閑話:1920(大正5)年白露 ジュネーブの酒場にて
1920(大正5)年9月18日土曜日午後8時、スイス西部・レマン湖の南西岸に位置する都市・ジュネーブ。
「またあなた方に会うことができるとは、思ってもみませんでしたよ」
ジュネーブの街にある1軒の酒場。上質の酒を集め、その酒を求める上質の客が集うこの酒場で、国際連盟の事務局次長を務める日本人男性は、今日招待した2人の客に言った。
「軍縮会議の折には本当にお世話になり、ありがとうございました」
礼儀正しく頭を下げたのは、日本の海兵少佐・堀悌吉だ。1904(明治37)年8月に海兵士官学校を卒業した彼は、戦艦“三笠”、戦艦“朝日”などに勤務し、昨年のジュネーブ軍縮会議には代表の山本権兵衛国軍大臣の随員として参加するなど、国内だけでなく海外での経験も重ねている。現在は、皇太子・裕仁親王に随行してジュネーブに滞在している海兵大将の有栖川宮威仁親王のお付き武官を務めていた。
「次長閣下には、あの折、我々を幾度となく助けていただき、感謝の念に堪えません」
日本人にしては大柄な体を折り曲げるようにして一礼したのは、堀と同じく日本の国軍に所属する山下奉文歩兵少佐である。1905(明治38)年に歩兵士官学校を卒業した彼は、第1師団などで経験を重ね、堀と同じように昨年、代表随員としてジュネーブ軍縮会議に参加した。今は東宮武官に抜擢され、裕仁親王の随員の1人として世界一周巡航に付き従っていた。
「いや、余り助けた覚えはないのですがね」
次長は飄々とした調子で応じると、
「さぁ、今夜は大いに語りましょう。やはり、日本から人が来るのは嬉しいですからね。お礼に私も、今ヨーロッパにいる、あなた方の同期の方々の近況を知る限りお伝えしましょう」
と軍人2人に呼びかける。堀少佐と山下少佐は、国軍の中でも英才が集結する国軍大学校に1915(明治48)年に入学し、3年間、ともに勉学と演習とに励んだ同期生である。国軍大学校の同期生の絆は固く、2人は駐在武官として海外にいる同期生たちの近況を聞きたがった。次長の方もその求めに応じたので、3人の間では、共通の知人や、堀少佐と山下少佐が知っている次長の知己の近況についての話が楽しげに取り交わされた。
「しかしお2人とも、なかなか大変そうだ」
次長がニコニコ笑いながらこう言ったのは、彼が3杯目のスコッチウィスキーのグラスを空にした時で、3人が話し始めてからたっぷり1時間は経過していた。
「昨年も何か月かこのジュネーブにいて、喧々諤々の議論に巻き込まれたのに、またお2人とも、ここにおいでになった訳ですからな」
「ええ」
次長の言葉に深刻そうな表情で頷いたのは山下少佐だった。「もちろん、いい経験だと思っております。それに、皇太子殿下のような素晴らしいお方にお仕えできるのは、限りない栄誉だと考えているのです。ただ……俺は現場を駆け回っている方が性に合っているようでして……」
「いやぁ、どうもそのようには見えませんなぁ」
山下少佐に応じると、事務局次長は手にした葉巻を口元に近づける。そして、口の中でゆっくりと煙草を味わうと、
「堀少佐はいかがですか?」
山下少佐の連れに言葉を投げた。
「芝居や活動写真を観に行けないのが辛いですね」
堀少佐が苦笑いを顔に浮かべながら答えると、
「おいおい、それだけではないだろう。四六時中、有栖川宮殿下から難しいご下問を受けているではないか」
山下少佐が半ば呆れながら言う。それに対して堀少佐は、
「そこは、知識を組み合わせて応用すれば……」
と、普段と同じ穏やかな態度で答えた。
「ふん、流石だな。“神様の傑作の1つ堀の頭脳”とは、よく言ったものだ。うらやましいよ」
嘆息した山下少佐に、
「あなたも伊藤閣下にいつも質問攻めにされているが、見事に答えているではないですか」
堀少佐は微笑して言う。
「それはそうかもしれないが……」
山下少佐は一瞬顔をしかめたが、すぐに真面目な表情に戻り、
「ところで次長閣下、1つ、お伺いしたいことがあるのです」
