別館
1919(大正4)年12月13日土曜日午前11時45分、皇居・表御座所にある兄の執務室・御学問所。
「叔母さま、お願いがあります」
今日は、兄の長男である迪宮さまが、兄の政務を見学する日である。“教育上の理由”とやらで、迪宮さまが御学問所に姿を現すと、東宮武官長の橘周太歩兵少将に、皇宮警察の武道場へと連行されてしまう私も、迪宮さまが御学問所を退出する時間には、見送りのために御学問所に戻る。今日は12月の第2土曜日でもあるから、迪宮さまと兄を見送ったら、午後からは梨花会だなぁ、とぼんやり思っていたら、可愛い甥っ子からこんなことを言われた。
「な、何?」
迪宮さまが私にお願いをするのは珍しいことだ。一体、どんなことなのだろう、と身構えると、
「僕、叔母さまの家に行ってみたいのです」
迪宮さまは私にこう言った。
「へ?私の家……?霞ヶ関じゃなくて、盛岡町に、ということ?」
皇太子が有栖川宮家を訪れたいのであれば、宮家継嗣の住まう家ではなく、宮家当主である私の義父・威仁親王殿下が住む霞が関の本邸を訪問するのが筋だろう。私が戸惑いながら確認すると、「はい」と応じた迪宮さまは、
「院の分室を、一度見学させていただきたいのです」
と私に告げた。
(ああ……)
私が住んでいる盛岡町邸には、本館と別に、西洋館の別館がある。表向きは職員詰所ということになっているけれど、実はこの別館は日本の非公式の諜報機関・中央情報院の麻布分室で、我が家の職員に偽装した中央情報院の新人職員たちに諜報員としての教育を行う場として機能していた。今は福島安正さんが、有栖川宮家の別当をしながら麻布分室の分室長を務めているけれど、迪宮さまはその麻布分室を見学したいようだ。
(大丈夫かしら、緊急事態宣言が出たばかりだけど……)
東京府では先月中旬から新型インフルエンザの感染者が見られるようになり、感染者数の増加に伴い、昨日、新興感染症特別措置法による緊急事態宣言が府知事から出された。そんな状況下で、迪宮さまに盛岡町邸に来てもらっても大丈夫だろうか。
そこまで考えた私は、ふと、先日の栽仁殿下の言葉を思い出した。
――この冬は、ストレスをためないように、少しでも楽しく過ごす工夫が必要なんじゃないかな。
特別大演習の中止が決まった直後、栽仁殿下は私にこう言った。少しでも楽しく過ごす工夫が必要……それは、迪宮さまも同じだろう。まだ18歳だけれど、怖い爺たちのきついしごきに耐え、皇太子としての務めを立派に果たしている彼にかかるストレスは、尋常でなく強いのだから。
「……分かった。私は構わないけれど、院に話を通さないとね」
私が迪宮さまに答えると、
「おお、許してくれるのか。“インフルエンザに感染する危険がある”と言って断るのかと思っていたのだが」
白いマスクをつけて執務机の前の椅子に座っていた兄が、軽く目を瞠った。
「緊急事態宣言が解除されるまでには、まだまだ時間が掛かるわ。ずっと縮こまっていたら、気分が滅入って、いい知恵も浮かばなくなってしまう。だから、少しでも迪宮さまの気分転換になるようなことをする方がいいかな、と思ったのよ」
私が兄に応じると、
「なるほど。……では梨花、俺が微行で街に出るのも許してくれるか?」
兄は真面目な顔で私に尋ねた。
「それはダメ。人混みの中に出るから、インフルエンザにかかりやすくなるわ。私の家に来るのならいいけれど、お見舞いに来てくれた時みたいにアポなしはやめてよ」
私がピシャリと回答すると、「なんだ、つまらん」と兄は不満げに言う。それを見た大山さんと山縣さんがクスリと笑った。
「じゃあ迪宮さま、金子さんや福島さんとも協議して、予定を調整するからね」
少しすねている兄を無視して、私が迪宮さまに笑顔を向けると、
「ありがとうございます、梨花叔母さま。楽しみにしています」
迪宮さまは私に深く頭を下げた。
1919(大正4)年12月17日水曜日午前9時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「本日はおいでいただき、誠にありがとうございます」
いつもの宮内官の制服ではなく、有栖川宮家の紋が入った空色の和服を着た私は、自動車から降りた迪宮さまに玄関先で最敬礼した。迪宮さまに付き従っているのは、運転手の他には、東宮大夫の曾禰荒助さんと東宮武官長の橘歩兵少将しかいない。もちろん、公式の行啓の時に必ず前後を固めている騎兵小隊もおらず、完全に微行での行啓だった。
