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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第67章 1919(大正4)年霜降~1920(大正5)年穀雨
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冬に向けて

 1919(大正4)年11月1日土曜日午前10時20分、皇居・表御座所にある兄の執務室・御学問所。

「シンガポールから神戸に入港した貨物船の船員複数名が、発熱と咽頭痛を訴えているという報告が入ったのが3日前のことです」

 土曜日のこの時間、御学問所にいるのは、兄と迪宮(みちのみや)さま、そして迪宮さまのお目付け役である山縣さんと大山さんだけである。ところが、今はこの4人だけではなく、内閣総理大臣の西園寺公望さんもいるし、国軍大臣の山本権兵衛さん、内務大臣の原敬さん、厚生大臣の後藤新平さんも壁際に並んで立っている。後藤さんの隣にいる国軍参謀本部長の斎藤(まこと)さんは、強張った表情で直立不動の姿勢を取っていた。この時間は皇宮警察の武道場で剣道の稽古をしている私も、緊急の報告が入ったという知らせを受け、武道場から慌てて戻ってきた。そして今、後藤さんが、その“緊急の報告”……新型インフルエンザの患者と思われる患者が集団発生したという報告を、兄の前で読み上げ始めたところだった。

「船は直ちに隔離致しましたが、既に荷下ろしなどで当該船に接触していた港湾労働者たちの中に、発熱や咳などの症状を訴える者が出てきました。港湾労働者はマスクをして働くよう、もしつけていない者がいたら、雇い主の責任でマスクを付けさせるようにと通達していたのですが、それに違反してマスクを労働者に付けさせていない雇い主が複数おりまして……」

「……ということは、神戸市で新型インフルエンザが蔓延するのも時間の問題ということですね」

 私の言葉に、「そういうことになります」と、後藤さんは難しい顔をして応じた。

「そうなると、目下の問題は、11日からの特別大演習を予定通り行うかどうかです」

 いつもはどことなく飄々としている西園寺さんも、今日ばかりは後藤さんと同じようにしかめ面をしていた。

「演習地は、愛知県の豊橋近辺です。しかし、甲軍は第2軍管区の将兵で構成されますが、乙軍が第5軍管区の将兵で構成されておりまして……」

 西園寺さんの言葉を引き取って続けた国軍大臣の山本さんに、

「第5軍管区と言っても広いだろう。中国・四国地方のほぼ全てと、兵庫県が含まれるのだから。具体的には、どの県の旅団が参加するのだ?」

正面に立って報告を聞いていた兄が尋ねた。

「歩兵・砲兵・戦車・飛行器部隊は、主に広島・岡山・兵庫県に本拠を置く旅団が担当します。海兵の方には、宇和島の水雷隊が参加致します」

 斎藤さんの答えに、

「兵庫の旅団か……」

兄は眉を曇らせた。

「まずいわね、これは」

 私は大きなため息とともに吐き出した。「インフルエンザの蔓延を遅らせることを優先するなら……」

特別大演習は中止にするしかないのではないか、と私が発言しようとした時、

裕仁(ひろひと)

と兄が迪宮さまを呼んだ。

「ちょうどいい機会だ。お前の意見を聞きたい。お前ならどうする?」

(はい?!)

 私は思わず目を瞠った。発言を兄に遮られたからではない。兄が迪宮さまに、難しい質問をぽんと投げたからだ。迪宮さまに厳しい問いがなされると、そばでハラハラしながら見守っている兄が、一体どうしたのだろうか。私が激しく戸惑っていると、

「もし大演習を強行すれば、大演習をきっかけにして新型インフルエンザが全国に蔓延する危険が高いと考えます」

迪宮さまは落ち着いた声で答え始めた。

「大演習では将兵が密集します。また、多くの国民が見物に訪れるでしょう。もちろん、兵庫県の旅団も健康診査はしっかりやってから演習地に向かうと思いますが、インフルエンザには潜伏期がありますし、感染しても軽い症状しか出ない者もいると梨花叔母さまに聞きました。健康診査を潜り抜けてインフルエンザが軍隊に侵入することは十分にあり得ます。そうなれば、発熱者が続出して大演習どころではなくなってしまいます。また、見物に出た愛知県民にインフルエンザを感染させてしまえば、愛知県で爆発的にインフルエンザが拡大して、医療の手が間に合わなくなる可能性もあります。……国民を過度に傷つけるのは、厳に慎むべきことです。ですから、僕は今年の大演習は中止すべきと考えます」

