花咲く時期は(1)
1892(明治25)年、1月26日、火曜日。
私の今生での、満9歳の誕生日である。
空は、朝までの雨を引きずっているのか、厚い雲に覆われていた。
学校が終わった帰り、私は馬車で皇居に参内して、誕生日を無事迎えられた報告をするために、表御座所で天皇に面会した後、お母様に会いに行った。
(さてと、お母様か……)
――皇后陛下も先日、ご憂慮されておられましたことは、お伝え申し上げます。
お正月に、伊藤さんにはこう言われた。
“医師になるためには、女を捨てなければいけないと言ったそうだが、女性であることを忘れずに医師になってほしい”……お母様は、伊藤さんにそう言ったそうだ。
でも、それは無理だ。医師になることは、女でなくなるということなのだ。
私は前世で、そう思って生きてきた。
(お母様に、それを分かってもらうのは、どうしたらいいんだろう……)
考えていたら、あっという間にお母様の待つ部屋の前に着いてしまった。
部屋に入ると、かすかな香りが鼻をくすぐった。暖かさの中に、爽やかさと、ほんのりした甘さを感じさせる香りだ。テーブルの上には、少しだけ白い花をつけた梅の枝が何本か、花瓶に生けて置かれていた。
「早咲きの梅の花がほころんでおりましたから、何本か枝を切ってもらいました」
長椅子に腰かけたお母様が、私に微笑んだ。今日は、正月に着ていたような華やかな礼服ではなかったけれど、それでも、全身から気品と優しさが溢れ出るかのようだった。
「はい、とてもいい香り。春が来たって感じですね。まだ寒いけど……」
「この香り、私のお化粧品の香りなんですよ、増宮さん」
お母様がこんなことを言い出して、私は思わず後ずさった。
「う、嘘ですよね、お母様?!これがお化粧の匂いだったら、私、もう……」
すると、お母様が声をあげて笑った。鈴でも鳴らしたかのような、美しい声だ。
「冗談ですよ、増宮さん。これは梅の花の香りです。ほら、近くに寄ってくださいな」
お母様の声に、恐る恐る、梅の花に近づいてみる。次第に暖かな香りが強くなっていく。そばまで来たところで、思い切って、鼻を梅の枝に近づけてみると、香りはより一層強くなった。
「ああ、よかった……梅の花の香り……」
ほっと息を吐くと、お母様がまた笑った。
「やはり、お化粧の匂いはいけませんか」
「はい、絶対ダメです。原さんが、私でも使える白粉を作る、とか息巻いていますけど、絶対無理です」
「そうでしたか。……まあ、立ち話も疲れるでしょうから、お座りくださいな、増宮さん」
お母様の声で、私はお母様の向かいの椅子に腰を下ろした。それを見ると、お母様はお付きの女官さんに、部屋から退出するよう命じた。
私とお母様は、梅の花を挟んで、二人きりになった。
(さて、話をどう切り出したらいいのかな……)
今日は、お母様と、私が医師になることについて、話し合いをしなければならない。お母様がわざわざ人払いまでしたのだから、普段から考えていることを、包み隠さず言ってしまってよいのだろう。そう思うのだけれど、いざお母様を前にすると、一体何から話せばいいのか、考えが浮かばなかった。
と、
「増宮さん」
お母様が微笑した。
「は、はい」
「今年も増宮さんに、着物を仕立てようと思うのですが、どの柄がよいでしょうか。見ていただこうと思って」
そう言うと、お母様は、長椅子の上に置いてあるいくつかの反物を、テーブルの上に置いた。
(ああ……)
確か、去年の誕生日も、同じことを言われた。ただ、示された反物が、どれも私が気に入る柄ではなくて、選ぶのにすごく苦労した。結局、そこにあった反物の中で一番地味だった、白地に、水色の小さな花模様が散らしてある反物を選んだのだけれど……。
(あれ、京都で、着物が濡れて着替えた時に着たけど、女の子らしくて、あまり好きじゃないんだよね……)
そう思いながら、テーブルの上の反物をざっと眺める。どれもが、私の目から見ると、華やか過ぎるように見えてしまう。
「あの、お母様……私、こんないい反物で着物を仕立ててもらっても、外で遊ぶし、ニワトリの世話もするから、汚れてしまって、かえってもったいないことになってしまいます。もっと地味で質素で、模様も簡素なものがいいです。模様も無くていいぐらい……」
「余所行き用にすればよいではないですか」
「私が華族女学校以外のどこかに行くだけで、大騒ぎになってしまうから、余所行きの機会なんて……」
「作ればいいではないですか。増宮さんのそばには、伊藤どのも大山どのもいます。あの二人に相談すれば、何とでもなりましょう」
「それは、そうかもしれませんけれど……」
私は口を閉ざした。伊藤さんと大山さん……あの二人が組んでしまえば、ある程度の無理は押し通せてしまうだろう。なんと言っても、枢密院議長に中央情報院総裁なのだから。……しかし、何とかして、着物を作ってもらうのを断ろうと考えたのだけれど、これで、逃げ道がなくなってしまった。
ふとお母様の方を見ると、お母様は寂しげにほほ笑んでいた。
「好みではありませんか、身を飾るのは」
「好みではないというか……無駄だと思って……」
「どうしてですか?」
「私は美人ではありません。ですから、着飾って自分の美を誇るなんて、できません。いつも髪にリボンをつけているけれど、おめかしはあれが精一杯です」
「おいとぼいのに……聞く人が聞けば、嫌みに聞こえてしまいますよ」
(おいとぼい……?)
