表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第65章 1918(大正3)年小雪~1919(大正4)年春分
551/799

手洗い撮影見学会?

「内府殿下、恐れ入りますが、もう5cmほど、御手を蛇口に近づけていただけますか?」

 1918(大正3)年12月12日木曜日、午後1時30分。皇居の表御殿と渡り廊下でつながっている宮内省の手洗い場に私はいた。私のそばでは、宮内省のカメラマンがカメラを構えている。兄と節子(さだこ)さまをはじめ、皇族たちの写真を数えきれないくらい撮影してきた彼も、皇族の手に主眼を置いた写真を撮るのは初めてのようだ。私に呼びかける声は若干上ずっていた。

(それに……こんな状況だと、カメラマンさん、余計に緊張するわよね)

 私はカメラマンの背後をチラッと見た。彼のすぐ後ろには、東京帝国大学医科大学外科学教授の近藤次繁(つぎしげ)先生と、京都に行った北里先生の跡を継いで医科学研究所所長に就任した志賀(しが)(きよし)先生が立っている。この2人は、私の手洗い写真の監修のために特にお願いして呼んでもらった。ここまでは想定の範囲内なのだけれど……。

(だけど、なんでみんな見物に来るのかしら……)

 近藤先生と志賀先生のそばには、宮内大臣の山縣さんがいる。更には、内閣総理大臣の西園寺さん、内務大臣の原さん、厚生大臣の後藤さんなど、梨花会の7割ほどの人間がいて、こちらに無遠慮に首を突っ込み、私をじっと見つめていた。この異様な状況で、異例の撮影に臨んでいるカメラマンの額には、初冬だというのに汗が光っていた。

「あの……監修の近藤先生と志賀先生は仕方ないのですけれど、他の方々は、ここから出て行っていただけないでしょうか?」

 大勢の前に出るのは慣れているけれど、衆人環視の中で写真を撮られるのは、流石に息が詰まりそうだ。そこで、お呼びでない見学者たちに呼びかけてみたのだけれど、

「恐れながら内府殿下、わしは宮内大臣として、我が省のカメラマンがきちんと役目を果たすのを見届ける必要がございます」

山縣さんが真面目な顔でよく分からない答えをした。

「我輩には、厚生省の責任で作成するインフルエンザ対策小冊子に、万が一のことが起こらないよう、監督する義務があるのです!」

「後藤さんと同じく……我が内務省の責任で全国各戸に配布する小冊子に間違いがあってはなりませんから、こうやって監視をしております」

「そして政府の責任者として、僕も同席させていただいている訳です。新型インフルエンザはいわば国難……できる限りの対策を、最上の質で国民に提供しなければなりませんからね」

 厚生大臣の後藤さん、内務大臣の原さん、そして内閣総理大臣の西園寺さんが次々に理由を述べる。彼らの視線は私に釘付けになっていた。

(なんで原さんまでいるんだよ……)

 心の中で白髪の内相に弱々しく毒づくと、

「……で、他の皆さんは?なぜここにいらっしゃるのですか?」

私は半ば義務的に質問した。

「決まりきったことでございましょう、内府殿下!」

 東宮御学問所総裁の伊藤さんが、反論するかのように叫んだ。

「皇太子殿下が新型インフルエンザに感染なさったら大変でございます!ですから、わしは予防方法としての手洗いをこの撮影を通して覚え、皇太子殿下にご教授申し上げなければなりません!」

(おい)も似たような理由じゃのう。淳宮(あつのみや)さまと英宮(ひでのみや)さまと倫宮(とものみや)さまに手洗いについてご教授申し上げるのは、輔導主任としての義務ですからなぁ」

 伊藤さんに続き、迪宮(みちのみや)さまの弟たちの輔導主任を務める枢密顧問官の西郷さんがのんびりと述べる。それなら、叔母の私が直接彼らに手洗いを教える方が早いのでは、と頭の中で反論した瞬間、

