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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第64章 1918(大正3)年秋分~1918(大正3)年小雪
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軍医の夢

 1918(大正3)年11月8日金曜日午前5時50分、皇居・表宮殿の御車寄。

 普段、この夜明け前の時間には静まり返っている表御殿は、大礼服や正装をまとった男性たちの話し声で騒がしくなっている。宮内省の官僚や侍従武官たち、東京府知事と警視総監、内閣総理大臣の西園寺さんや枢密院議長の黒田さん、そして、総裁の伏見宮(ふしみのみや)貞愛(さだなる)親王殿下と長官の原さんをはじめとする大礼使の職員たちが集まっているのだ。彼らは皇居から新橋駅まで移動する兄と節子(さだこ)さまに供奉し、一部のメンバーは京都までついて行って即位礼に参列する。騒がしさの中でも、空気が張り詰めている感じがするのは、やはりこれから、即位礼の本番が始まると言う緊張によるものだろうか。

「いよいよでございますな」

 隣に立つ黒田さんが話しかけてきたので、私は短く「ええ」と応じた。

「内府殿下も、緊張なさっておられるようで」

「それはもちろん、兄上の一世一代の即位礼ですから」

 そろそろ、兄と節子さまが御車寄にやって来るのではないだろうか。そう思いながら私は黒田さんに答える。

「それに、内府殿下の一世一代の出番もございますからね」

「……私、そんなに目立っていいのかしら。目立つべきなのは、兄上と節子さまですよ」

「何、問題はありませんよ。内府殿下なのですから」

(そうかなぁ……?)

 悪戯っぽい微笑を顔に浮かべた黒田さんに、私が心の中で疑問をぶつけた時、大山さんが「内府殿下、馬車の方へご移動を」と声を掛ける。私は黒田さんに軽くお辞儀をすると、外に出て指定された馬車に乗り込んだ。しばらくすると、馬車は静かに前へと動き始めた。

 天皇が即位したことを国の内外に宣言する即位礼は、国の最高儀礼である。身軽なのが好きな兄は不本意だろうけれど、鹵簿(ろぼ)は最高儀礼にふさわしく、立派に、そして美々しく構成される。しかも、今回の行列には、賢所に祀られている神鏡が加わっているのだ。当然、鹵簿全体の長さは、とても長くなっている。全長は少なく見積もっても500mは超えると原さんが言っていた。

 そして、新橋駅までの沿道の様子も、普段とは全く違っていた。鹵簿が通過する馬場先門(ばばさきもん)跡には、パリの凱旋門よろしく“万歳門”という大きな門が建設された。更に、新橋駅までの沿道には、国旗や“万歳”と書かれた旗が建てられ、紅白や金色の布が巻かれた装飾用の柱も林立している。もちろん、皇居前の広場も、そして鹵簿が通過する沿道も、鹵簿を見送る人たちでびっしりと埋め尽くされていた。幼年学校や学習院の生徒など、鹵簿の見送りをするようにと命じられて集まった人たちも一部いるけれど、馬車の窓から見える人の数は、召集された人数を遥かに超えていた。

(みんな、兄上の即位礼を祝ってくれているのね。……兄上は、ちょっと不機嫌になっているかもしれないけれど)

 窓の外をぼんやり眺めながら私は思った。実は先週、兄と一緒に微行(おしのび)で東京の街を歩いたのだけれど、即位礼を祝う装飾があちこちにしてあるのを見た兄が、

――皆が俺の即位礼を祝ってくれるのはとてもありがたいのだが、生活や将来に必要な金まで切り崩して装飾を施していないか、心配になってしまうな……。

と、困った顔で呟いたのだ。後で原さんに確認したら、特に政府側から装飾するよう呼び掛けてはおらず、むしろ“装飾をする場合は華美にならないように”と何度も注意をしているのだけれど、国民の側で奉祝用の装飾を豪華にしたり、記念事業を立ち上げたり、と自発的に動いてしまうということだった。ちなみに、馬場先門跡の万歳門も、東京府が設置を強く申し出てきたので、やむなく許可したらしい。

