表御座所の闖入(ちんにゅう)者
1919(大正4)1月22日木曜日午前11時45分、皇居・表御座所にある兄の執務室・御学問所。
「なぁ、梨花。マスクは外さないか?」
午前中の政務が終わった後の休憩時間。節子さまが縫った白い布製マスクを付けた兄が私に言った。
「今、この部屋には俺と梨花しかいない。それに、俺も梨花も健康だ。お互い、マスクをする必要はないと思うのだが」
半ば呆れたような声で私を説得しようとする兄に、
「私が新型インフルエンザに感染しているけれど、症状が全く出ていないだけ、という可能性もゼロではないわ」
自分で縫った青い布マスクをつけた私は冷たく応じた。
「それでマスクを外して、兄上が新型インフルエンザに感染したら、私、自分のことを一生許せないわ。兄上が……兄上が、私のせいで体調を崩すなんて……」
両方の拳を握ってうつむいた私に、「分かった、分かった」とやや投げやりに頷くと、
「本当に、俺が体調を崩すのを過剰なくらい心配するのは、小さい頃から変わらないな」
兄はそう言って苦笑した。
「当たり前でしょ。私は兄上の主治医だし、それに、東京市内の流行状況を考えたら、さぁ……」
嫌なことを思い出し、私は大きなため息をついた。
昨年の12月25日に福井県敦賀町で発生した新型インフルエンザは、年末には東京市・京都市・大阪市でも確認された。厚生省が内務省から分離した時に全ての道府県に設置された保健所では、正月休みを返上して対応に当たったけれど、年が明けると、新型インフルエンザは大都市で感染拡大を起こした。そして、1月4日に福井県の知事が、10日に東京府・京都府・大阪府・神奈川県・兵庫県の3府2県の知事が新興感染症特別措置法に基づく緊急事態宣言を発出する事態に陥ってしまった。東京府が緊急事態宣言下に置かれたので、各省庁では、勤務中と通勤中は基本的にマスクを着用するように通達が出された。それで私も兄も、マスクをつけて喋っているのだ。
「東京府で最初の感染者が確認されてから今月の20日までに、東京府の保健所に届け出があった新型インフルエンザの患者数が約12万7000人、死者の数が約1800人か……」
手元の報告書を見ながら肩を落とした兄に、
「斎藤さんから昔聞いた話だと、“史実”の“スペインかぜ”では、一番ひどい時、東京府で1か月に約46万5000人が罹ったというから、それよりはマシだけれど、油断は禁物ね。感染者数のピークがこれから来る可能性もあるから」
私はこう指摘する。そして、
「初詣の人出が抑えられれば、今の感染者数はもっと少なかったと思うけれど……」
と付け加えると、再びため息をついた。
もちろん、初詣の混雑に対して、政府も手をこまねいていた訳ではない。特別措置法成立への根回しが行われ始めた頃、宗教を管轄している内務省では、“初詣は基本最寄りの寺社仏閣で、家長かその代理者1人だけが一家を代表して行うように”と大々的に呼びかけた。ところが、蓋を開けてみれば、有名な神社仏閣、特に疫病退散や病気平癒のご利益があるとされる神社仏閣に、各地から例年以上の初詣客が押し寄せてしまった。各鉄道会社では、初詣客のために運転する予定だった臨時列車の本数を、予定よりも増やして対応しなければならなかったほどだった。
「初詣の人混みで、新型インフルエンザの感染が拡大した可能性が高いわ。それが嫌だから、原さんに頼んで、初詣客を少なくするような呼びかけをしてもらったのに、全然ダメだった」
そう言って口を尖らせた私に、
「それは仕方が無いな。梨花の話を聞いていると、この時代の国民は、お前の時代の人間より神仏への信仰が篤いようだから、このような状況では、神仏に縋りたくなるだろう。俺が、“科学的な方法によってインフルエンザ対策をするように”と勅語を下してもな……」
兄はなだめているのか、自嘲しているのか、よく分からないことを言う。
「何言ってるの。国民が落ち着いて行動しているのは、兄上が勅語を下したおかげよ」
私はわざと明るい調子で兄に応じた。
「株価や食料品の価格も、年明けから落ち着いた。市民が暴動を起こすこともない。外出自粛要請にも粛々と従ってくれている。兄上の勅語が無かったら、まだ国民は混乱していたわ」
「そうか……?しかし、国民の混乱を抑えられるのは、総理大臣が行う政策だ」
「それはそうかもしれないけれど、その原動力になっているのは兄上の勅語よ。インフルエンザ対策に関する特別予算が、貴族院からの抵抗を受けずに昨日成立したのも、兄上が勅語で、“できる限りの対策を政府に講じさせる”と言ったから。緊急事態宣言が出された地域で、臨時職員の雇用や、外出自粛要請で影響が出る業種への給付金支給がスムーズに始まっているのも、兄上の勅語でみんなが落ち着いているからだよ」
私は兄の不安を打ち消そうと言葉を尽くした。けれど、兄の眉間の皺が消える気配はない。
(どうしたんだろう、兄上……まさか、体調が悪いの?!)
