習礼
1918(大正3)年11月10日日曜日午前11時35分、京都御所・紫宸殿。
(うわー、緊張する……)
紫宸殿のやや北側の中央に置かれた高御座は、約6m四方、およそ1mの高さの壇の中央に、厚さ約12cmの2枚の八角形の床板を重ねた構造をしている。八角形の床板の周りには8本の円柱が立ち、黒塗りの八角形の屋根を支えている。その8本の柱のすぐ外、四角い壇の北東の隅に、私はかしこまって立っていた。
いつもシニヨンにしている髪は、今日は髢(添え髪)を入れ、“おすべらかし”という、装束を着る時の古式ゆかしい髪型にしている。紅の小袿に萌黄色の五衣、そして紅い長袴という装束は、皇族女子に共通したものだ。着慣れない装束をまとっていると、息が詰まるような気がして、私に課せられた役目が果たせるのかと心配になってしまう。けれど、この習礼……明後日行われる“即位礼当日紫宸殿の儀”のリハーサルで、装束を着た時の動きをある程度把握しておかなければ、本番で無様な姿を皆の前にさらしてしまうことになる。兄が日本の内外に即位を宣明する大事な儀式を、私のミスで台無しにしてはならないのだ。私は自分の出番が来るまで、高御座の隅でじっと待った。
遠くに視線を投げると、高御座の下にいた内閣総理大臣の西園寺さんが、右に向かって歩いていくのが見えた。黒い冠をかぶり、黒い縫腋袍を着た西園寺さんはとても堂々としている。維新の頃は、ずっと今のような装束を着ていたからか、動きにぎこちなさは全く感じられなかった。
と、侍従の1人・高辻宜麿さんが、私の右を通り抜け、高御座の前方へと向かう。紫色の御帳に遮られて兄の姿は見えないけれど、恐らくは8本の柱の中心にある御倚子から立ち上がっているのだろう。兄から笏を預かった高辻さんが私の所まで戻ってくると、いよいよ私の出番である。私は両手で捧げ持った勅語書――今はリハーサルだから、何も書いていない紙で代用しているけれど――を取り落とさないように、一歩ずつ、前へ歩き始めた。
(や、やっぱり、動き辛い、この装束……)
五衣は、重量がそれなりにある。しかも、袴の裾は長く引きずっている。どうしても裾を踏みながら歩くことになるから、うっかりすると転びそうになってしまう。それだけはないようにと、必死に歩いていたら、兄のそばに到着していた。
兄の手に勅語書を渡すには、段を2つ上がらなければならない。転ばないように細心の注意を払いながら段を上り、兄に紙を差し出すと、
「手が震えているぞ。緊張しているのか?」
白い御引直衣を着て、黒い御立纓冠をかぶった兄が、小声で私に尋ねた。返す言葉が思い浮かばず、ただ黙って首を縦に振ると、
「大丈夫だ。貴族院議長をしていた時を思い出せ」
兄は更に、囁くような声で言う。真っ直ぐで頼もしい光を宿した兄の瞳と、私の目がぶつかった時、心がすっと軽くなった気がした。
(ああ、お父様から勅語書をもらった時と同じか……)
貴族院議長をしていた時は、帝国議会の開会式と閉会式で、お父様から勅語書を受け取った。小礼服に勲章を佩用し、スカートの裾を引きずりながら長い階段を上がり、衆人環視の中で勅語書を受け取ると、後ろ向きで階段を下りた。あの時と服装は全く異なるけれど、今回私がしなければならない動作と、要領はほぼ一緒だろう。私は後ろ向きで、段を慎重に降りると、先ほどまで立っていた場所に戻った。
すると、
「では、陛下が勅語書をお読みになった、ということにして、習礼を進めます。内府殿下、恐れ入りますが、陛下から勅語書をお受け取りください」
習礼の進行役である、宮内省式部長官の戸田氏共さんが、よく通る声で私に呼びかけた。早過ぎる、と思ったけれど、習礼を進めないと、装束からは解放されない。私は再び前へと歩き出した。
2回目の所作なので、そんなに緊張しなくても、転ばずに歩くことができる。私は視線を動かして、周りの様子を眺めてみた。
高御座の東側、つまり私の左側には御帳台がある。高御座より少しだけ小ぶりの御帳台の中心には、今、私と同じように五衣・小袿・長袴を付けた節子さまが、南を向いて立っているはずだ。御帳台の前には、私と同じ装束を身につけた皇族妃たちが勢揃いしている。本来、御帳台に一番近い親王妃の列の先頭にいるのは、私の弟・鞍馬宮輝仁さまの妃である蝶子ちゃんなのだけれど、彼女は妊娠中なのでここにはいない。従って、皇族妃の最上位にいるのは、伏見宮貞愛親王殿下の妃・利子女王殿下である。彼女の後ろに、私の義母である慰子妃殿下、閑院宮載仁親王殿下の妃である智恵子妃殿下、東伏見宮依仁親王殿下の妃である周子妃殿下が並んでいる。本来は、王妃の列の先頭に私が並ぶはずなのだけれど、私は内大臣としての役目を果たさなければならないので、高御座に上っている。