(おい)……ではない、私も、国軍大臣として責任をもって、全ての国軍将兵に手洗いの方法を伝達し、実行させなければなりません!そのためには、内府殿下の手洗いの撮影を拝見して、学ぶ必要があるのです!」

「うん、その通りだな、権兵衛。俺も航空局長として、部下たちに手洗いの何たるかを教えなければならない。そのためには、この撮影を見学しなければな」

国軍大臣の山本権兵衛さんと、国軍航空局長の児玉源太郎さんが、意味不明なことを言いながら頷き合った。私は両腕で頭を抱えたくなったのを必死に我慢した。

「立憲改進党の同志らに、手洗いの方法を伝授するのは、この桂が責任を持ってやり遂げなければならぬこと!」

 前内務大臣で貴族院議員でもある桂さんが拳を握りしめれば、

「桂君の言う通りであるんである!吾輩も内府殿下の手洗いの撮影を拝見して、手洗いの何たるかを学ばせていただくんである!」

桂さんの所属する立憲改進党の党首である大隈さんが大音声を発した。

(頼むから、他の人間から学んでくれないかな、そういうのは……)

 私が大隈さんに心の中でツッコミを入れたその時、

「へっ、しゃらくせぇ。みんなグダグダ言い訳しやがって」

元内閣総理大臣の井上さんが堂々とした態度で言った。

「内府殿下を見たいからここに来た、でいいじゃねぇか。誰に教えたいだの、仕事に責任を持つだの、そんなの関係ねぇ。俺は、俺が内府殿下を見たいからここに来たんだ!」

 雷が落ちたような大声で主張する井上さんに、「その通りですな」「さよう」と、黒田さんと松方さんが同調する。

「なるほど……。確かに、正々堂々と押し通ることも時には必要ですね。清々しくて気持ちがよい」

 前髪をかき上げながらこう言った陸奥さんを、

「清々しくても清々しくなくても私は許しませんよ」

と言いながら私は睨みつけた。けれど、その程度で動じる陸奥さんではもちろん無く、彼は私の視線を柔らかく受け止めながら、私に余裕のある微笑みを向けている。

(お、大山さん……って、今、私の代わりに兄上の政務を手伝っているんだった。くっそー、私だけでこの人たちの相手をしないといけないなんて……。こうなったら、怒鳴り散らしても殺気を出してもいいから、この人たちを追い払って……)

 私が思い切り息を吸い込んだその時、

「恐れながら内府殿下、もう少し、お顔を穏やかに……」

医科学研究所所長の志賀先生が私に声を掛けた。

「……志賀先生と近藤先生の後ろにいる人たちへの怒りが収まらないのですけれど、それでも、穏やかな顔をしないといけませんか?」

 私の質問に、志賀先生は「ええ、そうしていただかなければ大変です」と冷静な口調で答えた。

「今日中に、お写真を全て仕上げてしまわなければなりません。写真の確認にも時間を要しますから、撮影作業に専念していただかなければ、予定が消化できません」

「じゃあ、後ろの人たちにご退場をお願いしたいです。第一、今は平日の午後ですから、各省庁ともに仕事中のはずですし」

 私が再び呼んでもいないギャラリーを睨みつけると、

「謹んでお断り申し上げます、内府殿下」

「ああ、何があってもここは譲りませんぞ」

陸奥さんと伊藤さんの言葉に居並ぶ全員が一斉に首を縦に振った。

(ダメだ、こりゃ……)

 私は大きなため息をつくと、心を無にして、手洗い写真の被写体役を務め続けたのだった。


 1918(大正3)年12月12日木曜日午後2時、宮内省。

 写真撮影が終わった後、私は写真が出来上がるまで、宮内省の大臣応接室で待たせてもらうことにした。勝手に撮影を見学していた梨花会の面々も、私と一緒に応接室に入ろうとしたけれど、

「私、待たせていただいている間、近藤先生と志賀先生と一緒に、とてもマニアな医学の話をしますね」

私が作り笑いと共に宣言したところ、ほぼ全員、波が引くようにその場から立ち去って行った。ただし、医師でもある厚生大臣の後藤さんだけは残り、私と近藤先生と志賀先生の話に加わることになった。

