泥仕合
※地の文のミスを訂正しました。(2023年6月18日)
1919(大正4)年5月10日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「それでは、本日の梨花会を始めます。本日は冒頭、陛下よりお言葉を賜ります」
司会役を務める内閣総理大臣の西園寺さんがやや畏まった口調で言うと、居並ぶ出席者一同が、玉座に腰かける兄に向かって最敬礼した。
「まぁ、大したことではないのだが、皆に聞いてもらう方がいいと思ってな」
黒いフロックコートを着た兄はそう言って微笑すると、
「裕仁」
長男の迪宮さまに優しい視線を向けた。
「はい」
私の向かいに座っている迪宮さまが、固い声で返事をする。先月の29日、満18歳の誕生日に成年式と立太子礼を済ませ、成年皇族の仲間入りを果たした彼の表情は強張っていた。
「お前もめでたく成人して、立太子礼も済ませた。7月には東宮御学問所を卒業する」
突然名を呼ばれ、緊張している迪宮さまの心を解きほぐすように、兄は穏やかな声で迪宮さまに話しかける。
「それで、御学問所を卒業したら、お前にやって欲しいことがいくつかあるのだ。……何、そんなに緊張しなくても、裕仁ならすぐにできることだ」
兄はそう前置きすると、
「俺は日本各地で様々な産業に従事している国民の暮らしぶりを見て、彼らを励ましたいと思っている。だが、天皇でもあるから、身軽に全国に出かけていくのは難しい。だから裕仁には、俺の代わりに全国を回って欲しい。見聞を広め、国民の生きざまに触れ、国民たちを励ましてもらいたいのだ」
と迪宮さまに優しく言った。
「はい、もちろんです。しっかりと務めを果たします」
迪宮さまはしっかりした声で答えると頭を下げる。それを見て満足そうに頷いた兄は、
「うん、それで、9月になったら、週に1回、俺の政務を見学に来て欲しいのだ。11月の特別大演習にも付いてきてもらいたい」
と迪宮さまに更に告げる。
「そりゃ、いいですのう」
「うん、皇太子殿下ならおできになるでしょう」
枢密顧問官の西郷さんや枢密院議長の黒田さんなど、梨花会の面々の口から好意的な反応が漏れる中、
「それで、来年の春には、世界一周旅行だ。自分の五感で、世界をしっかり味わってこい」
兄は迪宮さまにそう言って微笑んだ。
すると、
「お……恐れながら!」
迪宮さまが叫ぶように兄に言った。
「お父様が、おじじ様のご政務のご見学を始められたのは、ご洋行から戻られた直後だったと記憶しております。それに、お父様が特別大演習に参加なさるようになったのは、おじじ様が亡くなる2年前からでした。僕はまだ、成人したばかりです。そんな大切なお役目、僕が担うことができるのでしょうか?」
迪宮さまは完全に戸惑っていた。無理もない。今までに迪宮さまには、このことについて何の話もしていないのだから。
「ですから、ご政務の見学や、特別大演習への参加は、お父様がそれらを始められた年齢になってから始めたいです」
迪宮さまが声を励まして言うと、
「なるほど、確かに、そういう考え方もあるな」
兄は迪宮さまを怒ることはなく、穏やかに返答した。
「だがな、裕仁。俺はお前と同じ考えをして、とても後悔したのだ」
「え……」
「俺はお前のように優秀ではないから、お前のおじじ様について政務の実際を学んだり、大演習の統監について学んだりするのは、自分の中にある程度経験が積み上がってからでなければならないと思っていた」
更に困惑した迪宮さまに向かって、兄は優しく語り始めた。
