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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第70章 1921(大正6)年立冬~1922(大正7)年小満
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一世一代の演説

 1921(大正6)年11月19日土曜日午後3時30分、東京府戸塚町下戸塚にある大隈さんの家。

「うむ。ご一家お揃いでおいでいただき、大変光栄であるんである!」

 私と栽仁(たねひと)殿下、そして長女の万智子(まちこ)と長男の謙仁(かねひと)と次男の禎仁(さだひと)の前には、寝間着の上から茶色い羽織を着た大隈さんが正座している。奥様の綾子(あやこ)さんや養嗣子の英磨(ひでまろ)さんが私たちに恐縮しながら頭を下げる中、病人である大隈さんはいつものような無遠慮な大声で私たちを出迎えた。

「思っていたよりもお元気そうで安心しました」

 灰色の背広服を着た栽仁殿下が微笑むと、

有栖川(ありすがわ)の若宮殿下がご一家でいらっしゃるとなれば、吾輩、元気を出さねばならないんである!」

大隈さんはそう言って胸を張る。そんな大隈さんに、

「大隈の爺、いくつかリンゴを持ってきました。これを食べて、元気になってください」

長男の謙仁が、籠に入ったリンゴを差し出すと、大隈さんは満面の笑みで「ありがたい」と頷いた。

「天皇陛下と皇后陛下からも卵や鴨を賜ったので元気を回復したんであるが、このリンゴをいただけば元気は更に増すんである!今日の関西党大会に参加できぬのは残念であるんであるが、これなら、来月の関東党大会には出られるんである!」

「それはよかったです」

 私は微笑んで返答しながら、大隈さんの様子を素早く観察した。声には、いつもと同じように張りがある。姿勢も崩れていないし、血色もいいけれど、以前より少しやせたような気がする。

「大隈さん、疲れたら、遠慮なく横になってくださいね」

 私が声を掛けると、

「かしこまりました。しかし、内府殿下が和服をお召しになっているのを久々に拝見したので、気分はすこぶる良いんである」

大隈さんは再び胸を張った。

「しかも、内府殿下には、関東党大会にご出席いただけると桂君から伺いましたから、吾輩、頑張って更に元気にならなければならないんである」

(大丈夫かしら……)

 いつものように元気よく声を張り上げる大隈さんを見ながら、私は来月4日に開催される立憲改進党の関東党大会に、大隈さんが本当に出席できるかどうかを考えてみた。党大会の会場は、大隈さんの家のすぐ近くにある東京専門学校の大講堂だ。ただ、すぐ近くと言っても、ここから歩いて数分はかかるから、この家から大講堂まで大隈さんが往復するには、車いすを使うことも検討しなければならない。最悪、担架か、外した戸板に大隈さんを横たえて運ばなければならないかもしれない。

 あとは、大隈さんに、演壇に立って演説する体力があるかどうかだ。簡単な演説で済ませるにしても、4、5分は聴衆の前で立っていなければならない。マイクやスピーカーなどは大講堂には導入されていないので、演説をする時には、大講堂の隅々まで届くような大きな声を張り上げなければならないけれど……。

 と、

「ねぇ、大隈の爺。元気になったら、僕の家に来てくれる?」

禎仁が大隈さんに無邪気な目を向けて聞いた。

「そうですなぁ。ここから盛岡町まではちと遠いですからなぁ。専門学校までなら何とかなるんであるが」

 大隈さんがやや落ち着いた調子で答えると、

「大隈の爺、爺が元気になるために、何か私にできることはある?」

万智子が膝を進めて大隈さんに質問した。

「おお、女王殿下は、幼い頃の内府殿下にそっくりであるんであるなぁ……」

 大隈さんは笑顔を見せると、

「そうですなぁ。お父上とお母上が、天皇陛下の御用をきちんとできるよう、女王殿下がお助けになること……。そのご様子を聞くことが出来れば、吾輩も元気を取り戻せるんである」

万智子に優しい声で回答した。

(大隈さん……)

 太ももの上で、私が着物の裾を握りしめた時、

「謙仁王殿下も、禎仁王殿下もですぞ」

大隈さんは少し声を張り上げた。

「お父上は天皇陛下を、そして国を守る軍の一員として、お母上は天皇陛下を輔弼する内大臣として、天皇陛下の御用を日々務めておられるんである。そんなお父上とお母上を、謙仁王殿下と禎仁王殿下が助けておられると聞くことができれば、吾輩は元気を取り戻せるんである」