そして、高御座の西側には、男性皇族が整列している。高御座に一番近いところに、今回、即位礼への参列を特別に許可された迪宮さまがいるはずだけれど、今日の午後に京都に到着する予定なので、彼の姿は無い。親王の列の先頭に立つのは輝仁さま、その次に大礼使総裁でもある貞愛親王殿下、私の義父の有栖川宮威仁親王殿下、載仁親王殿下、依仁親王殿下が並んでいる。全員、白の小直衣に身を包み、立ち姿からは威厳が感じられた。
その隣、王の列の最上位にいるのは栽仁殿下だ。やはり白の小直衣を着た栽仁殿下は凛とした佇まいで、思わず見とれてしまいそうになったのを私は慌てて我慢した。栽仁殿下の後ろに、伏見宮の継嗣である邦芳王殿下が立っている。そして……。
(妙な目で私を見てはいないようね)
邦芳王殿下のすぐ後ろの人物の様子を確認した私は、ほっと息をついた。彼は――華頂宮博恭王殿下は、高御座の方は見ず、真っ直ぐ東を向いて立っていた。
(まぁ、お義父さまがすぐ近くにいるから、変なことはできないよね。それに、兄上の前だし)
3年前の梅雨の頃……北白川宮の先代・能久親王殿下の葬儀の際、博恭王殿下は私の夫を侮辱したとも取れる発言をした。そのことはいつの間にかお父様の耳にも入っていたけれど、兄にももちろん伝わっていた。
――栽仁は俺の弟分のようなもの。そして、俺の愛しい妹の大切な夫だ。栽仁に非があるならともかく、謂れなき誹謗中傷に及ぼうとするとは……。
兄は瞳の奥に怒りの火をちらつかせた後、“梨花はこのことは忘れておけ”と私に優しく言った。それから、博恭王殿下の姿を見る機会は殆ど無い。宮中の儀式で顔を合わせることはたまにあるけれど、そういう時には必ず義父か兄が私のそばにいる。博恭王殿下が私と栽仁殿下に妙な言動をすることは無くなった。このまま、お近づきにならずに一生を終えたいものである。
私は高御座の中央の壇に上がり、勅語書を兄から受け取った。手の震えは治まっている。後ろ向きに段を下りるのも問題なくできた。
(この調子で動けるように、明後日の本番も頑張ろう)
高御座の北東の隅に戻った私は、決意を新たにしたのだった。
1918(大正3)年11月10日日曜日午後6時、京都府田中村にある西園寺さんの別邸。
「こ、これはすごい……」
人払いされた食堂のテーブルに並べられた料理を見て、私は思わず目を瞠った。胡桃豆腐、車エビとシメジの酢の物、大根と人参の信田巻、松茸と鶏肉の茶碗蒸し、かき卵と菊菜のおすまし、鯛の塩焼き……いつも盛岡町の家で食べる夕食よりも品数が多いのはもちろんだけれど、一品一品、材料の切り方、盛り付け方に細心の工夫が凝らされている。一流の料理人が、献立を一生懸命考え、心をこめて調理したというのが見ただけで分かった。
「確かに、梨花さんの言う通りだね。昨日の夕食とも、おとといの夕食とも、趣向がまるで違う」
私の左に座る栽仁殿下も、目を輝かせながら頷く。彼は私より1日早く京都に到着していたのだ。
「一つ一つの品に、細かく手が入っているのがよく分かります。流石、食通で名高い西園寺閣下のお抱え料理人です」
栽仁殿下が褒め称えると、
「お褒めに預かり光栄の至り」
私たちの前の椅子に腰かけた西園寺さんが軽く頭を下げる。今はもちろん装束ではなく、紺のフロックコートを着ていて、昼とは全く違う印象だった。
「あの……西園寺さん、ちなみに、今の料理人さん、何か月続いています?」
私がこう尋ねたのは、西園寺さんに仕えている料理人の入れ替えが激しいという噂を聞いたからだ。高級料亭から料理人をスカウトして自分の家に雇い入れるけれど、作る料理が西園寺さんの好みに合わないと見るや、西園寺さんは料理人をすぐ解雇してしまうらしい……そんな話も聞いた。
「今のは、3年もっていますなぁ」
西園寺さんはのんびりした調子でこう言うと、
「ささ、そんな些細なことは置いておいて、どうぞ召し上がってください」
とにこやかに私と栽仁殿下に呼びかけた。
(このお料理、見た目が美しいだけじゃなくて、味付けも手が込んでいて、美味しいなぁ……。山縣さんには申し訳ないけれど、西園寺さんの別邸に泊まることになってよかった……)
味覚だけでなく、嗅覚も視覚も楽しませてくれる絶品のお料理をいただきながら、私は2か月前、9月に行われた梨花会のことを思い出していた。