「30歳を過ぎて、お前のおじじ様がしたことがない海外への渡航を経験させてもらって、これならお前のおじじ様のそばにいても恥ずかしくないだろうと思えるようになったから、政務の見学を始めた。だが、今は、もっと早く政務の見学を始めていればと後悔しているのだ」
兄は一度言葉を切ると、
「それはな、政務での頭の使い方が特殊だからだ」
と穏やかに言った。
「ただ書類に名を書くだけ……そう言ってしまえばそれまでだが、手元に提出された法案や勅令が、何に対して出されるものなのか、出された場合、国民にどういう影響が出るのか……。それを把握しておかなければ、責任を持って署名することはできない。そのためには、政府の内部はもちろんだが、議会での議論の内容、社会の情勢、国民の思い……いろいろなことを知って総合的に判断する必要がある。そんな頭の使い方は、実際に、お前のおじじ様のそばにいて、自分も政務をするつもりになって考えないと分からなかったのだ。今、天皇になって、梨花や山縣大臣などが助けてくれるから政務を執れているが、俺がもっと、おじじ様のそばで政務での頭の使い方を学んでいたら、梨花にも山縣大臣にも楽をさせてやれるのにと思うのだ。……大演習の統監に関しても同じだ。あれも、自分が統監するつもりで考えないと分からない」
「……」
「裕仁、お前が天皇になった時、俺はお前にそういう後悔はさせたくないのだ。だから、政務や特別大演習は、可能な限り早く見学して、実際を学んで欲しい。……大丈夫だ。お前は、基礎的な問題はきちんと解けているのだから、きっとついて行けるよ」
「陛下のおっしゃる通りでございます」
東宮御学問所総裁である伊藤さんが、迪宮さまに静かに言った。
「御学問所での御成績や、梨花会での御発言の内容も踏まえて考えますと、皇太子殿下が御政務の見学をなさることに問題はないと考えます。もちろん、最初は知識の不足などで、戸惑うこともあるかもしれませんが、それは後で学習をすれば済むこと。政務を将来お執りになるために、陛下のおっしゃる“頭の使い方”を学んでいただくのは、非常に有意義なことです」
伊藤さんの言葉を、迪宮さまは呆然として聞いている。そんな迪宮さまに、
「心配しないで、迪宮さま。迪宮さまが政務の見学をする日は、私もできるだけそばにいてサポートするから」
私はそう言って微笑んでみた。
「なりませんぞ、内府殿下。余計な手助けは、かえって皇太子殿下のご成長を妨げます」
横から松方さんが重々しい声で私を止めたけれど、
「でも、松方さん、最初にオリエンテーションぐらいはしておかないと、御学問所で何がされているかも分からないままで終わってしまいますよ」
流石にそれはないだろうと思ったので、私は反論を試みた。すると、
「確かに、梨花さまのおっしゃる通りです。いきなり御政務を皇太子殿下に見学していただくのは、出口の方向すら教えられずに暗闇の中に放り込むようなもの……」
私の隣に座る大山さんが私に同調した。
(珍しいなぁ……。大山さん、スパルタ教育はやめる方向に切り替えたのかしら?)
私が訝しく思っていると、
「ですから、ご見学の初日に、梨花さまからごく簡単なご説明を皇太子殿下にしていただきましょう。その後、俺たちの方で、皇太子殿下のご教育を徹底的にさせていただいて……」
我が臣下の口からはこんなセリフが飛び出した。
(やっぱりね……)
「やはりか。相変わらず卿らは容赦がないな……」
私は心の中で、兄は口に出して、相変わらずのスパルタぶりに半ば呆れながら感想を述べた。
「そして、皇太子殿下がご政務をご見学なさっている間、範を示すという意味で、梨花さまにも身体を鍛えていただいて……」