「こちらこそ」
そう言って一礼した迪宮さまは、私をじっと見つめ、
「叔母さま、そう固くならずにお願いします」
と私に話しかけた。今日の迪宮さまは、黒紺のフロックコートをきっちり、美しく着こなしている。迪宮さまは“英明な皇太子”として国民……特に若い女性からの人気が高いけれど、彼女たちが夢中になるのも納得の凛々しい立ち姿だった。
「じゃあ、いつもの通りやらせてもらうわ」
私は迪宮さまに応じると、
「この家は子供が3人いるから、結構取っ散らかっているけれど、庭園は少し整備しているの。まずはその庭を案内させてもらうわ。お楽しみはその後でね」
と言って微笑した。迪宮さまに庭園を案内して、その直後、“休憩”という態で別館に立ち寄ってもらえば、多少は怪しまれずに済むだろう。それが私と、今も私の隣に立っている大山さんが立てた今日の訪問のスケジュールだった。
「じゃあ、こちらに」
私が迪宮さまの先に立ち、庭園に向かおうとしたその時、
「妃殿下……」
と声が掛かった。我が盛岡町邸の職員に偽装している中央情報院の新人の1人である。彼は足を止めた私に向かって、
「学習院から電話がありまして、禎仁王殿下の組がインフルエンザで学級閉鎖になったので、今日の授業は打ち切るとのことでございます」
と囁くように告げた。
「あら……」
次男の禎仁は、今年の9月に学習院初等科に入学した。1学年上の長男・謙仁と一緒に、毎日元気に学校に通っている。授業が打ち切られた、ということは、彼がもう帰って来るということだけれど、迪宮さまがいるから、私はすぐに相手できない。
「分かりました。じゃあ、誰か禎仁を迎えに行ってあげてください。それで、帰ってきたら、迪宮さまが帰られるまでは自分の部屋にいてもらって」
私は小声で職員さんに命じると、再び庭園に向かって歩き出した。
我が家の庭園は、敷地西側の傾斜地に整備されている。崖からしみ出す湧き水が作る流れを中心に、様々な樹木や石が配されているこの日本庭園は、歩いていて飽きるということがない。庭園の西の端近くにある池のほとりまで迪宮さまと一緒に歩くと、私は方向転換して、別館へと続く小径に足を踏み入れた。ここからが、今日のメインディッシュである。
別館には、福島さんが待ち受けていた。皇太子の視察ということで、普段は赤坂御用地の鞍馬宮邸別館……中央情報院の本部にいる総裁の金子堅太郎さんも、福島さんのそばに控えている。
「訓練のありのままをご覧になりたい、という仰せでしたので……」
福島さんはそう言うと、私たちの先に立ち、2階に通じる階段を上がっていった。実は、私もこの別館には足を踏み入れたことが無い。子供たちにも、“休憩している職員さんを邪魔したらダメ”と言って、別館への立ち入りを禁じているので、別館のそばに近づいたのも数えるほどしか無いのだ。私は迪宮さまの後に続き、少し緊張しながら階段を上った。
2階の廊下の両側にある扉のうち、いくつかは開けられていた。それぞれの部屋の中では、院のベテランの職員たちが、暗号用会話や世界情勢についての授業を新人職員たちにしていた。迪宮さまは開けられている扉から部屋の中をのぞき、授業の目的や、苦心している点などを福島さんと金子さんに質問する。その問いはとても的確だった。
「……こちらの部屋は、室内用の戦闘訓練場として使っております」
2階の廊下の突き当たりまで行って戻って来ると、福島さんは階段の近くにある閉められていたドアを開けた。部屋にいくつかある窓は深緑色のカーテンで閉ざされている。そして、部屋の中には、大きな書斎机や本棚、食器がセッティングされた食堂用のテーブル、ソファーなどが雑然と置かれていた。
「いろいろな部屋の家具を寄せ集めたような感じがするが、何か意味があるのか?」
迪宮さまが部屋の中を見回しながら質問すると、
「様々な部屋での戦闘を、この部屋で一度にできるようにと工夫しました」
福島さんが恭しく答えた。
「例えば、こちらの書斎机があるところでは、この机に向かっている人間を襲う、という設定で戦闘訓練をします。この食堂用のテーブルでは、食事中、もしくはその準備中を想定して訓練を行い……」
福島さんが説明を熱心に続けていると、私の隣に立っている大山さんがスッと目を細めた。
(どうしたのかしら?)
