国軍のアイドル誕生待望論?(1)
※誤字を訂正しました。(2023年9月7日)
1921(大正6)年4月2日土曜日午後10時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
子供たちが就寝のあいさつをして各々の部屋に引き上げた後のこの時間帯は、私と夫が本館の居間で2人きりで過ごせる時間だ。お互いが取り組んでいることを聞かれてもいい範囲で喋りあって頭を整理することもあれば、2人で長椅子に並んで腰かけて、それぞれの興味がある本を黙って読むこともある。自分たちが寝る仕度もしなければならないから、居間で2人きりで過ごせる時間は30分ほどしかないけれど、私と栽仁殿下にとっては、お互いの存在をより感じられる大切な時間だ。
(今日はどうしようかな……私は話すことがないから、医学雑誌でも読んでいようかな……)
今夜も子供たちが居間から去り、私が長椅子に座ったまま軽く伸びをした時、
「そう言えばね、梨花さん」
栽仁殿下が私に話しかけた。
「今日、妙な話を聞いてしまったんだ」
「妙な話?」
問い返した私に栽仁殿下は、
「希宮殿下に、将来、国軍に入っていただくべきだ……という論が、国軍の中で広がっているらしい」
と、顔をしかめながら言った。
「希宮さまを国軍に?」
私は首を傾げた。希宮珠子さまは兄夫妻の長女で、あと10日ほどで満17歳の誕生日を迎える。華族女学校高等中等科第2級……私の時代風に言うと高校2年生の彼女は、私の末の妹である多喜子さまの指導も受けながら、第一高等学校の二部に合格して薬剤師の免許を得る勉強をするべく、受験勉強に励んでいた。
「なんで希宮さまが軍人にならないといけないのよ。私みたいに、外国の馬鹿な奴に求婚されている訳じゃないんだから、軍人になる必要はないわ」
「それが、呆れた話でさ」
唇を尖らせながらの私の発言を栽仁殿下は咎めずにこう言うと、
「梨花さんが軍医として勤務していた頃、国軍の士気は今より高かったというんだ」
と、顔をしかめたまま私に告げる。
「極東戦争での東朝鮮湾海戦・対馬沖海戦では、日本の軍艦の砲弾の命中率は、士気の高さによってロシア軍の約5倍になっていた。それが今では、士気が落ちたがために、訓練での砲弾の命中率が下がっている。士気が落ちたのは、梨花さんが内大臣になって、予備役に入ったからだ。だから、梨花さんの代わりに、別の皇族女子が国軍に入れば、その皇族女子を守らなければならないという思いの下に、国軍全体の士気が上がるんじゃないか、というんだ。それで、希宮殿下に白羽の矢が立ってしまったらしい。希宮殿下は薬剤師を目指していらっしゃるけれど、薬剤師なら女子でも軍人になれる、という理由でね」
「ばかばかしい」
私は吐き捨てるように応じた。
「女性1人いるかいないかで全体の士気が上下するのは、軍としていかがなものかと思うわ。確かに、可愛い女の子がいる方が、男子はやる気になるとは思うけれど……」
呆れながら私が言うと、
「ああ、可愛い女性がそばにいると、男はやる気が出るというのは否定しないのか」
栽仁殿下はこんなことを言う。
「そこはまぁ、色々見聞きしたし……」
私は顔を伏せながら答えると、
「そんなことより、希宮さまよ。国軍に入るなんて、兄上と節子さまが絶対に許さないと思うわ」
再び顔を上げ、栽仁殿下にツッコミを入れた。
「だから希宮さまが国軍に入るなんてありえないわ。この時代、子供の進路って、子供本人の意向より親の意向が優先されがちだから、余計にね」
「僕もそう思うよ」
栽仁殿下は真面目な表情になって頷いた。「そもそも、梨花さんの言う通り、女性1人のことで士気が下がるなんて、国を防衛する軍隊としてはあってはならないことなんだ。僕たち士官は、いついかなる時でも、指揮している兵たちの士気を高く保たないといけない。士気が下がる原因を1人の女性に求めることは、士官としての責任を放棄していると思うんだ」
「その通りね」
私は力強く頷いた。「どこからそんな話が出たか知らないけれど、1回そうやって全員にガツンと言ってやる方がいいと思うな。今度、山本さんか斎藤さんに会う機会があったら、ちょっと相談してみるよ」
「そうか」
栽仁殿下は軽く返事をすると、
「ところで梨花さん、インフルエンザの感染状況はどうなの?昨日、関西方面で出ていた緊急事態宣言が軒並み解除されたって聞いたから、東京の緊急事態宣言も解除されるかな……なんて思っているんだけど」
今度は私に新型インフルエンザのことを尋ねる。それきり私は、希宮さまに国軍に入って欲しいというくだらない話を頭から追い出した。
