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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第66章 1919(大正4)年春分~1919(大正4)年霜降
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御進講

※章タイトルを変更しました。

 1919(大正4)年10月24日金曜日午後3時、皇居・表御座所にある兄の執務室・御学問所。

「本日は、このような機会を与えていただき、誠にありがとうございます」

 兄の前には、黒いフロックコートを着た4人の男性が立っている。厚生大臣の後藤新平さん。東京帝国大学医科大学内科学教授の三浦謹之助(きんのすけ)先生。国立医科学研究所所長の志賀(しが)(きよし)先生。そして京都に本部を置く世界保健機関(WHO)の事務局長・北里柴三郎先生。日本を代表するインフルエンザの専門家が、この御学問所に勢揃いしていた。そして今、北里先生が、兄に緊張した声で言上したところである。

「うん、今日はよろしく頼む」

 兄は4人にそう挨拶したのだけれど、次の瞬間、脇に立つ私を振り返り、

「梨花、今日、野口はいないのか?」

と私に尋ねた。

「駄目よ、あのセクハラ野郎は」

 私は首を横に振りながら答えた。「あの人、私が皇族だと知っていても、私に抱きつこうとするのよ」

「梨花さまのおっしゃる通りでございます」

 私のそばに立つ大山さんも私に加勢する。

「陛下、この場に野口がいると仮定して、野口が梨花さまに抱きついたならば、陛下はどうなさいますか?」

 大山さんがこう尋ねると、兄は暗い表情になり、

「……平常心を保っていられる自信がない」

と答えた。

「そばに刀があれば、間違いなく野口を斬ろうとしている」

「でしょう」

 私はため息をつきながら兄に応じた。「だから、野口さんはこの御進講に呼ばなかったのよ。もちろん、彼はとても優秀なのだけれど」

 私の言葉に、

「誠に申し訳ございません。その悪い癖さえなければ、本日の御進講にも、野口を連れて参ったのですが……」

と言いながら、志賀先生が兄に向かって頭を下げた。インフルエンザに感染した人の鼻汁を細菌を通さないフィルターで濾過して得られた液を、ブタの鼻腔に注入すると、ブタが発熱する……その実験で、細菌よりも小さな病原体でインフルエンザが感染すること、そして、インフルエンザの動物実験にブタが使えることを証明した野口さんは、日本の、いや、世界のインフルエンザ研究の第一人者であることは間違いない。……人格には問題があるけれど。

「あと、野口の共同実験者の女性がいただろう。ほら、梨花の昔馴染みの……」

「エリーゼのことね」

 更に尋ねた兄に、私は先回りして回答した。

「エリーゼがそばにいないと、野口さん、暴走するのよ。だから、野口さんのそばに彼女がいないと大変なことになるの」

 本当の理由は少し違う。かつてロシア皇帝の暗殺計画に加わり、日本を訪れた廃帝ニコライを爆殺しようとしたエリーゼことヴェーラ・フィグネルを、念のため、兄に近づけたくなかったから、この場には呼ばなかったのだ。とは言え、ヴェーラは皇族である私と平気で会っているのだから、もはやそんな心配は必要ないのかもしれない。ただ、その辺りの事情は北里先生も三浦先生も志賀先生も知らないので、彼らもいるこの場では、こうやってごまかすしかないのだ。

「む……ならば仕方ない。早速講義を始めてもらうことにしよう」

 頷いた兄は、私と大山さんに、御進講の準備を整えるように命じる。人数分の椅子を運び入れた後、御進講用に物置部屋に置いてある移動式の黒板を私と大山さんがセットすると、

「では、只今より、昨年から現時点における、世界での新型インフルエンザの動向についてご説明申し上げます」

北里先生が黒板の前に立って一礼した。

 アメリカやヨーロッパ、そして日本では、春の訪れとともにインフルエンザの感染拡大が沈静化していった。しかし、その後も、冬に向かいつつあった南半球の諸地域や、新型インフルエンザ拡大前にインフルエンザの侵入を許したことの無かった太平洋の島々などで、新型インフルエンザは猛威を振るっていた。

「……そのような地域で感染を広げていたインフルエンザのウイルスは、いずれは日本をはじめとする北半球の諸国に侵入します。また、日本国内でも、インフルエンザウイルスが、“夏かぜ”として残存している可能性もございます。そのようなウイルスが、この冬、再び日本で広がる可能性は非常に高いです」

 北里先生がここで一度話を締めると、メモを取りながら話を聞いていた兄が、

「新型インフルエンザが蔓延する前は、インフルエンザの侵入を許していなかった地域があるのか。検疫をやっていたのだろうかとも思ったのだが、梨花が以前、検疫は完璧な対策ではないと話したことがあった。それではなぜ、インフルエンザの侵入を許さない地域ができたのだ?梨花の話したことと、矛盾しているようにも思われるが……」

