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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第70章 1921(大正6)年立冬~1922(大正7)年小満
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机上演習と昼食会

 1922(大正7)年1月17日火曜日午前11時55分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「まぁ、このくらいにしておいて差し上げましょう」

 今日は、先月の地震を機に新設されてしまった、国家緊急事態に関する机上演習の日だ。今日の演習担当は陸奥さんで、私と兄は陸奥さんが出題した、“武装集団が帝国議会を襲撃し、おりしも答弁中だった内閣総理大臣と閣僚数人を惨殺した”という問題に苦しめられた。

「つ、疲れた……。こんなことが本当に起こるとは思えないが……」

 兄はそう言って、すっかり冷めてしまった緑茶を一気に飲み干す。演習が始まってから厳しい質問が連続したためか、兄の額には冬だというのに汗が光っていた。

「僕もそう願いたいのですがね」

 兄の前に置かれた椅子に掛けた陸奥さんは、ニヤニヤしながら兄に言った。「しかし、ありえなくもない話だと思いますよ。“史実”の五・一五事件や二・二六事件は、今回の問いと設定は少し違いますが、軍人が大臣を殺しています。それに、内府殿下の時代ですと、一般人が周囲の人間を無差別に殺傷したり、民衆に紛れ込んだテロリストが一般人を人質にして政府に金や仲間の釈放を要求したりすることもあったのでしょう?」

「……テロリストが、乗客を乗せて飛んでいる飛行器を乗っ取って、そのまま飛行器で乗客もろとも高層ビルに突っ込んで、ビルを破壊したこともありました」

 私は顔をしかめて陸奥さんに答えた。難しい問題で苦しめられてしまったので、思考力は殆ど無くなっている。そんな私を一瞥すると、

「ならば、可能性がゼロではないでしょう。今回の設定のように、黒鷲機関が急進的な宗教団体に接近し、政府に対する反乱を企てたというのは」

陸奥さんはなぜか勝ち誇ったように言った。

「さて、これから昼食会ですね。いいですねぇ。陛下と内府殿下に少人数の食事の席で陪食を仰せつかる機会など、今までほとんどありませんでしたから」

「陸奥顧問官の目当ては、わたしではなく梨花だろう。なんなら、わたしは奥に戻るぞ」

 上機嫌な陸奥さんに兄が硬い視線を突き刺すと、

「何をおっしゃられますやら。陛下に陪食させていただくのも、机上演習の楽しみの1つでございますよ」

陸奥さんは軽くいなすように答え、

「どうも、僕は陛下に心を許していただけていないようですねぇ」

と言って、顔に苦笑いを浮かべた。

(そりゃそうよ。梨花会の面々の中で一番油断ならない人って陸奥さんだもの)

 私が声にも顔にも出さずに陸奥さんに指摘した瞬間、

「陛下、内府殿下、よろしいでしょうか」

障子の外から大山さんの呼びかける声が聞こえた。

「ああ、もう表御殿に行く時間か」

 御学問所に入ってきた大山さんに兄が確認すると、

「はい。(おい)が先導させていただきます」

大山さんは兄に向かって最敬礼した。

「わかった。ではよろしく頼む」

 兄は椅子から立ち上がり、廊下へ向かって歩く。私と陸奥さんも兄に従って歩き、更に私たちの後ろから、侍従さんが1人付き従う。公式の行事に伴う移動ならともかく、これから表御殿の竹の間で行う昼食会は非公式のこぢんまりとしたものだ。だから、付き従う侍従さんの数も兄の希望で最小限に抑えられていた。

