国軍のアイドル誕生待望論?(2)
「節子さま?」
左右に大きく開け放たれた障子の向こうに節子さまの姿を見た時、私は何が起こっているのか理解できなかった。普段、節子さまは奥御殿にいる。もちろん、外国大使との面会や食事会がある時には表御殿に出てくるけれど、兄の仕事場とも言えるこの御学問所に来たことは一度も無い。それに、節子さまは皇后なのだから、御学問所にやって来るのだとしても、その前に、彼女に仕える女官から、“皇后陛下が御学問所に参られます”などと声が掛かるはずなのだ。それが、何の前触れも無く現れるということは……と、私がようやく考えを巡らせ始めた時、
「お上」
節子さまが口を開いた。その声に、私は思わず身体を引いた。怒気の乗った節子さまの声は、余りに鋭く、余りに重く、触れた者全てをひれ伏させる圧倒的な威圧感に満ちている。私は息が詰まりそうになった。
「一体、どういうことですか」
節子さまはそう言いながら御学問所の中に入り、兄に向かって歩を進める。その美しい姿は、人を寄せ付けない威厳に溢れている。私は慌てて椅子から立ち、逃げるように下座に移動する。幼い頃から今までの長い付き合いの中で、節子さまのこんな姿を見るのは初めてだ。嫌な汗が私の背中を伝った。
「一体どういうことだ、というのは、何がだ?節子」
節子さまに訝しげな視線を投げつつも、兄が尋ねると、
「今、国軍に、珠子を国軍に入れて欲しいと言っている痴れ者がいるというではありませんか」
節子さまは兄に対しても威圧的な態度を全く変えることなく答えた。
「あの子は、人のお役に立つために薬剤師を目指しているのです。決して、国軍に入るために薬剤師を目指しているのではありません。それを、制度上許されるからと言って、国軍に入れようと目論んだ愚か者……。例えお上がお許しになっても、この私が許しませぬ!」
「ど、どうしよう、大山さん、原さん……私、あんな節子さま、見たことないよ……」
激しい怒気を身体から立ち上らせている節子さまをチラチラ見ながら、私は小声で大山さんと原さんに言った。節子さまから一番遠い御学問所の隅に、3人で自然と身を寄せ合ったのだけれど、原さんの顔は真っ青になっていたし、大山さんの額にも脂汗が光っていた。
「俺も、これは……」
大山さんは顔をしかめて首を左右に振る。そして原さんは、
「こ、これは、“史実”の皇后陛下そのもの……」
前方を見つめながら震える声で呟いた。
「“史実”の節子さま?」
私が囁くように問い返すと、
「“史実”の今頃は、天皇陛下がご体調を崩されていたから、皇后陛下が天皇陛下の代わりに出ていらっしゃることが多くてな……」
原さんは小さな声で語りだす。
「皇后陛下は、主治医どのと御年齢が近い。わたしとは、親子ほども年の差がある。そう分かっているのに、皇后陛下の厳しい視線に息が詰まりそうになったのを覚えている。わたしだけではない。元老の連中とも、皇后陛下は堂々と渡り合っておられた」
「節子さまが?」
「お上、そう言い出した痴れ者を、ここに引っ立ててくるよう命じてくださいませ」
相変わらずの威圧感とともに兄にこう言っている節子さまの背中を、私は恐る恐る見た。今はともかく、普段の節子さまが、原さんをはじめとする大物政治家や、山縣さんや西園寺さんと言った元勲たちと議論でやり合う様子が、私にはどうしても想像できない。そんな私に、
「今思えば、皇后陛下は必死になっておられたのだろう。ご体調を崩された天皇陛下をお守りしようと……。だからあのように、わたしにも元老の連中にも相対することができたのだろうな」
と原さんは言った。
「確かに“史実”ではそうだったのでしょうが」
すると、大山さんが横から小声で割り込んだ。「今のことを考えなければなりません。皇后陛下をどう止めるのですか」
「大山さんの殺気じゃ止まらないの?」
私が小声で尋ねると、
