閑話 1919(大正4)年夏至:極東の偶像(アイドル)
1919(大正4)年7月5日土曜日午後7時、イギリス・ロンドンのダウニング街10番地。
「……以上が、ジュネーブにおける、秘密情報部と黒鷲機関との話し合いの結論です」
イギリス首相官邸内にある会議室には、現在の首相であるハーバード・ヘンリー・アスキスの他、20人の大臣が揃っている。彼らの前で報告をしたのは、イギリスの諜報機関・秘密情報部の長官であるジョージ・テイラーである。数年前に秘密情報部が発足した時からのメンバーである彼は、オスマン帝国の任務を皮切りにヨーロッパ各地で諜報活動に従事していたが、今年の春に秘密情報部の長官に抜擢されたのだった。
「そして、お配りしたのが、ドイツとの間で最終的に合意した、保有を認められる主力艦のリストですが……読み上げなくてもよろしいでしょうか?」
テイラー長官が一同にお伺いを立てると、
「ああ。何遍も聞かされたから、もううんざりだ。暖炉に放り込みたいくらいだな」
海軍大臣のウィンストン・チャーチルが大げさに肩をすくめた。3日前までスイスのジュネーブで開催されていた軍縮会議に、彼は大蔵大臣のデヴィッド・ロイド・ジョージとともにイギリス代表として出席していた。
「ご苦労、下がっていいぞ」
アスキス首相が鷹揚に命じると、秘密情報部の長官は一礼して会議室を後にする。するとすぐに、
「しかしまぁ、フランス人どもがあんなに簡単に黒鷲機関の策に引っ掛かるとは」
外務大臣のエドワード・グレイが呆れたような声で言った。
「どうやら、お高く止まっている連中は、謀略の防ぎ方というものを知らないらしい」
通商大臣のジョン・バーンズが皮肉を口にすると、
「……ただ、それを理由に、ドイツに悪戯を仕掛ける必要は無かったように思うがね」
返す刀で、チャーチル海軍大臣に棘のある言葉を放つ。
「仕掛けられたら、仕掛け返さなければ無作法というものでしょう」
チャーチル海軍大臣は15歳以上年上の通商大臣に、ふてぶてしく答えた。「確かに、黒鷲どもは野党を扇動しようとしておりました。ただ、あれは扇動に乗ってしまった野党が愚かなだけです」
「野党の連中が愚かなのは間違いないがね、しかし、あの日本の代表を補佐していた男が、なかなかのやり手だったというのも誤算だったな」
ロイド・ジョージ大蔵大臣がそう言って顎をしゃくった。「フランス代表団も、ドイツ代表団も、あの男の説得にやられてしまった。それで、我が国は弩級戦艦の“ドミニオン”を、ドイツは巡洋戦艦の“フォン・デア・タン”を廃艦にせざるを得なくなったのだ。確か、浜口雄幸、とか言ったが……」
すると、
「やり手なのは当然だ。その浜口という男、例の最高会議のメンバーらしいからね」
アスキス首相が顔に苦笑いを浮かべながら情報を投げる。すると、出席者一同から、「ああ……」「それは仕方ない」という声が漏れた。チャーチル海軍大臣も、
「なるほど、あの青いバラ絡みですか。それなら納得がいく」
と呟きながら深く頷いた。
日本では、月に1度ほど、与野党の幹部や閣僚を集めた最高意思決定会議が皇居で開催されるらしい……これは、秘密情報部が創設されてから分かったことだ。会議の中心にいるのはもちろん天皇であるが、そのそばには皇太子、そして、今は内大臣に就任している章子内親王が必ずいる。その最高会議で国の政策の方向性が定められているようなのだが、それ以上の詳しい内容は、日本の諜報機関・中央情報院(Central Intelligence Agency)の妨害もあって窺い知ることはできない。しかし、それに出席している人物なら、間違いなく一流である。
「……だが、今回の軍縮会議は前座にしか過ぎません。本番は、5年後の軍縮会議です。そこでいかに我が国の老朽艦を減らし、ドイツの主力艦を減らすか、それが大事です」
チャーチル海軍大臣が力強く一同に言うと、
「おや、君は、国際連盟が5年後にも存続していると思っているのかい?」
グレイ外務大臣が皮肉めいた口調で海軍大臣に尋ねた。
「少なくとも、陸奥男爵とドイツの皇帝が健在ならば存続しているでしょう」
チャーチル海軍大臣は落ち着いて返答する。「あの組織は、陸奥男爵の外交力と、ドイツの皇帝の章子内親王への異常な執着心で存続しているもの。もちろん、2人とも天に召されれば瓦解する可能性もありますが、陸奥男爵の部下の、あの人を食ったような事務局次長が、そう簡単には国際連盟を崩壊させてくれないでしょう。ですから、5年後もあるものと考えて動く方がよいかと」
「陸奥男爵の化け物じみた外交力と、皇帝の偶像への盲目的な信仰の上に成り立つ砂上の楼閣が、ねぇ……」
アスキス首相はそう言って紅茶を一口飲むと、唇の端に微笑を閃かせ、
「国際連盟の危うさを、祀り上げられた偶像自身は分かっているのかね?」
と一同に問いかけた。
「恐らくは。彼女は綺麗事を追求するだけの理想主義者ではありません。非常に現実的です」
ロイド・ジョージ大蔵大臣が首相の問いに答えると、
「確かに、ひたすら軍縮を叫び続けるような愚は犯していません」
グレイ外務大臣が彼の言葉を引き取って続けた。「例の“お見舞い外交”の時も、各国の使節に現実的な答えを返しています。軍縮に関する話し合いの場を存続させ、段階を経て各国の軍備を縮小させようと考えているようです。小娘にしては、意外としたたかですね」
「単に、陸奥男爵と大山大将に操られているだけという可能性は?」
黙って話を聞いていたレジケルド・マッケナ内務大臣が、外相の発言に疑問を呈すると、
「いや、以前、ロシアのマカロフ海軍大将と話し合ったことがありますが、どうもそうではないようです」
チャーチル海軍大臣が横から答えた。
「チャーチル君の言う通りだね。得意分野に限られるだろうが、弁が立つ。それに、国王陛下がおっしゃるように度胸も持ち合わせている。少なくとも、我が国の忌々しい野党の連中よりは有能だろうよ」
ロイド・ジョージ大蔵大臣がチャーチル海軍大臣に同調する。かつて、日本を訪れて章子内親王と討論したことのある2人の意見に、居並ぶ一同も納得したように頷いた。
「極東の偶像か……」
会議室の上座に座るアスキス首相は、ティーカップを手にすると薄く笑った。
「偶像が偶像のままで終わるか、それとも本当の女神になって国際連盟が永久に続くか、それは誰にも分からない。ただ、偶像と国際連盟がこの世にある限りは、大英帝国のために徹底的に利用させてもらおうじゃないか」
首相の声に、会議の出席者たちが意地の悪い微笑を作る。国際連盟、そして国際連盟の旗振りで進められている軍縮を巡る各国の暗闘は、彼らにとってはまだ始まったばかりだった。




