花咲く時期は(2)
――ねえねえ、梨花は今年のバレンタイン、どうするの?
2006年、2月初旬の名古屋。
小学校6年生の私は、無事に中学受験を終え、ほっと一息ついていた。
家業が開業医だし、上の兄は医学部の学生、下の兄も、医学部を目指して勉強していたから、自分自身も医者を目指す、と考えたのは、自然ななりゆきだった。とはいえ、大学受験なんてまだまだ先だから、小学6年のこの時期は、久々の伸び伸びした時間だった。
――そうね、……どうしようかな。
一緒に登下校していた、幼馴染で同じクラスの奈津美ちゃんに、私は首を傾げながら言った。
すると、
――あれ?野田にあげるんじゃないの?
奈津美ちゃんがこう言ったので、私は目を丸くした。
――あー、やっぱり図星だったね。
奈津美ちゃんが笑った。
――あげたいし、好きだけど……、野田君、人気高そうだから……。
野田君というのは、私と奈津美ちゃんと同じクラスの男子だ。イケメンで、スポーツ万能で、地元の少年サッカークラブでも活躍している彼は、私と一緒に、学級委員を務めていた。
(こんな人が、彼氏になったらいいなあ……)
同じ仕事をしているから、野田君とは話す機会が多い。彼の爽やかな笑顔を見ていると、胸の奥が切なくなる。受験勉強をしている時も、ふと、彼の笑顔が脳裏に浮かんで、集中できなくなることも時々あった。
(多分、これ、初恋なんだろうな……)
私立の中高一貫校に進学する私は、公立に進む野田君とは、もうすぐ離れてしまう。だから、今度のバレンタインで、本命チョコを渡したいな、とは思っていたのだけど……。
と、
――ふっふっふ、そう思って、この奈津美さんが、一肌脱ぎましたよ!
突然、奈津美ちゃんが、両腕を組んでこう言った。
――へ?
――うちのクラスの女子も男子も、野田と梨花ってお似合いだよねって、みんな言ってるのよ。そこで、クラス全員で、野田と梨花をくっつけることにしました!
――な、奈津美ちゃん?
――だって、悔しいけど、梨花って滅茶苦茶頭いいし、顔もかわいいじゃん。お化粧してないけど、肌もすごくきれいだし、スタイルいいし、髪型も服も、センスいいしさ……。
そう奈津美ちゃんに言われた私は、顔を真っ赤にした。あの頃は、髪もセミロングに伸ばしていた。服だって、スカートやワンピースを着ることも多くて、“センスがいい”と、クラスメートの女子に羨ましがられることもしばしばだったのだ。
――クラスの女子は、今年は野田にはチョコを渡さないということで、協定を結びました。梨花にチョコをもらいたいって男子が何人かいたけど、今年はご遠慮いただきました。野田みたいなスポーツ万能のイケメンの隣は、やっぱかわいくて頭のいい梨花でしょ!というわけで、我が3組は、全力で、梨花と野田が両想いになることを応援します!
(奈津美ちゃん……みんな……)
――奈津美ちゃん、ありがとう……。私、頑張る。
私は頼りになる幼馴染に、深々と頭を下げた。
――野田君は、チョコレートケーキが好きらしいぞ。
その日の夜、居間のテレビでカンフー映画を見ていた父が、突然私に言った。
――へ?
――今日、野田君のお父さんを診察してな。その時の世間話でそう言っていた。
――ああ、わしも野田のじいさんに昨日聞いたぞ。
父と一緒に診療所を経営している祖父も、医学雑誌から目を離して私を見た。
――俺も、野田の兄貴にそう聞いたぜ。
ダイニングテーブルで宿題をやっていた下の兄も、顔を上げて頷く。
――ちょっと……なんで皆、そんなに野田君の情報を知ってるの?
私が尋ねると、
――決まってるだろ。お前、野田のこと好きだから、応援しようと思ってさ。
上の兄……大兄がこう言った。
――へ……?