「ところで、内府殿下は大隈殿の弔問に行かれたのですか?」

 廊下に出るとすぐ、陸奥さんが小さな声で私に尋ねた。大隈さんは闘病の末、昨日の朝、息を引き取ったのだ。

「ええ、昨日の夜、栽仁(たねひと)殿下と一緒に」

 私も囁くようにして陸奥さんに答える。

「陛下を抑えるのに苦労なさったでしょう」

 そう言ってニヤリと笑った陸奥さんに、

「ええ、とっても」

私はため息をついて応じた。「大隈さんはインフルエンザで亡くなった訳ではないですけれど、兄上が弔問に行ったら、微行(おしのび)だったとしても警備で大勢人が集まって混み合うから、インフルエンザの蔓延に手を貸してしまいます。だけど兄上が“それは大げさだ”と言うから、まず私が弔問に行って、混雑具合を確かめることにしたのです」

「すると、予想以上に多くの弔問客がいた、と」

「びっくりしました。色々な人がいて……。本当に、大隈さんは大勢の人に慕われていたんだなと思いました。そのことを今朝話したら、兄上もようやくあきらめてくれました」

「……残念だ。こういう時に、天皇というのは不便だよ」

 声は潜めていたけれど、聞こえてしまったらしい。兄は私と陸奥さんの会話に割り込んできた。

「行きたい時に、見舞いにも行けない。本当は、明後日梨花の家に行ったついでに、大隈伯爵の家に行って見舞いをしようと思っていたのに……しかし、こればかりは仕方ないな」

「その計画を聞かされた時は、本当に驚いたわよ……」

 私は再びため息をついた。大隈さんの病状が絶望的と知らされた先週土曜日、兄は私に、元々決まっていた微行(おしのび)での盛岡町邸への行幸のついでに、大隈さんのお見舞いに行くと主張したのだ。確かに、兄と大隈さんとは長い付き合いだから、今までいろいろとお世話になったお礼も言いたいだろう。それで、宮内大臣の牧野さんとも相談して、兄の言う通りに計画を進めようとした矢先、大隈さんの訃報が伝えられたのだった。

「しかし、陛下がお見舞いを思い立たれたのは当然のこと。内閣総理大臣に就任することはありませんでしたが、立憲改進党の党首として、大隈殿は間違いなく、僕たちとともに時代を作り上げた人でした」

 陸奥さんは小声で言うと、目線を遠くに投げる。陸奥さんも、大隈さんが率いていた立憲改進党と並び立つ立憲自由党の総裁だった時期がある。ある時は、与党として政権を担当し、またある時には野党として与党の立憲改進党と建設的な議論を繰り広げた。現在では、陸奥さんは貴族院議員の職も党の総裁職も退き、枢密顧問官の1人として国を支えているけれど、かつて論戦を繰り広げた相手の死に、陸奥さんも何かしらの感慨を抱いているのだろう。

「先月の終わり、大隈殿は桂殿に立憲改進党の党首の座を譲ったとか。これで立憲自由党と同じように、立憲改進党も、与党となれば党首が内閣総理大臣になるという時代になった訳です。内府殿下は、“そんなこと、さっさとやっておけと言ってんだろうが!”とお叱りになるのかもしれませんが」

「……私、そんな口調じゃないと思いますけれど」

 私の言葉を、陸奥さんは深く追及することはせず、

「ですが、僕たちはこれからも時代を作り続けなければなりません。陛下と、そして内府殿下とともに」

と、やや声色を変えて言った。

「そのためには、陛下と内府殿下、そして皇太子殿下を鍛え続けなければなりません。ふふふ……大山殿は、我々に実に良い機会を作ってくれました」

「結局、そこに行きつくのか」

 兄が両肩を落として陸奥さんに言った。「まったく、本当に卿らは油断ならないな。少しはおとなしくしていて欲しいものだが」

「おとなしくしているなどとんでもない。僕は死ぬまで、陛下と内府殿下にとって手強い存在であろうと決めているのです。でなければ、僕自身の成長も望めませんからねぇ」

 陸奥さんはクスクス笑うと、

「ですから、これからもよろしくお願いいたしますよ」

と続けて、優雅に頭を下げた。

「仕方ないな」

「お手柔らかにお願いします……」

 宣言通り、相変わらず手強い陸奥さんに、兄と私は半ばあきらめながらこう答えるしかなかった。


 先月の地震の後に始まった国家緊急事態に関する机上演習は、今日で5回目になる。最初の机上演習は、大山さんが予告なく演習を始めてしまったので、私と兄は何もできなかったのだけれど、

