冬の地震(1)
1921(大正6)年12月8日木曜日午後9時25分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「あーあ、学級閉鎖はつまんないなぁ」
本邸1階にある居間。教科書に視線を落としながら呟いたのは、寝間着を着た次男の禎仁だ。この9月で、学習院初等科の3年生になった。
「緊急事態宣言が一昨日出たから仕方ないよ」
禎仁の1歳上の長男・謙仁が、なだめるように弟に言う。「緊急事態宣言が出ている時は、インフルエンザの子がいたら学級閉鎖になる決まりだもの。でも、インフルエンザを広げないためには大事だよね」
「それは分かるけど、兄上……学校に行けないから……」
禎仁が兄に更に訴えようとした時、
「禎仁も謙仁も、手が動いていないわよ」
2人の姉、華族女学校高等初等科第2級……私の時代風に言うと小学5年生の万智子が厳しく指摘した。
「お喋りしていないで、課題に集中して。もし分からないところがあるなら、私か父上か母上に聞くのよ」
万智子が鋭く睨みつけると、弟たちは「はい」と短く返事して、自分の前にある教科書とにらめっこを始める。
(本当、いい子たちねぇ……)
競うようにノートに問題の答えを書き付け始めた子供たちの様子を、私は微笑みながら見守った。
謙仁の言う通り、一昨日、12月6日に東京府では緊急事態宣言が発令された。その翌日に、万智子のクラスでも謙仁のクラスでも禎仁のクラスでもインフルエンザに罹患した生徒が出てしまい、学級閉鎖となったのだ。もちろん、学校が休みになっても、生徒たちは与えられた宿題をこなし、学級閉鎖明けに提出しなければならない。その宿題がちゃんとできているかどうか、私と栽仁殿下は一緒に見守っているのである。
と、
「姉上、この問題がよく分かりません」
謙仁が問題集のページを指さして姉に訴える。
「よろしい、姉上に任せなさい」
少し胸を張って弟に答えた万智子の顔は、示された問題に目を走らせるとたちまち険しくなった。
「万智子、どうしたのかな?」
私の隣に座った栽仁殿下が優しく声を掛けると、
「これ……少し苦手な問題で……」
万智子は可愛らしい顔をしかめたまま答える。
「なら、苦手はこの機会になくしておくのがいいね。どんな問題かな?」
栽仁殿下が万智子に問うたその時、
「揺れてる……?」
禎仁が左右に視線を走らせる。天井を見上げると、吊り下げてある電灯が左右に揺れているように見えた。
「地震……?」
呟いた瞬間、私ははっきりと揺れを感じた。机の上の鉛筆が、揺れに合わせて転がる音が響く。
「みんな、机の下に!」
栽仁殿下の号令一下、私たちはすぐに机の下にもぐった。うずくまってじっとしていると、最初は大きかった揺れも次第に収まっていく。
「……ちょっと大きい地震だったわね」
私が机から顔を出して息をついたのと、当直の職員の1人が居間のドアを開け、「皆様、ご無事ですか?!」と血相を変えて入ってきたのとは同時だった。
「僕たちは大丈夫です。それより、屋敷の内外に異常が無いか、手分けして確認してください」
栽仁殿下の命令に、職員さんが一礼して去って行くと、
「これ、参内する方がいいかしらねぇ……」
と私は呟いた。もちろんこの地震は、再来年に発生する関東大震災より規模は小さい。ただ、東京市内に津波注意報が発令された場合、官公庁の職員は夜中でも休日でも出勤するように定められているのだ。今回の地震で、津波注意報は出るのだろうか。
すると、サイレンの大きな音が20秒続いて1回途切れ、また20秒続いた。これは津波注意報のサイレンだ。
「参内するしかないね」
栽仁殿下が私の右肩を軽く叩いた。「家の被害は、僕が確かめておく。だからこちらのことは心配しないで」