――まさか、隠してたつもりか、梨花?お前が野田の話をするとき、すっげえ目がキラキラしてるんだぞ。まさしく恋する女子って感じでさ。
答えることができずにいると、大兄は、何枚かの紙を私に渡した。
――ほれ、ガトーショコラのレシピだ。ネットで探しといた。ばーちゃんにも確認したけど、これなら梨花にも作れる、って言ってた。
――大兄……。
――あ、試作品は、俺が食べるからよろしく。それから、母ちゃんも食べたいって。さっき、緊急手術で病院に呼び出されて、帰ってくるの明日になるから、ちゃんと伝言しとけって言われた。
――おい、兄貴、俺にもくれよ!
――大兄ちゃん、あたしも欲しい!お姉ちゃんのガトーショコラ食べたい!
下の兄と、妹の純花が、上の兄に抗議する。
――そうじゃ、わしにもよこせ。
――まさか、父親に回さないつもりか、通之?
何故か、祖父も父もこう言った。
――まあ、敏之と純花はいいけど、父ちゃんとじーちゃんはダメだ。二人とも、この間の人間ドッグで血糖値、ちょっと上がってたろ。
上の兄が重々しくツッコミを入れる。
――いいじゃないか、ちょっとくらい。
――そうじゃ、そうじゃ。
――父ちゃんもじーちゃんも、それでも医者か?
――医者である前に、一人の人間じゃ!
――かっこよさそうなこと言ってごまかすな、じーちゃん!
大兄と父と祖父の、漫才めいたやり取りを聞きながら、私は家族の優しさを、改めて感じていた。
(頑張らなきゃ……私……)
それからバレンタイン当日までは、あっという間に過ぎていった。大兄のくれたレシピをもとに、ガトーショコラを2回試作した。普段から、祖母が料理を作るのを手伝っていたから、料理は一通りこなせたし、お菓子作りの経験も少しあったから、要領はすぐにつかめた。
――さすが梨花だな。これなら、野田も落ちるだろう。
――うん、美味い……。
――さっすが、お姉ちゃん!
試作品を頬張る兄妹たちが、太鼓判を押してくれて、私はほっとした。
――当日の午後3時半以降は、3組の教室には誰も入らないように、って、クラスの皆に言っておいたよ。多分、渡すのは教室だと思ったから。うちの学校が、バレンタインのチョコ、持ち込み禁止じゃなくてよかったね。
ラッピング用品を買いに行ったとき、奈津美ちゃんがこう言って笑った。
――ありがとう、奈津美ちゃん。断られるかもしれないけれど、私、頑張るね。
――大丈夫だって!野田と梨花、雰囲気いいしさ!
奈津美ちゃんは、ぽんと私の肩をたたいて、片目をつぶった。
2月13日の夜、私は完璧に仕上がったハート形のガトーショコラを箱に入れて、綺麗に包んだ。
(断られてもいいや。とにかく、好きだって、野田君に伝えたい……)
そう思っていた。
あの時までは。
――あの、野田君、3時半に、この教室に来てもらえる?
2月14日の朝、野田君に声を掛けると、彼は爽やかな笑顔で、“いいよ”と答えた。私と彼のやり取りが聞こえたらしく、周りにいたクラスメートたちは、私の方を見て、頷いたり、ニコッと笑ったり……とにかく、私を応援してくれているのが分かった。
(緊張するなあ……)
授業を受けていても、3時半のことがずっと気にかかって、私はそわそわしていた。
何事もなく、今日の授業も終わるだろう、と思っていたら、帰りのホームルームの時に、
――半井、ちょっとこの後、職員室に来てくれないか。卒業式のことで、話がある。
男性の担任教師が私に声を掛けた。
――空気読めや、先生……。
――なんでよりによって、今日なの……。
クラスメートたちが囁き交わす中、担任の言うことに逆らうわけにもいかず、わかりました、と答えるしかなかった。
担任の用事は、卒業式で答辞を読んでくれないか、という私への頼みだった。
――生徒会長が読めばいいと思いますけど。
――いや、生徒会長は、親の転勤で、3月に福岡に引っ越すんだ。生徒会の副会長も、大けがをして、3月末まで入院が必要なんだ。そうなると、答辞を読むのは学級委員だって話で、半井にどうか、ということなんだ。
担任の言葉に、“断ります”と返答して、私は通学カバンと、ガトーショコラの入った紙袋を下げて、職員室を出た。もう時刻は、3時半を過ぎようとしている。こちらが誘っておきながら、野田君を教室で待たせてしまっている。
(急がないと……)
ガトーショコラを振動で壊さないように、細心の注意を払って、速足で教室の前まで歩く。教室の扉は空いていた。中に入ろうとして、私は足を止めた。教室の中には野田君がいる。そして、もう一人……。学年一の美少女として有名な、2組の工藤さんだ。
その二人が、教室の中で、抱きあっていた。
(え……?!)
