2月13日の企み
1919(大正4)年2月13日木曜日午後0時30分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「おや、珍しいな。主治医どのが縫い物をしているとは」
呼びもしないのにやって来た内務大臣の原敬さんは、内大臣室に誰もいないことを確認すると、尊大な態度でこう言った。
「マスクを縫っています」
布と裁縫道具を机の端に寄せながら私は答えた。
「先週、葉山にいらっしゃるお母様から、お手紙をいただいたのです。その中に、“この国難を乗り切る力に少しでもなればと思い、自分も女官たちと一緒にせっせとマスクを縫って、赤十字社と済生会に寄付している”と書かれていました」
お母様は、昨年の末から葉山御用邸で避寒している。首都のど真ん中にある赤坂御用地の大宮御所にいると、新型インフルエンザに感染するリスクが高くなるため、兄と私と山縣さんが強く勧めて避寒してもらったのである。
「それに、節子さまも、希宮さまや女官たちと一緒にマスクを縫って寄付しています。そんな状況ですから、私も皇族妃の1人として、マスクを縫っているのです」
私の言葉に、
「……主治医どのは、マスクを縫わない方がいいと思うが」
原さんは呟くように反応する。
「失礼なことを言わないでください。私だって、人並み程度にお裁縫はできるんです」
私が原さんを睨みつけると、
「いや、誤解するな、主治医どの。そういう意味ではない」
原さんは首を勢いよく左右に振り、
「主治医どのには、内大臣として、他にやるべきことがあるだろうが」
と、珍しく穏やかな調子で言った。
(ああ、そういうことか……)
早とちりしてしまったようだ。私は軽く咳払いをすると、
「確かに、私には兄上を助けるという責務があります」
少し威儀を正してから喋り始めた。
「けれど、その仕事の間にマスクを縫うのは、ちょうどいい気分転換になります。それに、私が縫ったマスクは、東京女医学校に寄付するつもりですから、マスクの値段が高くて買えないという女医学校附属病院の患者さんを助けることにもつながります。もちろん、院にも協力してもらって、マスクの値段を不当に吊り上げている悪徳商人たちを捕まえることも大切ですけれどね」
「ふん、分かっているではないか」
再び尊大な態度になった原さんに、
「それで、原さんは何の御用で私のところにいらしたのですか?」
私は事務的に質問した。どうも、最近……というより、西園寺内閣が成立して原さんが内務大臣に就任してから、原さんは皇居にやって来ると、必ずと言っていいほど内大臣室に現れるのだ。原さん曰く、“山縣と大隈を欺くために仕方なく寄っている”ということらしいのだけれど……。
「何、郁子妃殿下のご葬儀に代拝を遣わしてくれた礼を言おうと思ってな」
私の訝しげな視線を受け止めながら原さんはこう答えた。華頂宮郁子妃殿下は、華頂宮の先々代、博経親王の奥様で、盛岡藩の藩主・南部家の出身だ。そんな彼女が新型インフルエンザに感染し、先月の31日に亡くなった。今月9日に執り行われたその葬儀に、栽仁殿下と共に代理の者を差し向けたことに、南部家の家老の家の出である原さんはお礼を言いたいようだ。
「皇族の一員としての責務を果たしただけです。それに、お義父さまと郁子さまは、手紙のやり取りをする仲ではありましたし」
私がこう答えると、
「なるほど、華頂宮殿下と郁子妃殿下は別という訳か」
と言って原さんは頷いた。
「ええ。華頂宮さまには、一歩も近づきたくありませんけれど」
私は机の上にあった湯飲み茶碗に手を伸ばし、お茶を一口飲んだ。
「……で、他に御用は?無いなら、お引き取りいただければありがたいです。マスクを仕上げてしまいたいので」
博恭王殿下のことを思い出してしまったので、気分が悪くなってしまった。私が事務的な口調で言うと、
「それから、内務省での新型インフルエンザ対策の現状について、主治医どのに詳しく教えておこうと思ったのだ」
原さんは偉そうな口調で私に応じた。
(それ、先週の梨花会でも話題に出たじゃない……)
今は青い布マスクをつけているので、表情を隠す努力をする必要はない。そう思って顔をしかめると、
「おい、マスクをしているから表情が隠せると思ったら大間違いだぞ、この小娘が。そう露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいだろう」
原さんが鋭い視線で私をねめつけた。
「だって、同じ話をまた聞くことになるのでしょう?」
私はため息をついた。
「臨時病院を建てる用地の確保をしたり、各市町村に命じて予防標語のポスターをいろいろなところに貼ったり……厚生省との縄張り争いで作業がうまく進まないのではと心配していましたけれど、流石原さんと後藤さん、部下たちもきちんと協力して仕事を進めていると聞いて安心しました。でも、流石に、もう一度同じ話を聞くのは……」
「誰が同じ話をすると言った」
私の言葉に、原さんは不機嫌そうに応じる。