と言いながら、国際連盟事務局次長に視線を向けた。
「何でしょうか?」
ニコニコしながら応じた次長に、
「次長閣下は、我が日本に、最高意思決定会議、と呼ぶべきものがあることをご存知ですか?」
山下少佐は声を潜めて尋ねた。
「は?」
「国軍の児玉航空局長は、月1度、第2土曜日に必ず参内しています。他にも西園寺総理や原内相、牧野農商務相、高橋蔵相、そして山本国軍相が、同じ日の午後に参内しています。更には、伊藤閣下、陸奥閣下、松方閣下、黒田議長といった枢密院の大物たち、有栖川宮殿下や立憲改進党の大隈党首まで……」
首を傾げた事務局次長に、山下少佐は畳みかけるように話す。
「同じ時間に決まった人間が参内する。そしてしばらくすると退出する。皇居の中で決まった人間同士での会合が開かれていると考えるのが自然です」
堀少佐も顔を僅かばかりしかめながら、山下少佐の言葉を補強した。
「枢密院議長に与野党の領袖が集まっているのなら、これは単にお茶を飲みながらのんびり楽しむような会合ではない。国の行く末を決めるような会議がなされているのでしょう。……もしかすると俺と堀の今回の人事も、その会議で決まったのかもしれない。武官がこんなに頻繁に海外に行かされる例は余りないですから」
並んで座っている堀少佐と山下少佐だが、喋っているのは主に山下少佐の方で、堀少佐は殆ど黙っている。しかし、要所要所で首を大きく縦に振っているので、堀少佐も山下少佐の意見に賛成しているのは明らかだった。
「……ほう、大変面白いお話ですが、今、名前を挙げられた方々の他に、どなたが関わっているとお考えですか?」
「国軍の斎藤参謀本部長や、貴族院に転身なさった桂閣下も関わっていると考えております。それから、内府殿下と、内府殿下のそばにいる大山閣下も。皇太子殿下も、毎週土曜日の午前中、天皇陛下のご政務を見学なさるために参内なさっておられますが、第2土曜日だけは皇居からのお帰りが夕方近くになるそうです。ですから、皇太子殿下もその会議に加わっておられる可能性があります」
事務局次長の質問に鼻息荒く答える山下少佐の横から、
「内府殿下は巻き込まれているだけだろう」
堀少佐が静かに指摘する。
「そりゃあ、今回の巡航の見送りの時の様子を考えればそうだろうが、あんな重要な会議を内府殿下抜きで開催することは考えられない。それにお前も、内府殿下のお考えに全面的に賛同しているではないか」
「確かにその通りだが、それは今の話題から外れる。そんな会議が本当に存在するのか、次長閣下に伺ってはっきりさせなければ」
「ああ、堀の言う通りだ。次長閣下は牧野農商務相のご息女を娶っておられる。牧野農商務相のことにはお詳しいはずだ。どうですか、次長閣下、そのような最高意思決定会議の話、お聞きになったことはございますか?」
山下少佐と堀少佐の問いにキョトンとしていた次長だったが、やがて、
「は……はは……ははははは……!」
火のついた葉巻を手にしたまま、彼は大きな声で笑いだした。
「な……何がおかしいのですか」
気色ばんだ山下少佐に、「いや、失礼」と軽く頭を下げると、次長はウィスキーを一口飲む。そして、
「そりゃあ、考え過ぎですなぁ」
と、呆れたように言った。
「毎月第2土曜日に要人たちが参内している……確かに私も聞いたことがありますよ。しかしそれは、あなた方の考えているような、最高意思決定会議なんて御大層なもんじゃあない。歌会ですよ、定例の」
「歌会……」
あっけに取られたように呟いた堀少佐に、
「有栖川宮殿下は大日本歌道奨励会の総裁であらせられますからな。歌道を廃れさせてはならないと、天皇陛下のお許しを得て、月に1度、宮中で閣僚などを招いて歌会を開催しているのです。私の岳父も、その歌会に参加させられているようなのですよ。最近は皇太子殿下が臨席なさるので大変だと、私に送ってきた手紙の中でこぼしておりました」
「は、はぁ……」
「ですから、最高意思決定会議なんてものは、初めからありはしないのですよ。この世の中は、安っぽい小説や活動写真のように華々しいものではない。楽しみと言えばせいぜい、こうして、葉巻を燻らせて、美味い酒を飲むくらいのものですな」