――これから、梨花会の面々が俺たちのために問題を準備してくれるのであれば、それはきちんと労いたいのだが、どうすればいいか……。

兄は最初の机上演習が終わるとこう言った。そこで、翌週の机上演習からは、演習が終わった後、講師役と兄と私、そして大山さんの4人で昼食会をすることになった。表御座所には適当な部屋がないため、昼食会は表御殿で開く。表御殿の部屋は、4人で食事会をするにはどれも広すぎるのだけど、4人で話をしながら食事を楽しんでいると、そんなことは気にならなくなり、あっという間に時間が過ぎるのが常だった。

 そして、今回の食事会も、前回までのそれと同じく、料理と会話を楽しんでいると、時刻は午後0時45分となっていた。

「そう言えば、“史実”では、今年の4月にイギリスのエドワード皇太子が来日した……そう斎藤君から聞きましたが、来る気配がありませんねぇ」

 陸奥さんは食後の紅茶を口にすると言った。

「来てほしくないですね……」

 私がムスッとして吐き出すと、

「おや、どうしてですか、内府殿下?」

陸奥さんが急にニヤニヤした。「なかなか国民に人気のある皇太子殿下と聞き及んでおりますが」

「かなりのプレイボーイだ、という話を聞いたのです」

 そう言うと、私は顔をしかめた。「洋行に出た時、大西洋を渡る船の中で、イギリス人の乗客が話しているのを小耳に挟みました。相手が人妻でも平気で口説くって……ただ、私がイギリスにいた時には必要以上には近づいてきませんでしたね」

「恐らく、ワシントンでのウィルソン大統領と若宮殿下との1件が、国王陛下から忠告付きで伝えられていたのでしょう」

 大山さんが横から割り込んで微笑むと、

「……ならば、日本には来てほしくないな。梨花と節子(さだこ)珠子(たまこ)に何かされては困る」

兄はそう言って、渋い顔で紅茶を飲んだ。

「しかし陛下」

「ん?」

 自分に呼びかけた大山さんに兄が目をやると、

(おい)は、エドワード皇太子が日本を訪れる可能性はあると思っております」

大山さんは兄に向かってこんな発言をした。

「?!」

「え?!」

 同じように目を見開いた兄と私に、

「実は今、イギリスでは、エドワード皇太子がリヴェンジ級戦艦の“レジスタンス”に乗り、カナダとアメリカを訪問する計画が進んでおります。それに、チャーチルが随行するというのですよ」

大山さんは微笑して告げる。

「何ですって……!」

 チャーチル海軍大臣。私がイギリスを訪問した時も、そして、向こうから日本にやって来た時も、何かと私に絡んできた非常に手強い相手だ。

「チャーチルが何しに行くのよ……」

 顔をしかめて呟いた私に、

「さぁ、何でしょうな」

と大山さんはおどけた調子で言う。“ご自分で考えてごらんなさい”ということだろう。答えようとした矢先、

「なるほど、アメリカの海軍力の視察か。皇太子の正式訪問なら、アメリカはもてなしの一環として、観艦式をしなければならないだろう。観艦式に出た軍艦の種類や数、その武装をよく観察すれば、戦力はある程度は計測できるからな」

私が答えようとしたことを、兄が先に口にしてしまった。

「……兄上、それ、私が言いたかったんだけど」

「だったら、さっさと答えるのだったな」

 唇を尖らせた私に、兄は少し得意げに言う。悔しくて、私は兄を軽く睨みつけた。

「陛下のおっしゃる通りです。実際に海軍力を測るのは、エドワード皇太子のお付き武官か、“レジスタンス”の艦長でしょうが……」

「再来年に開催される第2回の軍縮会議に向け、各国の海軍力を見定めておこうという訳ですね。もちろん、MI6(エムアイシックス)も裏で情報を集めているでしょうが……。皇太子の外遊を自国の情報収集に使うとは、流石イギリス、したたかですね」