 厚生大臣の後藤さんの口から嘆息が漏れる。原さんや斎藤さん、山本さんは、迪宮さまに向かって最敬礼する。山縣さんと大山さんは、互いに顔を見合わせて、微かに頷き合っている。迪宮さまは、兄の課した問題を難なくクリアした。

「……俺の言いたいことを、全部取られてしまったなぁ」

 長男に見事な答えを返された兄は、そう言って苦笑いする。慌てて頭を下げた迪宮さまに、

「いや、気にすることはない。俺もお前と同じことを考えていた」

兄は穏やかな声でフォローを入れると、

「大演習は国土防衛のために必要なことだ。しかし、それによって、国民が過度に傷つくのは慎まなければならない。……今年の特別大演習は中止だ、総理。そのように手配してくれ」

西園寺さんの方を向いてこう命じた。

「かしこまりました」

 西園寺さん以下、閣僚たちが一斉に最敬礼したのと同時に、

「裕仁、すまないな」

兄が迪宮さまに向かって軽く頭を下げた。

「本当は、俺のそばで、裕仁に大演習を見ていてもらいたかった」

「いいえ、そんな!」

 迪宮さまは首を大きく左右に振ると、

「大演習は、来年も、再来年もあります。その時にきちんと勉強させていただきますから、今回は、国民の安全を優先してください」

兄の視線をしっかりと受け止めて答えた。

(頼もしくなったわねぇ……これも、大山さんと山縣さんが、御学問所(ここ)で迪宮さまを鍛えた成果かな……)

 迪宮さまの凛とした姿を見ながら、ぼんやりと私が思った時、

「来年から、特別大演習は、昨年のように10月に行う方がよいかもしれませんな。気温が高いうちは、インフルエンザも流行しにくいといいますし……」

山本さんがこんな提案をした。

「そうですね。来年か再来年くらいまでは、特別大演習は10月の方がいいかもしれませんね。ワクチンができて、新型インフルエンザの死亡率が下がったら、11月に戻してもいいかもしれないですけれど」

 私は山本さんにこう返した。

「ワクチン?“史実”のスペインかぜでも試されて、余り効果が無かったと記憶していますが……」

「それは、スペインかぜの病原体が、その時は発見できなかったからですよ」

 “史実”の記憶を持つ斎藤さんに、私は冷静に答えた。

「この時の流れでは、医科研の野口さんが、インフルエンザウイルスを分離する方法を見つけました。その発見を元に、私の時代の医学の知識も使って、インフルエンザのワクチンを作っているところです。WHOやフランスのパスツール研究所、それにドイツの王立プロイセン感染症研究所の協力も得て、完成すれば直ちに臨床試験に入る予定です。私の時代で使われていたのとほぼ同じワクチン……少なくとも、“史実”の今頃作られていたワクチンとは、効き目が全然違いますよ」

「なるほど、それなら納得致しました」

 斎藤さんが私に向かって一礼した。

「だな」

 力強く頷いた兄は、御学問所にいる1人1人の顔に、じっと視線を注いだ。

「また冬が来て、インフルエンザは流行してしまうだろう。しかし、冬が来れば必ず春が来るように、インフルエンザも制圧される時が必ずやってくる。それまで皆で心を(いつ)にして、この困難に立ち向かおう」

 兄の言葉に、一同は深く頭を垂れた。


 1919(大正4)年11月1日土曜日午後10時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸。

「なるほど、そんな経過で、特別大演習が中止になったのか」

 1階にある居間。長椅子に腰かけた私の隣には、横須賀の軍港にいる一等巡洋艦“八丈”から戻ってきてくれた夫がいた。居間で両親相手に気ままに喋っていた子供たちがそれぞれの寝室に引き上げて静かになると、栽仁(たねひと)殿下は特別大演習が中止になった事情を私に尋ねた。そこで、午前中の表御座所でのやり取りを、差し障りの無い範囲で彼に教えたのだ。

