夜明けの金平糖
1919(大正4)年3月20日木曜日午前10時55分、皇居・表御座所。
「ああ、山縣大臣、待っていた」
午前の政務が終わるころ、宮内大臣の山縣さんが兄の執務室・御学問所に現れると、うつむいていた兄の顔が弾かれたように上がった。
「井上伯爵の様子はどうだ?今朝の様子はどうなのだ?熱はあるのか?食事はとれているのか?」
「兄上、落ち着いて!順番ってものがあるんだから!」
執務机から身を乗り出す勢いで山縣さんに質問する兄を、私は横から慌てて止める。こう矢継ぎ早に問いを投げてしまったら、流石の山縣さんも処理しきれないだろう。私が更に大きな声を上げて兄を止めようとした時、
「陛下も梨花さまも落ち着いてください」
御学問所の隅の方に控えていた大山さんが、冷静に私たちに注意をする。「すまん……」と兄は呟いてうな垂れ、私も黙って頭を下げた。
「では、聞多さんを今朝、医科大学の三浦先生が診察した結果を申し上げますが……」
私と兄が静かになったのを確認すると、紙を左手に持った山縣さんは、兄の命令を受けて井上さんの治療にあたっている東京帝国大学医科大学内科学教授の三浦謹之助先生が作成した井上さんの容態書を読み上げた。
「……つまり、昨日より、状況は更に悪化していると考えていいのか?」
報告を聞き終わった兄は、そう言いながら私に視線を向ける。
「そういうことになる」
私は兄に答えると、山縣さんから井上さんの容態書を受け取り、内容に目を通した。そして、袖机の上に置いていた井上さんの昨日の容態書にも目を通しながら、
「意識状態は昨日より悪くなっているわ。昨日は、意識は明瞭だということだったけれど、今朝からは全く反応しないということだから」
兄にも分かるようにと心がけ、井上さんの現状について説明を始めた。
「体温は昨日が37度6分、今朝が38度3分……。そして、脈拍は、昨日が1分間に76回だったのに、今日は1分間に112回に増えている。血圧が昨日は上が110、下が72と保たれていたのに、今日は上が76、下が40と大幅に下がっているから、……敗血症性のショック状態になった、つまり、感染症のせいで重態に陥ったと考えるのが自然だわ」
ここでいったん言葉を切ると、兄は「ううん……」と唸るような声を出す。山縣さんと大山さんも僅かに眉をひそめた。
「その感染症の原因は、もちろん新型のインフルエンザに合併した肺炎ね。昨日、右の下肺に水泡音が聞こえたということだから、そこに何らかの細菌が感染して肺炎を起こした。細菌の正体は、昨日、喀痰から検出されたグラム陽性球菌の可能性が高いわ。で、今日になって水泡音が両肺に広がったということだから、急性呼吸窮迫症候群が引き起こされ、敗血症性ショックに至り……」
「待て、梨花、難し過ぎるから、もう少しかみ砕いて説明してくれ」
兄は横から私の説明を止めると、右の手のひらを額に軽く当てた。
「あ、ごめん……とにかく、重篤な状態よ。私の時代だったら挿管して人工呼吸器を使って……あ、これだと細かすぎるから……ええと、私の時代なら、この時代でできない治療もやれるけれど、それでも、この状態に陥った人たちの半分近くが亡くなる。井上さんに投与されている抗生物質が効くまで井上さんの体力が持ちこたえれば、助かる可能性もゼロではないけれど、井上さん、脳卒中になった後だから……」
これ以上、口を動かすことができなかった。私が顔を伏せると、
「……つまり、進階や勲章授与のことを考えなければならない、ということですな」
山縣さんが冷静な口調で言った。彼の表情は、マスク越しでも分かるくらい暗かった。
「そういうことになります……」
私はやっと声を絞り出した。“進階”というのは、個人に授けられている位階を上げるということだ。もちろん、平時でも進階は行われるけれど、この場合、死に際して、今までの功績を鑑みて行われる進階になる。勲章授与も同じような意味を持つ。つまりは、“病状は絶望的である”と政府が遠回しに認めたようなものなのだ。
「では陛下、直ちに手続きに入ります。よろしいでしょうか」
一礼する山縣さんに、兄は返事をしない。山縣さんの顔に、じっと視線を注いでいる。それに気が付いた山縣さんが、「ああ……」と呟き、兄に最敬礼した。
「お気遣いいただき、ありがとうございます、陛下。……覚悟はできております」
淡々とした口調でお礼を言う山縣さんに、「そうか」と軽く頷くと、