(まぁ、兄上が不機嫌になっていたら、列車の中でなだめるか。装飾はともかく、記念事業は種類によっては、インフラや教育を整えるきっかけになるからね。記念事業のほとんどは、堤防や道路の改修とか、学校や育英資金の設置とか、将来の役に立つものだし……)

 私がそこまで考えた時、ゆっくりと前に進んでいた馬車の動きが止まった。どうやら、新橋駅に到着したようだ。外から扉が開かれると、私は馬車から降りた。

 “史実”で兄の即位礼が挙行された時、兄は前年に新設された東京駅から京都へ向かう列車に乗ったのだけれど、この時の流れでは、東京駅はまだ建設されていない。従って、西へ向かう列車に乗り込む時は新橋駅を使うことになる。新橋駅は開業当初の駅舎ではなく、レンガ造りの立派な駅舎に改築されているけれど、もちろん、私の時代の東京駅よりは狭い。兄と節子さまを見送るために集まった在京の皇族、高等官、華族などで、通路に指定された以外の場所は立錐の余地もないほどだった。もちろん、特別列車が出発するプラットホームも見送りの人たちで埋め尽くされていて、その人混みをかき分けるかのように、西へ向かう特別列車は7時15分に新橋駅を発車した。

「奉送の人数を絞っていて良かったです」

 新橋駅を発車すると、御料車の御座所の中で、山縣さんがほっと息をついた。

「うそ……あれで、人数を絞っていたのですか。すごい混雑だったのに。……東京駅、やっぱり作った方が良かったかしら」

 御座所の中には、山縣さんと私以外は、兄と節子さましかいない。私が本音をこぼすと、

「それには及ばない」

兄の声が私と山縣さんに飛んだ。

「東京駅は、関東大震災の復興事業の一環として建設することになっているではないか。俺の即位礼のために、わざわざ建設するものではないよ」

「それはそうだけれど、やっぱり、新橋駅だと手狭かな、って……」

 私が口ごもってしまうと、兄は微笑して、

「そこは、今回のように工夫すればいい。それに、ここまで大掛かりな俺と節子の移動は今後無い。裕仁(ひろひと)の即位礼の時には、東京駅ができているから、その時には東京駅に収容できるだけの奉送者を召せばいい」

と穏やかな口調で言った。

(それは、そうなのだけれど……)

 それでも、兄には立派な即位礼を挙げて欲しいと思うのだ。即位礼ももちろんだけれど、そこまでの移動も、天皇にふさわしい規模で、立派なものにしたい、と思うのだ。私は、大礼使長官に任命された時の原さんの気持ちが、少しだけ分かったような気がした。


 1918(大正3)年11月8日金曜日午後7時、愛知県名古屋市西区上園町(かみそのまち)にある旅館・丸文(まるぶん)

「突然呼び出して、申し訳なかったね」

 朝から着ていた宮内高等官女子大礼服から、群青色の和服に着替えた私は、居間用として割り当てられた和室で、1人の男性と対面していた。私が栽仁(たねひと)殿下と婚約する直前にこの名古屋で出会った、半井(なからい)久之(ひさゆき)君である。

「い、いえ!」

 紺の(かすり)の着物に薄茶色の袴を付けた半井君が、五分刈りにした頭を下げる。10年前、初めて出会った時は8歳だった半井君も成長し、今は名古屋にある第八高等学校の医学部に通う青年になっていた。

「名古屋に行く機会がなかなかなくてね。しかも、兄上のそばを離れられない身になったから、ますます、ね。けれど、即位礼のための移動で、名古屋に1泊することになったから、この機を逃したらいけない、と思ったのだけれど……驚かせてしまったかな」