と質問した。

「そのような地域では、かつて我が国が行っていた鎖国と同じ状況ではないにしろ、他の地域との交流が無かったということが要因としてあるのだろうと考えられます」

 北里先生は慌てずに回答を始めた。

「しかし、時代が進むにつれ、交通機関が発達しました。そのため、今まで周囲から隔絶されていた地域でも、他の地域との交流が盛んになりました。その影響で、新型インフルエンザの侵入を許してしまったのだろうと推測されます」

「なるほど、よくわかった。交通手段が今よりもっと発展している梨花の時代なら、そういったことが、もっと起こりやすくなるのだろうな」

 兄は頷くと、「ありがとう、話を続けてくれ」と北里先生に声を掛けた。

「南半球にあるオーストラリアでの、9月末までの新型インフルエンザによる死亡率は約1.4%です。我が国の流行第1波での感染者数は約210万人、死者はその約1.5%の3万1498人ですから、新型インフルエンザウイルスの病原性の強さは、時間が経ってもあまり変化が見られないという結論になります。ですから、日本でこれから起こるであろう流行第2波では、第1波と同じか、それ以上に強い病原性を持つウイルスが流行すると考えるべきでしょう」

 北里先生はここまで説明すると、「では、続いて志賀から、現在新型インフルエンザに取り得る医学的な手段について説明いたします」と言って、志賀先生に説明を交代した。

「医学的な手段……?それは、熱が出たらアセトアミノフェンを飲むとか、水分も摂取できなくなったら点滴をするとか、そういうことか?」

 そう言って首を傾げた兄に、

「只今陛下がおっしゃったことは、症状を軽減するための治療……対症療法と呼ばれる治療でございます」

北里先生に代わって立ち上がった志賀潔先生が答えた。

「もちろん、それも患者の体力を維持するために必要な治療でございますが、インフルエンザの場合、症状を引き起こす原因を取り除く治療とはなりません」

「なるほど。では、インフルエンザの場合、症状を引き起こす原因を取り除く治療はあるのか?梨花と井上伯爵がインフルエンザに感染した時も、志賀先生の言う対症療法しかされていなかったと思うのだが……」

「兄上、よく分かったわねぇ」

 志賀先生に鋭い質問をした兄に私はこう返した。「医療従事者以外で、その辺りを分けて考える人は少ないわよ」

「そりゃ、医者になりたいという妹と、小さい頃から一緒に暮らしていたからな。門前の小僧習わぬ経を読む、という奴だよ」

 兄が少し得意げに答えると、

「インフルエンザを取り除くために医学的な手段として取り得る方法の1つは、血清療法でございます」

志賀先生が兄に軽く一礼して説明を始めた。

「人間やウシ、ウマなどの身体に病原体が侵入すると、動物は抗体と呼ばれるものを作り、病原体に打ち勝とうとします。その抗体は、血液の成分である血清に含まれますので、患者と同じ感染症にかかり、回復途上にある人間から供血してもらい、その血液から血清を取り出して患者に注射します」

「血清療法は、北里先生とベーリング先生が発見したのよ。私の時代でも残っているの。エボラ出血熱の治療にも使われて……」

 私が横から補足説明をしようとした時、私の首筋に、鋭い視線が突き刺さった。「梨花さま」という、少しだけ怒気を含んだ声もする。恐る恐る振り向くと、我が臣下が、引きつった笑顔を私に向けていた。

「梨花さま、悪い癖が出ましたよ」

 よく見ると、大山さんの口元は笑っていたけれど、目は笑っていなかった。

「お好きなことに夢中になり過ぎること……それは、梨花さまの悪い癖でございます。時には一歩引いて、冷静な気持ちを取り戻すことも肝要と、昔から申し上げておりますが……」

「わ、分かった。これ以上、この場では話さないように努力するから、許してちょうだい」

 私が椅子から慌てて立ち上がって大山さんに最敬礼すると、

「助かったぞ、大山大将」

兄がホッとしたように言った。「流石に、梨花の時代の医学のことまでは分からないからな。えぼ……何とかと言われた時は、正直どうしようかと思った」

 と、

「恐れ入りますが、大山閣下」

後藤さんが右手を挙げながら声を掛けた。

「何ですかな?」

「大変申し訳ございませんが、内府殿下に対するお怒りを鎮めていただけないでしょうか」

「おや、後藤さん。この程度の怒りなど、日常茶飯事でございますよ」

 怒りを静かに放ちながらこう返した大山さんに、

「いや、確かにその通りでございますし、我輩は慣れてはいるのですが、他の方々が、その……」

後藤さんはそっと黒板の方を指し示す。黒板の前に立った志賀先生は、引きつった顔で身体を小さく震わせている。三浦先生の顔は真っ青になっていたし、北里先生も、座っている椅子を大山さんから遠ざけるように動かしている。

「これは失礼いたしました」

 大山さんは先生方に一礼する。上げたその顔には柔和な微笑が湛えられていて、怒気は微塵も感じられなかった。

(大山さん、慣れてない人に怒っているのを見せたらダメだよ……)