1921(大正6)年4月7日木曜日午前10時45分、皇居・表御座所。
「火は昨日午前8時30分ごろに、浅草区の田町1丁目から出まして……」
午前中にやるべき政務が終わったこの時間は、普段は兄と私の自由時間なのだけれど、今日は内務大臣の原さんが御学問所にやってきた。昨日東京市で発生した大火事のことを報告しに来たのだ。
「折からの北西の風に煽られて、火は瞬く間に周辺に燃え広がり、浅草公園の北の一帯を焼き尽くしました。午後2時ごろに鎮火しましたが、象潟警察署と富士小学校をはじめ、およそ1000戸が全焼し、負傷者は452人に上ります」
「それはひどいな」
机の上に広げた東京市の地図を覗き込みながら、兄が呻くように言った。
「この辺りって、区画整理が進んでいなくて、狭い道が多くて住宅が密集しているところですよね……。それで火事の被害が拡大したのかしら」
兄の横に立った私が横から指摘すると、
「内府殿下のおっしゃる通りです」
原さんが私に向かって一礼した。普段の尊大な態度が嘘のように思える恭しさである。
「住民が普段からの避難訓練の通り、“おかしもて”の原則に従っていち早く非難しましたから、幸いなことに死者は出ませんでした。しかし、初期のうちに火災を鎮圧することはできませんでした。それでも、斎藤参謀本部長に確認したところ、“史実”で同じころに発生した浅草の大火に比べれば、被害は若干少なくできたようですが、関東大震災のことを考えますと……」
「このままでは、大規模な火災の発生は免れないな……」
原さんの言葉を聞いた兄の眉間に皺が寄る。再来年の9月1日に発生する関東大震災により、東京市や横浜市では大規模な火災が発生した。斎藤さんによると、折から吹いていた風により火勢が強まったのも、火災が大規模になった原因の1つらしい。
「……しかし、だからと言って、火災への対策を怠る訳にはいかない」
じっと地図を見つめていた兄が言った。
「そうだね。諦めたらいけないわ。1つでも火元が減れば、その分、他の火災に水や人員を投入できる。今からでもできることはやらないと」
「今、東京市や横浜市では、1つの町会に防火栓と防火水槽を1つずつ設けるように義務付けているが、2つ以上備えることを奨励しよう。しかし、奨励するだけではダメだから、設置費用の半額は国か地方自治体が負担するようにしなければ……」
「兄上、それ、防火水槽に絞る方がいいかもしれないよ。地震で水道が寸断される可能性も高いから、水道を使う防火栓は、震災の火事では機能停止しちゃうかもしれない」
「ふむ……確かに梨花の言う通りだ。それと、川の水をくみ上げて使うような消防ポンプの設置を奨励してもいいかもしれないな」
「それから兄上、区画整理も少しでもやらないと。今回燃えたところも含めて、少しでも道幅を広げて、火が燃え広がるのを防ぐ工夫をしなきゃ」
「だがその前に大切なのは、今回の火事で焼け出された人々を、当座の生活ができるよう助けることだ。俺と節子の手許金から、幾許かを彼らに援助したいが……」
私と兄が夢中になって話し合っていると、
「被災者への支援……大変結構と存じます」
御学問所の隅の方に控えていた大山さんがこう言って頷いた。
「そうだな、大山大将。では、後で山縣大臣とも相談して……」
ここまで言った兄が、右の眉を跳ね上げる。そのまま廊下に面した障子に目をやった兄に、「どうしたの?」と私が尋ねると、
「いや……誰かがこちらに近づいてくる気配が……」
兄は顔を軽くしかめて首を傾げた。
「大山さん、人払いはしているのよね?」
「ええ、しておりますが……」
私の問いに応じた大山さんも、障子に視線を向ける。
「何ですかな、この剣呑な気配は……」
「剣呑というか……殺気だっているというか……大嵐の前触れのような、というか……」
大山さんと兄は、それぞれ気配を探りながら、穏やかではない感想を述べている。その頃には私の耳にも、「お待ちください!」「そちらに行かれてはなりませぬ!」など、数名の男女の叫び声が届いていた。
(女の人の声?)
それはおかしい。普段、この表御座所にいる女性は、私と、内大臣秘書官の平塚さんの2人だけだ。しかも、平塚さんは、今日は非番で出勤していない。だから、表御座所に私以外の女性はいないはずなのだけれど……。
(女の人が、一体どこから表御座所に……)
そう考えた瞬間、障子が勢いよく左右に開かれた。思わず身構えた私の目に、深紅のデイドレスをまとった美しい女性の姿が映る。激しい怒りに凛々しい顔を歪めたその人は、私の唯一の義理の姉、節子さまだった。
※実際の大正の浅草大火の被害より、拙作の被害は少なめに設定しています。ご了承ください。