 大隈さんの真面目な言葉に、

「はいっ、父上と母上を助けて頑張ります。そして僕も大きくなったら、海兵の一員として、天皇陛下と国をお守り申し上げます」

「僕も父上と母上を助けるよ、大隈の爺」

謙仁も禎仁も元気に答える。……恐らくこれが、大隈さんと子供たちとの最後の対面になる。大隈さんもそれを分かっているのだろう。大隈さんの最後の訓戒を素直に受け止める子供たち、そしてその様子を満足げに見つめている大隈さんを見比べながら、私は泣き出したくなるのを必死に堪えた。

「若宮殿下、吾輩のいない間、内府殿下のことをお頼み申し上げるんである」

 大隈さんは、今度は栽仁殿下に目を向けた。

「内府殿下の幼い頃から、縁あって度々お話させていただいていたんであるが、内府殿下のご自分を過度に傷つけたり、考えを妙にこじらせたりなさる悪癖には、大山さんをはじめ、皆手こずらされていたんである。であるから、内府殿下の手綱は、是非若宮殿下に握っていていただきたいんである」

「ご安心を」

 大隈さんに栽仁殿下は力強く頷いた。

「僕は章子さんを娶る時に、全身全霊で愛する章子さんを、一生涯守って支え、必ず幸せにすると誓っています。それはもちろん、永久に変わることはありません」

「ちょっと!」

 私は顔を真っ赤にして夫を睨みつけた。「こ、こんな時に……子供たちもいるのに、言わないでよ、そんなこと……」

 必死に抗議する私に、

「事実だから、答えないと仕方ないよ」

栽仁殿下は澄ました顔で言い放つ。思わず顔を伏せると、大隈さんの笑い声が響いた。

「うむ、まことに仲睦まじくてよろしいんである!有栖川宮家の将来も安泰であるんである!……ところで内府殿下」

 大隈さんの声の調子が変わり、私は慌てて姿勢を正した。

「内府殿下は党大会にご出席なさるから、吾輩、一世一代の演説を披露させていただくんである。であるから、党大会を楽しみにお待ちいただきたいんである!」

「分かりました」

 大隈さんの体力がどれだけもつか……それを正確に予測するのは誰にもできない。ひょっとしたら、党大会の前に、容態が急変してしまうかもしれない。大隈さんの演説を……恐らく、生涯最後になるであろう演説を、ちゃんと聞くことが出来るようにと、私は心から祈りながら大隈さんに頭を下げた。


 1921(大正6)年12月4日日曜日午後1時27分、東京府戸塚町下戸塚にある東京専門学校の大講堂。

「はぁ、まさかこの観客席に、また座ることになるなんてねぇ……」

 大講堂の観客席に座った私は、周囲を見渡しながら呟いた。観客席は9割以上が埋まっている。その多くの者は舞台を見つめ、隣の席の者と言葉を交わしている。恐らく、大隈さんは今日本当に演説をするのだろうかと話し合っているのだろう。

「おや、梨花さま。何か嫌なことでも?」

 私に小声で話しかけたのは、隣に座っている大山さんだ。灰色の背広服に白いマスクをつけた彼は、今日は私の護衛として私に付き添っていた。そんな彼に、

「だって、ここって、脚気討論会の会場だったところじゃない」

栗梅色の地に茶色で絣模様を織り出した着物を着て、診察カバンを膝の上に抱えた私は、ムスッとして言い返した。「ここに座っていると、あの時にやらかしたのを思い出してしまうのよ」

「ふふっ、素晴らしい啖呵でしたな。“アスクレピオスや大国主命が許しても、この章子が許さぬ”、でしたか」

「……大山さん、私を処刑する気?」

 微笑む臣下に、私はうつむきながら答えた。30年前、この壇上に躍り出て、青山と石黒を叱りつけてしまった時のことを思い出すと、今でも顔から火が出そうになる。もちろん、この大講堂には、東京専門学校の創立20周年記念式典の時にも、来賓として訪れているけれど、その程度のことでこの黒歴史は上書きできない。