「大山さん、ちょっと待って。何で私が身体を鍛えないといけないのよ」
「インフルエンザでお休みになった後、筋力が落ちたとおっしゃっておられるではないですか。陛下とご一緒に馬場に出られた後も、以前よりお疲れになっていらっしゃいますし……」
「た、確かにそうだけれど……それってあれ?私を迪宮さまから引き離そうとする策略?」
「ええ、どうも梨花さまは皇太子殿下に甘いですから、離しておかなければ皇太子殿下のご修業になりません」
「あのさぁ、私、あなたたちよりは迪宮さまに甘いけどさ、だからって主君を策略に掛けようとする姿勢は、臣下としてどうなのかなぁ?」
「何、これも梨花さまのご修業でございます」
大山さんが私にすまし顔で決め台詞を言い放った時、
「……かしこまりました、お父様」
迪宮さまが椅子から立ち上がり、兄に向かって最敬礼した。
「僕、やってみます。もちろん、至らないところはたくさんありますが、一生懸命勉強して、少しでも理解できるように……お父様のおっしゃる頭の使い方に慣れるように頑張ります!」
「……うん、よかった」
迪宮さまの決意を聞いた兄は嬉しそうに頷くと、
「頼むぞ」
と呟くように言ったのだった。
さて、冒頭の兄の発言の後、梨花会の話題はいつも通り、国内・海外の諸問題へと移っていった。ただ、国内で目下問題になっている不景気は、5月になって全国で緊急事態宣言が解除されたので、徐々に解消されるだろうというのが目に見えている。話題は早々に海外の問題……今月の終わりからジュネーブで開催される軍縮会議のことに切り替えられた。ちなみに、日本からは代表として、国軍大臣の山本さんが出席することになり、既に日本を出発している。
「なぁ、斎藤。権兵衛はうまくやれるかなぁ?」
国軍航空局長の児玉さんが、予備交渉にあたっていた参謀本部長の斎藤さんに尋ねた。
「余程のことがない限りは問題ないと思います」
指名された斎藤さんは慎重に答えた。
「なるほど、なるほど。あのヒヨコどもも付いて行っているからのう」
西郷さんがのんびりと斎藤さんに応じる。“あのヒヨコども”というのは、堀悌吉海兵大尉と山下奉文歩兵大尉だ。一昨年の特別大演習で大山さんに才を見出されてしまった彼らは、今回、山本さんの補佐という名目で、軍縮会議の日本代表団に入れられてしまったのである。
と、
「ん?どうした、五十六?」
末席に目をやった西郷さんが、山本航空大尉の名を呼んだ。
「まさかとは思うが……おぬし、堀と士官学校で同期だったからと言って、手助けしてはいないだろうなぁ?」
西郷さんの問いに、山本航空大尉は顔を引きつらせ、「め、めっそうもございません!」と叫ぶように答える。
「ふむ。どうやら嘘はついていないようでありますな」
「まぁ、万が一、堀を手助けしていたとしても、権兵衛が堀を調べればすぐに分かるでしょう」
向かい合って座る桂さんと児玉さんが、山本大尉を見据えながら頷き合う。2人の鋭い眼光を受けて、山本大尉の額に脂汗がにじんだ。
「……あの、斎藤さん。結局、軍縮会議は予備交渉と同じ結論でまとまりそうなんでしょうか?」
話がおかしな方向に進んでしまっている。何とか軌道修正しようと思い、私は斎藤さんにこう質問した。
「……妙な雰囲気になって参りました」
斎藤さんは難しい表情になると、
「フランスでのデモが激化しておりまして」
と私に答える。
(フランスのデモって、政府にインフルエンザ対策を取るように要求しているという、あれ?でも、それと軍縮がどう関係しているのかしら?)