「恐れ多くも皇后陛下に、殺気を放つことなどできましょうか」
大山さんは囁くように答えて首を左右に振る。
「……それなら、私だって無理よ」
私にはいくらでも殺気を放っているのに、と心の中で大山さんにツッコミを入れながら私は応じた。節子さまは兄に詰め寄り続けていて、「珠子を軍に入れようなどとほざいた痴れ者、2度とそんな馬鹿な話ができぬようにしてくれます」と、激しい怒りとともに主張している。節子さまに向き合っている兄も、「落ち着け、そもそも珠子を国軍に入れたいなどという話、俺は全く知らん」などと節子さまをなだめようとしているけれど、全く効果が無い。
「しかしこれでは、山縣でも止められないぞ」
原さんは節子さまを怯えるような目で見つめながら言った。
「山縣だけではない。梨花会の他の連中が束になって止めようとしても無理だろう。どうするのだ、主治医どの」
「1つだけ方法があるけれど……」
大山さんと原さんに、私はとっさに思いついた策を告げた。
1921(大正6)年4月7日木曜日午前11時50分。
「だから申し上げているでしょう。そ奴らは処罰すべきだ、と」
御学問所では、節子さまが未だに兄に詰め寄っている。この御学問所に節子さまが現れてから少なくとも40分以上は経っているけれど、彼女の怒りが収まる気配はない。兄が粘り強く節子さまを説得しようとしていなければ、節子さまは私たちに「噂を広めた張本人をここに連れて参れ!私が直々に尋問してくれよう!」と命令してしまいそうだ。もちろん、指揮系統のことを考えれば絶対にあってはならないことだけれど、それを強引にねじ伏せてしまう荒々しさが、今の節子さまの言葉には宿っていた。
「これは……一体どうすればいいのか……」
騒ぎを聞きつけてやって来た宮内大臣の山縣さんですら、圧倒的な威厳をまとう節子さまに全く口出しできず、御学問所の入り口で苦虫を噛みつぶしたような顔をして立ち尽くしている。
「どうすればいい、原君。わしでは到底、天皇陛下と皇后陛下の仲裁などできん」
小声で言った元上司に、
「そんな……閣下が手に負えないとなれば、誰がこの状況を打開できるのですか」
原さんはいつものように猫を被って返す。この修羅場でも、自分の正体を知らない人が現れたと察知したら、すかさず猫を被るのは、流石は経験豊富な政治家と褒めたい。けれど、今はその経験を、状況を打開する方向に生かしてほしいと思う。
「すると、あとは、内府殿下におすがりするしか……」
「無理です」
すがるような目で私を見た山縣さんに、私は即座に答えた。
「節子さまがこんなに怒ったところなんて、見たことないんですよ。それに、この威圧感、お父様と同じレベル……ちょっとやそっとじゃ抑えられません」
小声で更に続けた私に、
「しかし、内府殿下は、先帝陛下にも堂々と言い返されていたではありませんか」
山縣さんはこんなことを囁く。
「あれは単なるツッコミです。この修羅場にツッコミを入れる隙なんてありませんよ」
「そこを何とか……」
「だから無理です!」
小声で言い合っている私と山縣さんのそばで、
「大山閣下……まだお戻りにならないのか?」
原さんが小さく呻く。
その時、
「あらあら」
鈴を転がすような美しい声が御学問所に響いた。その澄んだ美しい響きに、兄と節子さまの口の動きが停止する。
「お母様……!」
「こ、皇太后陛下……!」
期せずして同時に呟いて振り向いた兄と節子さまに、月白のデイドレスをまとうお母様は、「ごきげんよう」と言って優雅に微笑む。
「間に合いましたかな」
お母様の後ろで、大山さんがほっと息をつく。彼は私の命令で、大宮御所に急行し、お母様に至急の参内を要請したのだ。
「もうちょっと早かったらとは思うけれど……でも、ありがとう」
「ああ、ありがとうございます、大山閣下!これで、事態が打開されれば……!」
私と原さんが代わる代わる大山さんに頭を下げる一方で、