お母様の言葉の意味が分からなくて、私はちょっと首を傾げた。そんな私の様子を知ってか知らずか、お母様は、さらに言葉を続ける。
「増宮さんがそう思うのは、増宮さんが育った時代と、今とで、美しさの基準とが違うからです。増宮さんは本当に愛らしくて美しい、少なくとも、私はそう思います」
(それ、親から見た贔屓目だよなあ……)
私はため息をついた。本当は“呪いの市松人形”である我が子を気遣って、こう言ってくれているに違いない。
「増宮さん」
お母様が、私を呼んだ。
「増宮さんが前世で亡くなったのは、24の時でしたよね」
「はい、そうです」
確か、磐梯山の噴火の直後に、両陛下には話したはずだ。
「私には、それが不思議なのです」
お母様が突然こう言ったので、
「え……?」
私は眉を少ししかめた。
「確かに、増宮さんが、医学や学問のことを考える時の頭の働きは、雷が閃くようで、ハッとさせられることがあります。それは、私だけではありません。お上も、折に触れてそうおっしゃいます。けれど、……時折、私には、増宮さんが、今の身体のご年齢相応に見えてしまうのです」
「今と未来とじゃ、大人になるという基準は違っていると思いますけれど……」
私は反論した。親王殿下には、“遊んでいる時は、年相応に見える”と言われたことはあるけれど、親にまでそう言われてしまうなんて……。
「そのことは考慮に入れたつもりです」
お母様は静かに言った。「増宮さんから色々と、未来の女子教育や、女性の社会進出のこと……それもうかがいましたから。けれど、それを合わせて考えても、増宮さんの心に、何かが足りない……というのは、違いますね。増宮さんの心の中に、厚い氷に閉ざされているようなところがあるような、そんな気がします」
(氷……?)
「増宮さん、……増宮さんは、恋をしたことがありますか?」
突然、お母様がこう言ったので、私はびっくりした。
「こ、恋ですか?」
「あの人が恋しいとか、好きだとか、ひとめぼれしたとか……そんな思いをしたことはありますか?」
「強いて言えば、大兄さまですけど……、伊藤さんに3分で初恋を壊されました」
もっとも、今では、あのまま一目ぼれを維持しないでよかったと強く思う。既婚者であることももちろんだけれど、親王殿下は、皇太子殿下がいない所だと、私をよくからかって遊ぶのだ。それがちょっと気に障る。……というか、私は何故、母親に恋の話をしているんだ?
「あらあら」
お母様がクスリと笑った。「他には?」
「へ?」
「恋ですよ。したことはあるの?」
「今生では、ないです」
「前世では?」
「!」
汚らわしくて、最低な思い出が、一瞬で脳裏に蘇った。
(嘘でしょ……一回死んでも、覚えているなんて、そんな……)
全身の血が、流れに逆らって渦巻いているかのようだ。周りから全ての音が無くなってしまって、私の心臓の鼓動だけが、身体の中で、早鐘を打つかのように響く。どうしようもなく苦しくなって、私は胸を手で押さえた。
そこに、
「増宮さん……?」
お母様の、心配そうな声が届いて、私はハッとした。
「話さなきゃ……ダメですか……?」
私はうつむいた。
「絶対人に笑われちゃうから……誰にも、話したことないのに……」
「増宮さんが育った時代と、今の基準とは違います」
お母様が微笑んだ気配がした。「増宮さんが“人に笑われてしまう”と思っても、それは私にとっては、誰にも笑う権利などないことと映るかもしれません。それに、増宮さんの恋した殿方も、増宮さんを笑う前世の人も、今ここにはいないのですよ」
「でも……恥ずかしくて……人の顔を見てなんて、話せません……」
「では、私の隣にいらして、増宮さん」
お母様が左手で、長椅子の座面を軽く叩いた。
その言葉に逆らえず、私は椅子から立って、お母様の左隣に腰かけた。
「あの……絶対、笑わないでくださいね」
「大丈夫ですよ」
お母様が、左手で私の右手を握った。
「あれは……私が12歳の時です……」
私は、息を整えると、ようやくの思いで、口を開いた。
……そう言えば、あの日の空も、今日と同じように、曇っていた。
※いとぼい……御所言葉で、「かわいい」という意味です。ここで使わないと永遠に使わない気がしたので、敢えて言っていただきました。




