ホワイトデーは大騒ぎ?
1919(大正4)年3月14日金曜日午前11時、皇居・表御座所。
「はい、兄上。今年のバレンタインのお返しよ」
人払いをした兄の執務室・御学問所。午前の政務が終わった後の休み時間、私は兄に金平糖の入った小さな銀の菓子器を手渡した。
「ありがとう、梨花」
兄は私の手から菓子器を受け取ると、それをじっくり眺めながら、
「今年の意匠は、どこの城だ?」
と私に尋ねた。
「彦根城よ。西の丸の三重櫓をモチーフにしたの」
「おい、彦根城は前も意匠に使っただろう。また同じものを……」
不満げに言う兄に、「違うわ」と断言してから、
「昔、菓子器のモチーフに使ったのは、彦根城の天守。今回のモチーフは西の丸の三重櫓。間違えないでちょうだいよ」
と兄に詳しく説明した。
「もし、前に兄上にあげた彦根城の天守の菓子器がそばにあれば、この三重櫓の菓子器と見比べて欲しいのだけれど、三重櫓は天守より簡素な構造で……」
私が更に兄に詳しく説明しようとした時、
「分かった。今日の午後の政務が終わったら、一緒に江戸城の遺構を見て回ろう。ストレスがたまっているとは聞いていたが、まさかここまでひどい状態になっているとは……気が付いてやれなくてすまなかったな」
兄はなぜか優しい口調になり、私にこう言った。
「あ、兄上?なんでそんな話になるの?」
確かに、そろそろ、皇居の敷地内にある江戸城の櫓や門、石垣や堀を見学しないと、ストレスでおかしくなりそうだとは思っていた。けれど、その見学に兄を巻き込むわけにはいかないから、休日に見学を願い出て、1人で見学しようと考えていたのだ。慌てる私に、
「今のお前の説明、力が入り過ぎていたからな」
兄は微笑を含んだ目で私を見つめながら言った。
「ストレスがたまっていない時には、城郭のことを、身を乗り出して説明するようなことはない。しかし、今のお前は、俺に食いつかんばかりの勢いで、前のめりになって説明していた。だから、城の遺構が見学できないストレスがたまって限界に近付いているのだろうと思ったのだが」
「はぁ……」
今まで、自覚したことは無かったけれど、兄が言うならそういう傾向があるのかもしれない。「すごいわね、兄上は」と素直に感想を口にすると、
「当たり前だ。幼い頃、何年も一緒に暮らしたのだから、お前の癖は全部分かる」
兄は胸を張って豪語した。
「じゃあ、午後はお言葉に甘えて、江戸城の遺構を見学させていただきます」
兄に軽く頭を下げた私は、
「お礼と言っちゃなんだけれど、私も今度、兄上のストレス解消に付き合うね」
と笑顔で申し出た。
「それはありがたいな。だが、俺はお前や家族たちと一緒に喋ったり、馬に乗ったりしていれば、ストレスは十分に解消できるよ」
兄は私にこう応じると、「だから椅子に座れ、梨花。刻限になるまで、2人で喋っていよう」と私に声を掛ける。私は頷いて、袖机のそばのいつも使っている椅子に腰を下ろした。
「そう言えば梨花、先月から医科研でインフルエンザの実験が始まったと聞いたが、その後のことについて何か聞いていないか?」
「ああ、あの実験……今、一時的に止まっているのよ」
早速飛んできた兄の質問に、私はお茶を一口飲んでから答えた。
「どういうことだ?百日咳菌ワクチンを完成させた野口とヴェーラが、研究に従事しているのではないのか?」
「そうなんだけどね……」
私はため息をつくと、
「あのセクハラ野郎……じゃなかった、野口さん、インフルエンザに感染しちゃったのよ。それで動物実験が止まっているの」
と兄に答え、詳しい事情を説明し始めた。