「母上、伯父上の御用ですね」
栽仁殿下に続いて、謙仁が真面目な表情で言った。
「心配しないでください、母上。謙仁と禎仁の面倒はちゃんと見ます」
ニッコリ笑った万智子に、
「ちゃんとおとなしくしてるよ。だって、大隈の爺に、父上と母上が伯父上の御用をするのを助けるって約束したもの」
弟の禎仁が言い返す。
「そうね。じゃあ、ちゃんとおとなしくしているのよ、禎仁」
末っ子の頭を撫でると、私は立ち上がり、慌てて制服に着替えに行った。
「じゃあ、行ってくるわね!」
午後9時55分。制服に着替えた私は自転車にまたがると、子供たちの「行ってらっしゃいませ」の声に送られながら盛岡町邸を後にした。
1921(大正6)年12月8日木曜日午後10時35分、皇居・表御座所。
「ああ、来たか」
天皇の執務室である御学問所には、兄と迪宮さまが既に入っていた。2人のそばには、大山さんが控えている。
「ごめんね、兄上、遅くなって」
私は兄に一言謝ってから、
「迪宮さまも来てくれたの?」
と可愛い甥っ子に尋ねた。
「地震が収まってすぐに、お父様とお母様のお見舞いに参上しまして……」
私に軽く頭を下げた迪宮さまの言葉のすぐ後に、
「“被害状況の把握の実際をご覧になりますか?”、とお誘い申し上げましたら、快くご了承くださいまして」
大山さんの嬉しそうな声が続いた。……どうやら、大山さんはこの機会を逃さず、迪宮さまを鍛えるつもりのようだ。
「……明るくならないと被害が把握できない所もあるから、確実に明日の朝までかかるわ。迪宮さま、身体を壊さないように十分注意してね」
「ありがとうございます、梨花叔母さま。関東大震災の予行練習と思って頑張ります」
私の注意に、迪宮さまは頼もしい言葉を返す。私は頷くと、早速状況の把握に取り掛かった。
まず、この地震の震源は茨城県の南部と推定された。このため、発令された津波注意報は午後10時過ぎに解除されている。私も皇居に向かう途中、警官が「津波注意報は解除!」と呼び掛けて回っているのを聞いた。
「皇居の建物は無事だ。皇族でケガをした者もいない。しかし、輝久の屋敷の塀が2か所崩れたという報告が入った。幸いなことに、道路の通行に支障は無いらしいが」
宮内省からの報告書を読み上げる兄の言葉を、大山さんが黙ってメモに取る。私の末の妹・多喜子さまと結婚した東小松宮輝久王殿下の家は、芝区の高輪にある。また、内務省からの報告によると、他にも、神田区・麹町区・京橋区・日本橋区・浅草区などで、屋根瓦が落ちたり、壁が崩れたりした家が何軒かあるようだ。けれど地区すべての家が崩壊した、という訳ではないから、特に壊れやすかった家が壊れただけだろう。
「震源に近いところでは、もっと被害が出ているでしょうね。被害の全貌が分かるのは明日かなぁ……」
そう言いながら、私は内務省からもたらされた報告書を袖机の上に置いた。
また、ライフラインに関しては、問題は全く発生していない。荒川放水路の堤防も、地震発生直後に目視による点検が行われたけれど、異常は生じていないとのことだ。東京市内での火災発生報告も入っていない。
「……ということは、東京市内の安全は、一通り確保されたということでいいのでしょうか?」
迪宮さまが私と兄と大山さんに尋ねたのは、各省庁からの緊急報告が落ち着いた午後11時半ごろのことだった。
「そうねぇ……」
答えようとした私の言葉を、
「目視が十分になされていない可能性は念頭に置かなければなりませんよ、皇太子殿下」
大山さんが慎重な意見で遮った。
「確かにそうだけど、ここから夜が明けるまでは、重大な情報は入って来ないんじゃないかしら」
私は苦笑いしてから大山さんをなだめると、今度は兄の方を向き、
「だから、兄上は少しでも眠る方がいいと思うわ」
