1921(大正6)年11月4日
1921(大正6)年11月4日金曜日午後0時45分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「ああ……あと7時間、切ったか……」
机の前の椅子に腰かけた私は、左手首の腕時計に視線を走らせると顔をしかめた。今日は、1921年11月4日……“史実”で原さんが暗殺された日である。暗殺事件が発生したのは午後7時25分ごろだから、その時刻を過ぎるまでは気を付けなくてはならない。
(ええと、今日の手はずは……)
私は落ち着くために、今日のために立てた策を頭の中でもう一度繰り返した。
まず、今夜、特に午後7時から7時半ごろまでは、政府高官を新橋駅に近づけないような配慮がされている。例えば、総理大臣の桂さんは、午後7時から9時までの予定で、全ての大臣と次官を集めて、総理官邸で懇親会という名の宴会を開催する。総理官邸はもちろん皇居のすぐ近くにあるから、懇親会に出席すれば、1km以上離れている新橋駅には近づけない。……ちなみに、なぜ“新橋駅に近づけない”ということになったかと言うと、この時の流れではまだ東京駅ができておらず、東海道線の始発駅が新橋駅だからである。
また、特に暗殺される可能性が高いと思われる面々を、今夜は中央情報院の職員が念入りに警備することになっている。まず、“史実”で暗殺された本人である原さん。“史実”で暗殺された時の原さんの立場が内閣総理大臣兼立憲政友会総裁であったことを考慮して、この時の流れでの現在の総理大臣である桂さん、そして、与党・立憲改進党党首である大隈さんにも護衛が付く。更に、前内閣が行った政策への恨みが暗殺犯の動機になることも考え、前内閣の主要政策……新型インフルエンザ対策の中心となっていた人物も、厳重に警備することになった。すなわち、前内閣総理大臣である西園寺さん、前厚生大臣で今は内務大臣を務めている後藤さん、前内閣では厚生次官、現内閣では厚生大臣を務めている若槻礼次郎さん、そして内大臣の私の4人である。
(とにかく、原さんの暗殺事件と同じ状況を作らないことが大切。だから、色々と策も立てたし、新橋駅の警備も強化してもらっているけれど、もしかしたら、警備に穴があるかもしれない。それに、目標を失った犯人が無差別テロに走る可能性もゼロじゃない。ああ、どうしたらいいのかしら……)
やるだけのことはやったと、理論上では納得しているのだけれど、私の心からは不安が消え去ってくれない。この心を落ち着かせるにはどうしたらいいのだろうか……と私が考えた時、内大臣室のドアが外から叩かれた。
(大山さん?)
反射的にそう思ったけれど、次の瞬間、私は左右に勢いよく首を振った。今日、大山さんは休みを取っているのだ。
――梨花さまのご勤務が終わりましたら、7時30分まで、俺が梨花さまを穏田の家でお守り致します。ああ、ついでに、原も一緒に保護しておきますから、ご安心を。
大山さん本人はこんなことを言っていたけれど、とにかく、大山さんは、私と原さんを今夜自宅でもてなす準備をするために、今日は仕事を休んでいるのだ。だから、大山さんがここに来るはずはない。訝しく思いながらも椅子から立ち、内大臣室のドアを開けると、そこには私が想像もしていなかった人物が立っていた。
「牧野さん……」
「突然参りまして、申し訳ございません」
2か月ほど前に宮内大臣に就任した牧野伸顕男爵は、ドアを開けた私に丁重に一礼した。
「あの……もしかして、何か事件が起こってしまいましたか?!」
7時25分までまだ時間はあるけれど……と思いながら私が尋ねると、
「いえいえ、そういうことではございません」
牧野さんは穏やかな調子で否定する。ではどうして、と問おうとした私に、
「午前中、御学問所に報告に参りました時、内府殿下のお元気が無さそうでしたので、心配してこちらに参りました」
牧野さんはこう答え、私に再び頭を下げた。
「……申し訳ありません。余計な心配をさせてしまいました」