私が兄の体調を確認しようとした時、
「……残念だ」
兄が私を真剣な目で見つめて言った。
「へ?」
何のことか分からず、間の抜けた返事をしてしまった私に、
「お前の顔の全てが見られなくて」
兄は真面目な調子でこう言った。
「ちょっ……あ、兄上?!そ、それ、マスクを外せって言いたいの?!」
何のことか全く分からず狼狽する私に、
「ああ、お前の美しい顔が見られないからな」
兄は相変わらず真面目に答える。
「政のことを話している時のお前は、普段とは違う凛とした美しさをまとっている。その美しい表情が見られないなど、俺にとっては損失でしかない。だからマスクを外せ、梨花」
「お断りよ!万が一、私が新型インフルエンザに感染していたらどうするの!」
「その時は、俺も新型インフルエンザに罹るかもしれないな」
「だーかーらー!それが嫌だからマスクをしているのよ!」
兄の言葉が癪に障った私は、椅子から勢いよく立ち上がった。
「何回言ったら分かるのよ!兄上が新型インフルエンザに罹るのが嫌だから、マスクをしてる、って!兄上の主治医として、東京府に緊急事態宣言が出ている間は、私は絶対にマスクを外さな……」
「静かにしろ、章子」
突然、兄が小さな、けれど重い声で私を呼んだので、私はいったん口を閉じた。
「曲者……?」
人払いをしているこの部屋で、兄が私を“章子”と呼んだということは、兄が誰かが近づいてきているのを気配で察したということだ。私が障子の方を向いて身構えると、
「いや、曲者ではないのだが……」
と言って、兄は首を傾げる。そのまま考え込んだ兄が、
「興仁……?」
と口にしたのと、
「お父様!」
学習院の制服を着た兄夫婦の末っ子・倫宮興仁さまが障子を開けて御学問所に入ってきたのはほぼ同時だった。
「あ、梨花叔母さま、こんにちは!」
元気よく挨拶をしてくれた倫宮さまに「私は章子だよ」と訂正を入れてから、
「倫宮さま、どうしたの?今は学習院にいる時間じゃ……」
と私が尋ねると、
「インフルエンザの子が出たから学級閉鎖になって、3時間目から授業が無くなりました」
学習院初等科1年生の倫宮さまは、ハキハキと私に答えてくれる。そう言えば、緊急事態宣言下にある地域の学校では、クラスで1人でもインフルエンザの患者が出た場合、4日間の学級閉鎖をするように定められている。
(ということは、うちの謙仁も倫宮さまと同じクラスだから、家に帰っているわね。福島さんに任せておけば大丈夫だけれど……)
私が考えを巡らせた時、
「しかし興仁、どうしてこちらに来たのだ?」
兄が不思議そうに倫宮さまに聞いた。
「お父様と叔母さまがお仕事をしているところを見たかったんです」
倫宮さまは目をキラキラさせながら父親に答えた。
「学校がお休みになったから、謙仁たちとも遊べなくなっちゃった。だからつまらなくて……せっかくだから、普段は見られないものを見てみようかなって」
倫宮さまのはしゃぐような言葉と、
「倫宮さまっ!」
いつの間にか彼の背後に立っていた西郷さんの大声が重なった。「げっ」と一声叫んだ倫宮さまは、素早く西郷さんから身体を遠ざけようとしたけれど、それより僅かに早く、西郷さんが倫宮さまの首根っこを掴んでいた。
「手習いの最中に逃げ出すとは、とんだ悪戯者ですなぁ」
黒い布製のマスクを付けた西郷さんは、「放して!放して!」とジタバタする倫宮さまの制服の襟を後ろから掴んだまま、のんびりと言った。
「しかも、陛下と内府殿下のお仕事の邪魔をなさるとは。さ、お部屋に戻って手習いの続きを致しましょう。昼食はそれが終わってからですぞ」
西郷さんはこう付け加えると、「大変失礼いたしました」と兄と私に頭を下げ、倫宮さまの身体を引きずりながら去って行く。「ごめんなさい!爺、ごめんなさい!」という倫宮さまの叫びが遠くなると、
「……仕事はしていなかったのだがな」
兄がこう呟いた。
「ま、それを言ったら話がややこしくなるから、あれでよかったんじゃないかな」
兄に苦笑交じりに答えた私は、
(学級閉鎖、かぁ……いろいろ、影響が出始めたわね……)
そう思って、暗澹たる気分に陥ったのだった。
1919(大正4)年1月22日午後0時2分、皇居・表御座所。