「確かに、陛下のおっしゃる通り、国民が過度に傷つくことは避けなければならないね。本当に、陛下は国民のことを思われているなぁ……」

 感動したように何度も頷く栽仁殿下に、

「それより、特別大演習の中止が知らされて、横須賀の艦隊の反応はどうだったの?」

と私は尋ねた。万が一、艦隊が激しく動揺している、ということであれば、国軍大臣の山本さんに念のため知らせておかなければならない。

「上層部に動揺は無かったね。以前から、インフルエンザが蔓延した場合は、特別大演習は中止になると通達されていたし」

 私の考えを知ってか知らずか、栽仁殿下は詳しく答え始めた。「ただ、兵卒や下士官は暗い反応が多かったかな。“また冬のような、辛い日々が続くのか”とため息をついている人が多かった」

「そっか……」

 心がズキンと痛んだ。“また冬のような辛い日々が続くのか”……その言葉で、思い出してしまった。今年のお正月が明けてすぐに緊急事態宣言が出されてしまって、今、私の隣に座っているかけがえのない夫と、4か月も離れて暮らさざるを得なかったことを。

「梨花さん……?」

 怪訝な顔をした栽仁殿下の胸に、私は黙ってもたれかかった。

「どうしたの?」

 夫の両腕が、優しく身体に回される。心配そうに顔を覗き込んだ栽仁殿下に、

「思い出しちゃったのよ。緊急事態宣言が出たら、また(たね)さんと離れ離れになっちゃうって」

と答えて、私はうなだれた。

 すると、

「それは僕もだよ」

頭上から、栽仁殿下の重い声が降ってきた。

「お互い、離れていても、心はそばにある。そう分かってはいるけれど、梨花さんをそばで守って支えることができないのはとても辛いんだ」

 顔を上げると栽仁殿下と目が合った。彼の瞳は、夜の深い海のように、暗い光を湛えている。居ても立っても居られなくなって、私は身体を少しひねると、夫の身体にしがみついた。

 ……どのくらいそうしていたのだろうか。私の身体を優しく抱き締めていた栽仁殿下が、

「ね、梨花さん」

と私を呼んだ。

「あと何日したら、東京府や神奈川県に緊急事態宣言が出るかな?」

「……正直、分からないわ」

 私は頭を横に振った。

「大演習が中止になったから、神戸のインフルエンザが東京に到達するまでの時間は長くなったはずよ。でも、外国からの船は、東京にも横浜にもやって来る。だから、いきなり東京でインフルエンザが流行し始める可能性もゼロじゃないわ」

 私が回答を追加すると、

「うん、ありがとう、よく分かった」

と頷いた夫は、

「ねぇ、梨花さん。この冬は、少しでも楽しく過ごす工夫をするといいんじゃないかと思うんだ」

と私に言った。

「少しでも楽しく過ごす工夫?」

「うん。緊急事態宣言が出たら、僕たち、また離れて過ごさないといけないし、人が集まるような場所に出かけて楽しむことができないから、梨花さんの言う“ストレス”がたまりやすくなると思う。確か、3月の上旬に梨花さんがくれた手紙に、“ストレスがたまっておかしくなりそうだ”という文章があったけれど」

 栽仁殿下の言葉に、私は黙って頷いた。確かに、井上さんがインフルエンザで亡くなる直前、兄にストレスがたまっていると指摘されて、皇居の中にある江戸城の遺構を兄と2人で見て回ったこともあった。

「前に梨花さんから聞いたことがあったけれど、ストレスがたまると、集中力が切れやすくなったり、気分が落ち込みやすくなったりするんだよね?そうなってしまったら、僕も梨花さんも、お役目がきちんと果たせなくなる。だから、ストレスをためないように、少しでも楽しく過ごす工夫が必要なんじゃないかな」

「……理に適っているわね」

 私は夫に微笑んだ。

「行動が制限されている分、どうしても緊急事態宣言中は気分が滅入っちゃうわ。……そうね、今度の冬は、少しでも、ストレスを解消するような過ごし方をしてみるわ」

「その意気だよ」

 栽仁殿下の瞳が優しく輝いた。「僕も緊急事態宣言が解除されるまで、少しでも、楽しく過ごせるように心がけてみるよ。でも……」

 栽仁殿下は思わせぶりなところで、言葉を途切れさせる。首を傾げた私の身体を、彼はもう一度抱き締めて、

「まだ緊急事態宣言は出ていないから、それまでは、梨花さんと子供たちに会える機会を、1回1回、大切に過ごさないとね」

と、私の耳元で囁いた。

「そうね」

 私は夫にこう応じると、とびっきりの微笑みを向けた。

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