帰ってきたライオン
1919(大正4)年10月4日土曜日午前10時15分、皇居・表御座所にある兄の執務室・御学問所。
「そう緊張するな、浜口次官」
黒いフロックコートをまとい、ゆったりと微笑む兄の前には、同じく黒のフロックコート姿の男性が、顔を強張らせて立っている。オスマン帝国の立て直しのため、一昨年から現地に派遣されていた浜口雄幸さんである。ちなみに、週明けからは大蔵次官に就任することが決まっていた。
「確かに、浜口次官の前にいるのは、天皇に皇太子、そして内大臣に宮内大臣と、錚々たる顔ぶれではあるだろう」
兄は穏やかな声で話しながら、御学問所の壁際に控えている迪宮さまと私、そして山縣さんを順番に見つめる。巡航を無事に終え、7月に東宮御学問所を卒業した迪宮さまは、9月から土曜日の午前中、兄の政務を見学するようになった。
「……しかし、浜口次官がオスマン帝国に出発する前にも、わたしたちは梨花会で一緒に議論をした仲なのだ。だから、遠慮する必要は全く無いのだぞ」
一生懸命、浜口さんの緊張を解きほぐそうとする兄に、
「兄上、それ無理かも」
私は冷静にツッコミを入れた。
「すぐそばに大山さんがいるのよ。浜口さんと幣原さんが梨花会に入った時の経緯、忘れたの?」
私がこう言うと、私の後ろに控えていた内大臣秘書官長の大山さんが声も無く笑う。獲物を狙う獣のような獰猛さを漂わせた我が臣下を見て、厳めしい獅子のような風貌の浜口さんが、一瞬、身体を震わせた。
「……確かにそうだったな」
兄はため息をつくと、椅子を何脚か御学問所に運び込むよう、私と大山さんに命じる。全員分の椅子をセッティングすると、私たちは約2年ぶりに日本に帰国した浜口さんを囲み、彼の話を聞いた。
「いや、本当に大変でした」
報告の最初に浜口さんはこう言った。
「財政再建なら私の専門分野ですが、国内の産業発展、更にはオスマン帝国の行政改革もしなければなりませんでしたから。しかし、何とか目途がつきました。国際連盟での軍縮会議もうまく行きましたから、オスマン帝国の軍事費を更に減らすことが可能になり、返済期限が迫っていた外債を返済してもなお余裕がある財政状況となりました。アラビア半島での石油の採掘も軌道に乗り、ヨーロッパ方面……特にドイツ・オーストリアへの販売も順調です。その他の国内産業も、少しずつ成長してきています。行政改革は、文字通り多大な出血を伴いましたが、そちらも成功しました。これなら、オスマン帝国は我が国の助けがなくてもやっていけるでしょう」
「それはよかった」
ほっとしたような表情で頷く兄に、迪宮さまが「はい」と相槌を打つ。私も黙って首を縦に振った。
「コンスタンティノープル、それにトロイやバビロンの遺跡にも、欧米からの観光客が訪れ始めました。3か所とも、来年、皇太子殿下がご訪問なさるとのこと……きっと、ご訪問の時にはお楽しみいただけることと存じます」
浜口さんの言葉に、迪宮さまは顔を輝かせ、
「梨花叔母さまから初めて話を聞いた時から、コンスタンティノープルも、トロイやバビロンの遺跡も、機会があれば是非見学したいと思っていました。もちろん、それだけではなく、オスマン帝国と我が国との友好関係が、より一層深まるように努めたいと考えています」
と、非常に立派な答えを返した。
「浜口さん、これで、オスマン帝国は列強に狙われることは無くなったのでしょうか?」
私が浜口さんに尋ねると、
「……少なくとも、大きな危機は去ったと考えます」
浜口さんは言葉を選びながら話し出した。
「ただ、不安材料が1つだけありまして……」
「浜口、いったん話を止めてくれ」
更に話そうとした浜口さんを、山縣宮内大臣が制した。
「申し訳ございません。山縣閣下のご不興を買ってしまったでしょうか。この話は、ここで止めに……」
慌てて頭を下げる浜口さんに、「いや、そういうことではなくてな」と山縣さんは応じると、
「皇太子殿下に考えていただこうと思ったのだ」
と言って、迪宮さまの方を見た。
「本当に、卿らは容赦がないな」
苦笑いした兄は、
「……ということらしいから、その、オスマン帝国が列強に狙われる可能性について、裕仁、考えてみてくれ」
自分の隣の椅子に掛けた長男に優しく命じた。すると、
「オスマン帝国内に、列強に狙われるような不安材料は現時点では無いように思います。強いて言えば、オスマン帝国の隣国、特にブルガリア公国については不安が残ります。前ブルガリア公のフェルディナントがブルガリアを追われた経緯から考えても……」