と進言した。
「む……しかし、万が一、俺が決裁しなければならないことが出てきたらどうするのだ」
「その時は起こすわよ」
難しい顔になった兄に私は言った。「あのね、兄上。私の仕事は大山さんや東條さんに代わってもらうこともできるけど、兄上の仕事は誰にもできないの。だから兄上には、いつまでも元気でいてもらわなきゃいけないの。兄上がこの国のために今できることは、しっかり休んで明日に備えることよ」
私の言葉を聞いている兄の眉間には、何本も皺が刻まれていく。そんな兄に、
「兄上が真面目に仕事に取り組むのは尊敬するけどさ、無理をし過ぎたら大変なことになるんだからね。これ以上反論するなら、主治医権限でドクターストップをかけて、迪宮さまと2人で兄上を奥御殿に連行するわよ」
私が最後通牒を突きつけると、
「その……“どくたーすとっぷ”というか……主治医権限というのはずるいなぁ……」
兄は大きなため息をついた。
「仕方ない。奥御殿に戻る。だが、何か緊急の報告事項ができたら、絶対に奥御殿に知らせろよ」
渋々椅子から立ち上がった兄に、迪宮さまがクスっと笑いながら「かしこまりました」と一礼する。
「裕仁も梨花も大山大将も、余り無理はするなよ」
兄はそう言い残して御学問所を出た。
兄が奥御殿に戻ったのを見届けると、私は大山さんに向かって、
「で、大山さんもいったん帰宅してちょうだい」
と命じた。
「これは異なことをおっしゃられますな、梨花さま。俺が残っておれば十分でしょう」
気色ばむ大山さんに、
「80歳近い人に当直をさせるほど私は鬼じゃないわよ!……これは命令よ、大山さん。大山さんが深夜勤務中に死んじゃったら、私、捨松さんに何て言って詫びればいいか分からないんだから」
私は精一杯の威厳とともに言い返すと、大山さんを睨みつけた。
「……かしこまりました。では、俺は明朝、梨花さまと交代致します」
少し不満そうに答えた大山さんに「そうしてちょうだい」と応じると、
「迪宮さまも東宮御所に戻るでしょ?」
私は可愛い甥っ子に確認した。
「いいえ、こちらに残ります。梨花叔母さまと最近ゆっくり話す機会がありませんでしたから」
すると、迪宮さまは私の予想に反してこんなことを言った。
「迪宮さま……いいんだよ、無理しなくて。早く帰って寝てちょうだい」
迪宮さまも皇太子だ。兄と同じように、皇太子でないとできない仕事もある。だから無理はさせたくなかったのだけれど、迪宮さまは私を真っ直ぐに見て、
「こういうことを一度は経験しておくべきだと思いますので」
と言って微笑む。……どうやら、決心は固いようだ。
「仕方ないわね。でも、眠くなったら寝ていいからね」
私は迪宮さまを帰すのを諦め、一緒に表御座所に残ることにした。
大山さんを見送ると、私と迪宮さまは内大臣室に移動した。最初は暇つぶし代わりに、お互いの近況を交換していたけれど、次第に眠気が強くなっていく。文と文の間隔が双方間延びするようになり、気が付くと迪宮さまは椅子の背に寄りかかって眠っていた。本棚に置いてある毛布を迪宮さまの身体に掛けると、私も外套を身体に掛けて長椅子に横になった。
……どのくらいの時間が経ったのだろうか。ドアが激しくノックされる音で目が覚めた。ぼんやりと網膜に映った天井を認識して、昨夜からのことを何とか思い出す。時計を見ると、針は6時25分を指していた。何か緊急事態が起こったのだろうか。立ち上がってドアを開けると、当直の侍従さんが青ざめた顔をして立っていた。
「内府殿下……内務省から緊急連絡が入りました。1時間ほど前に、代々幡町の玉川上水の築堤が崩壊し、付近に氾濫が発生しているとのことでございます」
「……ふぁっ?」
半分寝ぼけていた私は思わず、変な声で返事をしてしまった。




