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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第69章 1921(大正6)年小寒~1921(大正6)年霜降
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成婚の日に

※誤字を修正しました。(2024年1月6日)

 1921(大正6)年10月20日木曜日午前11時10分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「はぁ、よかった……本当によかった……」

 斜め上をぼんやり見つめ、ほっと息をついている兄に、

「兄上……嬉しいのは分かるけど、それ言ったの、何回目よ……」

私はやや呆れながらツッコミを入れた。

 今から1時間ほど前、兄の長男・迪宮(みちのみや)さまが、久邇宮(くにのみや)家の御当主・邦彦(くによし)王殿下の長女である良子(ながこ)さまと賢所で婚儀を挙げた。迪宮さまは20歳、良子さまは18歳、“史実”より2年以上早い結婚である。婚儀を挙げた迪宮さまと良子さまが兄と節子(さだこ)さまに対面する席に、私も内大臣として立ち会っていたけれど、歩兵中尉のカーキ色の正装に身を包んだ迪宮さまも、五衣(いつつぎぬ)唐衣裳(からぎぬも)……いわゆる十二単をまとった良子さまも、初々しくてとても素敵だった。そんな長男夫婦と対面して、兄が深い感慨を覚えているのは間違いないけれど、このセリフを兄の口から聞くのは今日で5回目だ。まさか、迪宮さまたちと交わした盃で、酔っ払ってしまったのだろうか。私がそう思った瞬間、

「別に、酒に酔っている訳ではないぞ」

兄が私を軽く睨みつけた。

「……なんで分かったのよ。私が、兄上が酔っ払ってるんじゃないかって心配してるのが」

 ギョッとしながら私が聞くと、

「当たり前だろう。お前の顔を見ていれば分かる。俺はお前のただ1人の兄なのだから」

兄はなぜか胸を張って断言した。

「それ、理由になるの?」

「なるさ」

 私の反問に兄は即座にこう返す。やはり兄は酔っ払っているのではないだろうかと私は不安になったのだけれど、今まで兄がご神事や儀式で酒を口にした後、酔っ払ってしまったことはない。とりあえず不安は心の底に押し込め、私は話題を変えることにした。

「……これで、小さい頃から仲がよかった迪宮さまと良子さまが、めでたく結婚できたのね」

 私が兄に話しかけると、

「ああ。これも珠子(たまこ)のおかげだな」

と兄はくつろいだ様子で言う。

「……そう言っていいのかしらね?」

 あれは兄一家が赤坂御用地で暮らしていた頃……兄の長女・希宮(まれのみや)珠子さまが7、8歳の時だったと思う。ある日、希宮さまの遊び相手として、希宮さまと同じ年頃の皇族や華族の女の子が集められた。その中に、希宮さまの1歳年上である良子さまもいたのだ。

 ところが、彼女たちと希宮さまが庭で花を摘んで遊ぼうとした時に、学習院の同級生を引き連れた希宮さまの次兄・淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)さまが現れて、

――珠子、戦ごっこしようぜ!

と元気よく声を掛けた。すると希宮さまは、

――はい、(あつ)兄上!

と即答して淳宮さまと一緒に走り去ってしまい、希宮さまの遊び相手として集められた女の子たちは取り残されてしまった。彼女たちが呆然と立ち尽くしているところに、

――どうしたの?

植物を観察しながら庭を歩いていた迪宮さまが現れ、彼女たちとお喋りを始めた。これがきっかけで迪宮さまと良子さまは仲良くなり、迪宮さまが東宮御学問所を卒業した時に婚約が発表されたのだった。

「……あのこと、婚約が発表された後に、栽仁(たねひと)殿下にも話したことがあったんだけど、栽仁殿下は、“淳宮殿下がそこに現れて希宮殿下を連れ去られたのも、そこに皇太子殿下がいらっしゃったのも、皇太子殿下のお妃候補を探すための策略の一環だったんじゃないか”って言うのよ。まさか、とは思うけれど、そんなことを考えていたの?」

 私が兄に以前から疑問に思っていたことを尋ねると、

「流石にそれは穿ち過ぎな見方だな」

兄は苦笑して私に答えた。

「もう1、2年後だったら、そんなことも考えて色々策を練っていたよ。しかし、あの頃には全く考えていなかった。まぁ、あの時、裕仁(ひろひと)と良子が余りに自然に仲良くしていたから、俺も節子も、裕仁の嫁は良子が一番適当だと思ったわけで……」