「はい……とても……」

 半井君は正直に答えてから、

「で、でも、妃でん……じゃない、内府殿下にお会いできて、とても嬉しいです」

と、強張った表情で付け加えた。

「“妃殿下”でいいよ。私は栽仁殿下の妻だからね」

 私は微笑むと、そばに控えている大山さんに、夕食のお膳を運んできてもらうようにお願いした。程なくして、半井君と大山さんと私、3人分のお膳が運ばれ、「じゃあ、食べましょうか」と声を掛けて私は箸を取った。

「……初めて会った時と比べると、本当に大きくなったね」

 久しぶりの八丁味噌のお味噌汁を一口味わってから私が言うと、

「はい、だいぶ背が伸びました」

半井君はしっかりした口調で答えた。身長は、栽仁殿下と同じぐらいだろうか。軍医委託生として、長期休暇に軍事訓練を受けているからか、身体は引き締まっている。前世で見た曽祖父の写真と似たところはあるのだろうかと思って、半井君の顔を見つめてみたけれど、よく分からなかった。……と言うより、記憶の中の曽祖父の顔が、どうもはっきりとしない。

(うーん、前世の記憶だから、流石に薄れてきちゃったのかな……。記憶力には自信があるのだけれど……)

 悩んでいると、魚の煮つけを口にした半井君が私の視線に気が付いて、パッと頭を下げ、

「も、申し訳ありません。無作法なもので……お許しください」

と私に謝罪する。どうやら、自分の行儀が悪いのを私が見とがめたと勘違いしたようだ。

「あ、いや、本当に大きくなったな、と思って、つい半井君に見とれてしまっただけ。お行儀が悪いなんて思っていないわ。だから顔を上げてちょうだい」

 私が慌てて誤解を解こうと試みると、「はい……」と言いながら、半井君は頭を上げる。その表情は明らかに緊張していた。これではいけない。何か話をして、緊張を解きほぐすようにしなくてはならない。私は再び微笑みを作ると、

「お母様はお元気かしら?それから、大家の鈴木さんは?」

半井君にこう尋ねてみた。

「は、はい、母も、鈴木さんも元気ですが……鈴木さんのこと、よく覚えていらっしゃいますね、妃殿下」

「覚えているに決まっているじゃない。半井君を東京に連れてきてくれた人だしね」

 私は半井君に答えると、もう一度お味噌汁を飲んだ。

「……半井君の医師になる夢が叶いそうでよかった。まぁ、これから試験や実習がたくさんあるから、油断せず頑張らないといけない。私は高等学校に通っていないから、様子を教えてあげられないのが残念だけれど」

「いえ、そんな……!」

 半井君は首を左右に勢いよく振ると、

「たとえ高等学校に通っていらっしゃらなくても、妃殿下は本当にすごい方だと思います。妃殿下は今の僕と同じぐらいの御年齢で、医術開業試験に合格なさったのですから」

と、やや早口で私に言った。

「正確に言うと、私が医師免許を取ったのは19歳の時だから、今の半井君より1つ年が上なのだけれど」

 私は苦笑しながら訂正すると、

「それにしても、詳しいね。半井君は私のことに」

と、半井君に言ってみた。

「それはもう、妃殿下は僕の尊敬する憧れの方ですから!」

 半井君は断言すると、

「それに、大山閣下が僕に下さる手紙の中に、いつも書いていらっしゃるのです。“世間では、妃殿下は、その身分の高さ故に医師免許を与えられたという説を唱える者もいるが、そんなことはない。妃殿下は、厚生大臣に身分に忖度して医師免許を与えないようにと再三申し入れたり、特別扱いをされないために身分を隠して東京女医学校に通われたり、大変に努力なさって医師免許を得られた。君もそのことを思って勉学に励むように”って」