医科学研究所の敷地にブタ用の実験動物舎が建設され、そこで野口さんとヴェーラがヒトのインフルエンザウイルスのブタへの感染実験を始めたのは、先月の中旬のことだった。東京府では、いまだにインフルエンザが流行している。そのインフルエンザに感染した人から鼻汁を採取させてもらい、その鼻汁を材料にして、ブタがヒトインフルエンザに感染するか、各種の実験を進めていたのだけれど……。
「……実験に使っていた鼻汁の濾過液を、野口さんがうっかり手につけてしまって、それを吸い込んだか口に付けたかしてしまったようなの。それで、見事にインフルエンザに感染してしまったという訳。それが3日前のことよ」
私がいったん話を締めると、
「なるほど。しかし、それで実験そのものが止まってしまうのか?野口が倒れても、ヴェーラがいるだろう。彼女が実験を続ければいいのではないか?」
兄は私に不審な点を問い質した。
「ヴェーラが野口さんを看病しているのよ」
「何?それは本当か?」
「嘘をついてどうするのよ」
驚く兄に言い返すと、
「私はお見舞いに行く訳にはいかないから、別当の福島さんに野口さんの下宿にお見舞いに行ってもらったの。そうしたらヴェーラが出てきて、お見舞いの品を受け取ったんですって」
私はそう言ってからもう一度お茶を飲んだ。
「福島さんが、なぜ野口さんの下宿にいるのかってヴェーラに尋ねたら、“この下僕の命を奪うのは病気じゃなくて私だから、看病してやってるのよ”ってヴェーラが答えたらしくて……」
「……よく分からないな」
私の言葉を聞いた兄は首を左右に振った。
「一種の愛情表現なのか?」
「なのかなぁ……?確かに、殴ったり蹴ったりするのが、ヴェーラなりの愛情表現だってレーニンには聞いたけれど……でも、それと看病するのは、方向が違うんじゃない?」
「うーん、そう言われてしまうと、俺も自信が無くなるのだが……」
眉をひそめながら両腕を胸の前で組んだ兄は、弾かれたように顔を上げる。そして、廊下に面した障子に視線を向けると、
「そこにいるのは、大山大将か」
と静かに声を掛けた。
「はい」
内大臣秘書官長を務める大山さんは、障子を開けると私たちに頭を下げ、
「梨花さまにお客様です」
と告げる。
「ああ……」
私はまたため息をついた。
「誰が来たか、大体見当はつくけれど、一応聞いておきましょうか。……お客様はどなた?」
「西園寺どの、原どの、後藤さん、高橋さん、牧野さん、それから権兵衛どんですな」
私の義務的な質問に、大山さんは私の予想を超える答えを返してきた。「嘘でしょ……」と呟くと、私は右の手のひらを額に当ててうつむいた。
「なんで、内閣総理大臣と梨花会に所属する国務大臣全員が、ホワイトデーのお返しをもらいに一度にやってくるのよ……」
うつむいたまま疑問を口にした私に、
「バレンタインの時、原どのが抜け駆けをして梨花さまに贈り物を渡してしまったので、今回は原どのに抜け駆けされないよう、監視しながらやってきた……ということでございました」
大山さんは少し楽しそうな調子で答えた。
「梨花さまが原どののスコーンを召し上がる直前に、陸奥どのが内大臣室に来てくださって本当によかったです。俺もスコーンを食べることができましたし」
「あなたたち……バレンタインに本気になってどうするのよ。それに、牧野さんと高橋さんは、あなたたちに合わせて仕方なく私にバレンタインの贈り物をしているのだから、強要するのはよくないわ」
「まぁ、よいではないか、梨花」
私が顔をしかめてぼやくと、兄が笑いかけた。
「皆、お前が可愛くて仕方がないのだよ。さ、早く内大臣室に戻って、総理大臣たちにお返しを渡しておいで」
「はぁ……でも、私がここにいないと、兄上のストレス解消にならないんじゃない?」
