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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第68章 1920(大正5)年処暑~1920(大正5)年冬至
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年の瀬のサプライズ

 1920(大正5)年12月28日火曜日午前10時45分、皇居・表御座所。

「なぁ、梨花」

 天皇の執務室・御学問所。午前中にやるべき仕事を終わらせた私と兄は、人払いをしていつものようにおしゃべりしていた。

「なぜこの間、裕仁(ひろひと)の出迎えに横浜まで来なかったのだ」

 袖机のそばに置いた椅子に座る私に、兄はお茶を一口飲むと尋ねた。

「決まってるじゃない。緊急事態宣言が出ていたからよ」

 白い布マスクを付けた私は兄に答えた。「出迎えの人数は、インフルエンザの感染拡大を防止するために少なくすること……山縣さんもそう通達していたじゃない。だから、出迎えには行かなかったんだよ」

 先月初旬に神戸や横浜などで発生が報告されたインフルエンザは、大都市を中心に拡大を続け、今月の8日には、3回目となる緊急事態宣言が、関東・関西の府県を中心に発出された。このため、世界一周巡航を終えて横浜港に19日に戻ってきた迪宮(みちのみや)さまを出迎える行事は、出発の時より参加人数を制限して行われた。一般人の横浜港への立ち入りは禁止されたし、大臣や役人、直宮以外の皇族の出迎えも“総代1人のみを派遣すること”とされて人数削減が行われた。だから、兄一家は迪宮さまを出迎えに横浜港まで出向いたけれど、私は迪宮さまの出迎えには行かなかったのだ。

「しかし、お前もインフルエンザのワクチンは、裕仁が戻る前の日に打ったのだろう?なら、人が大勢いるところに出て行っても大丈夫なのではないか?」

 納得できなかったのか、兄は首を傾げてこんなことを言い始めた。

「兄上、何回か言ったと思うけれど……」

 私は椅子に座り直すと、兄を軽く睨みつけた。

「ワクチンは、インフルエンザの重症化を防ぐものであって、インフルエンザの感染を防ぐものではないの。インフルエンザに感染したら、軽症でも身体はすごく辛いんだからね!私は、去年の春に味わった苦しみを、兄上に体験させたくないの!」

「分かった、分かった……つまり、俺もワクチンはお前に打ってもらったが、重々注意しなければならないということだな」

 なだめるような調子で兄が確認したのに、私は「はい」と首を縦に振る。65歳以上の梨花会の面々には今月の5日に、そして兄には14日に、私がインフルエンザワクチンを接種した。原さんと後藤さんにも、おととい、12月26日に私がワクチンを接種したばかりである。接種した後も、梨花会の面々や兄と顔を合わせるたびに、“ワクチンは感染を予防するものではない”と繰り返し言っているのだけれど、まだその意識が行き渡っていないようだ。

「ピリピリしなくてもいいだろう。全体で見れば、ワクチンの効果で、インフルエンザの死亡率も次第に下がってきているし」

「そうなんだけどさ……」

 兄の言葉に、私はため息をつきながら応じた。「今シーズンのインフルエンザの死亡率は速報値で約0.8%……。従来のインフルエンザの死亡率、0.4%の2倍ある。私の時代だと、インフルエンザでの死亡率は0.1%も無いとされていたから、余計に気になってしまうのよね。うーん、ワクチンの接種率を高めたいけど、ワクチンの接種に必要な費用の半額を政府も補助しても、それでも接種を受けない人もいる。やっぱり、未知のものは怖いのかしら。それに、補助を受けた場合でも、1回の支払額が10銭になるのが負担に感じてしまうのかしら……だけど、ワクチン接種にかかる費用を政府が全額負担するとなると予算をオーバーしちゃうし、また国債を発行する必要が出てきて……」