京都の街には、旅館はたくさんあるけれど、皇族を泊めることのできる広く、かつ高級な旅館の数は限られている。皇族の移動、しかも微行ではなく、今回のような公式な旅行となると、皇族に付き従う人たちが泊まる部屋も必要になるし、彼らが皇族のために働くときに使うスペースも確保しなければならない。そこで、京都府と京都市は、京都市内やその近郊に大きな家や別宅を所有する人に、即位礼の期間中、皇族を宿泊させるよう依頼した。もちろん私も、そうやって準備されたお宅に泊まらせていただこうと思っていたのだけれど……。
――内府殿下のご宿所が、どこの馬の骨とも知れぬ者の家となってしまっては、内府殿下の権威に傷が付いてしまいます。
9月の梨花会で、即位礼の準備状況が原さんから報告された後、宮内大臣の山縣さんがこう言い出したのだ。
――しかし幸い、京都市の上京区に、わしの別邸がございます。ですから内府殿下には、そちらにお泊りいただいて……。
すると、
――お待ちください、山縣どの。
山縣さんの隣に座っている西園寺さんが、突然立ち上がった。
――僕も京都に家を持っております。山縣どの別邸は京都の御所から少し遠いが、僕の家なら直線距離で1kmほどしか離れておりません。ですから是非、僕の家をお使いください、内府殿下。
――待たれよ、西園寺どの。西園寺どのの家は御所が近いと言っても田中村、京都市の警備範囲に入らないのでは?
――そんなもの、京都府か、中央情報院から人員を派遣してもらえばよろしいのです。それに、我が家自慢の料理人たちが、内府殿下の舌を楽しませてくれるでしょう。
――そうおっしゃるが西園寺どの、我が別邸は、内府殿下好みの簡素な造り。それに、庭園はあの小川治兵衛が手掛けたのですぞ。
――ほう……。うちの庭園も、小川治兵衛が手掛けたものです。景観は山縣どのの別邸に負けはしません。
いつの間にか立ち上がっていた山縣さんは、西園寺さんとにらみ合った。伊藤さんや井上さんなど、西園寺さんと山縣さんの周囲にいる梨花会の面々は、
――京都に別邸を作ればよかった!
と、地団駄踏んで悔しがっていた。野党・立憲改進党党首の大隈さんは、
――今からでも遅くはない!東京専門学校の分校舎を京都に建設し、内府殿下をお招きするんである!
……意味不明なことを叫んでいた。私はこの状況を止めることもできず、対峙する山縣さんと西園寺さんを、ただただ眺めることしかできなかった。
と、
――では、皇太子殿下にお伺いいたしましょう。山縣さんと西園寺どの、どちらの意見を採るべきでしょうか?
私の隣に座っていた大山さんが、迪宮さまにとんでもない問いを投げた。
――は、はぁ?!あ、あなた、何考えてるの?!こんな質問、迪宮さまが答えられる訳ないじゃない!
――何、これも皇太子殿下のご修業でございます。
主君の猛抗議を、我が臣下は軽く退けると、じっと迪宮さまを見つめた。
(迪宮さま!こんなの、真面目に考えたらダメだよ!)
私の願いもむなしく、迪宮さまは真剣な表情で考え込み、
――梨花叔母さま、京都ではお一人でお泊まりになるのですか?
と私に尋ねた。
――それはもちろん、栽仁殿下と一緒に泊まるつもりでいるけれど……。
私が仕方なく答えると、迪宮さまは頷いて、
――ならば、西園寺の爺の家と山縣の爺の家、どちらか広い方にお泊まりになればよろしいかと思います。梨花叔母さまだけでなく、栽仁どのもお泊まりになるのであれば、建物もかなりの広さが必要になりますから。
と明快に回答した。
――おおっ、流石は皇太子殿下!
――狂介の別邸と西園寺の家を比べれば、西園寺の家の方が明らかに広い。こりゃ、内府殿下のご宿所は西園寺の家で決まりだな。
――なるほど、なるほど。これは良い裁定ですなぁ。皇太子殿下も、我々のやり方に慣れてこられたようで。
伊藤さんや井上さん、そして西郷さんが嬉しそうに頷く一方、
――くっ……我が別邸にお泊りいただきたかったが、皇太子殿下のご裁定は理に適っている。残念ながら、今回は引き下がるしか……。
山縣さんは明らかに打ちひしがれ、首をがっくり垂れた。普段、山縣さんは、80歳という年齢が信じられないほど、精力的に、若々しく動いているのだけれど、その時は年相応、いや、もっと老け込んだように見えてしまった。
――あ、あの、大山さん。……山縣さんが滅茶苦茶落ち込んでいるから、慰めてあげたいのだけれど、どうしたらいいかしら?
