっていたのですか?」
と横田さんが尋ねる。
「まぁ、そんな所だ。手ひどくやられたよ」
原さんは1つ咳ばらいをしてから答えると、
「内府殿下と陸奥閣下と大山閣下のご案内、よろしく頼む。内府殿下は微行だから、余り目立たないようにな」
と横田さんに命じた。
横田さんは私と大山さんを、人目につかないように完璧に会場まで案内してくれ、関東党大会が始まる午後3時30分、私と大山さんは、私を見知っている国会議員や新聞記者たちに見つかることなく、客席に座ることができた。会場はほぼ満員で、去年の立憲改進党の関東党大会に負けない熱気が渦巻いていた。
「本日は諸君に、選挙権の拡大につきまして、卑見を述べさせていただきます」
立憲自由党の関東地区長の開会のあいさつの後、原さんは演壇に立ち、いつもの低い声で演説を始めた。
「我が国の臣民は、憲法の定めるところにより、納税の義務を有しております。これは、国を1つの会社と例えるならば、臣民は会社に出資しているようなものであります。会社の出資者は、会社の運営に対して発言権を持っております。これと同じで、税を国に対して納める臣民も、国政に対して発言権を得るべきであります。我が党はこの信念に基づきまして、政権与党であった時、選挙権を有するための直接国税納税額を8円50銭から5円に引き下げたのであります」
原さんの声はよく通る。そして、論の組み立てが分かりやすく、スッと頭に入って来る。私は原さんの演説にじっと聞き入っていた。
「しかし、同時に臣民は、兵役の義務も有しております。これは自らの人生の一部を、そして世界情勢によっては、自分の命を国に出資する尊い行為とも言えます。ならば、国に金ではなく、人生を出資した者も、国政に対して発言権を得るべきでしょう。最終的には、兵役の義務を持つ臣民には、漏れなく選挙権を与えるべきであります。しかし、それにはまだ時期尚早であるとわたしは考えております。それは、臣民に対する教育が進んでいないからであります。選挙権を持ち国政に参与するということは、自分自身のみならず、他の臣民の将来にも責任を持つということと同義であります。選挙権を持った臣民が国の将来について正しく判断できなければ、我が国が誤った道に進み、最終的に多くの臣民の命と財産とが奪われてしまいかねないのであります。ですから、国政について問われた時、正しく判断できる臣民を、教育により多数作らなければなりません。内府殿下を御覧なさい」
(あ゛?!)
変な声が出そうになったのを、私は慌てて右手で押さえた。今日の私は微行なのだ。こんなことを言われたら、私がここにいることが聴衆や新聞記者たちに露見してしまう。それは絶対に避けたい。
「おや、どうなさいましたか?」
隣の席にいる大山さんが、私の様子を見て小声で尋ねる。
「だ、だって、微行なんだから、今日は……!」
囁きに怒りを乗せて我が臣下に返答すると、
「演説の一環でしょう。堂々としていればよいのです」
彼はそう言って平然としている。できる訳がない、と返そうとした瞬間、
「内府殿下は、御年僅か19歳で、医術開業試験にご自身の実力だけで合格なさいました」
演壇の上の原さんはこう言った。
「そしてそのご聡明さで貴族院議長として、その後は内大臣として国家に貢献されているのは諸君もご存じの通りであります。それだけにとどまらず、5年前、バルカン半島でのオスマン帝国とブルガリアの戦争から、世界大戦の危機が発生したその時、内府殿下はアメリカ・ロシア・清、そして我が国が連合して和平仲介にあたるというご提案をされ、その結果、見事に世界を大戦の危機から救われました。その英明さ、聡明さ……我々臣民は内府殿下と同じような思考力を、教育によって得なければなりません!」
「梨花さま?」
私の肩をそっと叩いた大山さんに、私は間抜けな顔のまま振り返ってしまった。
「どうなさいましたか。心ここにあらず、といったご風情ですが」
「だ、だって……」
問いかける大山さんに、私は頭を左右に振りながら答えた。
「原さんの演説で私のことが出てくるなんて思ってなかったし、まさか、私のことをあんなに良く言うなんて……」
「本心からそう思っているからに決まっているでしょう」
大山さんは少し訝しげに私を見つめる。
「……あの人にとって、私は単なる小娘だよ?」
「それは照れ隠しというものでしょう」
私の言葉に、大山さんはよく分からない返答をすると、
「もし今後、原が梨花さまを小娘呼ばわりするようなことがあれば、陛下のお許しもございますし、俺がたっぷりと制裁を加えますが……ふふふ」
殺気の混じった微かな笑い声を唇から漏らした。
「諸君、選挙権を有する人口は、徐々に増やしていかなければなりません。そのためにも、我々は教育を男女問わず推し進め、陛下の御期待に応えられるような臣民に、内府殿下のごとく英知を持つ臣民に、すなわち、国政について問われた瞬間において正しく判断し、より良い国政を選び取っていけるような臣民にならなければなりません。これが、わたしが諸君に申し述べたいことであります」
原さんが演説を締めて演壇から下りると、客席からは熱狂的な拍手が湧き上がる。中には、「内府殿下万歳!」と叫んでいる人もいる。……いや、ちょっと落ち着いて欲しい。ここは立憲自由党の本部で、行われているのは立憲自由党の関東党大会なのだ。だから、叫ぶとしたら、“原総裁万歳!”が適切だと思うのだけれど……。
「内府殿下万歳!」
「内府殿下、ばんざーい!」
なぜか“内府殿下万歳!”という声は次々と上がり、次第に会場全体に広がっていく。しまいには、客席のほぼ全員が立ち上がり、一斉に万歳を唱え出した。
(もうダメだ、この立憲自由党……)
万歳の叫びに包まれる会場で、ツッコミを入れる気力を喪失した私は、両腕で頭を抱えていた。
※今回立憲自由党の本部と想定している、芝公園の立憲政友会の本部は、実際には1919年に放火で燃えていますが、その事件は拙作では起こっていないとして話を進めます。ご了承ください。




