1919(大正4)年3月の梨花会
1919(大正4)年3月8日土曜日午後2時5分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「1月の我が国での新型インフルエンザ罹患者は約45万人、そして2月の罹患者数は約75万人……緊急事態宣言は全道府県に発出されています」
今日は、毎月第2土曜日にある定例の梨花会である。冒頭で取り上げられたのはやはり新型インフルエンザのことで、厚生大臣の後藤新平さんによる報告を私はメモを取りながら聞いていた。
「そして死者数ですが、1月は約8000人、2月は約1万1000人、合計で1万9000人ほど……死亡率は約1.58%となります。世界保健機関が去年12月に発表した死亡率の速報値2.1%よりは低いと言えます」
伝播の仕方が違うからだな、と、私は鉛筆を動かしながら思った。最初、新型インフルエンザは、アメリカ・ネブラスカ州の農村部で発生し、次第に都市へと広がった。アメリカでは、医療が行き届かない農村も多く、中には、医師も看護師もいない村もあるそうだ。一方、日本で現在インフルエンザが主に流行しているのは、医療体制が充実している都市部である。世界保健機関が最初に発表した死亡率は、主にネブラスカ州の農村部で取られたデータだろうから、データがとられた地域の医療充実度が死亡率のデータに反映されるとすれば、都市部でも流行が拡大しているアメリカでの死亡率はだんだん下がるだろうし、これから農村部に流行が広がる可能性が高い日本では、死亡率が徐々に上がるかもしれない。日本の農村部だって、医療が充足しているとは言い難いのだから。
「感染は農村部にも広がりつつありますが、都市でも依然流行は続いています。医療に従事する人間が足りなくなる事態は何とか避けられていますが、医師や看護師たちの負担を減らし、彼らがより多くの患者を診療できるように努めます」
後藤さんは力強く言った。大日本医師会と協力して、患者の住所氏名と性別、発症日だけ書き込めば、保健所に提出するインフルエンザ発生届として使える用紙を作り、全国の医師に大量に配布したり、伝染病の発生届など、医師が作成して保健所に提出しなければならない書類を代筆する職員を雇う場合、職員1人につき月15円の補助金を国から支払う制度を作ったり、……後藤さんは医療現場の声を吸い上げ、現場の負担を少なくしてより多くの患者を診察できるようにと努力していた。
「引き続き、医療現場の方々とも協力して、インフルエンザの件をよろしくお願いします。医師でもある後藤さんが、我々の頼りですからな」
白いマスクを付けた西園寺さんはこう言うと、「では、次は物価や流通の状況につき、牧野さんから説明をお願いします」と末席の方に視線を投げた。
「新型インフルエンザの影響により海外で物流が滞っているため、国内の物流には少々混乱が出ています。輸入物の化粧品や服地などは値が上がっていますね」
農商務大臣の牧野伸顕さんは、資料をめくりながら説明を始めた。
「食料品や日用品の値動きは落ち着いておりますが……おや、皇太子殿下、どうなさいましたか」
迪宮さまが戸惑うように自分に視線を向けたのに、牧野さんはいち早く気が付いたようだ。彼は報告を中断して迪宮さまに問いかけた。
「実は……学問所の同級生から、酒の値段が市中で上がっていると聞いたのですが、それはなぜなのかがよく分からなくて……」
迪宮さまは首を傾げながら質問した。
「飲食店、特に飲み屋が休業していますから、酒の値段が下がりそうなのに上がっている。酒を精製して消毒用のアルコールを作るのか、とも思ったのですが、手間が掛かり過ぎる気もしますし……」
「……それ、普通に需要が増えているからなのよ」
私がため息とともに吐き出すと、
「内府殿下、答えを言ってしまっては、皇太子殿下のご修業になりませんぞ」
枢密顧問官の松方正義さんが重々しい声で私に注意を飛ばす。
「言わせてくださいよ、松方さん」
私はそう言うと再びため息をついた。「確かにお酒にはアルコールが含まれていますよ。だけど、お酒を飲んだからと言って胃や腸が消毒される訳じゃないんです。それに、消毒用のアルコールは高濃度だから飲んだら危ないのに、全国で誤飲が多発して……」