気の毒に思った私が、大山さんにそっと尋ねると、
――では、折を見て、山縣さんの別邸にいらっしゃればよろしいかと。
彼は私に微笑みながら答えた。
――山縣さんの京都の別邸には、茶室があるはず。京都ご滞在中は休養日もございます。その時に、山縣さんの別邸で、梨花さまがお茶をいただけばよろしいのです。
――それだけでいいの?
疑問に思って大山さんに問い返した瞬間、
――それはありがたい!
山縣さんが私に向かって最敬礼した。
――是非、是非、我が別邸にお成りください!お成りいただければ、この山縣、内府殿下にお成りいただいた喜びを胸に、今後の人生を歩んで行けます!ですから、どうか!
――あ、あのー……そこまで言わなくても、あなたの別邸には寄らせていただきますので……。
結局、いつものくだらない争いだったのか。げんなりしながらも、私は山縣さんにこう答えるしかなかったのだけれど……。
「……ごちそうさまでした」
いろいろなことを思い出しながら箸を動かしていたら、いつの間にか、前に置かれた器は全て空になっていた。なかなか料理に集中できなかったけれど、舌の上を通過していった料理は全て、大変美味しく仕上がっていた。私が箸を置くと、
「うん、本当に、とても美味しかったです」
私とほぼ同時に食事を終えた栽仁殿下がにっこり笑った。
「梨花さん、ずっと考え込んでいたね。どうしたの?」
「ああ……。私と栽仁殿下の宿所がここに決まるまで、色々あったなぁ、って、思い出していたのよ」
私が栽仁殿下にこう答えると、「ああ、大変だったって言ってたね」と栽仁殿下はクスっと笑った。
「他の閣下方が、京都に別邸を持っていなくて良かったね。もし井上閣下が京都に別邸を持っていたら、もっと揉めていたよ」
「そうねぇ……」
恐らく、“俺の料理を召し上がっていただきたい”と主張して、西園寺さんと激しく争っていただろう。ため息をついた時、
「そう言えば、井上閣下は即位礼に参列なさらないんだね」
栽仁殿下が私に話しかけた。
「脳卒中を起こした後だからね。私の時代なら、新幹線を使えば東京から京都まで2時間半もかからなかったけれど、この時代だと、どう頑張っても半日は掛かってしまう。身体に負担が掛かり過ぎるから、大事を取って、東京に残ることになったの」
脳卒中で、井上さんの左足が麻痺してから5年以上が経つ。リハビリを重ね、井上さんは歩けるようになったけれど、それでも、他の人より歩く速さは遅い。それに、井上さんは山縣さんより年上で、今年で82歳になる。脳卒中再発のリスクもあり、東京帝国大学医科大学内科学教授の三浦謹之助先生と井上さん本人、そして私が話し合った結果、井上さんは即位礼に参列しないことになった。
「それに、山本航空大尉も京都には来ませんな」
西園寺さんが微笑みながら、こちらの話に加わって来る。
「無事に国軍大学校を卒業したのはめでたいこと。是非、国軍の航空部隊を“史実”より発展させてもらいたいですな」
満足げに頷いた西園寺さんは、栽仁殿下に眼を向け、
「若宮殿下も、山本航空大尉に続かれるのですな」
と、穏やかな口調で言った。
「もちろんです」
栽仁殿下は、首を力強く縦に振った。「最初の機会で合格するのは難しいでしょうが、己の実力だけで、国軍大学校の入学試験を突破してみせます。そして、日本一の海兵大将になって、梨花さんを守ります!」
「ちょっと……」
顔を紅くした私はうつむいた。栽仁殿下の気持ちはとても嬉しいのだ。嬉しいのだけれど……他人に堂々と宣言されてしまうと、なんだか恥ずかしくなってしまう。
「ほう……これは、いい宿代をいただきました」
うつむく私と、自分を真っ直ぐ見つめる栽仁殿下を見比べながら、西園寺さんはニヤニヤ笑っていたのだった。
※習礼で天皇が御引直衣を着たという記録は確認できませんでした。今回の描写は、作者の勝手な想像になります。
※習礼の際の女子皇族の装束については、『大礼記録』(大礼記録編纂委員会編,清水書店,大正8)を確認しましたが、記載がないため、『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編,内閣印刷局,昭和6)に記載されていた昭和大礼の際の女子皇族の共通装束(五衣・小袿・長袴)を着ていたことにしました。男子皇族についても、習礼の装束に関しては大正大礼の記録には記載が無かったため、昭和大礼の記録に小直衣を着たという記録があったので、それを引っ張ってきました。ご了承ください。