 両腕を胸の前で組んで、ブツブツ呟きながら考え込んでいると、不意に、頭が重くなった。兄の右手が、私の頭の上に置かれたのだ。

「落ち着け。……確かに、今の状態は、梨花にはもどかしく思えるだろう。お前には、医学がもっと進んだ時代を生きた記憶があるのだから」

 兄は私の頭を撫でながら、優しい声で私に語り掛ける。

「しかし、お前のおかげで、事態は確実に改善しているのだ。そのことはしっかり認識しろ」

 兄に言い聞かせられながら頭を撫でられていると、不思議と心が落ち着いてくる。いつか、同じようなことを誰かに言われたと思うけれど、その相手はベルツ先生だったのか、北里先生だったのか……と考えた時には、焦りでいっぱいになっていた私の心は穏やかになっていた。

「……そうね、昨シーズンの死亡率の1.3%より、死亡率が下がったのは事実よね」

 私はマスクの下で微笑んだ。「私、こんなに動揺しちゃいけないわ。兄上を助けないといけないのに。……ありがと、兄上、落ち着かせてくれて」

「そうか」

 兄はゆったりと首を縦に振ると、

「話題を変えようか。このままインフルエンザの話をしていたら、話が“まにあ”になり過ぎて、俺がついて行けなくなる」

私にそう言った。私は全然平気なのだけれど、兄が言うなら仕方が無いので「分かったよ」と素直に返事をした。

「ところで……お前、裕仁にはちゃんと会ったのか?」

 再び質問してきた兄に、

「会ったわよ。戻って来た日にも、栽仁(たねひと)殿下と一緒に東宮御所に行って、帰国のお祝いを言ったし、先週の土曜日にも政務を見学に来たから会ったわ」

と私は答えた。

「お土産ということで、栽仁殿下はシルクハットを、私はブローチをいただいたわ。パリで買ったそうよ。兄上もお土産をもらったんでしょ?」

「ああ、ステッキをもらったが……いや、俺が話したいのはそのことではなくてなぁ」

 兄は少しいらだったように私に応じると、

「それでは、裕仁とはほとんど話せていないだろう。それでいいのか?」

と私に訊いた。

「確かにそうだけれど、お正月が過ぎたら、また毎週土曜日に会うじゃない」

 私がそう答えると、

「確かに、土曜日には裕仁は政務を見学に来るが……お前はすぐに、剣道の稽古に連れて行かれてしまうから、裕仁に毎回挨拶ぐらいしかしていないではないか」

兄は不機嫌そうに私に指摘する。

「それで十分よ。他の宮さま方の手前もあるからね」

 すると、兄が大きなため息をつき、

「……どうもお前は、妙なところで遠慮をする」

と言って、私を見据えた。

お母様(おたたさま)の所に行くのも、俺が何度もしつこく勧めなければ行かないし、今回もそうだ。お前はお母様(おたたさま)の娘だし、裕仁の叔母なのに、何をそんなに遠慮する必要がある?」

「……どうも、“内大臣が皇太后と皇太子に取り入ろうとしている”と、世間に言われてしまいそうな気がしてね」

 兄の鋭い視線から逃げ出すことができず、私は仕方なく、心の中でわだかまっている思いを吐き出した。

「本当は、お母様(おたたさま)のところにも、迪宮さまのところにも行きたいよ。内大臣じゃなかったら、行きたいと思ったらすぐに行っているわ。……でも、行きたいと思っても、内大臣であることが、心の中でどうしても引っ掛かってしまう。やったことを変な言いがかりの取っ掛かりにされたくもないから……仕方ないかな」