迪宮さまの口から、すぐに立派な回答が飛び出した。嬉しそうな表情になり、口を開こうとした浜口さんに、
「いけませんなぁ、浜口君。皇太子殿下には、もっと答えていただかなければなりませんのに」
大山さんが注意を与える。途端に、浜口さんは顔を強張らせ、唇を真一文字に引き結んだ。「申し訳ございませんでした、皇太子殿下。さぁ、続きをどうぞ」と大山さんが声を掛けると、
「前ブルガリア公が、己の欲望のためにドイツの皇族を殺そうとしたことで、ブルガリアの与党はドイツから強い圧力を受けています」
迪宮さまは回答の続きを再開した。
「一方、ブルガリアの野党は、ブルガリアのクーデターの件でも分かるように、イギリスの工作を受けています。また、オスマン帝国からドイツ・オーストリア方面へ石油を運ぶ鉄道は、ブルガリアを通っています。ですから、もし、イギリスがドイツへの石油輸送を妨害しようと考えれば、ブルガリアの野党勢力が政権を握ればその成功率が上がります。当然、その程度のことはドイツも考えているでしょうから、それを防ぐために、ブルガリアへの監視や介入を強めているでしょう。つまり、ブルガリアの国内で、ドイツとイギリスは、ブルガリアの与党と野党をそれぞれの駒として戦っているとも言えます。その対立が激化し、万が一、双方武器を持ち出すような事態に陥ってしまえば、ブルガリアの隣国であるオスマン帝国も、何らかの形で騒乱に巻き込まれてしまうかもしれません」
「あ、あの、山縣閣下、大山閣下、皇太子殿下のお答えが余りにも素晴らしくて……そろそろ、私からお話申し上げてもよろしいでしょうか?」
感激の面持ちでお伺いを立てた浜口さんに、
「まぁ、これならよいかな」
「ええ、俺もそう思います、山縣どの」
厳しいお目付け役の2人が許可を出すと、
「まさに皇太子殿下のおっしゃる通りの背景で、ブルガリアでは与野党の争いが激化しております。新しくブルガリア公となったボリス3世も、何とか過激な争いを抑えようと奮闘なさっていますが、まだ25歳と若い上に、即位までに政治の経験が全くなかったこともあって、相当ご苦労なさっておられるようです」
浜口さんは迪宮さまにこう言って、深く頭を下げた。
「なるほどねぇ……」
私は大きなため息をついた。
「オスマン帝国が落ち着いたと思ったら、今度はブルガリアか。ブルガリアが何とかなったら、今度は別の国や地域で、ドイツとイギリスの争いが起こるでしょうね。戦争の火種っていうのは、どこにでもあるわ」
しかし、火種を大火事にしないためには、火種を1つ1つ消していく必要がある。火種が燃えやすいものに引火しないよう、燃えやすいものを処分したり、火種から燃えやすいものを遠ざけたりすることも大切だ。世界大戦を起こさないためにも、地道に少しずつ、紛争の解決や軍縮に取り組んでいかなければならない。私はその思いを新たにしたのだった。
「ところで……」
私たちに一通り報告を終えた浜口さんは、迪宮さまをじっと見つめた。
「幣原からちょくちょく手紙で知らされておりましたが、私が日本を離れている間、皇太子殿下が本当にご立派にご成長遊ばされて……私、感激いたしております」
すると、
「そうか、浜口次官の目にもそう見えるか」
兄が嬉しそうに首を何度も縦に振りながら言った。「先月からは、赤坂御用地の東宮御所……元々、わたしが皇居に引っ越すまでに住んでいた御殿を改装して、1人暮らしを始めたのだ。そして、毎週土曜日に、わたしの政務を見学に来てくれる。時折投げかけられる山縣大臣と大山大将の難しい質問にもちゃんと答えられて……本当に、裕仁は立派に成長したよ」
「お父様、僕はまだまだ、学ばなければいけないことがたくさんあります」
兄の隣に座っている迪宮さまが頭を左右に振った。
「1つ1つの知識が、きちんとつながってはいないのです。僕の実力は、梨花叔母さまの足元にも及びません」
「迪宮さまの力量は、私をとっくに超えていると思うわ」
私は苦笑して甥っ子に答えた。「自分を卑下し過ぎると、爺たちに怒られちゃうわよ。“内府殿下の悪い癖を真似てはいけません”って」
「そうはおっしゃいますが、叔母さま」
迪宮さまは珍しく不満げな口調になった。「叔母さまは、僕がこの御学問所でお父様のご政務を見学しているところや、ご政務の合間に爺たちに質問されているところをご覧になっていないではないですか。それなのに、ご自身の才が僕に劣っていると断定なさることはできないと思います」