「はぁ……」

「いわゆる嫁姑問題というのも起こらなさそうだぞ。あの2人の婚約が決まった時、節子が“珠子のようなお転婆でないからありがたい……”としみじみと呟いていたしな」

「ふーん……」

「どうした、梨花、気のない返事だな。お前には興味がなくても、俺たちにとっては重大なことなのだぞ、裕仁が嫁を娶ったというのは」

 そう言って唇を尖らせた兄に、

「違う違う。もちろん、迪宮さまがお嫁さんをもらったのは、私にとっても重大なことよ」

私は慌てて弁明する。

「ただ……ピンとこないのよ、嫁姑っていうのが。うちの子たちもまだ小さいし……」

「そんなことを言っていると、梨花もあっという間に姑になるぞ」

 首を傾げる私に、兄は悪戯っぽく笑いながら言った。「謙仁(かねひと)はうちの興仁(おきひと)と同い年だから、来年には10歳だ。早ければ、少尉任官と同時に結婚するだろうから……お前が姑になるまで、あと10年もないかもしれないぞ?」

「うわ、そっか……」

 兄の指摘に、私は顔をしかめながら左手を頭に当てた。「あと10年……でも、それでもまだピンとこないなぁ。……ああ、そうか、私、嫁姑問題で苦労してないから、それでか……」

「だろうな」

 兄がクスっと笑った。「慰子(やすこ)どのは、お前にとっていい姑だ。有栖川宮(ありすがわのみや)家の家風のおかげもあるのだろうが」

「そうね。子供たちの面倒も本当によく見てくださるし、頭が上がらないわ……」

「そのうち、万智子(まちこ)たちを義兄上(あにうえ)と慰子どのに取られてしまうかもな」

「言わないでよ、気にしてるんだから!」

 私が兄を叩くふりをすると、兄はひょいと身体をねじって私の手を避けた。

「梨花、謙仁が大きくなって結婚したら、お前に色々教えてやる。舅の先輩としてな」

 少し不思議な言い回しをした兄に、

「分かった。その時はよろしくね」

私はとりあえず、こう返答しておいた。


 1921(大正6)年10月20日木曜日午後0時2分、皇居・表御座所。

 奥御殿に昼食のために戻った兄を見送ってから、私が御学問所を出て内大臣室の近くまで戻って来ると、内大臣室の前に私を待つ人影があった。現在の内閣総理大臣で立憲改進党所属の貴族院議員でもある、桂太郎さんである。

「これはこれは内府殿下、ここでお目にかかれて幸いでございます」

「いや、私がこの時間にここに戻るのを知ってて、待ってたんでしょうが……」

 芝居がかった口調で私に話しかけた桂さんに、私は冷たくツッコミを入れてみたけれど、桂さんの愛嬌ある笑顔は1mmも崩れない。私はこれ以上の攻撃を諦め、「何の御用ですか?」と桂さんに事務的に尋ねた。

「内府殿下の御懸案の事項が1つ片付きましたので、お知らせに参ったのですよ」

 桂さんはそう前置きしてから、

「来月5日に大阪で予定されておりました我が党の関西大会は、取り行わないこととなりました」

と私に告げた。

「よかった……」

 私は胸を撫でおろした。「大隈さん、説得に応じてくれたのですね」

「はい、最終的には、帝国大学医科大学の三浦先生の説得で折れてくださいました」

 私の言葉に桂さんはこう応じたのだけれど、なぜここで、東京帝国大学医科大学の三浦謹之助(きんのすけ)先生の名前が出てきたかについては、説明を加えておかなければならない。

 実は、衆議院議員総選挙の直前の8月末頃から、立憲改進党の党首である大隈さんは体調を崩していた。下腹部が痛み、時々発熱する。尿に細菌や白血球が混じっていたということだから、発熱は恐らく尿路感染症に伴うものだろう。そのため、大隈さんは立憲改進党が与党となっても、自身の指定席となっていた文部大臣には就任せず、自宅で静養していた。

 しかし、熱や痛みは抗生物質や鎮痛剤の投与で改善しているけれど、大隈さんの体力がいまいち回復しない。本人は意気軒昂で、散歩がてら自宅の隣にある東京専門学校を訪れて学生たちと対話し、時には演説をぶつこともある。そして、9月の梨花会が開催される直前、大隈さんは、11月5日の大阪での関西党大会を皮切りに、年内に全国5つの会場で党大会を開くことを党首権限で決めてしまった。大阪での党大会に出席するためには、遅くても11月4日の夜……“史実”で原さんが暗殺された日の夜に東京を出発しなければならない。それを知った私も兄も、そして梨花会の面々も頭を抱えてしまった。