「志賀先生、インフルエンザの病原体に関する研究は、どこまで進んでいますか?」

 全員が椅子に掛けたところで、私が話の口火を切ると、

「恐らく、内府殿下が軍医として働いていらっしゃった頃と変わりがありません」

志賀先生が私に答えるとため息をついた。

「つまり、インフルエンザ桿菌(かんきん)がインフルエンザの発症に関わっているだろうけれど、確証がない……という見解で落ち着いているということですね」

 インフルエンザ桿菌というのは、1892(明治25)年1月に、コッホ先生の弟子であるリヒャルト・プファイファー先生と、当時ドイツに留学中だった北里先生が、独立して同時に発見した細菌で、この時の流れでは、“インフルエンザ桿菌”とも、“プファイファー菌”とも、“プファイファー・北里菌”とも呼ぶ。この細菌がインフルエンザを何らかの方法で引き起こすのだろうという仮説が、今の医学界では支配的である。

 ただし、日本の医学者の一部は、インフルエンザの原因はインフルエンザ桿菌ではなく、インフルエンザウイルスだということを私から聞いて知っている。だから、何とかしてインフルエンザウイルスの存在を証明したいのだけれど、その研究はなかなか進んでいなかった。

「内府殿下のおっしゃる通りです」

 軽く頭を下げた志賀先生は、

「ウイルス……細菌より小さな濾過(ろか)性病原体が存在することは、少しずつ認められてきました。例えば、内府殿下も王立プロイセン感染症研究所を御見学なさった際にお話を聞かれたと思いますが、家畜の伝染病である口蹄疫(こうていえき)、あれを引き起こすのは濾過性病原体であると証明されています」

と続けた。確かに、口蹄疫は私の時代ではウイルスが引き起こす病気だと分かっていた。

「他にも、感冒症状がある患者から鼻汁を採取し、濾過して細菌を取り除いた後、そのろ液を健康な人の鼻腔に滴下したところ、被検者が感冒症状を示した、という報告もあります」

「ですが、被検者がろ液を鼻腔に滴下される前に、その感冒の病原体に感染していても、同じような実験結果が得られますね。潜伏期間は分からないわけですから」

 志賀先生の説明に、近藤先生がこう指摘すると、「はい、そのような理屈も成り立ってしまいます」と言って志賀先生は暗い顔をした。

「まず、インフルエンザがウイルス……濾過性病原体で感染することを証明しなければなりません。しかし、普通の感冒ならまだしも、インフルエンザウイルスが含まれるろ液を人の鼻腔に滴下して実験する訳にはいきません。ですから、適当な実験動物がいるかどうかをここ数年、医科研でも探してきました。しかし、モルモット、ラット、ウサギ……現在医科研で使用している実験動物は、ヒトのインフルエンザウイルスに感染してくれません」

 ヒトのインフルエンザウイルスについて研究するならば、それに感染してくれる適当な動物を探さなければならない。私もブタがヒトのインフルエンザウイルスに感染することは知っていたけれど、他の動物がヒトのインフルエンザウイルスに感染するかどうかまでは知らなかった。そこで志賀先生たちは、扱い慣れている実験動物がヒトのインフルエンザウイルスに感染するかどうかを調べたのだ。モルモットやラットがヒトのインフルエンザウイルスに感染してくれれば、実験はブタを使うよりはるかに楽に進められる……という目論見があっての実験だったけれど、ことごとく失敗に終わってしまった。

「ですから、我が医科研では初めてのことになりますが、ブタを使った動物実験をする必要があります。既存の実験動物舎ではブタに対応できませんから、新しい実験動物舎を建設しなければなりません。……後藤閣下、建設のための予算をつけていただけないでしょうか?」