「大丈夫だ。漢詩を作っているから」
兄の返答に、
(そのストレス解消法には、私は付き合えないなぁ……)
そう思った私は、思わず一歩後ろに下がった。兄は漢文を読むのが非常に速く、漢詩も簡単に作ってしまうけれど、私は兄の漢文読解力にとても追いつくことができないのだ。
「……じゃあ、私、西園寺さんたちにお返しを渡してくるね」
「おう、行ってこい」
一礼して御学問所を出て行く私に、兄はひらひらと右手を振った。
「内府殿下、誠にありがとうございます!わしがバレンタインに献上した山水画の掛け軸はいかがだったでしょうか?!」
「あ、ああ、ありがとうございました、伊藤さん。とても雄大な印象を受ける絵で……心が軽くなるような感じがしました」
「内府殿下!わしの和歌はいかがでしたか?!」
「ああ、山縣さん、ありがとうございました。こちら、菓子器と返しの歌です。お義父さまにこき下ろされながら必死に作ったので、多分、滅茶苦茶な歌にはなっていないと思いますけれど……」
西園寺さん以下、梨花会に入っている閣僚たちを皮切りに、私は内大臣室に次から次へとやって来る梨花会の面々に、バレンタインのお返しの菓子器を渡し続けていた。毎年、斎藤さん、渋沢さん、幣原さん、浜口さん、そして山本大尉以外の梨花会の面々は、2月14日に思い思いの贈り物を私にする。その贈り物に対する感想を伝え、お返しの金平糖を渡して……とやっていると、時間がとてもかかってしまう。私が内大臣室に現れた梨花会の面々にお返しを全て渡し終えたのは、午後0時55分、昼休憩の終わる5分前のことだった。
「あー、この時間じゃ、お弁当を食べていたら政務に間に合わないや……」
時計の盤面を見ながら呟くと、
「では、午後の政務の事務の補助は、最初、東條くんにやってもらいましょう。俺と梨花さまは、昼食をとってから、東條くんと交代するということで……」
私の声を拾った大山さんがこう提案する。
「その方がいいね。腹が減っては戦ができぬって言うし。大山さん、東條さんにお願いしてもらっていいかな?」
「かしこまりました。お茶も淹れて参りましょうか」
「そうね、お願いするわ。……そうだ、大山さん、こんなこと、めったに無いから、お昼を一緒に食べない?」
勤務している時は、私は内大臣室で、大山さんは内大臣秘書官室でお昼のお弁当を食べる。誘ってみると、「では、遠慮なく」と答えて大山さんは私に頭を下げた。彼が用事を済ませている間に、私は内大臣室の来客用のテーブルやソファーを整え、大山さんと一緒にお昼ご飯を食べる準備をした。
大山さんが内大臣室に戻り、2人一緒にお弁当に箸をつけると、
「そう言えば梨花さま、皇太子殿下へのバレンタインのお返しはどうなさるのですか?」
大山さんがわたしにこう尋ねた。
「流石に、東宮御学問所から皇居に戻ってもらうのは平日には無理だからね。千夏さんに東宮御学問所に持っていってもらうことにしたよ」
私はかみ砕いた玉子焼きを飲み込んでから大山さんに言った。
「バレンタインがこの時の流れで始まったきっかけをお聞きになった時の皇太子殿下は、本当に驚いておられましたね」
「当たり前よ」
ニコニコ微笑む大山さんに、私は即座に答えた。
「私が兄上にした内緒の話を盗み聞きしたあなたと伊藤さんが、他の梨花会の面々にバレンタインのことを広めたのがきっかけ、って……驚かない方がどうかしているわ」
「それは確かに」
大山さんはこう言ってから、ほうれん草のお浸しを口に運んだ。それをよく噛んで嚥下すると、
「ところで、インフルエンザの対応で確認を忘れておりましたが、梨花さま、今年の若宮殿下へのバレンタインの贈り物はどうなさったのですか?」