――野田君……うれしいけど、半井さんと付き合ってるんじゃないの……?
私が教室の扉の前にいることに気が付いていないのか、工藤さんはこう言った。
――付き合ってないよ。
工藤さんを抱きしめたまま、野田君は答える。
――だって、野田君と半井さん、すごく雰囲気いいし……。
すると、野田君は言った。
――半井って、……あいつ、ガリ勉なだけだぜ?確か、医者になるって言ってたし……。医者になるから、女じゃねーよ。
(?!)
あまりのことに、私は反応することを忘れた。
――そんな、女を捨ててる奴より、工藤さんの方がいい……。ねえ、キスしていい?俺の、初めてのキス、君にあげたい。
野田君が、工藤さんの形のいい唇を、自分の口で塞いだ。
ガトーショコラの入った紙袋が、私の手から離れ、床に落ちた。
……そこから先の記憶は無い。気が付いたら、自宅の自分の部屋のベッドで、洋服を着たまま、横になっていた。
(女じゃないんだ……)
家族のみんなにも、奈津美ちゃんにも、クラスの皆にも、応援してもらっていたのに、お膳立てまでしてもらったのに、こんな、最低最悪で、人にあざ笑われてしまうような振られ方をするなんて。
恥ずかしくて、誰にも言えない。
(もう、女じゃないんだ……医者になるから、女じゃないんだ……)
涙を出す力もないまま、けれど起き上がる力はあって、私はベッドから立ち上がると、机に向かった。
少しでも、中学で勉強する内容を把握しておきたい。そうすれば、中学での成績が上がる。中高一貫校だから、中学での内申点は、多少高校卒業時の内申点にも影響する。それは、大学入試の時にも響いてくるものだ。
(医者になるために勉強しなきゃ……女を捨てなきゃ……)
勉学の世界に溺れている時だけは、心の痛みも忘れられた。自然、机に向かっている時間は長くなり、それに比例して成績も上昇し、中学高校時代は、ずっと学年トップをキープした。大学進学で東京に出て、歴史と城郭に魅せられ始めたころには、あんなひどい出来事があったことなど、記憶のかなたに葬り去られていた。
そのはず、だったのに……。
「……それで、その幼馴染の方は、どうなさったの?」
私の手をずっと握ったまま、お母様が尋ねた。
「彼女とも、進んだ中学が別々だったから、その後の消息は知らないんです」
話を終えた私は、かなり疲れていた。
バレンタインにチョコレートを渡すなんて風俗は、今の日本にはないし、それを大人だけではなくて、小学校高学年までやっている、というのも、お母様には衝撃だろうなあ、と思って、説明するのに相当気を使ったというのもあるかもしれない。
けれど、一番疲れたのは、今まで、誰にも言えなかった話を、恥ずかしさと、笑われたらどうしよう、という大きな不安の中で、自分の母親に言った……という、そのこと自体だ。
「あれから、彼女とも、全然話さなくなってしまいました」
他のクラスメートとも、全く話さなくなってしまった。クラスメートも、家族も、私をはれ物に触るかのように扱っていたのだけは、微かに覚えている。成人式にも出なかったから、小学校時代の友人たちがどうしているのか、全く知らない。そのまま研修医になり、そして死んだ。
「きっと、増宮さんに、どう声を掛けたらいいのか、分からなかったのですね」
お母様が言った。
「そうかも……しれません」
多分、何と声を掛けられても、あの時の私の心には届かなかっただろう。