「ふむ……ということは、本当は、外遊から帰ってきた裕仁と会って、話がしたいということなのか?」

「当たり前でしょう」

 私は兄の問いに即答した。「将来有望な、可愛い甥っ子だよ。この世界一周でどんなことを見聞きして、どんなことを感じたか、迪宮さまの口から直に聞いてみたいわ」

 すると、

「言ったな」

兄が突然、私の目を見ながら言った。

「え……?」

 普通に話をしていただけだと思う。けれど、今の兄の微笑を含んだ視線には、妙に引っ掛かるものを感じる。不審に思ったその時、

「では、梨花の願いを叶えてやろう」

兄はこんなことを言い出し、

「大山大将」

と、ここにはいないはずの人を呼んだ。

「は……?!」

 兄の声とともに、御学問所と二の間を隔てる襖が静かに開く。私が普段、兄の署名がされた書類に御璽や国璽を押している二の間には、大山さんと、私の可愛い甥っ子……世界一周巡航から帰ってきた迪宮さまが、こちらを向いて立っていた。


「い、いや、ちょっと待ってよ?!」

 思わぬ光景に動揺した私は、頭を左右に振りながら立ち上がった。

「今日、土曜日じゃないでしょ?!何で迪宮さまが皇居にいるの?!」

 混乱しながら叫ぶように尋ねた私に、

「梨花叔母さま、落ち着いてください」

黒紺のフロックコートを身につけた迪宮さまが、一歩進み出て声を掛けた。

「驚かせてしまって、申し訳ございません。梨花叔母さまとゆっくりお話がしたかったのですが、東宮御所には挨拶にしかいらしてくださいませんでした。先週の土曜日にお話しできるかと思っていたのですが、僕が話しかける前に叔母さまは武道場に行ってしまわれて……。ですから、お父様(おもうさま)と策を立てたのです。叔母さまが絶対に逃げられないように」

「でしょうね……」

 私は大きなため息をついた。こんな策は、迪宮さまだけなら絶対に考え付かない。兄が関わっているはずだ。振り向いて兄を睨みつけると、

「お前は妙なところで遠慮をするから、こうでもしなければ逃げ出すと思ったのだ」

兄は悪びれずに私に言う。私は兄に言い返すことができなかった。

「“内大臣が皇太子に取り入ろうとしていると、世間に言われてしまう”……確かに、梨花叔母さまが先ほどお父様(おもうさま)におっしゃったことはごもっともでございます。しかし、僕は叔母さまには、そんなことは気にせず、遠慮なくお話をしていただきたいと思います。突飛な手段を取ってしまい大変申し訳ありませんでしたが、どうか、僕の思いをくみ取っていただきたく存じます」

「いや……謝らなくてもいいよ、迪宮さま」

 真摯な態度で私に向き合う迪宮さまに私は言った。「私が遠慮し過ぎたのが悪いんだから。……はぁ、ビックリした。ちょっと、お茶を飲ませてちょうだい」

 マスクをずらしてお茶を一口飲んだ時、

「裕仁、こちらに来て座れ」

兄が自分の左側にある椅子を指し示す。迪宮さまは御学問所の中に入り、素直にそれに腰かける。半年以上に亘る海外旅行を終えた迪宮さまはすっかり大人びて落ち着いており、一人前の青年皇族にふさわしい佇まいだった。

「……立派になったね、迪宮さま」

 素直に感想を口にすると、迪宮さまは一礼した。

「あなたの父上が外遊から帰ってきた時も、一回りも二回りも大きくなったと感じた。同じようなものを、今の迪宮さまに感じるよ」

「お褒めの言葉をいただき、恐縮です」

 再び私に頭を下げた迪宮さまに、

「今までいろんな人に聞かれたと思うけれど、旅行の感想はどうだった?」

と私は尋ねた。

「様々な人に会い、様々な事物を怒涛のように見学しました」

 迪宮さまはしっかりした口調で話し始めた。

「いまだに咀嚼しきれていませんが……しかし、1つ1つが自分の血肉になっていくのを感じます。国というものは、その国の人と会うだけではなく、その国に実際に行き、その国の空気を吸わなければ、真実の姿を知りえません。叔母さまの時代のように気軽に外国に行けない今、世界一周をすることができたのを嬉しく思っています」