私の頭の中で疑問符が乱舞した時、
「実はですね」
枢密顧問官の陸奥さんが横から話し出した。
「フランスのデモ隊の要求が、妙に具体的になりましてね。彼らは“軍艦の維持費と建造費を削って、それで浮いた費用をインフルエンザ対策に回せ”と主張しているのです」
「「?!」」
目を瞠った私と兄に、
「そして、フランスの造船会社が、軍の高官に賄賂を贈り、軍艦の発注に便宜を図ってもらったという事件が明るみに出ましてね。今、フランス政府はその問題の対処に苦慮しているようです」
陸奥さんはとても楽しそうに続けて言う。
「それは……そのデモは、本当にフランス国民自身が望んで起こしているものなのですか?!」
迪宮さまが上気した顔で陸奥さんに問う。陸奥さんがニヤニヤ笑ったまま答えようとしないので、
「これは私の考えだけれど……ドイツが裏で一枚噛んでいると思うわ」
私は正解と思われることを迪宮さまに伝えた。
「内府殿下、皇太子殿下を鍛えるせっかくの機会を潰すとは……少し黙っていてください」
「ああ、ごめんなさい、空気が読めなくて」
鋭い眼光を飛ばす陸奥さんに、私は機械的に頭を下げた。陸奥さんはそんな私から視線を迪宮さまに移すと、
「さて、答えていただきましょうか、皇太子殿下。今回のフランスのデモの背景を」
と質問し、再びニヤッと笑った。
「フランスの国民に、インフルエンザに何の対策もしない政府への憤りがあったことは間違いないと思います」
迪宮さまは慎重に答え始めた。「それにドイツが目を付けた。ドイツはデモの主導者に接触したか、新聞に論説を書かせるかして、“軍艦の維持費と建造費をインフルエンザ対策に回せ”という主張をデモ隊に植え付けた。世間が騒がしくなっているところに、ドイツが掴んだフランスの軍艦発注に関する疑惑を報道させる。与党は反応しなくても、野党はきっとこの件に関して政府を攻撃するでしょう。そこまでの騒ぎになれば、政府も旧式艦の廃艦だけではなく、更に踏み込んだ軍縮に応じることを検討せざるを得ません。それがドイツの狙いなのでは……」
「大筋では正解でございますよ、皇太子殿下」
迪宮さまが答え終わると、陸奥さんが軽く頷いて拍手した。「ただ、2、3欠けているところがございますがね。……ねぇ、大山殿」
「黒鷲機関が、フランスの民衆の中に偽装して入り込み、軍事費の削減を声高に叫んでいるようです」
陸奥さんの呼びかけに応じて、大山さんが低い声で言った。
「また、政府内……特に、財務・経済関係の官僚たちからは、デモ隊や野党が要求している通り、軍縮会議の予備交渉で決まった主力艦削減トン数よりも、主力艦を更に多く減らし、軍艦の厳しい建造制限も掛けて軍艦建造費を減らすべき、という意見が多数出ているようです」
大山さんの報告に、出席者一同がざわめいた。
「やはり軍艦の建造費は、フランスの財政に大きな負担になっているようですね」
大蔵大臣の高橋是清さんが、ふくよかな顔をしかめて言った。「これは同業者の勘ですが、フランスの官僚たちの中には、知らず知らずのうちに、いや、ひょっとすると自らの意志で、黒鷲機関に協力している者がいるかもしれません」
「ええ、その可能性もあります。我が国でも気を付けなければならないことですが」
高橋さんに答えた大山さんの瞳が異様に輝く。……これでは、MI6も黒鷲機関も、日本に侵入することは不可能だろう。
「大山さん」
職務に忠実な我が臣下を私は呼んだ。「この話、MI6もつかんでいるんでしょう?フランスはイギリスの友好国。だから、ドイツに対して何らかの報復をしてもおかしくないと思うけれど、その辺りの情報はある?」
「はい」
大山さんは私に軽く頭を下げた。「3日前、ドイツ国内で、ドイツの造船会社がドイツ軍幹部に賄賂を贈ったという報道がなされました。しかも、軍幹部と造船会社社長とが、市民にインフルエンザ流行に伴う外出制限が命じられている最中にどんちゃん騒ぎをやっていた写真が新聞に掲載されまして、一部の市民が抗議デモを始めています」
(うわぁ……)
私は両腕で頭を抱えたくなった。人心が荒むほどの厳しい外出制限が掛けられている最中に、お偉方がそれを無視してどんちゃん騒ぎをしていたと知れば、ドイツ国民の不満は軍と造船会社に一気に向かうだろう。
「一方、ドイツ側も、イギリスの造船会社がイギリス海軍の幹部に金品を贈っていた証拠をつかみ、イギリスの新聞にそのネタを流して報道させました。この件に関して、野党は追及する構えを見せておりまして……」
私の頭の上を、我が臣下の報告する声が淡々と流れていく。それを聞きながら、
(泥仕合じゃん、これ……もう、どうなるか分かんないわ……)
私は大きなため息をついた。