私も丁重に、牧野さんに頭を下げる。「いろいろ、今夜のことを考えてしまって……。兄上と話していれば、気が紛れて、今夜のことを忘れられるのですけれど、1人になってしまうと、どうしても……」
私は両肩を落とすと、
「修業が足りない、って、大山さんがいたら怒られちゃいますね」
と言って、牧野さんに苦笑いを向けた。
すると、
「ならば、私も大山閣下に、“修業が足りない”と叱責されてしまいますな」
牧野さんも唇の端に微かに苦笑いを浮かべた。
「え……?」
「お恥ずかしい話ですが、私もいささか動揺しているのですよ。我々は既に、“史実”での伊藤閣下の代わりに、この時の流れで袁世凱が殺されたという苦い経験をしております。その時と同じように原殿が、もしくは、原殿と同等の有力者である誰かが殺されてしまったらと、気が気でないのです」
「牧野さん……」
黒いフロックコートをきちんと着こんだ牧野さんの様子には、普段と変わるところは無いように私は感じた。しかし、彼は私と同じように、あと数時間後にたどり着くかもしれない結末に怯えているのだろうか。それとも、本当は全く心配していないのだけれど、私を安心させるため、敢えてこんなことを言っているのだろうか。どちらなのかと考えたその時、
「ですから、こう思うことに致しました。人事は尽くしたのだから、天命を待てばいいのだ、と」
牧野さんはこう言って穏やかに微笑んだ。
(ああ……)
「そうですね、確かにその通りです」
私は再び苦笑いを顔に浮かべた。「やっぱり、私は物事を深刻に考えてしまいがちですね。やるだけのことはやったのだから、あとは運を天に任せるしかないですね」
「ええ」
牧野さんは私に微笑を向けると、
「今日は天気もようございます。午後の御政務が終わりましたら、陛下とご一緒に、外に出られるのがよろしいのではないでしょうか」
と、私に穏やかに提案した。
「そうですね。何をするかは兄上の気分次第ですけれど、何をするにしても、思い切り楽しむことにします。ありがとうございます、牧野さん」
やっぱり、私はまだまだ修業が足りないようだ。私は牧野さんに心をこめて一礼した。
1921(大正6)年11月4日金曜日午後5時55分、東京府千駄ヶ谷町穏田にある大山さんの家。
「お待ち申し上げておりました」
車寄せで自動車から降りると、大山さんと、大山さんの奥さんの捨松さんが、並んで私に最敬礼をした。
「今日はよろしくお願いします」
私は2人にぺこりと頭を下げる。勤務が終わった後、そのまま大山さんの家に向かったので、私が今着ているのは制服だ。すると、大山さんが私の全身を一瞥し、
「内府殿下、小礼服にお召替えをなさいますか?」
突然、私にこう尋ねた。
「はい?」
首を傾げた私に、
「この制服では華がございません。おっしゃっていただければ、今からでも、盛岡町のご自宅から、小礼服と装身具を職員に持ってきていただきますが……」
大山さんは大真面目な顔で言う。「は?!」と私が顔をしかめたのと、捨松さんが吹き出したのは同時だった。
「まぁ、あなたってば、はしゃいじゃって」
あっけに取られた私の前で、捨松さんが笑いながら言った。
「驚かせて申し訳ございません、内府殿下。内府殿下がこの家でお食事をなさるのは、ご結婚以来なかったでしょう。それで、この人ったら張り切ってしまって……」
「はぁ……」
私は捨松さんに曖昧に頷いた。小さい頃から、何度も微行で大山さんの家を訪ねている。先々月も原さんと話すために訪問したけれど、確かに、捨松さんの言う通り、大山さんの家では結婚以来食事はしていない。
「よいではないですか。俺のご主君には、いつでも美しい淑女でいていただかなくてはならないのですから」
捨松さんに反論する大山さんに、
「服を替えても、中身は変わらないわよ……」
私が呆れながらツッコミを入れると、
「ほう……内府殿下は、ご自身のご容貌の生かし方に習熟されておられないようですな」
大山さんの両目が怪しく光る。このまま彼と話を続けているとややこしいことになりそうだったので、
「捨松さん、原さんはいらしてます?食堂にご案内をお願いします」
私は捨松さんに声を掛け、大山さんの追撃から逃れた。
