新興感染症特別措置法
1918(大正3)年12月10日火曜日午後4時、皇居・表御殿。
「なるほどなぁ」
牡丹の間で開かれている臨時の梨花会。私がアメリカで流行している新型インフルエンザについて簡単に講義し、厚生大臣の後藤さんが新型インフルエンザに対応するための法律……“新興感染症特別措置法”についての説明を一同に行った直後、元内閣総理大臣の井上さんは腕組みして唸った。
「不要不急の外出の自粛要請、劇場や寄席、活動写真館の観客削減や公演の中止要請……感染抑制のための政策を強力にやると、芸術関係だけじゃねぇ、幅広い業種に影響が出るな。花街や飲み屋街なんて、立ち行かなくなっちまうだろう。内府殿下のご心配もよく分かるぜ」
井上さんが難しい顔でこんなことを言ったので、
「あ、あの、私の意見は差し挟まないようにして新型インフルエンザの講義をしたつもりですけれど、もしかしたら、その調整がうまくいっていなかったでしょうか?」
心配になった私は彼に確認した。すると、
「いや、おととい、狂介から聞いたんですよ」
井上さんは隣の席に座っている宮内大臣の山縣さんをチラッと見ながら答えた。
「ゆっくり茶を点ててやろうと思ったのに、狂介の奴、会うなり“内府殿下のお考えは本当に素晴らしい”って泣き始めたから、内容を聞き出すのに時間が掛かりましたがね」
「聞多さん?!」
井上さんの暴露に山縣さんが両眼を剥く。それを見た井上さんはククっ、と小さく笑った。
「……それはともかくとして、感染抑制のための政策を強力にやるなら、やはり影響が出る業種に、施設の維持費や人件費ぐらいは融資するべきでしょう。問題は、それにどのくらいの費用が掛かるかだが……高橋、分かるか?」
「正直言って、どのくらいの金額が必要になるか、見当がつきませんね。“史実”のスペイン風邪と同じ期間、今回の新型インフルエンザが流行するならば約3年間となりますが、それより流行期間が長くなる可能性も、短くなる可能性もありますから」
井上さんの問いに、大蔵大臣の高橋是清さんはふっくりした身体を揺らしながら応じた。
「衛生対策に掛かる費用はおよそ200万円と思われますが、感染抑制政策によって影響が出る業種への融資の他にも、資金が必要な対策を取らなければなりません。一部は予備金から出資ができますが、それだけでは足りなくなるでしょうから、やはり国債を発行するのが無難でしょう」
「その方がよろしいでしょうな」
高橋さんの言葉に、前内閣総理大臣の渋沢栄一さんが頷く。「新型インフルエンザが大流行すれば、その混乱に乗じて、物価を吊り上げようとする輩が必ず現れます。その対策にも金が必要ですからね」
と、
「あの、渋沢閣下、質問してもよろしいでしょうか?」
私の前の席に座っている迪宮さまが右手を挙げた。
「はい、皇太子殿下、何なりと」
恭しく頭を下げた渋沢さんに、
「インフルエンザ対策に関係するような物品……例えば、梨花叔母さまが先ほど“予防に必要だ”とおっしゃった、マスクや石鹸、消毒用のアルコールなどの値段が上がりそうだというのは何となく分かります。ですが、それ以外の品……例えば、食料品や日用品も値段が上がってしまうのでしょうか?」
迪宮さまは難しい顔をして尋ねた。
すると、
「非常によいご質問でございます」
農商務大臣の牧野さんがとても嬉しそうに言った。
「では、先ほどの内府殿下のお話を思い出されるとよろしいのではないでしょうか。新型インフルエンザが急速に拡大すると、どのようなことが発生すると内府殿下はおっしゃっておられましたか?」
牧野さんは梨花会の古参メンバーよりは優しいと思うけれど、答えをすぐに迪宮さまに教えないのは、迪宮さまを鍛え上げようと固く決心しているからだろう。私が祈るように迪宮さまを見つめていると、
「確か、職場の人間が大勢発熱して、その職場の出勤人数の不足により、業務ができなくなると……」
迪宮さまは私が講義で話した内容を正確に口にする。そして、
「その職場が運送業であるとしたら、物資の流通が滞る。そうなれば、商品の小売価格は上昇します。それは、インフルエンザに直接関係する品だけではなく、あらゆる商品に及ぶ……」
と、見事に牧野さんに答えてみせた。
「その通りでございます」
牧野さんは満足そうに頷いたけれど、
「もう一つ、商品の値段が上がる要因があるのですが、分かりますかな、皇太子殿下?」
東宮御学問所総裁の伊藤さんは、迪宮さまに容赦なく追撃を加えた。
「はい、新型インフルエンザ流行によって発生する社会不安だと思います。聖武天皇の御代に起こった天然痘の流行や、中世ヨーロッパで発生したペストの流行ほどの衝撃ではないかもしれませんが、死亡率が高いインフルエンザが流行することを不安に思う国民も多くいるでしょう。そのような状況下では、世間に広がる不安に乗じて、物価を吊り上げようとする商人も現れるのではないか、と……」