 私が心の中でダメ出しをしたのと、

「……さて、このインフルエンザに対する血清療法は、日本をはじめ、世界各国で重症患者に対して試みられていますが、効果があったという明確な結論を出すに至っておりません」

恐怖から立ち直った志賀先生が説明を再開したのとは同時だった。

「それは、インフルエンザが重症化する機序にあります。インフルエンザの重症患者の多くは肺炎を合併しますが、その肺炎はインフルエンザウイルスによって起こるものと、別の何らかの細菌が2次的に感染して起こるものに分けられます。そして、後者の肺炎に関しては、原因菌が多数ございます。血清療法というものは、同一の病原体に対して作られた抗体を使わなければ効果がございませんから、2次的な肺炎に関しては、インフルエンザウイルスではなく、2次的感染を引き起こした細菌に対する抗体を使わなければなりません。ところが、各国からの報告……特に、野口がインフルエンザの病原体が濾過性病原体、すなわちウイルスであると報告した今年5月までの報告には、そのあたりのことに配慮したものがほとんどありませんでした。これではせっかくの血清療法も意味がなくなってしまいます」

「志賀先生のお話に、臨床側から付け加えますと、現場では2次性に引き起こされた肺炎の原因の細菌はある程度種類を同定できますが、その同じ細菌で肺炎を起こし、治りかけているという人を見つけ出すのが非常に難しいのです。井上伯爵の御病気の際も、もちろん、血清療法は検討しましたが、条件に合う血清提供者を見つけ出すのが間に合いませんでした」

 三浦先生が横から付け加える。確かに、私の時代のようにコンピュータやインターネットが発達していて、リアルタイムに稼働する患者登録システムがあれば、条件に合った人間をすぐに見つけられるだろうけれど、人力では限界がある。

「そうか。……血清療法というものは、インフルエンザでは難しいと考えていいのかな」

「それでいいと思うわ」

 確認した兄に、私はこう答えた。「本当は、言いたいことがたくさんあるけれど、大山さんが怖いからやめておくわ」

 私の言葉に、大山さんが黙って首を縦に振る。兄は「是非そうしてくれ」と私に真面目な顔で言った。

「……そして、医学的に取り得るもう1つの手段は、ワクチンでございます」

 志賀先生は更に説明を続けた。

「まだ電子顕微鏡が完成しておりませんので、ウイルスそのものの構造を特定することはできません。しかし、インフルエンザに感染した人間の鼻汁の濾過液を遠心分離して、ウイルスが含まれている分画を特定することはできました。その分画を、ニワトリの有精卵の尿膜腔(にょうまくくう)に注射してワクチンを製造します」

「ニワトリ……?」

 説明を聞いた兄が首を傾げた。「なぜニワトリの卵を使うのだ?感染の実験をしていたのはブタだろう?」

「実は、内府殿下の未来の知識によるものでして」

 兄の疑問に、志賀先生が一礼して答えた。

「精製に時間が掛かってはいますが、手ごたえはあります。これなら、来年の春には、臨床試験が可能になるでしょう」

「ま、順調に行けば、の話なのだけれどね」

 私はそう言って肩をすくめた。「私の時代では、食用として流通しているのはほとんどが無精卵だけど、この時代だと、有精卵も普通に流通しているから助かるわ。とりあえず、医科研で研究に使っている有精卵は、黒田さんの養鶏場から仕入れているの」

「梨花さま」

 大山さんが横から私を軽く睨む。さっきのように、先生方が怯えてしまっては大変だ。私は慌てて口を閉じた。

「志賀先生、日本国民にワクチンを実際に供給できるのは、いつ頃になるだろうか?」

 兄の再びの質問に、

「すべてがうまく行けば、来年の秋ごろになると思われます」

志賀先生はこう答えた。

「なるほど。……では次の冬は、また感染抑制政策を取って、感染者の数をできるだけ減らすようにするしかないな」

 ため息をついて言った兄に、

「その通りだね」

と、私もため息をつきながら応じた。

「去年のように、新興感染症特別措置法を使うしかない。でも、ドイツのように、人心が荒んでしまうような結果にしてはいけないわ。その辺りも踏まえて、現行の法律でいいのか、改正が必要なのか、大至急考えないとね」

「内府殿下のおっしゃる通りでございます」

 後藤さんが最敬礼すると、私と兄は顔を見合わせて頷き合う。どうやら、次の冬も、辛く、長いものになりそうだった。

※「濾過性病原体=ウイルス」という表現は厳密に言えば違うのですが、話を分かりやすくするためにこう表現しています。ご了承ください。


※有精卵と無精卵云々……ですが、この時代、有精卵と無精卵が食用としてそれぞれどのくらいの割合で流通していたのかを示す資料を見つけることができませんでした。ただ、『採卵養鶏法』(長谷川幸成 磯部甲陽堂,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/954582)を見ると、「食用卵は無精卵でも差し支えなし」と書いているので、有精卵も普通に食用として流通していたと思って書いています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 豚から鶏に変えることで、イスラム圏にも広げられますね。
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