「……これは、やられたわね」
「だな」
ため息をついた私に、兄が悪戯っぽい笑みを向ける。山縣さんと大山さんもくすっと笑った。
「あ、あの、内府殿下が、皇太子殿下がご政務のご見学をなさっているところをご覧になっていない、というのは、一体どういうことでしょうか?内府殿下のご勤務場所は、この御学問所のはずですが……」
1人、浜口さんだけは事情を飲み込めず、不思議そうな表情で一同に尋ねた。
「実は、迪宮さまが政務を見学している時、私、御学問所から出て行かされているんです」
私は浜口さんに事情を話し始めた。
「もちろん、朝、既定の時間に出勤はしますけれど、迪宮さまと入れ替わりで御学問所を出て、皇宮警察の武道場で師匠……じゃない、東宮武官長の橘さんに剣道を教わるのです。今日、浜口さんが来る前も、剣道の稽古をしていました」
「はぁ……それはまた、いかなるわけで……」
「私が見学の時に迪宮さまのそばにいたら、迪宮さまに甘くしてしまう、とこの人たちに言われて、引き離されているのです」
私は浜口さんに答えると唇を尖らせ、大山さんをじっと見つめた。
「まったく、叔母としては、可愛い甥っ子の成長を肌で感じたいのに……これじゃ楽しみがないですよ」
「だからこそ、でございますよ」
私の視線を受けながらも、大山さんは全くたじろぐことなく私に言い返した。「陛下お1人の妨害ならば、俺と山縣さんだけでも何とかなりますが、梨花さまもそこに加わってしまえば、流石に手が回りかねます。皇太子殿下は次代の帝におなり遊ばす方でございます。だからこそ、全力で鍛えなければ……」
「妨害とは、言うなぁ」
兄が苦笑いを顔に浮かべると、大山さんが「失礼いたしました」と兄に最敬礼する。その一方、
「相変わらずですなぁ」
浜口さんは顔を強張らせていた。
「そう言えば、ジュネーブの軍縮会議に呼ばれた時、堀という海兵大尉と山下という歩兵大尉が、山本閣下にこき使われていました。助けようかとも思ったのですが、以前の私と幣原が置かれた状況と似たものを感じまして、敢えてそのままにして、彼らの頑張りに任せていたのですが……」
と、
「それで正解だよ、浜口」
山縣さんが真面目な顔をして頷いた。「あの2人は、一昨年の特別大演習で内府殿下が見出されてな。面白そうなので、我々のことは明かさずに鍛えているところだよ」
「山縣さん、見出したのは大山さんです。私を巻き込まないでください」
教育に関しては血も涙もない梨花会の面々と、私を一緒にしないで欲しい。私が山縣さんに抗議すると、
「何をおっしゃいますか、梨花さま。俺が見出したものは、すなわち、梨花さまが見出したものでございますよ」
大山さんが微笑してこんなことを言った。
(いや、その理屈はおかしいってば)
私が心の中でツッコミを入れた時、
「そうだな、教育は大事だな」
兄がしみじみと呟いた。
「わたしは、梨花会の中で考えると、まだ若い方だ。だからつい、自分は教育を受ける側なのだ、鍛えられる側なのだと思ってしまうが、わたしも自分より下の世代を育てることを考えなければならない」
「そうね」
私は兄の言葉に頷いた。
「まだまだ鍛えられる側だろうと思っているけれど、そろそろ、私自身が人を育てることを考えないとね……」
「その意気でございます、梨花さま」
大山さんが私の横で微笑した。「国家のため、優秀な人材を育てることは、梨花会の大事な役目でございます。是非、俺たちが梨花さまと陛下をお育て申し上げたように、梨花さまも次世代の優秀な人材をお育てになってください」
「……手法を全て真似るかは考えさせてほしいけれど、何とかやってみるわ」
私は、スパルタ主義の臣下にこう答えると、
「でも、だからと言って、大山さんたちの役目が終わったわけじゃないのよ」
と言って、じっと彼を見つめた。
「私たちの育て方に、言いたいこともあるでしょう。それに、あなたたちだって、私たちのことを、まだ鍛え足りないと思っているはずよ。だから、私、今の医学の技術と、未来の医学の知識を駆使して、あなたたちの寿命を全力で伸ばすからね」
「ほう……ならば、まだまだ俺も、若い者たちを鍛え上げなければなりませんな」
私の言葉を聞いた大山さんがニッコリと笑う。その満面の笑みを見た浜口さんは、再び身体を震わせた。