 志賀先生は立ち上がると、後藤さんに向き直り、深く頭を下げた。

「もちろんですとも、志賀先生。将来の国民を救うために必要なことです。何らかの形で予算に組み込めるようにします!」

 後藤さんが力強く言った横から、

「もしダメだったら、私からお義父(とう)さまに、有栖川宮(ありすがわのみや)家から建設資金を出すように頼んでみます。まぁ、お義父(とう)さまが断るはずがありませんけれど」

私もこう言い添えた。内大臣に就任した直後、それまで私が務めていた医科研の総裁職は義父・有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下に引き継いでもらった。梨花会の方針で、運営に関わっていた私とは違って、義父はお飾りの総裁ではあるけれど、医科研が困っていると知れば、必ず手を差し伸べてくれるはずだ。

「ああ、ありがとう存じます!」

 志賀先生は後藤さんと私に向かって最敬礼すると、

「インフルエンザが濾過性病原体で感染するとブタで証明できましたら、今度は内府殿下から以前ご教授いただいたように、ニワトリの有精卵を使ってワクチンを作らなければなりません。理科大学の長岡先生の電子顕微鏡が完成すれば、ウイルス自体の写真も撮影しなければなりませんし、ウイルスの定量方法やワクチンの力価の推定方法も整備しなければなりません。やらなければならないことはたくさんありますが、将来を見据えて、やれることはやらせていただきます!」

と、大きな声で決意を述べた。長年の研究の末、一昨年、東京帝国大学理科大学の長岡半太郎教授は、電子顕微鏡の基礎となる電子レンズの実験に成功した。あと数年すれば、待ち望んでいた電子顕微鏡が実用化できるだろう。

 すると、

「志賀先生、よろしいでしょうか?」

近藤先生が右手を軽く挙げて志賀先生に呼びかけた。

「現在の医科研に、インフルエンザのことを本格的に研究できる人材はいるでしょうか?皆さん、研究や血清・ワクチンの製造で忙しくなさっておいでですし……」

 そうなのだ。設立当初と比べたら、人材は遥かに揃っているけれど、医科研は慢性的な人手不足に陥っている。医学者を育てる環境も整ってきているし、留学生も迎えているけれど、やる仕事が多いために手が空いている医学者がなかなかいないのだ。

「志賀先生、もしよろしければ、私の部下から適当な人材を見繕ってください。インフルエンザのことは重大な問題です。研究は不慣れではあるでしょうが、先生方の手足ぐらいにはなるはずです」

「お気遣いありがとうございます、近藤先生」

 志賀先生は近藤先生にお礼を言ってから、

「ですが、御心配には及びません。実は、ちょうど、シュナイダー先生と野口君の手が空いているのです」

こんなことを口にした。エリーゼ・シュナイダーことヴェーラ・フィグネルと野口英世さんのコンビは、昨年、百日咳菌のワクチンを完成させていた。

「百日咳菌のワクチン製造も軌道に乗りましたからね。それに、あの2人は遠心分離の利用法に長けています。ウイルスの分析には、その手法が必ず役立つと思うのです」

「なるほど」

 近藤先生が大きく頷く。確か、百日咳菌のワクチン開発にあたって、ヴェーラと野口さんは遠心分離器を特注したり、溶液を工夫したりして、抗原となる物質をなるべく純粋に取り出そうとしていた。志賀先生の言う通り、この2人が百日咳菌のワクチン製造で培った経験は、きっとインフルエンザウイルスの発見、そしてワクチンの開発に役立つだろう。

「志賀先生、研究のこと、よろしくお願いします。私もできる限り、援護射撃をさせていただきます」

 私が立ち上がって頭を下げると、志賀先生もまた、私に向かって最敬礼したのだった。

※インフルエンザ桿菌は、実際にはプファイファー菌と呼ばれていました。

「インフルエンザ菌:だれが最初の発見者か」(田口文章, 滝龍雄, 会田恵.『日本細菌学雑誌』1995年 50巻 3号 p.787-791, 日本細菌学会)を参照して、北里先生も同時に独立発見したということにしています。


※電子顕微鏡についてはかなりガバガバです。ご了承ください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