迪宮さまの素晴らしい回答に、牡丹の間のあちこちからどよめきが起こった。玉座から迪宮さまを見守っていた兄も、嬉しそうに微笑む。
(なるほどなぁ、インフルエンザの流行そのものによる社会不安か……)
一方、迪宮さまの答えを聞いた私は、密かに納得していた。前世で機械的に覚えた新型インフルエンザ等特別措置法にも、“生活関連物資等の価格の安定”という項目があったのだけれど、なぜそんな項目があるのか、今の今までよく分からなかったのだ。
(天然痘の死亡率が20%から50%、ペストの死亡率が治療しなかったら60%から90%……それと比べてしまうと、今回の新型インフルエンザの死亡率は約2.1%だから、インパクトは小さいと思ってしまうけれど、社会全体にとっては、十分な恐怖になりえるわ。やっぱり、迪宮さまは優秀ねぇ……)
私がしきりに頷いていると、
「では、皇太子殿下のご指摘で、自らの考察の浅さを反省なさった内府殿下に質問いたしましょう」
私に鋭い視線が突き刺さった。国際連盟設立に尽力し、帰国後に枢密顧問官の1人となった元内閣総理大臣・陸奥宗光さんである。
「……勝手に人の表情を読まないでください」
ジュネーブから戻っても相変わらずだなぁ、と感じながら私が陸奥さんに言うと、
「ジュネーブで外交官諸君を弄んだ程度で、僕が消耗すると思いましたか?」
陸奥さんはにっこり笑って私に応じ、
「新型インフルエンザに対応するためにどのような政策が必要とお考えか、具体的にご説明をお願いいたします」
と、私を見据えながら質問した。
「まずは検疫の強化ですね。今のところ、海外から日本にやって来た船舶で、インフルエンザを疑う発熱患者が出たという報告はないですけれど、……検疫は完璧な対策ではないので、注意が必要です」
「ほう、そうなのですか」
私の答えに不思議そうな顔をした義父の有栖川宮威仁親王殿下に、
「インフルエンザには、人に感染してから症状が出るまで、1日から3日の潜伏期があります。潜伏期の間には症状が出ませんから、その間に海外から日本への移動が終わってしまえば、感染した人は検疫をすり抜けることになります」
と私は説明を加えた。
「それに、インフルエンザに感染しても、症状が出なかったり、軽い症状しか現れなかったりする人がいます。そういう人も検疫をすり抜けます。だから、検疫は新型インフルエンザの流入はある程度防いでくれますけれど、完璧な対策ではありません。現に、前世の私が15、6歳の頃……“史実”の2009年に発生した新型インフルエンザも、検疫をすり抜けていつの間にか日本に入り込んで流行しました」
私はここで言葉を切ると、
「ただ、検疫は時間稼ぎにはなります。だから、新型インフルエンザが日本で本格的に流行するまでは、検疫はしっかりやるべきです」
と付け加えた。
「なるほど、よく分かりましたよ、嫁御寮どの」
義父は軽く頷くと、「他の対策としては何があるのですか?」と私に尋ねる。万智子たちには甘いのに、私には甘くないなぁ、と思いながらも、
「それから、役所や警察、病院や金融機関、郵便局、港湾関係……社会のインフラを支える職場は、なるべく予備の人員を確保して、万が一、欠勤者が多数出ても、最低限の仕事はできるようにしておくことですね。人の密集を抑制する政策をすれば、業種によっては収益が低下して、雇っていた人を解雇しなければならないケースも出てきます。だけど、予備の人員を雇うことにすれば働き口が増えますから、雇用の受け皿にもなると思うのです」
私がこう付け加えると、
「ああ、それは理に適っております」
と渋沢さんが頷いた。
「確かにな。それと、感染抑制政策で影響が出る業種への融資と組み合わせれば、社会の混乱もある程度は抑えられる。……しかし、鮮やかな手だなぁ。内府殿下、どうやって思いついたんですか?」
井上さんが私に大きな声で質問したので、
「ああ、昔、考えたことがあって……女医学校に通っていた頃だから、15年以上前のことですけれど」
私はにっこり微笑んで種明かしをした。あの時は、大山さんに“文書にまとめるように”と言われて、その作業に苦しんだ覚えがあるけれど、その経験がこのような形で役に立つとは思ってもいなかった。
「なるほど。不利益への対策を施した上で、新興感染症特別措置法によって、流行時の劇場や寄席などの観客数制限や公演中止を命じるということですか。……他には何か?」
相変わらず容赦の欠片もない陸奥さんの問いに、
「国民に、衛生知識や、インフルエンザに感染した時にどうするかというノウハウを普及させることですね」
と私は回答した。