「誰にも、何にも、言えなかったのに……言ってしまいました、お母様に。きっと、笑いますよね?軽蔑しますよね?私のこと……」
私がうつむいて、小さな声で尋ねると、
「いいえ」
お母様は、静かに首を横に振った。
「人に恋する気持ちや、思いが遂げられなかった時の痛みは、昔も今も、そして未来も、変わることはありません。私はあなたのことを笑ったり、軽蔑したりしませんよ、増宮さん。……辛かったでしょうに、よく、話してくれましたね」
「あ……」
(そうか……)
辛かったんだ。
あの時は、頭が真っ白になって、何が何だかわからなかったけれど……。
「私、辛かったんだ……女じゃないって言われて、辛かったんだ……」
目の奥が、ツンとする。
「ねえ、増宮さん」
お母様が、口を開いた。
「もし、そこに生けてある梅に、花が付いていなければ、増宮さんは、それを梅の枝だと思いますか?」
「え……?」
私は、花瓶に生けてある、早咲きの梅を見た。爽やかで甘い香りが、鼻をくすぐる。
「うーん……花が付いていなかったら、梅の枝と言われても、信じないです。ただの枝だと思ってしまうかな……」
そう答えると、お母様が微笑む気配がした。
「では、春になって、暖かくなれば、どうでしょう?」
「暖かくなったら、ですか……?そうしたら、蕾が付いて、それが開いて花が咲くから、梅の花だって、分かりますけれど……」
すると、お母様は、「増宮さん、もう少し、近くにいらして」と言った。急いで言葉通りに動くと、慌てていたためか、目測を誤って、本当に、お母様と、ほんの数センチも離れていないところに、腰を下ろしてしまった。
「ご、ごめんなさい、お母様……こんなに近く……」
「いえ、これでよろしいですよ」
お母様はまた微笑した。
「花は時節が参れば、自ずと開きます。椿のように、寒いときに咲く花もあります。洋蘭のように、常に暖かくしなければ咲かぬ花もあります。ずっと氷や雪に閉ざされていても、暖かくなって氷が融ければ、また蕾が出て花が咲きます。……増宮さん」
「はい」
「梨の花の咲く時期は、梅よりも、桜よりも遅いのです。桜に遅れて、梨は花を開かせます。けれど、花咲く時期が遅れたからと言って、ただの枝である時間が長かったからと言って、梅や桜に美しさが劣るというわけではないのです」
(梨の花……)
私の曽祖父がつけた、“梨花”という名前。女の子らしくて、好きではなかったけれど……。
(あの前は、どう思っていたんだろう?)
もし、あの失恋が無いまま、私が成長して、漢文の授業で“長恨歌”を習っていたら……。
「増宮さん」
お母様が、また私を呼んだ。
「はい」
「まして、増宮さんの天質は、大きな傷を受けて、ずっと凍てついていたのです。花開くことが遅れたと、どうして責めることができましょう」
「!」
私は、お母様を見上げた。お母様は、私を見つめて、暖かい微笑みを顔に浮かべていた。
「お母様……」
「何ですか?」
「傷があっても、氷に閉ざされていた期間が長くても、梨の花は咲くのでしょうか?」
「咲きますとも」
お母様は言った。「その傷が癒えて、時節が参れば、花は必ず咲きます」
「春が来なければ?」
「その時は……」
不意に、私の左肩に力がかかった。
「?!」
あっという間に、私はお母様の腕の中に、抱き寄せられていた。
「春が来るまで、私が温めて、傷を癒しましょう」
お母様は言った。
お母様の暖かい胸の中で、私は無言で、涙を流し続けた。