「取り締まりの件を教えてやろうと思ったのだ。それは、梨花会でも話していないだろう」
「確かにそうですけれど……苦労なさっているのは知っていますよ」
どうやら、簡単には内大臣室から出て行ってくれないようだ。私は諦めて話を続けた。
「いろいろと基準を統一するのに大変だと、新聞で読みました」
今日の段階で、緊急事態宣言が出されているのは、47道府県の半分ほどである。その地域に住む多くの国民は、外出自粛要請に素直に従ってくれているのだけれど、中にはなかなか応じてくれない人もいて、トラブルが頻発していた。
外出自粛要請が出されている時でも、食料品や日用品などの生活必需品を買うための外出は許可されている。しかし、その“生活必需品”とは具体的に何を指すのか、という論争が発生してしまった。例えば、ある警官は、“衣類は生活必需品であるから買い出しを許可する”としたけれど、別の警官は“衣類は生活必需品ではないから許可しない”として、衣類を買おうとした主婦に注意を与えた。これなどはまだ序の口で、“買おうとしているものが豪華な振袖ならばどうなるのだ”とか、“洋服、特に背広服は役所では勤務服として定着しているが、それ以外の職種に就いている人間の場合、背広服は生活必需品と言えるのか”とか、“普段着とぜいたくな着物を一緒に買う場合はどうなる”とか、新聞紙上では外出自粛について、様々な議論がなされていた。
「買い出しの中身もそうだが、“冠婚葬祭はどうするのだ”とか、“神事はきちんとしなければならないだろう”とか、“習い事のための外出はどうする”とか、色々言われてなぁ……。結局、来週の月曜日から、習い事のための外出は緊急事態宣言下でも許可することになってしまった」
「え……それは一体どういう事情で許可することになったのですか?」
当初、習い事のための外出は緊急事態宣言下では禁止することになっていた。それが変わるのなら、午後の政務の時、兄に報告をしなければならない。そう思って突っ込んで聞いてみると、
「武術を習っている子供の親たちからは、“将来、兵士として国家の役に立たなければならないのに、兵士になるために心身を鍛える機会を奪うのか!”と叫ばれ、娘に茶道や華道を習わせている親たちからは、“花嫁修業の邪魔をする気か!”と怒鳴られ……しかも双方、小学校や中学校、女学校の教師や校長たちまで巻き込んで、毎日各地の役所まで陳情しに来るのだ……」
原さんは顔をひどくしかめた。
「その他にも、これはどうする、あれはどうすると、各地の警察や役所から問い合わせが頻繁に入るし、通常業務もきちんと進めなければならないし……やることが……やることが多い!」
「厚生省が内務省から分離していてよかったですね。もし分離していなかったら、原さん、もっと大変でしたよ」
両腕で頭を抱えた原さんに冷静に指摘すると、
「でも、少しはいいこともあるのでしょう?人混みが減ったからスリが出なくなったり、盗みに入る家を物色している泥棒の検挙率が上がったり」
と私は更に続けた。
「まぁな」
原さんは首を縦に振ると、
「しかし、“史実”のスペインかぜより、今回の新型インフルエンザの罹患者数は少ないな。スペインかぜは一番ひどい時、4、5か月ほどで2000万人の患者が出て、約20万人が亡くなったが、先月の全国の新型インフルエンザの罹患者数は約45万人、死者も8000人程度だった」
と言った。
「やはり、主治医どのが取らせている対策がいいのか?“史実”では、劇場や寄席の客数制限や公演中止要請などしなかったし、手洗いも推奨されていなかった。マスクも、着用する場面はこんなに多くなかったし……」
「それはよく分からないですね。スペインかぜを起こしたインフルエンザウイルスと、今回の新型インフルエンザのウイルスは、別のものである可能性が高いと思います」
自分の付けている白いマスクの端を指でつまんだ原さんに答えると、私はまたお茶を一口飲んだ。
「例えば、スペインかぜの場合、若者の死亡率が高いと言われていましたけれど、今回の新型インフルエンザは高齢者の死亡率が高いです。まぁ、スペインかぜは第1次世界大戦の末期に流行しましたから、徴兵されていた若者が衛生環境の劣悪な戦場に置かれていたということも加味して考えなければいけませんけれど」
「ふん」
「可能なら、スペインかぜのインフルエンザウイルスと、今回の新型インフルエンザのウイルスの遺伝子配列を比較してみたいですけれど、そんなの、できっこないですからねぇ……」
「“まにあ”な話はどうでもいい。とにかく、主治医どのの見立てでは、今回の新型インフルエンザはスペインかぜと違うのだろう?」
「そう思っていただいて結構です。今回の新型インフルエンザウイルスは、スペインかぜのインフルエンザウイルスより毒性が低い可能性が高いです。けれど、原さん」
これは、きちんと認識してもらう方がいいだろう。私は原さんをじっと見つめた。