“消毒で使うアルコールというものは、日本酒やビールにも含まれている”……そう聞いた人々が、自発的に酒を買い求めるようになり、酒の値段が上がった。そこまではまだ許容できるけれど、“消毒用のアルコールを飲めば、胃や腸が消毒されて、インフルエンザにもかからなくなるのでは”と思いついてしまった人が、消毒用のアルコールを飲んでしまい、急性アルコール中毒で倒れるという事例が全国で相次いだのだ。このため、厚生省や内務省では急遽、“消毒用アルコールは皮膚や物品を拭くのに使うもので、それ以外の方法で使うのは危険だ”という宣伝を大々的にしなければならなくなった。
「これ、工業用に生産されているメタノールが“消毒用アルコール”として流通してしまっていたら、もっと大変ですよ……死人もたくさん出ますし、失明者だって……」
ぼやき続ける私に、兄が上座から、
「梨花、それ以上は“まにあ”な話だから、今はそこまでだ。それに、もう対策を立てたことではないか」
と言って私を止めた。私は渋々口を閉じた。
「では、続きを報告いたしますが……衛生対策用品、特に石鹸やマスク、消毒用のアルコールは、需要に応えられる量が国内で生産されているのですが、買い占める者がしばしば現れる影響で流通が滞り、値段も上がりがちです。取り締まりをしても、悪質な販売業者が後から後から現れてしまいます」
報告の続きを終え、ため息をついた牧野さんに、
「先月の末にも大規模に取り締まりましたが……キリがありませんな。もう一度、徹底的に取り締まりますか」
内務大臣の原さんが声を掛けた。
「よろしいのではないでしょうか。院にも、俺から話を通しておきましょうか。……梨花さま、いかがですか?」
私の右隣に座っている大山さんが、私に視線を向ける。大山さんも各省庁に通達された内容に従って、白い布マスクをつけている。口元は笑っているのかもしれないけれど、目が笑っていないので、もしかしたら、衛生用品を買い占めている業者たちを徹底的に追い詰めてやろうと怒りに燃えているのかもしれない。
「……まぁ、私も不当に物価を上げている連中は、絶対に許せないからね。奴らのせいで医療に必要な物品が入手できなくなって、医療行為ができなくなる例もあるかもしれないし」
私が大山さんに答えると、彼は原さんを見つめて、
「……だそうですよ、原どの」
と言った。原さんは私の方に向かって恭しく頭を下げると、
「は……大山閣下が不正をお憎みになる気持ちも、内府殿下が、医療を妨げるものは必ず排除しなければならないと固くご決意なさっておられることも、重々承知しております。院や農商務省とも協力して、特別措置法に違反する悪質業者を速やかに摘発して参ります」
と言った。ごく限られた時に私に見せる尊大な態度が嘘のようである。
と、
「頼むぞ、原大臣」
上座から兄が声を掛けた。
「わたしも梨花と同じように、不当に物価を吊り上げて国民を苦しめる者は許せない。まだ新型インフルエンザは猛威を振るっているが、悪徳商人たちの行為はその被害を増やすようなことだと思う。しっかり取り締まってくれ」
原さんは飛び上がるようにして椅子から立ち上がり、兄に向かって最敬礼をすると、
「はっ……不当に物価を吊り上げる悪徳業者ども、誓って撃滅致します」
と、力強過ぎる言葉を口にした。原さんのやる気が限界を超えて高まっているのがよく分かった。
(原さんって、本当に兄上のことを慕っているのねぇ……)
私がぼんやり思っていると、
「ちなみに、海外での新型インフルエンザの状況はどうですかね、幣原君?」
西園寺さんが視線を動かしながら問いかけた。外務次官の幣原喜重郎さんは「では、ご報告申し上げます」と前置きして、
「まず、新型インフルエンザの発生したアメリカですが、昨年11月から今年2月末までの間に約2500万人がインフルエンザに感染したようです」
と報告を始めた。
「に、……2500万人であるんであるか?!」
大隈さんが素っ頓狂な叫び声を上げ、他の梨花会の面々も「ものすごい数だ……」「そんなにか?!」とざわめいた。
「おい、五十六。今、アメリカの人口はどのくらいだ?」
部下に尋ねる児玉国軍航空局長の顔からは、いつもの豪胆さが消え失せていた。
「1億人ほどだったかと思いますが……しかし、“スペインかぜ”の時も思いましたが、インフルエンザはこんなにも急速に拡大するものなのですか……」
山本五十六航空大尉が、呟くように児玉さんに答えると、
「それは、あくまで無策であった場合の話です」
後藤さんが横から注釈を入れた。