私が食堂に入ると、すぐに原さんもやって来た。5時過ぎまで立憲自由党の会合があり、それが終わった後、大山さんの家に向かったそうだ。
「西園寺さんに家に来ないかと誘われたが、こちらが先約なので断った。西園寺さんの家も警備が万全なのは分かっているがな」
席についた原さんは私にこう囁いた。西園寺さんの家は、今夜は中央情報院の手によって厳重に警備がされている。もちろん、総理官邸や大隈さんの家も、である。それはこの大山さんの家でも……いや、家で働いている職員が、盛岡町邸の職員と同じように、ほぼ全員中央情報院の職員であることを考えると、大山さんの家の警備が一番厳重かもしれない。
(ここまで厳重な警備なら、よほどのことがない限り、安心か……な)
私はそう考えて必死に心を落ち着け、大山さんの家の美味しい料理に集中した。
全てのメニューを堪能した後、私と原さんと大山さんは応接間に移動した。私たちが応接間に入ると、大山さんは職員に人払いを言いつけた。時計を見ると、午後7時15分を過ぎていた。
「あと10分もないのか……」
椅子に腰を下ろした原さんの顔は、流石に強張っている。
「ですね……。まぁ、流石に、やるべき対策は全てやったと思うので、大丈夫だと思いますけれど……」
私が原さんに応じると、横から大山さんが「梨花さま」と声を掛けた。
「顔が少し引きつっておられますよ。このような時には動揺を見せないものです」
「それは分かっているけれど」
私は我が臣下の方を振り向いた。「あなたみたいに泰然自若としていられるだけの精神力はないわ」
「ほう。では、ご修業をしていただかなくてはなりませんな」
「今回の件を無事に乗り越えられたらにしてちょうだい」
私は大山さんに言い返すと口を閉ざした。それきり、応接間で声を発する者はいなくなる。静寂に閉ざされた部屋の中では、サイドボードの上に置かれた時計の秒針が、規則正しく時を刻む音だけが響いていた。
「25分……」
置時計の分針が25分を指した時、原さんの口から呻くような声が出た。私も自分の腕時計が、7時25分を指しているのを確認する。10秒、20秒、30秒……時はただ機械的に過ぎていった。
「30分……」
原さんが呟いた時、応接間の外でけたたましいベルの音が響いた。ギョッとして身をすくめた私に、
「電話ですな。出て参りましょう」
大山さんがそう言い残して席を立ち、応接間の外へ出て行った。二言三言、喋る気配がした後に、再び電話のベルが短く響く。その直後にまた人の話し声がして……ということが繰り返されると、大山さんが応接間に戻ってきた。
「今、各所に配備している院の者から連絡がございました。大隈さんも西園寺どのも、それから、総理官邸の皆様も無事だということです。新橋駅でも騒ぎは起こっていない、と……」
大山さんは私と原さんにこう報告する。すると、原さんは椅子に背を預け、天井を見上げた。
「ああ、これで乗り越えることができたか……」
感慨深げに言った原さんに「よかったですね」と私が声を掛けると、
「これも主治医どののおかげだな」
原さんはこんなことを言った。
「……はぁ」
今回、私は原さんにお礼を言われるようなことをしただろうか。首を軽く傾げた私に、
「おい、“はぁ”とはなんだ、“はぁ”とは」
原さんが声を荒げた。
「せっかく人が礼を言ってやっているのに、その態度はなんだ、その態度は。この礼儀を知らない小娘め!」
「あー、申し訳ございません」
なぜだか分からないけれど、原さんの機嫌は相当悪い。とりあえず、頭を下げておくと、
「心がこもっていないぞ、心が」
原さんは私に鋭い視線を投げる。
「謝るなら、もっと心をこめて謝れ。内大臣たる者がこのような礼儀知らずでは、陛下をきちんと輔弼できるのか心配になるぞ」
私が原さんに言い返そうとした時、バン、と大きな音がした。音のした方を振り向くと、応接間の入り口のドアが大きく開かれている。開いた扉の前には、ここに絶対にいるはずのない人が仁王立ちしていた。……兄だ。
「聞き捨てならん」