大山さんは私に穏やかな微笑を向けて尋ねた。
「万年筆を贈ったわ」
大山さんが相手なら、隠そうとしてもすぐに暴かれてしまう。私は素直に質問に回答した。
「緊急事態宣言が出ていなかったら、栽仁殿下が週末に盛岡町に戻ってきた時に渡すのだけれど、それは無理だから、郵便で渡したの。私からの手紙もつけてね。栽仁殿下からは、手紙と一緒に、鉛筆で描いた私の肖像画をもらったわ。とても上手だったなぁ……」
「なるほど。梨花さまのお手紙も、若宮殿下のお手紙も、きっと、先日お話くださったような、熱烈な愛がこもった内容だったのでしょうね」
「い、言わないでよ……」
私は両腕で頭を抱えた。確かに、栽仁殿下に宛てた手紙の中では、自分の気持ちを率直に綴っているけれど、その文章は全て、私の栽仁殿下への愛を反映したものなのだろうか……ダメだ、身体が熱くなってきた。
「お、大山さん……話題、変えてもいいかなぁ?このままじゃ、私、ご飯が食べられなくなるから……」
頭を抱えたまま大山さんに提案すると、
「これは失礼致しました。では、このお話の続きは、もう少し余裕のある折に……」
大山さんはそう応じて微笑する。私はため息をつくと頭を上げ、再び箸を動かした。
「……お昼休みは、まるで嵐のようでしたね」
大山さんが私に言ったのは、私のお弁当箱も大山さんのお弁当箱も空になった時だった。
「そうね。まさか、お昼休みの前から西園寺さんたちが来るとは思っていなかったから、焦っちゃったわ」
私はそう答えると、湯飲み茶碗に手を伸ばす。
「西園寺さん、山本さん、原さん、高橋さん、後藤さん、牧野さんがいっぺんに来て、それから黒田さん、陸奥さん、松方さん、西郷さん、大隈さん、児玉さん、桂さん、それで伊藤さんと山縣さんが次々やって来て……」
指を折りながら、内大臣室に現れた面々を確認していた私は、抜けている人が1人いるのに気が付いた。元内閣総理大臣で、立憲改進党に所属する貴族院議員の井上さんである。2月14日に、自分で作ったという、恐らくチョコレートと思われる物体を私にくれたのだけれど、お返しを取りには来ていない。
「井上さんが来てないわね」
私の言葉に、
「そう言えば、午前中に電話がありまして……」
大山さんがこう言い出した。
「軽い頭痛があるので、今日は梨花さまの所には参りません、という伝言がありました」
「頭痛かぁ……」
私は両腕を胸の前で組んだ。井上さんは、脳卒中に罹ったことがある。頭痛が何らかの脳の病気の前兆ではないか。そんな考えが頭を過ぎったのだ。
「最近井上さんの血圧が上がったという話は聞いていないから、多分大丈夫だとは思うけれど……念のため、三浦先生に連絡しておこうかな。井上さん、“うっちゃっとけ!”なんて言って、何の連絡もしないだろうし」
私がこう言うと、「おっしゃる通りです」と大山さんが穏やかに答えた。
「では、俺から三浦先生に連絡いたしましょう」
「頼むね。私も明日の朝、福島さんに頼んで、お返しを井上さんの家に届けてもらうよ。体調がどんな具合か、その時に一緒に聞いてもらうね」
大山さんとの会話を終えると、お弁当箱を片付けた私は、東條さんと交代するべく御学問所へ急いだ。経過に注意を払う必要はあるけれど、井上さんの頭痛は問題のないものだという結論が出るだろう。そう思って、井上さんのことはいったん頭から追い出して、兄の政務の手伝いに専念した。
井上元内閣総理大臣、高熱と関節痛、頭痛を訴えて病臥、新型インフルエンザに罹患したと思われる――。
その知らせが三浦先生と福島さんからほぼ同時に入ったのは、翌3月15日土曜日の午前中、兄の政務が終わる直前のことだった。