「アメリカでは、具体的な衛生対策は各地方自治体に任せられております。最初に新型インフルエンザが発生したネブラスカ州では、マスクの着用や劇場・活動写真館の閉鎖、集会の禁止などの感染抑制対策がほとんど行われませんでした。世界保健機関が緊急情報を発信してから、マスクの着用や人の集まる場所の閉鎖などを命じる州も出始めましたが、クリスマスシーズンだったこともあり、集会禁止に反発する住民の動きも出て、更に感染が拡大してしまったようです」
(日本で、初詣で感染拡大しちゃったのと同じ感じかなぁ……)
再び鉛筆を動かしながら私は考えた。アメリカならキリスト教徒が多いだろうから、教会に集まってクリスマスのミサがしたいという声が多かったのかもしれない。教会はある程度の広さがあるだろうけれど、換気をしっかりしていなければ、インフルエンザが拡大しやすい環境になってしまう。
「では、続きましてヨーロッパの状況ですが……」
場が落ち着いたのを確認すると、幣原さんは報告を再開した。
「イギリスでは12月に新型インフルエンザの初めての症例が報告され、クリスマスごろに感染が拡大しました。フランスも似たような経過で、クリスマスのころに感染が拡大しています。2月末までのイギリスの罹患者数は約600万人、フランスの罹患者数は約1000万人です」
罹患者数をメモすると、私は首を傾げた。
「いかがなさいましたか、梨花さま」
大山さんは私の動きを見逃さず、私に優しく尋ねる。
「今のイギリスとフランスの人口がどのくらいか、とっさに思い出せなくてね……」
私が素直に大山さんに答えると、
「イギリスが4100万人、フランスが4000万人ほどでしょうか」
彼はすぐに私が欲しかった情報をくれた。
(ほぼ同じ人口なのに、こんなに罹患者数が違う……?!)
それがなぜなのかと考えようとした矢先、
「イギリスは年明けから、我が国の“新興感染症特別措置法”に倣い、国民に外出自粛要請を出し、劇場や活動写真館に客数制限を命じています」
大山さんが答えを喋り始めた。
「一方、フランスでは外出自粛要請や客席制限などは全く行われておりません。その差が罹患者数の差につながっているのでしょう」
「……大山さん、私の思考を読んだのね」
私がため息をつくと、「ええ、時間も限られておりますから、俺の方で答えてしまう方が早いと思いまして」と大山さんは事も無げに言う。非常に有能で経験豊富な我が臣下に、「ご迷惑をおかけします……」と私は一礼した。
「他のヨーロッパ諸国でも、政府が主導して感染抑制策を取った国では、比較的感染が抑えられているようです」
幣原さんの報告は、淡々と続けられていく。
「特に、ドイツでは市民に厳しい外出制限が掛けられています。外出制限違反が見つかれば、1回目で罰金、2回目で投獄され、10日間拘留されるとか……」
報告を聞いていた迪宮さまが、一瞬目を丸くする。兄も眉をひそめた。
「それは、留置場が足りるのか?」
山縣さんの質問に、「まったく足りていないようです」と幣原さんは首を左右に振る。
「拘留された者たちを、通常1人で使う部屋に4、5人押し込んで、ようやく何とかなっているとか。ただ、ドイツ全体の2月末までの感染者は約85万人とのことです」
(ドイツの人口は約6500万人……イギリス・フランスより感染は抑えこめているけれど、この留置場の環境でインフルエンザが流行したらマズいんじゃないかしら)
私がこう思った時、
「ジュネーブの斎藤からの報告によると、ドイツでは、外出制限違反の取り締まりに、黒鷲機関も動員されているとか」
国軍大臣の山本権兵衛さんが追加情報を述べた。
「また、人心も荒んでいるのか、気に食わない隣人を“外出違反をしている”と電話で警察に密告することも日常茶飯事になっているようです」
「それはひどい。社会不安から経済が失速する可能性もある。ドイツでは何か国民に対する手当てを行っているのでしょうか?」
前内閣総理大臣の渋沢さんが心配そうに尋ねると、
「皆無ですね」
枢密顧問官の陸奥さんが、少し楽しそうに言った。
「感染抑制政策を行っているヨーロッパ諸国でも、国民の不満が高まっているようです。我が国のように、感染抑制政策で影響が出ると思われる業種に融資をしたり、社会の基盤となる事業での雇用を創出して失業者対策をしたりはしていないようですし……我が国の政策を真似するのであれば、その辺りも真似をしないと」
「陸奥閣下、それはなかなか難しいと思いますよ」
大蔵大臣の高橋さんがふくよかな身体を揺らしながら答える。