「……なるほど、よく分かりました。これは、俺たちの考え過ぎだったようです。妙なことを尋ねてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
山下少佐は深く頭を下げる。堀少佐もまた、無言で一礼した。しかし、山下少佐の瞳も堀少佐の瞳も、一瞬だけ怪しく光ったことを、事務局次長は見逃さなかった。だが、そのことにはまったく触れず、
「ところで、不思議に思ったのですが、山下少佐は酒もタバコもおやりにならないのですな。昨年は大いに飲んでいたと思ったのですが……」
と次長は話題を変えた。
「実は、皇太子殿下に止められたのです」
山下少佐は少し恥ずかしそうに答えた。「“タバコも酒も身体に負担を掛け、ついには人の命を奪うと章子叔母さまに聞いた。山下のような前途有望な軍人の命を、そのようなもので失う訳にはいかない”とお言葉を賜りましたので、すっぱり止めることにしたのです」
「なるほど、皇太子殿下の令旨であれば、酒とタバコを止めるしかありませんな。堀少佐は確か、元から酒もタバコもおやりにならなかったですな」
「ええ、どうも性に合わなくて」
次長の質問に堀少佐は穏やかに答えると、
「山下さん、もうお暇しなければ」
そう言いながら、左腕にはめた腕時計の盤面を山下少佐に示した。
「や!これは……急がなければ」
急に慌て始めた山下少佐に、「おや、門限か何かですか?」と次長が問いかけると、
「ええ、宿舎の門限が10時なのです。もう9時40分……急いで戻らなければ、武官長閣下に叱られてしまいます」
山下少佐はそう言いながら立ち上がった。
「それは大変だ。ホテルまで送りましょうか」
続いて立ち上がろうとする事務局次長を、
「大丈夫です。ここからホテルまで1本道ですから」
と言って、堀少佐が紳士的な態度で制する。
「そうですか。では、私はもう少しここで飲んでいきます。身体に悪いのは分かってはいるが、酒もタバコもやめてしまうと、私が私でなくなってしまう気がしますのでね」
もう一度椅子にどっかりと座り直した次長に、
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございました。またお会いいたしましょう」
山下少佐は深々とお辞儀をする。堀少佐も、
「楽しくお話しさせていただき、ありがとうございます。色々と得るものがございました」
と礼儀正しくあいさつした、
「次にお会いできるのは日本でしょうか、ジュネーブでしょうか?」
社交辞令とも何とも判別がつかない山下少佐の問いに、
「ジュネーブで、と願いたいですな。ここでの仕事も暮らしも、すっかり気に入っているのですよ」
と次長は返す。招待客2人が「それでは……」と名残惜しそうに去り、酒場の外へ出ていくのを見届けると、次長は葉巻を口に付け、ゆっくりと煙草を味わった。
「……あれは、間違いなく気付いているなぁ」
葉巻を口から離すと、次長は小さな声で言った。
「舅殿に報告しなくちゃいかん。それから、有栖川宮殿下と伊藤閣下にもか。しかしあの様子だと、日本に戻った時には、あの2人、間違いなく、あの食えない爺さんたちの会に入れられるだろうねぇ……」
実は次長も入れられそうになった。半分冗談、半分本気で、“酒とタバコがやめられないから入るのは遠慮します”と、陸奥男爵に先手を打って申し出たところ、“それもよかろう。君は梨花会に入れて鍛えなくても、勝手に育っていくから”と笑って許された。その代わり、陸奥男爵でなければうまく行きそうもない国際連盟の舵取りを……正確に言うと、事務総長のドラモンド氏を操るという、非常に面倒な仕事を押し付けられてしまったのだが。
「しかし俺も、いつまで爺さんたちから逃げていられるかなぁ……」
軽くため息をついた事務局次長は、湧き上がった微かな不安を脳から追い出すべく、4杯目のスコッチウィスキーのグラスをグイッと呷った。