「……しかし、あの時と同じように、観客席は満員に近いですな」

 これ以上私をからかうのは危険と見たのか、大山さんは私に別の話題を振った。

「そりゃそうよ。あの大隈さんの、恐らく最後の演説だもの。報道が過熱していたし」

 私は体勢を立て直すと、ため息をつきながら大山さんに答えた。大隈さんの病状は、時々大隈家から発表されている。関東党大会の日が近づくにつれ、各新聞とも、“大隈伯の最後の演説は聞けるのか?”という見出しで、昨日の体温はどうだった、昨日は何を食べた、昨日は誰からの見舞いを受けた、など、プライバシー保護という概念の欠片も無いような報道を繰り広げた。余りに過熱した新聞記事の文言は、院が密かに修正していたけれど、大隈さんが今日の立憲改進党関東党大会で演説をするかどうかは、全国民の注目の的となっていた。

「無料のはずの党大会の入場券が高値で取引されたり、入場券を偽造して売りさばく輩が出たり……過熱した報道で、警察と院が迷惑を被りました。報道各社には、報道のあり方というものを今一度見直していただきたいですなぁ」

 薄く笑った大山さんに、

「本当に困ったものね」

私は短く応じた。東京専門学校の近くまで自動車で行き、そこから歩いてこの大講堂に来たけれど、学校の授業が無い日曜日なのに、東京専門学校の敷地内にも、敷地の外の道路にも、たくさんの人が集まっていた。恐らく、党大会の入場券を持っている人たちだけではなく、自分は党大会に出られないけれど、党大会に出る大隈さんの姿を一目見ようとする人たちも多くいたのだろう。それだけ、大隈さんの人気は高いのだ。

 と、

「静粛に願います!」

舞台袖に、黒いフロックコートを着た男性が現れ、聴衆に呼びかけた。彼の穏やかな風貌には見覚えがある。

「あの人、確か国会議員の……ええと、誰だっけ?」

 私の囁きに、

「衆議院議員の町田忠治ですな。確か、秋田の選挙区の選出だったはずです」

大山さんが小声で返した瞬間、その町田さんが、

「只今より、立憲改進党の関東党大会を開催いたします。冒頭、大隈党首より一言申し上げます」

と会場に告げた。その途端に、わあっと歓声が上がる。やがて、舞台向かって右側から、フロックコートを着た大隈さんが、中央の演壇へと歩き始めた。足取りはしっかりしているけれど、歩く速さは元気だった時より遅い。しかし、態度はいつもと同じく堂々としていた。

「お集まりの諸君」

 拍手と歓声が渦巻いている会場に向かって、大隈さんが元気な時と変わらない張りのある声で呼び掛けると、聴衆が静まり返った。

「既に新聞やラジオの報道でご存知の方も多いと思うんであるが、吾輩は摂護腺(せつごせん)癌を患っておる。これは根治するのが難しい病気なんだそうである。常々、吾輩は125歳まで生きると言っていたんであるが、その年齢までは生きられそうにない。恐らく吾輩の命は、あと数か月のうちに尽きるであろう。だからこれは最後の演説になるかもしれぬ。そこでこの機会を借りて、吾輩は諸君に、人生における成功の秘訣について、吾輩の考えるところを申し述べたいんである」

 満席の大講堂で、声を発する者は誰もいない。大講堂にいる全員が、大隈さんの言葉を自らの耳で必死に受け止めようとしていた。

「顧みるに、吾輩の人生は決して平坦ではなかった。山もあれば谷もあった。川も坂も峠もあった。ひょっとすると、断崖絶壁や道なき道もあったかも知れぬ。……かかる険難のために何度転ばされたか分からぬ。しかし吾輩は、そのたびに立ち上がった。それは勇気を持っていたからなんである。人生において、困難というものは必ずやって来るものだが、それに立ち向かう勇気がなければ、困難に打ち勝つことはできないんである」

 ……本人の言う通り、大隈さんの人生は平坦なものではなかった。佐賀の藩校で学んでいた少年時代には、藩校の改革を訴えて藩校を退学処分になった。また、“明治十四年の政変”の結果、大隈さんは政府の要職を辞職して下野することになった。しかし、困難に遭うたびに、大隈さんはへこたれることなく立ち上がり、今の成功を掴んだのだ。