「お母様、一体なぜこちらへ……」
嫡母の予期せぬ来訪に戸惑いながらも、兄がお母様に尋ねた。
「増宮さんから、お上と節子さんの諍いの仲裁をして欲しいと頼まれましてね」
穏やかに答えたお母様は、「一体何が原因なのでしょうか?」と、神妙な顔をして立つ兄と節子さまに尋ねた。
すると、
「実は、先ほど、女官同士の噂話を耳にしまして……」
節子さまが、先ほどとは打って変わって静かに話し始めた。
「国軍の中に、珠子を国軍に入れれば、将兵の士気を上げられるのではないかと考えている者がいるというのです。珠子は薬剤師を目指しています。女子でも薬剤師の免許があれば国軍には入れますから、それを利用して珠子を国軍に入れようというのです。……私は珠子を軍隊に入れようと思って育ててきたのではありません。高貴な身に生まれついたからこそ、人を助けるような、人のお役に立つような子になって欲しいと思って育ててきました。だからこそ、乱暴な、人を傷つけるようなことはしないで欲しいと思っていたのに……。ですから、親の気持ちも知らずに、珠子に国軍に入ってもらいたいと願う者たちに無性に腹が立ったのです。それで嘉……お上に、無責任な噂をした者を捕まえて欲しいとお願いしようと思い立って……」
(うわぁ……)
節子さまの話を聞いた私は、両腕で頭を抱えた。どうやら、先日栽仁殿下が耳にした噂が、節子さまの所まで届いてしまったようだ。節子さまは、たった1人の娘である希宮さまのことをとても気に掛けている。幼い頃、やんちゃばかりしていた希宮さまが、女の子らしく成長するように……節子さまは日ごろからそのことに心を砕いているのだ。そこに、軍隊という、女性らしさとは対極にありそうな組織に希宮さまを入れるという話が持ち上がったら、節子さまが激怒するのは当然のことだろう。
「節子からその話を聞いて、俺も驚きました」
兄が神妙な顔つきのまま言った。「ただ、そのような噂を流している者が本当にいるのか、まずは手続きを踏んで確かめなければならない。そう節子に言い聞かせようとしたのですが、うまくいかず、こちらもつい、いらだってしまって……」
「なるほど」
お母様はゆったりと頷くと、
「お上、節子さん、夫婦円満のコツというものをご存知ですか?」
と兄と節子さまに優しく尋ねる。
「いいえ……」
兄が左右に首を振るのに合わせるように、顔から刺々しさが抜けた節子さまが頭を横に2、3回振る。それを見たお母様は、
「お互いの話をよく聞くことですよ」
と穏やかに言った。
「お上と節子さんは、今まで、大きな夫婦げんかをすることもなく、仲良く過ごされていたでしょう。それはお2人が、お互いのおっしゃることをよく聞いていらしたからです。だから今まで、困難な事態にぶつかっても、お2人で納得のいく答えを出しておられました。けれど……余りに急なことで、今回はそれを失念されてしまったのですね」
お母様の言葉を聞いた兄と節子さまは、お互いに顔を見合わせる。そして、
「お上、申し訳ございませんでした。私、つい逆上してしまって……」
節子さまが兄に向かって頭を下げる。先ほどまで身体から放たれていた威圧感は全く消え去り、いつもの明るく快活な節子さまがそこにいた。
「いや、俺も節子の話を、落ち着いて聞いてやればよかったのだ。すまん……」
兄の謝罪の言葉を聞きながら、
(よかった、本当によかった……)
私は胸を撫でおろしていた。節子さまがあの恐ろしい状態のままだったら、宮中は機能不全に陥っていただろう。あんな節子さまを見たのは初めてだったから本当に焦ったけれど、これで平和が訪れた訳だ。大山さんも原さんも山縣さんも、そして騒ぎを遠巻きに見守っていた侍従さんや女官さんたちも、安堵の表情を顔に浮かべていた。