「新型インフルエンザが大流行したら、医者が患者全員を診察することは不可能です。斎藤さんに聞いたことがありますけれど、“史実”でスペインかぜが流行した時、看護師が足りなくなったとか……もちろん、そういう事態が起こらないために感染抑制政策を取るのですけれど、万が一に備えて、国民すべてに衛生知識や療養時に必要な知識を普及させなければなりません。ただ、どうすればいいか、見当がつかないのです。新聞に注意事項を載せたり、ラジオで放送したりしても、一部の人にしか届かないし……」
新聞もラジオも、兄の即位礼の影響で普及率は上がったけれど、全国津々浦々に普及しているとは言い難い状況だ。私が悩んでいることを素直に告白すると、
「各家庭に、そのような知識を記載した小冊子を配布するのはどうでしょうか?市町村の役場に協力させれば何とかなるのでは」
前内務大臣の桂さんが、大げさに頭を下げながら言った。
「街頭や学校に、貼り紙をしてもいいかもしれません。それに、学生たちに授業の一環として、衛生知識を講義してもよいかも……」
内閣総理大臣の西園寺さんもこう提案する。そう言えば、西園寺さんは文部大臣を務めていたことがある。だからこんなことを思いついたのだろう。
「ふむ……。内府殿下、具体的にはどのようなことを国民に普及させるのですかのう?」
「マスクをつけることやうがいをすること、石鹸を使って手洗いをすること、部屋の換気をすることや咳エチケットですかねぇ……。あとは、療養上の注意点とか、症状が出た時の注意点とか……」
西郷さんの質問に、私が指を折りながら答えると、
「マスク、というのは、内府殿下が軍医のお仕事をなさっていた時に、いつも顔につけていらしたあれですか?」
と、児玉さんが私に尋ねた。
「はい、そうです。……そう言えば、私の時代だと、風邪や花粉症の対策でマスクをつけていた人も結構いましたけれど、この時代、マスクが全然普及してないですね。まぁ、素材は布で構わないですから、ご家庭でもできるマスクの作り方を普及させないといけないですね」
ある程度、策はしっかりと立てたつもりだったけれど、こうやって話してみると、やはり足りないところが見つかる。他にも手直ししなければいけない箇所はあるだろうか……と考えていると、
「それに、石鹸を使った手洗いは、慣れていないとなかなか難しい。本職の医者や看護師でも、気を付けていないと洗い残しが出ますし……」
自らも医師免許を持つ後藤さんが難しい顔で指摘する。
「あー、確かにそうですね。私は外科が専門だったから、手洗いのやり方は叩き込まれていますけれど……」
どうしたらいいのだろう、と私が思った瞬間、
「だったら、写真入りの図解で手洗いを解説した小冊子を作ればいいんである!」
立憲改進党党首の大隈さんが大声で提案した。
「そして、その写真に、内府殿下が手洗いをなさっている写真を使えば、手洗いの普及もドシドシ進むこと間違いなしなんである!」
「…………………………は?」
今の大隈さんの言葉は、私の聞き間違いだろう。御冗談を、と私が言葉を続けようとした時、
「それは名案じゃ、大隈さん!」
「それなら、衛生知識の普及は爆発的に進みますな!」
伊藤さんや黒田さんなど、梨花会の古参メンバーたちが喜びの声を上げた。
「……い、いや、ちょっと待ちなさい!なんで私が手洗いの写真を撮られないといけないんですか!」
動揺して叫ぶ私の右肩を、
「いけませんよ、梨花さま。淑女が怒りを露わにしては」
横から大山さんがそっと叩いた。
「よろしいではないですか。梨花さまは“軍医の宮さま”“医学の宮さま”と、世間で崇敬を集めておられます。そんな方が、御自ら手洗いの仕方を国民に指導なさる……。間違いなく、正しい手洗いの知識が国民に浸透しますよ」
(そうかなぁ……?ここ、人気のある女優さんをモデルに起用するべきところじゃないの?)
心の中だけで、大山さんへの反論を呟いた時、
「それは、一番の適役は梨花だ」
兄がクスクス笑いながら言った。
「去年、2人で活動写真を観に行った時、特別大演習の活動写真を観ていた観客たちは、お前の姿に釘付けだったではないか。お前が手洗いをしている写真を使うのが、最も手洗いの普及に効果があると思うぞ」
「……しょうがないわね」
私は返事するとため息をついた。
「うん、そうか。それでこそ上医だ」
「おだてても何も出ないわよ」
満足そうに頷いた兄に、私は冷たく言葉を返す。本当は、新興感染症特別措置法を、なるべく早く帝国議会で成立させるためにはどうしたらいいか、とか、今回の対応策に関する費用について、特別予算を組むべきなのか、とか、考えなければならないことはたくさんある。ただ、この辺りは、内閣総理大臣である西園寺さんの裁量によるところが大きい。
(とりあえず、手洗いの写真は撮られるしかないけれど……)
そこまで考えた私は、
「……あ、そうだ、兄上。インフルエンザの状況が落ち着くまで、微行で出かけるのはダメだからね」
と、兄に釘を刺したのだった。