「国債を臨時に発行して資金を調達できたのは、我が国だからこそです。国債費が国家予算の3%という我が国の財政状況は、我が国の国債の金融市場での人気を高めています。ですから、国債の買い手もすぐに現れるのです。もちろん、国債の乱発は慎まなければいけませんが……」
すると、
「うむ、これも“史実”の知識が、内府殿下によってもたらされたおかげであるんである!“史実”より戦争に掛ける金が少なく済んだからこそ、我が国はこうして、別の有事に対応できているんである!」
大隈さんがびっくりするぐらい大きな声を上げた。
「……知識をもたらしたのは私ですけれど、その後で国の舵取りをしたのはあなたたちですよ」
私は苦笑しながら大隈さんに指摘した。
「それに、ドイツやイギリスと同じように、日本の国民にも不満がたまっています。宴席も減っているし、梅の花を見に行きたくても行けないし……」
「それは確かに……」
「言えるなぁ……」
私の言葉に、伊藤さんと井上さんが渋い表情で頷く。他にも西園寺さんや児玉さんなど、出席している何人かが激しく首を縦に振った。
「うちの子たちも、学級閉鎖がしょっちゅう起こるから、お友達と遊べないと文句を言っています。私だって、城跡の見学に行けないから、ストレスがたまってきていて……」
話しているうちに、辛い気持ちが湧き上がってくる。思わず左の拳を握りしめた時、
「いや、城跡に行けないストレスもあるだろうが、梨花の場合、栽仁と会えないのも相当なストレスになっているのではないか?」
兄が私の痛いところを衝いた。
「あ、兄上……それは、プライベートなことだし、言わないでもらえるかなぁ……」
「おいおい、万智子たちのことを話しておいて、今更それはないだろう?」
私が何とか紡ぎだした反論を、兄は一撃で封じてしまった。
「おや、梨花さま。お顔を真っ赤にされて……もしや、ご体調が優れないのですか?」
からかうように尋ねる大山さんに、私は「違うよぉ……」と答えるのが精一杯だった。
「ん?では、やはり栽仁のことが恋しいのか?」
「こ……恋しくないと言ったら、嘘になるけど……」
兄の質問に、私はとうとう下を向いた。
「でも、今まで毎週末に盛岡町に帰ってきてくれたのだって、特例で認められていたようなものだろうし……それが無くなったからって、私がわがままを言う訳には……」
「おや、若宮殿下は、規則に従って休暇を取られて盛岡町に戻られているだけでございます。ただ、今は東京府が緊急事態宣言下にありますので、東京府への外出が禁じられているだけでございまして……」
国軍大臣の山本さんが私を慰めるように言った時、
「これはいい機会ですねぇ……」
陸奥さんが私をじっと見つめた。
「ちょうどインフルエンザの話も終わったことです。内府殿下がどれほど若宮殿下を想われていらっしゃるのか、この場でのろけていただきましょう。緊急事態宣言で“ストレス”とやらがたまっている梨花会の諸君の無聊を慰めることにもなりましょうし」
「は?!」
陸奥さんのとんでもないセリフに、両目も、マスクの下にある口も丸くするしかない私に向かって、「おお、それはいい!」「是非お聞きしたいものですなぁ」と無遠慮な声が飛ぶ。怒鳴りつけて止めようと思い、息を大きく吸った瞬間、
「それはいいなぁ。緊急事態宣言が出てから、毎週、横須賀の栽仁と手紙をやり取りしているというが、一体どんなことを書いているのか教えてもらおうか」
玉座に腰かけている兄が、微笑を含んだ視線を私に向けた。
「兄上……前にも言ったけれど、信書の秘密という概念を持ってよ」
私はからかうように私を見る兄を睨んだ。
「それにさ、迪宮さまもいるのよ?こ、こんな話、迪宮さまにしたら悪影響が……」
「悪影響も何も……裕仁は、来月の末に成人するぞ。お前の可愛いのろけ話を聞いたところで、何も起こらないと思うが?」
兄への反論は見事な論理で打ち砕かれ、私は唇を引き結んだ。そこに、
「僕は、梨花叔母さまののろけ話を聞きたいです」
迪宮さまが追い打ちを掛ける。私は机に突っ伏した。
「梨花さま、陛下と皇太子殿下のご要望にはお応えしなければなりませんよ」
隣に座る大山さんが、優しく、しかし容赦なく私を促す。
(な、なんだよ、この公開処刑はー!!!!)
そして、予定の時間が終わるまで、私は、横須賀の栽仁殿下と、緊急事態宣言下でどのような内容の手紙をやり取りしているのか、梨花会の面々に白状させられてしまったのだった。
※各国の感染者数は適当に設定しています。あと、経済関係の話はかなり適当です。ご了承ください。