「もし、井上伯爵の病がインフルエンザでなかったら、今すぐ山縣大臣に有給休暇を使ってもらって、“井上伯爵の見舞いに行け”と命じられるのだが……。いや、俺自身が井上伯爵の所に行って、今まで世話になった礼を直接言うのだが……」
兄はとても悔しそうな口調で言った。
(そうなのよね……)
私は歯を食いしばった。厚生省が作成して、全世帯に配布した“新型インフルエンザの手引き”には、“例え親しい仲であっても、インフルエンザに感染した人のお見舞いはしないように。どうしてもということなら、看護人にお見舞いの品や書状を言付けましょう”と書かれているのだ。もし、私たちが井上さんのお見舞いに行ってしまったら、国民から非難を浴びてしまうだろう。新型インフルエンザの感染拡大を抑制する政策は、お世話になった人を見舞うという、今まで当たり前に行われていた行為を社会から排除していた。
「致し方ないことでございます」
山縣さんが再び兄に一礼した。
「昔馴染みに会えないのは非常に残念なことですが、わしには、宮内大臣として陛下をお支えする義務がございます。その務めを、今後とも果たしてまいりたいと思います」
「頼むぞ、山縣大臣」
兄は山縣さんをじっと見つめながら言った。
「今、井上伯爵が逝こうとしている。その上、山縣大臣にまで倒れられてしまったら、俺はとても辛い。俺に忌憚なく意見してくれる人間が、1人減ってしまうのだから。……山縣大臣、身体は、十分に労われよ」
「もったいないお言葉でございます……」
山縣さんは最敬礼すると、御学問所から静かに立ち去って行った。
私と兄、そして梨花会の面々の回復への願いもむなしく、井上さんの病状は更に悪化し、1919(大正4)年3月20日午後3時32分、井上さんは83年の生涯を閉じた。新型インフルエンザでの死亡なので、感染症拡大を予防する目的で、井上さんの遺体はその日の夕方に荼毘に付された。
翌日の夜、私は麻布区宮村町にある井上さんの家に弔問に行った。井上さんの家は、急を聞いて弔問にやって来た政財界の人々でごった返していた。明治維新の生き残りでもあり、貴族院議員、外務大臣、農商務大臣、そして内閣総理大臣と、数々の要職を歴任してきた人だから当然のことだろう。大勢の弔問客に応対している井上さんの家の職員たちを、伊藤さんと渋沢さんと大隈さん、そして桂さんが指揮している。彼らは私の姿を見つけるとそばに駆け寄り、私を連れて物陰へと移動した。
「わざわざのご弔問、まことにありがとうございます」
伊藤さんが小さな声でお礼を言い、渋沢さんと大隈さんと桂さんは無言で私に最敬礼する。
「いえ……私も井上さんには、とてもお世話になりましたから」
私も囁くようにして伊藤さんに応じると、
「あっけないことでございました……」
伊藤さんはそう言って嘆息した。
「聞多は幕末の頃、藩内の対立する派閥の者に襲われて瀕死の重傷を負いましたが、治療によって一命を取り留めました。また、“史実”では日露戦争の後、尿毒症で重態に陥ったこともありました。その時も奇跡的に回復しましたから、この時の流れでは、もっと長生きしてくれるだろうと勝手に信じていたのですが、流行り病で命を落とすとは……世の中、うまくいきませぬなぁ」
私は「そうですね……」という平凡な答えしかできなかった。井上さんと伊藤さんは、お互いがまだ20歳前後だった幕末の頃からの長い付き合いだ。私が想像しているよりももっと多くのことが、伊藤さんの胸中を去来しているのだろう。
と、
「これでよかったのです」
伊藤さんは私にこう言った。
「何が……ですか?」
言葉の意味を取ることができず、訊き返した私に、
「聞多はわしより年上です。それなのに、“史実”では、わしの方が聞多より早く命を落としてしまいました」
伊藤さんは低い声で話し始めた。
「“史実”でわしが殺されたと知った時、聞多はきっと、大いに悲しんだと思うのです。なぜ、年下のわしの方が、早く死んでしまったのかと……。しかし、この時の流れでは、聞多にそのような思いはさせずに済みました。そして、“史実”ではなれなかった内閣総理大臣になった聞多は、その在任中、我が国の経済を安定化させて政府の増収を実現させ、二大政党制で我が国の政治が行われるという流れをより強固なものにしました。それでよかったのだと……そう思っております」
私は、時折鼻をすすり上げる伊藤さんの話を、ただ黙って聞いていた。これは、“史実”のことを知っている人間にしか、共有できない思いだろう。