私が大山さんに声を掛けようとした刹那、
「妃殿下!」
小さいけれど、切迫感を伴う声が聞こえた。我が家の職員として働いている中央情報院の職員の1人だ。彼は私に向かって、
「禎仁王殿下のお姿が、見えなくなりました」
という、容易ならざる情報を伝えた。
「何ですって?」
私は顔をしかめて後ろを振り返った。
「どういうことなの?最後に禎仁の姿を確認したのはいつ?」
「はい、学習院まで、お迎えに上がりまして、自動車でこのお屋敷まで、ご一緒に戻りました」
私の質問に、職員さんは息を切らしながらも答えた。
「ところが、自動車から降りられたとたん、庭園の方に走っていかれまして……皇太子殿下の邪魔にならぬよう、皆で手分けして探しているのですが、いまだに見つけることができず……」
その時突然、大山さんが歩き始めた。「どうしたの、大山さん?」と私が呼びかけたのにも答えず、大山さんは深緑色のカーテンが掛かった腰高窓に向かって進んでいく。そして、カーテンに手を掛けると、大山さんは一気にそれを引き開けた。次の瞬間、私は目を丸くした。
「禎仁?!」
腰高窓の細い窓枠の上に、必死にバランスを取りながら立っているのは、間違いなく、私の次男坊である。カーテンで身体が隠れていたから、そこにいたのに気が付かなかった。
(どうして?別館には絶対入らないようにって、言い聞かせているのに……!)
怯えるようにこちらを見つめる禎仁の身体を、大山さんは軽々と抱えて床に下ろす。そして、
「福島さん、どうして禎仁王殿下がここにいらっしゃるのです?」
と、現別当に鋭い視線を投げた。
「はっ……!」
青ざめた顔でサッと最敬礼した福島さんに、
「原因を究明してください。それから、他に侵入者がいないか念のため確認してください」
と、中央情報院の初代総裁は命じる。
「直ちに……!」
福島さんが慌てて部屋から出ていくと、
「さて、この可愛らしい鼠は、いかがいたしましょうか?」
大山さんはこう言って、声を出さずにニヤリと笑った。
「お、大山さん……」
私は恐る恐る、非常に有能で経験豊富な我が臣下に呼びかけた。肉食獣のような笑みを私に向ける彼の身体からは、殺気が漏れ出ている。訓練を受けているはずの院の職員さんたちが、その殺気を浴びて思わず一歩後ろに下がっている。後ろから大山さんの両腕を回され、こちらを向いて立っている禎仁が、大山さんの顔を見ていないことは幸いだけれど……もし、禎仁が今の大山さんの顔をまともに見てしまったら、一生もののトラウマになってしまうだろう。
「ま、まさか禎仁に、何かしようって言うんじゃないでしょうね」
身構えた私の問いに、
「俺たちの秘密を知ってしまったのですよ」
大山さんは重い声で答えた。
「国家にとって、由々しき事態でありましょう」
「そ、そうかもしれないけど……!」
もし、禎仁に何か危害を加えると言うなら、絶対に許さない。そう思って右の拳を固めた時、
「大山の爺」
迪宮さまが大山さんに視線を向けて呼び掛けた。
「見逃してはくれませんか。悪気があってここに入り込んだわけではないと思います。それに、叔母さまの子供なのですから」
「皇太子殿下のおっしゃる通りです」
中央情報院の現総裁である金子さんも迪宮さまに加勢する。
「この建物で見聞きしたことを、絶対に他人に喋らないと口止めすればよいのではないでしょうか」
大山さんは迪宮さまと金子さんの言葉を黙って聞いていたけれど、やがて、
「仕方がありませんな」
と呟き、禎仁の前に片膝をついた。
「禎仁王殿下」
大山さんの声に何かを感じ取ったのか、禎仁は今にも泣きだしそうな顔で「はい」と返事した。
「先ほどから殿下が見聞きなさった通り、盛岡町邸の職員は、この別館で、様々な訓練を受けております。この屋敷の中では役に立たない訓練も混じっておりますが、これは全て天皇陛下と皇太子殿下、そしてこの屋敷の主であるお父上と、内大臣であらせられるお母上のためでございます」
「父上と、母上の……?」
震える声で問い返した禎仁の目をしっかり見つめ、大山さんは「はい」と頷いた。
「殿下がもっと大きくなられて、世の中のことがよくお分かりになるようになりましたら、この別館で何がなされているか、詳しくお話申し上げましょう。それまでは、この大山の爺とご両親以外には、この別館のことは一切お話になりませんように。……いいですか、万智子女王殿下にも、謙仁王殿下にも、決して話してはなりませんぞ」