黒いフロックコートを着た兄は、両腕を胸の前で組み、原さんを鬼のような形相で睨みつけている。
「へ、陛下?!」
「兄上?!兄上なんで?!」
驚きの声を上げる私と原さんの頭の上に、
「俺の愛しい妹を小娘呼ばわりするとは……!」
兄の怒気をはらんだ声が降ってきた。
「お……お許しを!」
原さんが慌てて立ち上がって土下座した瞬間、
「陛下、お出ましになるのはもう少し後で、という段取りでありましたでしょう」
大山さんが兄に穏やかな声で話しかけた。
「確かにそうだが、大山大将、我慢ならなかったのだ!」
兄は大山さんにしかめ面を向けた。「原総裁が“史実”の記憶を持っているのは知っていたが、梨花にあんなにぞんざいな口をきいて……“主治医どの”まではまだ許せたが、“小娘”呼ばわりは許さん!」
「陛下は堪え性がございませんなぁ」
息まく兄に、大山さんはおどけた調子で言う。どこか楽しげな我が臣下に、
「あ、あのさ、大山さん、私、話についていけてないのだけれど……」
私は右手を挙げながら声を掛けた。
「あの、兄上がここにいるのは、大山さんが仕組んだことなのかな?」
「ああ、俺と大山大将で企んでな」
大山さんへの私の質問に、なぜか兄が回答した。「今日の7時半を過ぎれば、原総裁の命の危機は一応去る。それを機に、原総裁に“史実”の記憶があることを知っている、と、俺が原総裁に明かしてやろうと思ってな。応接間の隣の部屋に潜んでいた」
「はい?!」
私が目を丸くすると、大山さんがニッコリ微笑む。
「お待ちください、陛下、わたしに“史実”の記憶があることを、なぜご存知なのですか……」
顔を真っ青にした原さんから至極当然の問いが発せられると、
「何、俺が陛下に教えて差し上げたのですよ」
大山さんがしれっと答えた。
「え?!秘密にするって約束だったのに!」
私が大山さんににじり寄りながら抗議すると、
「どうも以前から妙な感じがしたから、大山大将を問い詰めたのだ。原総裁の見舞いに梨花を遣わした時にな」
兄が横から大山さんの答えを補足した。……どうやら兄は、持ち前の鋭い勘で、原さんが“史実”の記憶を持っていることを察してしまったようだ。
「……さて、原総裁。俺の愛しい妹を侮辱した罪は重いぞ。覚悟はいいな」
兄がそう言いながら原さんを見据えた。兄の身体からは殺気が立ち上っている。
「ちょ……ちょっと待って、兄上。まさか、原さんを殺す気?」
恐る恐る尋ねた私に、
「梨花を侮辱していたのだぞ」
兄は冷たく言い放った。
「待ってよ兄上、落ち着いて!ここで原さんを殺したら、せっかく築いた二大政党制が瓦解して、議会がコントロールできなくなるわよ!」
私は兄を必死に止めにかかった。
「それに、原さんは、内親王としても上医としても未熟だった私に、皇族としてどうあるべきか、上医としてどうあるべきか厳しく教えてくれたのよ!その過程で、つい言葉が汚くなってしまっただけで、私を侮辱する意図は全くないの!」
……私が言ったことは、半分ぐらいは事実ではない。いや、もしかしたら、ほとんど正しくないかもしれない。でも、原さんが心の中でどう思っていようと、私を将来のために鍛えてくれたことだけは事実だ。私は原さんを助けるべく、兄に向かって必死にまくし立てた。
「大山さんも、兄上を説得するのを手伝って!」
兄が「ううむ……」と考え込んだところで、私が大山さんの方を振り向くと、
「さて、どうしましょうか。このまま放置しておくのも一興ですし……」
大山さんはニヤニヤ笑いながら、まるで陸奥さんのようなことを言った。
「いや、だから、本当に手伝ってよ!命令よ!日本の命運が、この一瞬にかかってるのよ!」
私が強く命じたためか、大山さんも兄の説得を手伝ってくれた。最終的に、原さんは私に土下座して詫びを入れた上、私に二度と乱暴な口をきかないと兄と私に誓う……という条件で何とかお咎め無しとなったのだけれど、
「もし今後梨花にぞんざいな口をきいたら、すぐに殴ってやるから覚悟しろ」
兄は大山さんの家を立ち去る直前に原さんにこう言い残したので、原さんは震えながら、厳重な警備とともに皇居に戻る兄を見送ったのだった。