「ただ……インフルエンザのせいで、聞多の看病が、したくてもできなかった。それだけが心残りで……」
伊藤さんの両目から、涙がこぼれ落ちる。桂さんがそっと差し出したハンカチーフを受け取ると、伊藤さんはそれで涙を拭い、井上さんの遺骨が安置してある部屋に私を案内すべく歩き始めた。
井上さんの遺骨が納められた白木の箱は、大広間に安置されていた。その前には、兄と節子さま、迪宮さまから供えられた花、各宮家や政府高官から供えられた花が、所狭しと並べられている。その中央、白木の箱の前に設けられた焼香台のそばに、井上さんの養嗣子の勝之助さんをはじめ、井上さんの遺族たちが正座していて、私の姿を見ると深く頭を下げた。
遺族の方々にお悔やみの言葉を述べてから焼香をする。ご遺体の顔を見せて欲しいと頼みたいところだけれど、井上さんは既に火葬されているのでそれは叶わなかった。
「わざわざの御成り、誠にありがとうございました」
焼香を終えた私に、勝之助さんが遺族を代表してお礼を言った。
「いえ……井上さんには、とてもお世話になりましたから」
私が静かに答えると、
「毎年、義父のバレンタインの贈り物を受け取ってくださって、本当にありがとうございました」
勝之助さんの口から、意外な言葉が飛び出した。
「い、いえ……気持ちは受け取ることにしていますので」
戸惑いながらも、当たり障りのない返答をすると、
「ああ……ありがとうございます」
勝之助さんは私に向かって深く頭を下げた。
「毎年、諌めていたのです。“このような奇怪なものを作っても、内府殿下はお受け取りにならないかもしれませんぞ”と。義父は、全く聞く耳を持ちませんでしたが……」
(だろうなぁ)
私は心の中だけで答えた。どれだけ梨花会の面々に文句を言われても、自分が考えた料理に絶対の自信を持っていた井上さんは、奇抜な料理を振舞うのを止めなかった。内閣総理大臣だったころも、イギリスのコンノート公を歓迎する食事会を総理大臣官邸で開催して、コンノート公に手料理を振舞おうと目論んでいたので、お父様の勅語と、兄と私の令旨でようやく止めさせたということがあった。そんな井上さんだから、家族が何か言ったところで、料理作りをやめることはなかっただろう。
「しかし、内府殿下は、義父が作る名状しがたい菓子のようなものも快くお受け取りになり、3月14日にはお返しとして金平糖を義父にくださいました。内府殿下の寛大な御心に、我々家族は本当に感謝申し上げているのです」
勝之助さんはこう言うと、
「実は……義父が亡くなる前、最後に口にしたのは、内府殿下より賜った金平糖だったのです」
思いがけない言葉を私に告げた。
「え……」
「亡くなる日の、夜が明ける直前でした。酸素のマスクをつけて、荒い呼吸を繰り返していた義父が、“甘いものが食べたい”と言い出したのです」
驚く私に向かって、勝之助さんは淡々と言葉を紡いだ。
「日中でしたら、口当たりのいい氷菓子でも作らせて義父に食べさせるのですが、時間が時間なので、そんなことはすぐにはできません。それでも義父は、“今すぐ食べさせろ”と頻りに言うのです。元気でしたら、いつもの雷のような大声を張り上げていたのでしょう」
「……」
「そこに、看護師の1人が、“飴ならばどうだろうか”と言い出したのです。すると義父は、“そうだ、内府殿下から賜った金平糖があるだろう。あれを持ってこい”と命じました。急いで義父の枕元に菓子器を持って参りまして、マスクをずらして金平糖を1粒口に含ませますと、険しくなっていた義父の表情がふっと緩みました。そして、“ああ、内府殿下みたいな、優しい味だなぁ……”と嬉しそうに言ったのです。そう言ったきり、義父は完全に意識を失いまして……」
勝之助さんは、それ以上の言葉を口にできなかった。今まで堪えていたであろう涙が、両目から一気に溢れ出したのだ。私もハンカチーフを出して、自分の顔を濡らす涙を拭った。
(井上さん……)
大山さんや伊藤さんほど、深く関わることはなかった。けれど、井上さんには、小さい頃からお世話になったのだ。それに、日本という国を支えていた人の1人であったことは間違いないのだから、本来ならば、お見舞いに行って、力づけるなり、きちんと別れを述べるなりしなければならなかったのだ。しかし、新型インフルエンザは、その機会を奪い去った。
(お世話に、なりました……)
私は井上さんの遺骨を納めた白木の箱に向かって、もう一度合掌した。