流石に、大山さんの身体からは殺気が消えていた。けれど、禎仁にも、事の重大さはしっかり伝わったらしい。
「わ、分かった。大山の爺と父上と母上以外には、ここであったこと、絶対言わない」
禎仁は身体を微かに震えさせながらも、大山さんに向かってはっきりした声で誓った。
「……よかったですね、梨花叔母さま」
迪宮さまの囁きに、
「本当にねぇ……」
私はこう答えると、大きなため息をついた。
1919(大正4)年12月17日水曜日、午前11時55分。
「……それでね、お庭の方から、本館に戻ろうと走ってたんだ」
迪宮さまが東宮御所に戻った後、私と大山さんは禎仁と一緒に本館の居間に入った。普段、部外者を拒んでいる別館に、禎仁がなぜ入り込んでしまったのか……それをきちんと解明しておかなければ、将来、禎仁と同じ手口で、悪意を持つ何者かが別館に侵入してしまうかもしれない。
「そうしたら、別館の玄関が開いているのが見えたんだ」
禎仁は大山さんを怖がることなく、話を続けている。
「もちろん、父上と母上に、別館には入ったらいけないと言われていたけれど、中がどうなっているか、どうしても気になったんだ。だから、別館に入っちゃった」
「別館の玄関が、開いていたのですな?」
大山さんが尋ねると、
「うん。玄関に誰もいなかったから、そのまま中に入って2階に上がったら、廊下に母上と大山の爺がいたから、慌てて近くの部屋の中に隠れたんだ」
禎仁はこう答えてうつむいた。
(なるほどねぇ……)
私は両腕を胸の前で組んだ。迪宮さまの視察という今までに無かった事態に、訓練を積んでいる中央情報院の職員たちも流石に気が動転していたのだろう。それで、玄関のドアを閉めておくという、普段できていることを失念してしまった。それで開けっ放しになったドアから、禎仁が中に入り込んだのだろう。しかし、事の真相が私の考えた通りなのかは、改めて精査する必要がある。そちらは中央情報院の職員たちに任せておこう。
「怖かった?」
私の質問に、「とっても」と禎仁は暗い声で答えた。
「普段は優しいみんなが、すごく怖い顔をしてたんだもの。おとぎ話に出てくる鬼みたいに、僕のことを食べちゃうんじゃないかと思って……」
「取って食いはしませんよ」
再びうつむいてしまった禎仁の頭を、大山さんが優しく撫でた。
「ただ、禎仁王殿下が、秘密を他人にお話しになれば、その時は……」
大山さんが再び、声も無く笑う。もちろん、殺気は放っていなかったけれど、その不気味さにギョッとした禎仁が、慌てて私に身体を寄せた。
「もう……大山さんは怖いことを言ったらダメよ」
私は大山さんを軽く睨みつけると、禎仁としっかり目を合わせ、
「それで禎仁、あの別館で見聞きしたこと、他の人には話さないって約束してくれる?」
と確認をした。
「うん、もちろん、秘密は守るよ。だって、僕、父上と母上の子供だもん」
禎仁は漆黒の光が湛えられた瞳で私を見つめ返し、しっかりと頷く。その時、居間の柱時計が、ちょうど正午の鐘を打った。
「あ、母上、お昼ご飯の時間だよ。早く食堂に行かなきゃ」
禎仁は椅子から立ち上がり、居間の扉に向かって駆けだす。
「食堂に入る前に、洗面所で手を洗うのよ!」
私が慌てて次男の背中に呼びかけると、
「分かってるって!」
彼はこちらを振り向かずに返事して、居間から小走りで去って行った。
「まったく、一人前に言うようになったわねぇ」
私は視線を扉に固定したままため息をついた。
「やんちゃで好奇心が旺盛なのは、小さい頃の栽仁殿下にそっくりだなぁ。多少のやんちゃは許すけれど、本当に危ないことはしないように、職員さんに見張ってもらわないと……」
すると、
「恐れながら」
大山さんが私に真面目な調子で言った。
「なかなか口が達者なところは、梨花さまにそっくりでございます。それに、昔は帝大の教授を怒鳴りつけたり、男子と一緒に戦ごっこをなさったり、本当にお転婆でございましたなぁ」
「もう!」
そう言いながら、私が軽く叩くふりをすると、下ろした右手は大山さんの左手に簡単に捕まってしまった。
「いけませんよ、梨花さま。淑女らしいお振舞いをお願いします」
大山さんは私に少しおどけたように言うと、
「食堂までエスコート致しましょう」
と私に申し出てくれた。
「では、お願いするわ」
この頃は、栽仁殿下にエスコートしてもらってばかりだったけれど、たまには昔のように、我が臣下にエスコートをお願いするのも悪いことではないはずだ。私が大山さんに笑顔を向けると、彼も優しい微笑みを返してくれた。