 そこからは、大隈さんに対する説得工作が続いた。立憲改進党に所属する桂さんや逓信大臣の尾崎行雄さん、司法大臣の犬養毅さんなどは、大隈さんに随行する桂さんなどの党幹部たちの予定が立て込んでいること、また、新型インフルエンザが前回の流行と同じ程度の死亡率で蔓延すれば、緊急事態宣言が発出されて県境を超えての移動を控えなければならないこと、そして、大隈さん自身の健康状態が長距離移動に耐えられないことを理由に挙げ、大隈さんの思い付きを全力で止めに掛かった。そんな彼らに対して大隈さんは、

――まだ予定の日まではだいぶ時間があるんである。そこまでに吾輩の体調が回復しないとどうして言えようか。インフルエンザも蔓延するかどうかその時まで分からんのであるし、諸君らが公務で忙しければ、吾輩1人で党大会の演壇に立てばよいんであるから、心配は無用であるんである。

と主張して、党大会を断固開催するとの姿勢を崩さなかった。

 一方、伊藤さんや山縣さんなどの梨花会の面々は、“史実”の原さんと同じように大隈さんが行動して大隈さんが暗殺されてしまった場合、社会に対する衝撃は計り知れないとして、せめて関西の党大会だけでも中止、もしくは延期するように大隈さんに求めたのだけれど、

――そもそも吾輩は、30年以上前に内府殿下に命を助けていただいてから、その後の人生は余生と思って生きているんである。自らの政治的主張を広く伝える旅の途中で斃れるのであれば、それもまた本望であるんである。

大隈さんはこう抗弁して、ついに梨花会の面々に首を縦に振ってみせなかったのだ。

(このまま大隈さんが説得に応じなかったら、私が出ていくしかないけれど、私が梨花会以外の席で大隈さんの政治的行動に介入してしまうと、政治的な中立を保てない……)

 大隈さんの説得がうまく行かないという報告を受けるたびに、私はどうすればいいのか頭を悩ませていたのだけれど……。

「……だけど、三浦先生の言葉で大隈さんが止まったのは意外ですね。一体、どういうことかしら?」

 これまでの経緯を思い返して首を傾げた私に、

「実は……三浦先生は、大隈閣下は摂護腺(せつごせん)癌に罹っているとおっしゃるのです」

桂さんが声を潜めて告げた。

「せつご……ああ、前立腺癌ですね」

 この時代の医学用語が私の時代のそれと違っていることは結構多いのだけれど、前立腺もその一つで、この時代では摂護腺と呼ぶ。男性にのみある生殖腺で、膀胱の下、尿道を取り囲むように存在する。

「私の時代だと、手術の他にも、放射線療法やらホルモン療法やら化学療法やら、色々治療の手立てがありますけれど、この時代でできるのは手術のみ、しかも、大隈さんの年齢を考えると手術は厳しいし、腹痛が、前立腺癌の転移や浸潤による症状と考えると、根治的な手術は難しいか……」

「内府殿下、申し訳ございませんが、“まにあ”なお話は、この桂、いささか分かりかねます」

 ブツブツと呟く私に、桂さんが右手を顔の前で振りながら注意する。「ああ、ごめんなさい」とまず謝ってから、

「と、とにかく……癌で、根本的に治す手立てが無い、ということですね?」

私は桂さんに分かるような質問を必死にひねり出した。

「はい、その通りでございます。癌であることは大隈閣下にも告知されまして、大隈閣下は11月5日の関西党大会への出席を断念されました。ただし……」

「ただし?」

 眉をひそめた私に、

「大隈閣下は、関西党大会は11月19日に延ばした上、体調を万全に整えて出席すると気炎をあげておられます。“根治不能な癌を抱えていても、それが単なる絶望ではないことを、吾輩が身をもって国民に示すんである!”と……」

桂さんは大隈さんの口調だけではなく、声まで似せて私に答えた。私は一瞬吹き出したけれど、

「……いや、それ、どうやって実現させればいいのかしら。根治不能と分かっていても意欲が衰えないのはすごいと思いますけれど……」

実現のために越えなければいけないハードルが余りにたくさんあることに気付いてため息をついた。

「それはおいおい考えればよろしいでしょう。今は来月の4日を、平穏無事に終わらせることが肝要でございます」

 至極まっとうな指摘をした桂さんに、「確かにそうですね」と私は頷いた。9月、そして10月の梨花会で、来る11月4日をどう乗り越えるかについては散々議論したけれど、私の頭からは、いまだに不安が消えなかった。

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