と、私にネタばらしをした。

「大山さん……」

 私が左側に控えている大山さんを見ながらため息をつくと、

「事実を述べたまででございます」

大山さんは澄ました顔で私に答え、ご飯を口に運んだ。

「だから、僕、将来は軍医になろうと思ったんです」

 半井君は熱っぽい声で私に話し続けた。「もちろん、軍医委託生になることができれば、高等学校の授業料がタダになる上に、月に10円が支給されますから、母に楽をさせてあげられる、という理由も大きいです。ですが、軍医になろうと思ったきっかけは、妃殿下が軍医でいらっしゃるからです。もし、軍医委託生になれなくても、僕は高等学校を卒業して、軍医学校に入ろうと思っていました」

「そうなのね……」

 ありがたいことだ、と私は思った。軍医委託生になれなくても、軍医になるつもりだった……それは、軍医になりたいという思いが強くなければ言えない言葉だ。委託生に選抜されれば、軍医学校の在学期間は1年で済むけれど、委託生ではなかった医師が軍医学校に入学した場合、私のように2年の在学期間が必要なのだ。

(高等学校を卒業できれば、医師としての働き口はいくらでもある。暮らし向きを楽にしたいのなら、軍医委託生になれなかったら、どこかの奨学金をもらって、高等学校を卒業したらすぐ就職するのが現実的だけれど……)

「……本当に軍医になりたいという人が、軍医委託生になれてよかったわ」

 私は微笑みながら半井君に言った。

「大山さんは多分、手紙には書いていないだろうけれど、私が軍医になったのは、日本を取り巻く各国の情勢に対応する上で止むを得ず……という面があったの。半井君のように、心の底から軍医になりたかったわけではない。でも、私の存在が、半井君のような、心の底から軍医になりたいという人を、適切な道に導けたのなら、私が軍医になった意味もあったと思うよ」

「妃殿下……」

 感激の面持ちで私を見つめる半井君の横で、

「ほう……」

大山さんが私を見る目つきが険しくなった。

「恐れながら内府殿下、内府殿下が軍医になられましたのは、無礼なロシア帝国の要求から逃れるためという理由も確かにございましたが、その一方、内府殿下が目指しておられた国を(いや)す上医になるためには、軍事的な事柄も軍人として学ばねばならぬという大きな理由がございました。そちらの理由を半井君にお話しにならないのは、手落ちでございましょう」

「ん……まぁ、そうだけどさ」

 私はいったん箸を置くと、大山さんに視線を向けた。

「軍医を経て内大臣になった今、軍医として学んだ軍事的な事柄は、確かに役に立っているけれど、医者として臨床で働けなくなってしまったから、私はそれが寂しいの。もう、メスを握らなくなって2年以上経っている。だから、手術の腕も、臨床医としての能力も落ちてきている。けれど、内大臣になった以上、もう臨床現場には戻れない。だから私は、臨床医としての夢は他の人に託すしかないんだ。半井君のような、将来有望な若者にね」

「妃殿下……」

 呆気にとられたように呟いた半井君に、私は微笑んだ。

「内大臣になった私が、医者としてできるのは、色々な政策を実行に移す手助けをして、日本と世界の平和を維持して、医師や医学生たちが各々の務めに励める環境を整えることだけ。……だから半井君、私の臨床医としての夢、君に託してもいいかな?」

 他人に自分の夢を託すなどということは、厳に慎むべきだろう。他人の人生を、本人が望まない方向に歪めてしまう可能性もあるのだから。後でそのことに気が付いて、なんということを言ってしまったのだと私は自分を責めた。けれど半井君は、

「それはもちろん構いませんが……妃殿下の臨床医としての夢とは、一体何でしょうか?」

そう私に応じてくれた。

「大切な人を守ること……かな」

 自然に口から滑り出た私の言葉に、半井君は大きく頷くと、

「かしこまりました、妃殿下。僕、頑張ります。医師になって、大切な人を守れるように頑張ります!」

力強く答えてくれた。

「ありがとう、私のわがままを聞いてくれて」

 半井君に深く下げた私の頭に、

「臨床医としてだけではなく、上医として、内府殿下は同じことをなさっておいでですのに……」

大山さんの苦笑を含んだ声が降ってきた――。

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