 迪宮さまの言葉に、私はじっと耳を傾けた。

「楽しくて刺激的なことが、たくさんありました。北京では紫禁城を、シャムではいくつかの寺院を、エジプトではスフィンクスやピラミッドを、オスマン帝国ではコンスタンティノープルの美しい街やトロイ・バビロンの遺跡を見学しました。エジプトで、叔母さまのおっしゃっていたツタンカーメンのミイラが見られなかったのが残念でしたが……」

「ああ、まだ見つかってなかったのか。変な期待をさせちゃってごめんね」

「いいえ。その代わり、エジプトの考古局の方々から、面白いお話がたくさん聞けましたから」

 私の謝罪に迪宮さまは優しく応じると、

「イタリアやオーストリア、スペイン、ギリシャ、ドイツ、デンマーク、オランダ、ベルギー、スイス、フランス、イギリス、アメリカ、ハワイ……様々な国で、様々なものを見学しました」

再び世界一周の感想に話を戻した。

「パリやロンドンでは地下鉄にも乗りましたし、オペラや活動写真もいくつも観ました。イギリスではゴルフをして、ハワイではサーフィンを習って……とても刺激的で楽しい日々ではありましたが、こうも思ったのです。今は平和であるから、このような楽しみを享受できる。もし戦争中や、戦争が終わった直後であったなら、この楽しみは全て消えていたのでしょう」

 迪宮さまはそう続けると、

「梨花叔母さまが4か国中立連合を提唱なさって、世界大戦をお止めになり、本当によかったです」

私の目を見つめながら言った。

「そう……」

 私は頷くと、迪宮さまに微笑み返した。

 迪宮さまは“史実”でも、1921年にヨーロッパを訪問している。第1次世界大戦が発生し、約4年間の戦いの末、パリ講和会議が開かれて終結へと向かってから、わずか数年しか経っていない時期だ。斎藤さんによると、この時迪宮さまはベルギーやフランスで、第1次世界大戦の戦跡を見て回ったそうだ。破壊の跡が生々しい風景は、きっと“史実”の迪宮さまに強い印象を残しただろう。

(迪宮さまは、“史実”のことにも思いを馳せているのかしら……)

「この平和がいつまで続くかは分かりません。我が国も万が一の時に備えなければなりません。しかし、なるべくなら平和がいつまでも続くよう、我が国も七大国の一員として努力しなければと感じました」

「裕仁の言う通りだな」

 迪宮さまの感想を聞いた兄が満足げに頷いた。

「世界には、戦いの火種がなお残っている。ブルガリアもそうだし、ポーランドも独立するかもしれん。その他、紛争が起こりそうな地域はたくさんあるのだ。我が国は国際連盟常任理事国の一員として、これからも争いの火種を1つ1つ消していかなければならない。裕仁、そのことを念頭に置いて、これからもしっかり励め」

「かしこまりました、お父様(おもうさま)

 父親に恭しく一礼した迪宮さまは、再び顔を私に向け、

「ところで、梨花叔母さま」

と私に話しかけた。

「叔母さまは、お父様(おもうさま)のインフルエンザの予防接種をなさったそうですね」

「ああ、うん、そうだけれど……」

 兄が話したのかな、と私が思った瞬間、

「僕も叔母さまから、インフルエンザワクチンを接種されたいです」

迪宮さまは私をじっと見つめながら言った。

「僕、叔母さまが医師として働いていらっしゃるのを見たことがありません。ですからこの機会に、叔母さまに予防注射をしていただきたくて」

「……しょうがないわねぇ」

 私が顔に苦笑いを浮かべると、

「俺に予防接種をした時と違って、随分あっさりと承諾したな」

兄が横から少し不満そうに言う。

「可愛い甥っ子のおねだりだからね」

 私は兄にこう応じ、控えていた大山さんにワクチン接種の準備をするようお願いした。こうして、午前11時55分、私は兄に続いて迪宮さまにも、インフルエンザワクチンを接種したのだった。

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