 更に、大山さんと陸奥さんが次々に私が考えていたことを言ってしまう。

「つまり……同じように、エドワード皇太子がチャーチルと一緒に日本に来る可能性が高いということですか」

 私は最後にようやく結論らしきものを言葉にすることができた。

「その通りですが……内府殿下、もっとお言葉を聞かせていただきたかったですねぇ」

 陸奥さんがニヤニヤ笑いを私に向ける。

「言いたいことを先に兄上と陸奥さんと大山さんに言われてしまったから仕方ありません」

 私をからかっているのだろう。真面目に陸奥さんに応対してはいけない。私は事務的に返答してから、「兄上、そろそろ御学問所に戻らないと」と腕時計に視線を走らせながら兄に話しかけた。時刻は午後0時55分になっている。

「おう、そうだな」

 兄が椅子から立ち上がりかけた時、

「陛下、お願いがあるのですが」

陸奥さんがニヤニヤ笑ったまま兄に申し出た。

「内府殿下を、この後貸していただけませんか?何、午後のご政務の間だけで結構ですから」

「それはできないな。梨花はこれから政務を手伝うことになっているから」

 兄が返答すると、陸奥さんは大げさに両肩をすくめ、

「そうですか、それは残念です。内府殿下と2人きりでお話ししたと自慢して、原君を悔しがらせてやろうと思ったのですが」

なんだかよく分からないことを言った。

 すると、

「ああ……それを早く言ってくれ」

兄がニヤリと笑った。「陸奥顧問官、午後の政務は梨花ではなく大山大将に手伝わせるから、梨花を貸す。午後の政務が終わったら返してくれよ」

「は?!」

 私は兄に詰め寄った。「兄上、どういうことよ!何で私が陸奥さんの相手をしないといけないの?!」

「何、原総裁にちょっとばかり仕返しをしてやろうと思ってな」

 私の抗議に、兄は落ち着き払って応じる。「お前と陸奥顧問官が2人きりで話したと聞けば、原総裁は地団駄踏んで悔しがるに違いない。お前を長年にわたってぞんざいに扱ってきたのだ。本当は原総裁をもっといじめてやりたいが……」

「よい方法がありますよ、陛下」

 大山さんが微笑しながら言った。「机上演習を担当しているのは、陸奥どのの他には伊藤さん、了介(りょうすけ)どん、信吾(しんご)どん、山縣さん、松方さん、そしてこの(おい)です。陸奥どのと梨花さまが2人きりで話したと聞けば、他の者たちも黙っておりません。ですから、今後は、机上演習後の昼食会が終わりましたら、梨花さまには午後のご政務の間、内大臣室で講師役と気楽に世間話でもしていただきましょう」

「それはいいな。講師役の士気も上がるだろう」

 兄が笑顔で頷くと、

「お許しが出ましたねぇ」

陸奥さんがニヤニヤしながら私を見る。私の背筋を寒気が駆け上がった。

「では梨花さま、(おい)たちは一足先に内大臣室に戻りましょう。陸奥どのをおもてなしできるよう、少しでも部屋を綺麗にしておかなければなりませんからね」

 言うが早いか、大山さんは私の右手をしっかりと握る。そして私を殺気のこもった目で見つめた。絶対に自分の言うことに従ってもらう……そんな気迫が我が臣下(おおやまさん)からは伝わってくる。……私は彼の主君であるはずなのだけれど。

 こうして、毎週火曜日の机上演習の後は、講師役を労う昼食会、更にその後に私が内大臣室で講師役をもてなす……という、謎の通例が確立してしまった。

※リヴェンジ級戦艦の“レジスタンス”は実際には建造されていませんが、拙作では建造されたとして話を進めます。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 非常時に右往左往されてはたまりませんからね。こういった修練も大切です。 もっとも、この陛下と殿下では、もはや何が来ても失着はしなさそうですが。 [気になる点] 殿下の視点が多いから、いつも…
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