「人は他人に頼って生きていくものではない。自分の道は、自分で切り開いて行かねばならないのである。そのためには、困難に遭った時、恨み言や泣き言を述べるのではなく、勇気をもって困難に立ち向かわなければならないのである。成功の秘訣はそこにあると吾輩は信じる。もし諸君らが吾輩を成功者だと思ってくれるのであれば、それはすなわち、吾輩に勇気があったということになるんである」

(ああ、そうか……)

 演説を聞きながら、ふと、思い当たったことがあった。先日、牧野さんに相談をすべきか、兄と2人で散々迷った時のことだ。あの時、私も兄も、牧野さんに叱られるのではないか、牧野さんを不快にさせるのではないかと恐れていたけれど、結局そんなことはなかった。ただ、私と兄がもっと勇気を持っていたら、問題はすぐに解決できたのだろうと思う。もちろん、何も考えずに事を行えば、しくじることも多いけれど、一度決めたらやるという勇気も、人生には必要なのではないだろうか。

「諸君、諸君らも吾輩の後に続く者として、勇気をもって困難に立ち向かってもらいたい。吾輩を含め、人間の命というものは永久無限ではない。しかし、人間の精神というものは無限の可能性を持つ。諸君らはこれを忘れず、勇気をもって人生の困難に立ち向かってもらいたい。吾輩はそう願うんである」

 大隈さんが軽く一礼すると、大講堂に割れんばかりの拍手が起こった。観客の中には、椅子から立ち上がり、夢中で両手を叩いている人も見受けられる。もちろん私も、両手を痛くなるほど叩き続けていた。

 と、舞台袖に下がろうとした大隈さんの身体が揺れた。上体がふらつくと同時に膝も崩れ、大隈さんは舞台に両手をついてしまう。

「大隈さん!」

 私は診察カバンの持ち手を掴むと、舞台に向かって駆けた。舞台袖に設けられた階段を駆け上がり、大隈さんのそばにしゃがんだ時には、大隈さんは書生さんや立憲改進党の幹部たちに助け起こされていた。

「大隈さん、大丈夫ですか?!」

 大隈さんに声を掛けた私に、

「内府殿下?!」

「お出ましになっては……!医師も控えておりますから、お戻りを!」

内閣総理大臣の桂さんや逓信大臣の尾崎行雄さんなど、立憲改進党の幹部たちが口々に叫んだ。

「そんなことより、大隈さんの手当てが先でしょう!」

 私が彼らに鋭く言い返した時、

「いかがでしたかな、内府殿下、吾輩の演説は……」

身体を左右から支えられた大隈さんが私に尋ねる。その声からは、先ほどまでの覇気が完全に失われていた。

「大変、ためになりました」

 私は大隈さんの目をしっかり見つめながら答えた。「私、最近色々と考え過ぎて、勇気を失っていた気がします。大隈さんの演説を聞いて、それに気づくことができました」

「しかし、勇気を闇雲に発揮されるのも困りますよ」

 私に追いついた大山さんが、後ろから呆れたように指摘する。

「人命がかかっているのだから仕方ないでしょう」

 私が大山さんに反論すると、大隈さんが小さく笑った。

「その後の処理は、大山さんが何とかすればいいんである。それが臣下の役割というものなんである」

 笑いながら言った大隈さんに、

「なさったことの重大さを、主君ご自身に自覚していただくのもまた臣下の務めというものですぞ」

大山さんがやや気色ばんで言い返す。

「はいはい、舞台(こんなところ)に大隈さんを置いておけませんから、さっさと舞台袖に運びますよ」

 なぜか言い争いを始めそうになっている大隈さんと大山さんの間に割って入ると、私は集まった人たちを指揮して大隈さんを舞台袖に運んだ。血圧や脈にも異常はなく、本人の話とも総合して考えると、大隈さんが倒れたのは、単につまづいてバランスを崩しただけのようだったけれど……以降、大隈さんの体力は次第に低下し、結果として、この12月4日の演説が、大隈さんの最後の演説となったのだった。

※今回の大隈さんの演説に関しては、『現代青年に告ぐ』(内外出版協會,1919.10)と『大隈侯八十五年史』3(大隈侯八十五年史編纂会,1926)を参考にして組み立てました。

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[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 立派な大演説であるんである。
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