「私と原さん、それに梨花会の面々は、スペインかぜのことを知っています。でも、他の閣僚たちや国民の大多数は、スペインかぜのことを知りません。彼らには、今回の新型インフルエンザが、最悪のパンデミックに見えています。だって、今までのインフルエンザでの年間死者数の2倍以上の人が、たった1か月で亡くなってしまったのですから」
「……その通りだ」
原さんは顔をしかめた。
「迂闊だった。主治医どのから教えられるとはな。しかし、医学がらみのことであるから当然か」
そう言うと、原さんは持っていた鞄を開け、中から赤いリボンを掛けた小さな包みを取り出した。
「褒美と言っては何だが、これをやろう。明日は議会で答弁をしなければならないから、こちらに来られないのだ」
(明日……)
原さんが包みをこちらに突き出すのをぼんやり見ていた私は、一瞬、何のことか分からずに考えてしまったけれど、
「……ああ、バレンタインですか」
と言いながら、原さんから包みを受け取った。
「どうもありがとうございます。お返しはいつも通り、3月14日にさせていただきますね」
“史実”でホワイトデーが存在したことが梨花会の面々にバレてしまった後、彼らは2月14日に私にプレゼントをし、3月14日にそのお返しを私からもらうことを強く望んだ。そのため、ここ10年ほどは、2月14日のバレンタインに私が梨花会の面々からプレゼントをもらい、3月14日に私が彼らに菓子器に入った金平糖を渡すということを続けている。世間に広まってしまったバレンタインの習慣も、いつの間にか、“2月14日に大切な人に贈り物をする。その贈り物を受けとった人は、1か月後の3月14日にお返しをする”というように変わってしまった。
「ええと、中身は、と……」
リボンを解いて包みを開けると、中には5個のスコーンと、小さないちごジャムの瓶が入っていた。美味しそうだな、と思いながらプレゼントを眺めていると、
「それはな、知り合いの西洋菓子屋に作ってもらったものだ」
原さんがこう説明した。
「スコーンをそのまま食べてもよいが、そのジャムを付けて食べるとまた絶品でな。先日食ったら美味かったから、主治医どのの口にも合うかと思って」
「確かに美味しそうですね……」
私は唾液が口の中ににじみ出るのを感じた。私だって医者だから、食べ過ぎはいろいろな意味でよくないということは分かっている。けれど、ふとした時に、甘いものを食べたくなる瞬間というものはやって来るのだ。午前中の兄の政務の手伝いと、突然現れた原さんの相手で疲れた私の脳は、目の前にあるスコーンとジャムを欲していた。
(バ、バレンタインのプレゼント、桂さんの外郎以外食べたことはないけれど、おやつは別腹とも言うし……、今、食べてもいいかしら?)
私がそっと包みに手を伸ばそうとした刹那、
「失礼致しますよ」
ノックに対する応答も聞かずに、1人の男性が内大臣室に踏み込んできた。元内閣総理大臣、現在は枢密顧問官の1人である陸奥宗光さんである。
「ちょっと、陸奥さん、勝手に入って来ないでください」
私の抗議に、「ああ、これは失礼」と優雅に謝罪すると、
「やはりここにいたね、原君」
陸奥さんは原さんに視線を向けた。恐らく、彼の白いマスクの下には、不敵な笑みが湛えられているのだろう。
「せ、先生……」
僅かに後ずさる原さんを見据えながら、
「内府殿下のバレンタインの抜け駆けをしようなんて、いい度胸じゃないか」
陸奥さんはどこか楽しそうな調子で言った。
「内府殿下は毎年、桂殿が差し上げる外郎しか口にされず、他の贈り物は、全て盛岡町のお屋敷の職員たちに分け与えられてしまう。桂殿がうらやましいから、何とかして自分の贈り物の菓子を召し上がっていただこうと思って、1日早くバレンタインの贈り物をしようとしたんじゃないのかい?」
「誰がこんな小娘に!」
吐き捨てるように叫んだ原さんは、なぜか少し動揺しているように見えた。
「わ、わたしは明日、衆議院でも貴族院でも答弁をしなければなりませんから、こちらに来られないのです。しかし、この小娘に贈り物をしなければ、山縣や大隈に怪しまれますから、今日渡すことにしただけのことです」
「ほう……そんなもの、答弁の間にこちらに伺えば済む話じゃないか。わざわざ今日、こちらに来る必要はないと思うけどね」
原さんの反論を、陸奥さんは軽くいなした。黙り込んでしまった原さんに、
「切れ者の内相も形無しだね」
陸奥さんはこう言って笑いかけ、
「という訳で内府殿下、せっかくの原君の真心、どうか今すぐ召し上がってください」
と私に向かって言った。
「い、いや、主治医どの、今、無理して食べるな!もうすぐ、陛下もこちらに戻られるだろう!」
顔を真っ赤にして両手を振る原さんに、
「おや、まだ時間はあるよ。……そうだ、大山殿に紅茶を淹れてもらって、僕と大山殿と君、そして君の敬愛する主治医どのと4人で、昼食後のお茶をいただこうじゃないか」
陸奥さんは実に楽しそうにこう誘う。
「先生ぇ!!」
原さんの悲鳴が響き渡る中、騒ぎを聞きつけて内大臣室にやってきた大山さんによって、お茶の仕度が整えられていく。……こうして、午後の政務が始まる前、内大臣室では、ちょっとしたお茶会が開催されたのだった。