(ふぅ……お腹空いたぁ……)
昼食のため奥御殿へと戻る兄を見送ってから、内大臣室に戻るために廊下を歩いていた私は、前方に、普段表御座所にはいないはずの人物を見つけた。古びたカーキ色の歩兵中将の軍服を着たその男性は、しきりに辺りを見回している。
「……乃木閣下?」
とりあえず声を掛けてみると、兄夫妻の長女・希宮珠子さまの輔導主任である乃木希典さんは、パッと私の方に振り向き、
「これは内府殿下、見苦しいところをお目にかけました」
と言って、私に一礼した。
「閣下がこちらにいらっしゃるなんて珍しいですね。一体、どうなさったのですか?」
私が尋ねてみると、
「実は、希宮殿下を探しておりまして……」
乃木さんは暗い声で答えた。そう言えば、華族女学校の希宮さまのいるクラスも、昨日から学級閉鎖になったと兄が言っていた。
「先ほど、倫宮殿下が姿をくらまされたとお聞きになり、“わたしも探しに行く”とおっしゃって、お部屋から走って出て行かれたのです。万が一のことがあってはならないと思いまして、奥御殿は隈なく探したのですが、どこにもいらっしゃらず……」
乃木さんが顔を曇らせたのが、彼の掛けているカーキ色の布製マスク越しでも分かる。
「つい先ほど、倫宮さまは見つかりましたけれど、希宮さまが……心配ですね」
私が眉をひそめて乃木さんに応じた時、
「あら、乃木と梨花叔母さまじゃない」
謁見者の控室の方から、可愛らしい声が響いた。振り向くと、廊下の曲がり角の所に、希宮さまが立っている。赤い縞模様の和服に海老茶色の女袴を付けた彼女は、私と目が合うと微笑した。
「希宮殿下っ!」
私が希宮さまに挨拶しようとした刹那、乃木さんが大音声を発した。驚いて動けなくなってしまった私をよそに、乃木さんは足音を立てながら希宮さまに向かって突進して、
「どちらへ行っておられたのですか!心配致しましたぞ!」
激しい口調で彼女に言った。
「ごめんね、乃木。興を探して表御殿まで来たのだけれど、途中で、表御殿は1回しか入ったことが無いのを思い出してね。せっかくの機会だから、ついでに見物して回っていたのよ」
「はぁ……いけませんぞ、希宮殿下。しかも、マスクを掛けずに歩き回られるとは」
「緊急事態宣言で表御殿にも人が少ないから、マスクをつけていなくても大丈夫よ」
「いけません。新型インフルエンザは用心が大切と、希宮殿下ご自身がおっしゃっていたではないですか。だから私にこのマスクを賜ったのでしょう」
悪びれることなく話し続ける希宮さまに、乃木さんは若干呆れながらもお説教し続けている。
(ああ、乃木さんのマスク、希宮さまがあげたのか……)
2人のやり取りを聞きながらぼんやり思っていると、
「分かったわ」
希宮さまが袂から白いマスクを出し、マスクの紐を耳に掛けた。
「これでいいでしょ、乃木?」
「はい」
こちらに顔を向けた主君に、乃木さんは重々しく頷くと、
「では、奥御殿に戻りましょう」
と言って、深々と頭を下げた。
「はぁい」
マスクをつけた希宮さまは返事をすると、乃木さんの後ろをついて歩きながら、
「じゃあ、叔母さま、ごきげんよう。お仕事、頑張ってくださいね」
そう私に挨拶して、表御座所から去って行った。
「もうすぐお昼ごはんね。どんな献立かしら?」
「存じませんが……それより希宮殿下、ご昼食の前に、御手を石鹸で洗わなければなりませんぞ」
「分かっているわよ。手指の衛生を保つことは、医療職の基本だもの」
「恐れながら……マスクを必要な場面で使用することも、医療職の基本かと存じますが」
「まぁ、乃木、どこでそんなことを覚えたの?」
「最近、書物で勉強致しました。希宮殿下が薬剤師を目指されるのであれば、私も希宮殿下の臣下として、医学や薬学について、少しは知っておくべきですから」
希宮さまと乃木さんの会話は、2人が廊下の角の向こうに姿を消した後も、私の耳に届いていた。希宮さまに話しかける乃木さんの声は、厳しいけれど、どこか嬉しそうでもあった。
「……私も頑張らなきゃ」
落ち込んでいる暇はない。そんな時間があるならば、できることをやらなければならない。私は気合を入れ直すと、まずは昼食を取るために、内大臣室に戻ったのだった。