「まぁ、珠子の進路については、おいおい考えればいい。まずは本人の希望通り、一高の二部に合格して薬剤師の免状を得ることだ。そのまま薬剤師として働くのか、それとも本当に国軍に入るのかは、本人とも相談してからだが、変な噂は立てられたくないな……」
兄が節子さまに落ち着いた声で言った時、
「おばば様、ごきげんよう」
廊下から、可愛らしい声がした。はっとして振り返ると、御学問所の入り口の前に、紫の矢羽根模様の和服に海老茶色の女袴をつけた美しい少女が立っている。兄夫妻の長女・希宮珠子さまだった。
「まぁ、ごきげんよう、希宮さん」
にっこり微笑むお母様の横から、
「た、珠子、あなた、どうしてここに……学校はどうしたの?」
節子さまが焦りながら尋ねる。すると、
「お母様、今日から木曜日は、午前中で授業が終わるのよ。だから帰ってきたら、おばば様が御学問所にいらしていると聞いて……、御機嫌伺いに来たの」
希宮さまはハキハキと答える。そして、
「ねぇお父様、お母様、薬剤師になると、軍人にもなれるのね」
……恐らく、今最も言ってはいけない言葉を口にした。
「「「?!」」」
兄や節子さま、そして私や山縣さんたち、みんなが目を見開いているのに気付かないまま、
「今日、歴史の授業で、極東戦争が起こったころの話を習ったの。そうしたら、梨花叔母さまが国軍にお入りになった時の話が出てきて……」
希宮さまは喋り続ける。
「梨花叔母さまが国軍に入るとお決めになったから、法律が改正されて、医療系の国家資格を持っていて、何らかの武道の段級位を持つ女性は、国軍に入れるようになったと習ったの。ということは、わたしも剣道の級位を持っているから、薬剤師の免状が取れたら、国軍に入ることができるのね」
「あー、いや、私は章子だし、そのね……」
確かに、極東戦争が起こったのは今から17年前だから、歴史の教科書の最後の方に、その頃の話が載っていてもおかしくはない。それは確かなのだけれど、今は何とかして、この可愛い姪っ子の口を閉じさせないと非常にまずい。重苦しい空気が漂う中、何とか私が希宮さまに話しかけようとしたその時、
「……なりません」
節子さまが、希宮さまを厳しい目で見据えながら言った。
「絶対に、なりません!」
言い放った節子さまの身体からは、凄まじい怒気が再び漏れ出ている。カッと目を見開いたその様は、まるで荘厳な仁王像のようだった。
「なぜですか、お母様!」
すると、希宮さまは負けじと節子さまに言い返した。「梨花叔母さまもそうやって軍人におなりになったのに、どうしてわたしは軍人になってはいけないの?!」
「叔母さまとは事情が違うのですよ、珠子!叔母さまはニコライの毒牙から逃れるために、致し方なく軍人になったのです!あなたとは、背負う重みが違います!」
「背負う重みって……わたしだって、何か事が起これば、お父様とお母様を守って戦う覚悟はあるわ!」
「そのようなことを言っているのではありません!そもそも、私は珠子に武器を握れと教えた覚えはないのです!」
「でも、もしここで誰かがお母様を襲ったら、わたしはお母様を守るために、剣でも銃でもとって戦います!」
圧倒的な怒気と威厳をまとう節子さまに、希宮さまはひるまず反論している。私には希宮さまのようなことはとてもできないなぁ、と思っていると、
「……2人とも、議論の筋が通っていないような気がするが、どうだ?」
いつの間にか私のそばまで逃げてきた兄が私に尋ねた。
「知らないわよ。それより、止めなきゃダメじゃないの?」
私が小声で兄に応じると、兄は左の手のひらを額に当て、
「その隙が見つからないな……」
と言ってため息をつく。もちろん、原さんや大山さんなど、集まっている臣下たちも、突然勃発した親子喧嘩を傍観することしかできなかった。
そんな中、
「あらあら」
月白のデイドレスを着たお母様だけが、互いの意見をぶつけあう節子さまと希宮さまを見比べて、顔に微かに苦笑いを浮かべたのだった。




